ヌ・メディシスでした。アンリは七歳にしてカトリックに強制改宗させられます。 抗争は激化するばかりで、一五六二年のユグノーに対するヴァシーの虐殺事件でユグノ ー戦争が始まり、九歳にしてプルポン家の当主に祭り上げられます。一五六九年には、ユ グノー陣営の盟主に祭り上げられました。当然、カトリックから改宗します。 しかし一五七二年、融和を演出するはずだった自らの結婚式で聖バルテルミーの虐殺が 発生します。再びカトリックに強制改宗させられたあげく、幽閉されました。 一五七六年、アンリは脱出、またもやカトリックの信仰を捨て、ユグノーの盟主として 戦います。戦闘に強かったアンリは最終的に生き残り、一五八九年に国王に即位します。 生 誕 以後、彼の子孫が王家を継ぐことになります。プルポン朝です。 の 時期的に、ちょうど日本の戦国時代末期と重なりますが、アンリ四世は「フランス三国 国 権 志」を天下統一したような人物だと考えてください 主 A 」 争 アンリは即位に際し、三たびカトリックに改宗しました。そして、カトリックの国教化 教とプロテスタントへの信仰の自由を認める「ナントの勅令」を発します。 宗 宗教的に争っている両者を仲裁すると、どうなるか。両方の恨みを買います。双方とも 章 第 に「あいつは悪魔だ」と争っているのですから、妥協などできるはずがありません。ュグ
しかも、最初は「どっちがトップを張るか」レベルの不良のメンツ争いだったのが、ジ ャンヌの登場で、宗教戦争の様相が濃くなります。宗教戦争とは、宗教が理由で始まる戦 争ではありません。宗教が理由でやめられなくなる戦争のことです。だから怖いのです。 シャルルの判断は明央で、「 QOZ 姉ちゃんは利用するだけ利用して、死んでもらう」で す。そうしないと、どちらかが皆殺しにされるまで終わらない宗教戦争になりかねません。 姉ちゃんの宗教的信念に従い飽くなき殺し合いをするか、腹に一物どころか百物く らい抱えながらも勝手知ったるズブズプの関係のバチカンのどちらをとるか。 シャルルは迷いません。イングランドが殺してくれるなら、好都合。 ジャンヌの死後もダラダラと戦争は続き、一四五三年にイングランドをフランスから追 い出して終了しました。 こうした事件を経て、みんなが想像するフランスが形づくられます。
したが、 必死の奮闘で追い返します。 こうした戦いぶりに、カトリック陣営には厭戦気分が漂い始めました。勝利は間近です。 ただ、一六四二年十二月四日、リシュリューの寿命は尽きました。フランス絶対王権に捧 げた五十七年の生涯でした。 第四節「マサラン枢機卿」ーー最後の宗教戦争とウエストファリア条約 丿シュリューが三十年戦争に介入したころは、ちょうど日本が「鎖国 - と呼ばれる貿易 統制令を発し始めているころの話です。 ハ三六年、フランス・ドミニコ会の宣教師ギョーム・クルテが日本に上陸します。ク ルテは江戸幕府が発した切支丹禁教令に反し、秘密裏に布教活動を行っていました。拘束 され、拷問を受けて翌年に長崎で死亡しました。迷惑な話です。 さて、晩年のリシュリューは、ちゃんと後継者を育てていました。教皇庁の外交官とし てフランスに来ていたイタリア人のジュール・マザランをスカウトしたのです。外国人参 政権どころか外国人宰相ですが、この時代の人は気にしません。リシュリューとすれば、 「有能で、国王に対する忠誠心さえあれば、外国人でも構わないーです。内外に戦乱を抱
いた指揮官どうしが、夜はパーティでお互いをたたえ合う、という戦争です。ふざけてい るのかと思うかもしれませんが、宗教戦争よりはるかにマシです。 ルイ十四世が最初に介入したのは、南ネーデルラント継承戦争 ( 一」ハ六七年 5 一六六八 年 ) です。オランダ、スウェーデン、イングランドを敵に戦いました。 次いで、一六七二年から七八年のオランダ侵略戦争では、スウェーデンとイングランド を味方につけ、オランダ、デンマーク、プロシアと戦いました。このとき、オランダは国 土を水に沈めて抵抗します。名将デ・ロイテル提督も、大活躍しました。 一六八三年から、大トルコ戦争が起こります。オスマン・トルコによるウィーン包囲作 戦が行われ、「神聖ローマ帝国を助けよ ! 」とヨーロッパ中の国が参戦しました。これに ルイ十四世はどうしたかというと、どさくさに紛れてスペインに攻め込みました。トルコ は友好国だが、 スペイン・ハプスプルク家は宿敵だという理屈からです。確かにそのとお りですが、状況を見誤りました。この戦争では、、 ノンガリーが神聖ローマ帝国に割譲され ました。歴史上はじめて、ヨーロッパがオスマン帝国に大勝したのです。フランスは見事 なまでに勝ち馬に乗り遅れ、みんなの嫌われ者です。 一六八八年、ファルツ継承戦争 ( 九年戦争 ) では、オーストリア、スペインの両ハプス
