第四章五大国によるウィーン体制 このように、ヨーロッパ全土に騒動が広がりました。 ついでに一一一一口うと、カール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスの『共産党宣言」が 公表されたのも、この年の二月です。 さて、ここで。 通説 メッテルニヒの退場で、ウィーン体制は終焉した。 世界史や西洋史の教科書は、こういう評価をしています。ウィーン体制を「メッテルニ ヒが主導した体制ーと定義するならば、そのとおりでしよう。狭義にはまちがいではない と思います。では、その定義が完全無欠に正しいのか。歴史を観るときに完全はありえな いと田ハいま亠 9 。 私はウィーン体制を「英露仏墺普 ( のちの独 ) 」を五大国とする体制、と定義します。 これは先の通説とどちらが正しいかではなく、狭義と広義、どちらで捉えるかの問題です。 顕微鏡と望遠鏡の違いのようなもので、それぞれ使い方があります。 155
レイランは亡くなっていますから、対英協調が少し薄れています。しかし、そんな痴話喧 嘩レベルのじゃれ合いでは済まなくなります。 リで革命が勃発して国王は放逐され、共和主義に移行します。これを最後に、 フランスは二度と王政に戻れていません。二月革命です。 三月。ウィーンで反動体制打破を掲げる武装蜂起が発生します。狙いはウィーン体制の 象徴ともいうべき、メッテルニヒです。彼は亡命せざるをえませんでした。逃げた先はロ ンドン、 ーマストンのところです。日ごろは外交戦のライバルであっても、ウィーン体 制というルールの下での争いです。そのルールそのものをつぶそうとする相手からは守ら ねばならないという意識なのです。たとえるなら、日ごろは麻雀でライバルの雀士たちに とって、雀卓をひっくり返そうとするやつは単なる無法者で共通の敵、というようなもの でしよ、つか 三月革命はウィーンだけでなく、 ベルリンでも起きます。 ロシアでも、好機と見たポーランドが独立運動を始めますが、武力で鎮圧されます。 イギリスは騒動が比較的少なかったのですが、それでもチャーチスト運動という労働運 動で揺れます。
第五節「ルイ十四世」ーー戦争好きでも下手の横好き・ 第三章世にも恐ろしいフランス革命 第一節「七年戦争ーーーポンパドール夫人の敗北・ 第二節「ルイ十六世 , ーーー悲劇の名君 : ・ 第三節「フランス革命」ーーー革命は誰のため ? ・ 第四節「ロベスピエールーーー大革命という狂気 : 第四章五大国によるウィーン体制 第一節「ナポレオン戦争ーーー・海の大英帝国と陸のナポレオン・ 第二節「ウィーン会議」ーー華麗なるタレイラン外交 : 第三節「王政復古」ーー革命とナポレオン戦争への反動 : 第四節「帝政復古。ーー歴史は繰り返す。喜劇として : 第五節「幕末日本ーーー徳川慶喜とロッシュの敗北・ 162 153 141 130 117 109 96 86 79
第四章五大国によるウィーン体制 では、何が変わったか ? ルイ・フィリップの時代、産業革命を起こしたり、アルジェリアを併合したり、外人部 隊を創設したり、アヘン戦争で敗れた清朝に不平等条約を押し付けたり、ベトナムに間接 侵略を仕掛けたりしました。 しかし、本質は何も変わりません。傷を癒やすには、大革命の影響は大きすぎました。 国内をまとめつつ、外国との関係に苦慮しなければいけません。 何より、フランス革命以降の混乱で、急進的に自由を求める過激派と、旧体制を墨守し 革命前の伝統に無理やり回帰させようとする反動が、常にヨーロッパ大陸全体でせめぎ合 っていました。 七月王政でタレイランが腐心したのは、一つはメッテルニヒとの協調。もう一つは、対 英協調です。 ンガリ 一八三〇年は動乱の年でした。フランスの七月革命のほかにも、ポーランド、 、イタリア、ザクセンで動乱が発生しています。ロシアやオーストリアは鎮圧に必死で した。 この年の末、その後三十年の外交界を、ひいては世界を牽引するパーマストンがイギリ 151
が、メキシコ人は無情にも無視。 フランスとしても、その三の事情でヨーロッパ大陸本国に火がついているので、メキシ コなんかに関わっていられない事情がありました。それにしても、一体何がしたかったの その三。ビスマルクの手練手管に、やりたい放題やられる。 ナポレオン三世は陰謀好きでしたが、下手の横好きでした。世界史に残る陰謀家として 卓越した手腕を発揮したオットー・フォン・ビスマルクと、同じ時代の、しかも隣国に生 まれたのが、この喜劇の人の悲劇でした。ビスマルクの悲願は、プロシア中心のドイツ統 一です。 プロシアはウィーン体制では大国とはいえ、ほかの四か国から大きく引き離された、ど ん尻大国でした。それが、ビスマルクが首相に就任するや富国強兵を成功させ、真の大国 としての実力を蓄えます。そして、一八 , ハ四年デンマーク戦争、六六年オーストリア戦争 と、快進撃です。 プロシアだけでも大国なのに、それがザクセンだのバイエルンだの、ほかのドイツ諸邦 も併合したら、どれほど強くなるのか。明らかにフランスの国益に反するのですが、ナポ 160
景にあったといっても、デビュー戦で押しまくったパーマストンもまた、とんでもない化 け物なのです。 そして彼らの歴史を知り、世界を知ることで、規格外の化け物と対峙した幕末日本人の 真の偉大さがわかると思います。 第四節「帝政復古」ーー歴史は繰り返す。喜劇として 七月王政期、フランス人は我が国にも近づいていました。 一八四四年には探検隊が琉球を訪れています。また、一八四六年には長崎に来て上陸を 体拒否されています。 ン しかし、そんなことなど気にしていられない大騒動がヨーロッパ全土を覆います。 ウ フランス革命に反動的になりがちなウィーン体制に対し、急進的な自由主義者の不満が る よ いっせいに爆発したのです。 国 大 一八四八年、「諸国民の春ーと呼ばれる事件です。 五 この年、五大国はスイス内乱の処理に忙殺され、 ーマストンの独走にメッテルニヒ率 章 四 第 いるオーストリア以下四大国がそっほを向いていました。このときのフランスは、もうタ燔
第四章五大国によるウィーン体制 スウェーデンなどは名実ともに小国扱いで、相手にされなくなります。 そして日本人として知っておかねばならないのは、この五大国は単にヨーロッパの大国 なのではなく、世界の五大国ということです。 彼らがエサとして目をつけたのは、オスマン・トルコ、ベルシャ、ムガール、清の、ア ジアの四大帝国です。 十八世紀は、ヨーロッパの大国がアジアの四大帝国に対し優越していった時代です。ト ルコは十数度にも及ぶロシアとの戦いで疲れ果て、ベルシャは英露の食い物にされ、ムガ ールは英仏に食い散らかされました。そしてさらに、清国が英露仏に目をつけられます。 一八四〇年アヘン戦争以後、清国は次々と領土を奪われ、英露仏をはじめとする列強の草 刈り場と化します。 日本だって、天下泰平を享受できる環境ではなくなってきます。 第三節「王政復古」ーー革命とナポレオン戦争への反動 ナポレオン戦争を通じて、王様がカネで集める傭兵から、国民が自分の国を守る国民軍 がヨーロッパの主流となりますが、国民軍のシステムが整うには、まだまだ三十年くらい 141
模化します。国民戦争です。ただし目的は限定されているので、国や民族は打倒の対象で はないのです。 一方、日米戦争は総力戦でした。総力戦とは、相手の総力を抹殺しようとする戦争です。 占領してからが本番なのです。占領の前半では、日本の国家体制そのものをつくり 替え、民族の去勢を図りました。途中、朝鮮戦争が起きると事情が変わり、占領軍の気が 変わったものの、明らかに占領前半は日本国体の破壊と民族の奴隷化を目的としていまし た。総力戦において、占領とは平和ではなく、戦争行為そのものなのです。それを吉田茂 は、「ウィーン会議のときもそうだったから、アメリカの占領も一年くらいだろう」と観 測していました。これが見事に外れました。吉田は自分とタレイランの状況の違い、総力 戦の本質をまるでわかっていなかったとしか言いようがありません。米軍は、正式な占領 だけで七年。実際は今でも居座っています。吉田ごとき人間がマシに見えてしまうような 人材難だから戦争に負けるのだと、民族の運命を呪いたくなります。 でも、過去を呪、つよりも、歴史に学びましよう。 敗戦国なのに、講和会議を仕切る。世界史に残る空前の外交をやってのけたタレイラン の個人的力量は、卓越していました。
第四章五大国によるウィーン体制 さて、この場合のフランスって誰でしよう。常識で考えて、ナポレオン三世の政府です。 では、ナポレオン三世の視界に日本が入っていたか。 甚だ疑問です。自分がノリノリで始めたメキシコ問題だって、隣の国でビスマルクが台 頭してくると放り出すくらいなのですから。当時のフランスと日本の力関係からいって、 フランスの対外政策において日本のことなど、優先順位はかなり低いでしよう。 幕末日本など、陰謀の対象にもならないし、視界にも入らない小さくて弱い存在だった という事実を認識することで、では、「なぜ、たった数十年で世界に冠たる大帝国を築け たか . の秘訣が理解できると思います。 なお、フランスの国策として日本が対象外だったことと、幕末政治にフランス人が関わ ったことは、まったく別の問題です。一つすっ、見ていきましよう。 日本が最初に和親条約を結んだのは、アメリカとです。続いて、英露蘭と結んでいきま す。 そうしたなか、なぜかフランスは琉球と条約を結びます。一八五五年仏琉和親条約です。 薩摩藩の領土である琉球が「王国」を名乗っているので、独立国と勘違いしたのでしよう か。おちやめなことをするものです。 163
第四章五大国によるウィーン体制 世界に冠たる大英帝国にしても、フランスにしても、日本の優先順位など高くないので す。とくにフランスの場合は、ロッシュがあまりにも幕府に肩入れしすぎていたので、本 国では眉をひそめていました。 それでも、時の最高権力者と蜜月な間はよいのですが、徳川慶喜は日本国内の政局で敗 北してしまいます。 なぜ慶喜が敗れたのか。前書『嘘だらけの日英近代史』やほかの「嘘だらけシリーズ」 とあわせてお読みいただきたいですし、大久保利通についてはほかの本で多くを書きまし た。とくに『保守の心得』 ( 扶桑社、二〇一四年 ) 、『帝国憲法物語』 ( 研究所、二〇 一五年 ) をあげておきます。 ークスが支援した大久保利通の意思が勝った。 ロッシュが援助した徳川慶喜よりも、 結果論ですが、政治とは意思と意思の激突です。最後は、錦の御旗を持ち出した大久保利 通が率いる薩長の前に、慶喜は尻尾を巻いて江戸に逃げだしました。 ロッシュは江戸まで追いかけていって徹底抗戦を慶喜に説きましたが、首を縦には振り ません。 一八六八年、もはや旧幕府軍への掃討戦と化していた戊辰戦争の最中に、ロッシュは更 171