第二章宗教戦争と主権国家の誕生 戦闘で完膚なきまで叩きのめし、ピレネ 1 条約では戦利品としてルクセンプルクを奪いま した。さらに、国王フェリペ四世の娘マリア・テレーズを、ルイ十四世の嫁に差し出させ ます。この時、長引いた戦役で困窮したスペインが持参金を用意できなかったことは、大 国からの失墜を知らしめました。ここに、世界中に飛び出す大航海時代をリードし、南米 に巨大な植民地を築いたスペイン帝国は、小国に叩き落とされたことになります。 本書が「近現代史ーである以上、知っておいてほしい詩があります。 一六四八年、マサランやりたい放題 一八一五年、タレイランやりたい放題 一九四五年、ドゴールやりたい放題 フランスは常に美しかった。 ( 作・倉山満 ) なぜ、日本人にとってフランスが重要なのか。本書を読み、この詩の意味が理解できれ ば、本書に書かれていることを知らすに、日本の近現代史など語れないと思い知ることで
とです。これがフランス国王の盟友であるバチカンの死活問題になります。 ローマ教皇庁は、神様と人間の間に入っているからこそ、宗教的権威なのです。 「神様と直に話ができる」 この特権を教皇庁が独占しているから、信者は借金してでも戦争に行くし、お布施を出 し、時には命を差し出し、最悪は殺されても文句を言わないのです。それを田舎のどこの 馬の骨ともわからない少女が、勝手に神様と交信してしまった。中間マージンで食ってい る教皇庁は存在そのものが脅かされます。 十四世紀後半にはオックスフォード大学教授のジョン・ウイクリフがバチカンの権威を 胎否定する言論を始めていますし、ジャンヌと同時代のチェコではヤン・フスが火あぶりに の されるまで戦っています。いずれも、のちの宗教改革の先駆けと目されています。バチカ ンにとって現実の脅威が存在したのです。 し ら ス フランス国王 & 貴族と教皇庁は何百年にもわたりズブズプ、もとい大人の関係ですから、 ン ハチカンからは「何とかしてよーとの圧力がシャルルに殺到するのです。 フ 仮にイングランドとの戦争に勝っても、「フランスは悪魔に魂を売った連中だーと言わ 章 第れたら、ヴァロア家を快く思わない連中に格好の大義名分を与えかねません。
その一味です。 マルクスは「第一インターナショナル」という国際組織をつくっていましたが、その会 : いざ戦わん 5 奮い立て 歌が「インターナショナルーです。「立て 5 飢えたるものよ 5 ーという勇ましい限りの歌詞です。サビのシンバルが感動的で結構な名曲なのですが、 さすがに国歌にするわけにはいきません。 これと、「プイエ将軍をぶち殺せ ! 」と思いっきり個人攻撃している歌詞のラ・マルセ イエーズを究極の選択の末に、「凶暴極まりないので子供の教育に悪いーとフランス人自 らも認めている今の国歌になったのです。 フランス革命の大事なポイントは、カトリックこそがもっとも重要な標的だったという ことでした。国家と教会の対決に決着がつくのは、第三共和政です。日曜日の労働の自由 化や離婚の推進が行われました。いずれもカトリックが禁じていたことです。大革命以来、 あるいは三アンリ戦争から数えると三百年の抗争の末に、国家が宗教に勝ったのです。 国家が宗教に勝ったといってもよくわからない人は、今のイランを見てください。選挙 で選ばれた大統領はいますが、その上に宗教指導者がいます。裁判所が何を言おうが、コ 用法とかは関 ーランのほうが上です。だから、宗教指導者が「アイツを殺せ」と一言えば、」
リア会議と呼ばれます。 そこで最初の一年、会議の序列を決めるのに揉めます。バカバカしいようですが、自分 たちの存亡がかかっていますから真剣です。現在、「君主ー大統領ー首相ーの序列は国際 慣習法で確定していますが、このときに揉めながら決めたのが重要な先例です。 ミュンス 次に決めたのが、何語を使うかです。結局、オシュナプルックではドイツ語、 ターではラテン語、フランス語、イタリア語が使われました。フランス語を国際語にした のです。英語がこれに取って代わるのは、二十世紀の世界大戦まで待たねばなりませんか ら、どれほど世界史的な影響が大きいか。 こんな調子でウエストファリア会議を説明していくと、あまりにも会議の内容が重要す ぎて終わらないので飛ばします。 一六四八年、ウエストファリア講和条約が結ばれます。フランスは名実ともに大国とな りました。 三十年戦争は「最後の宗教戦争」と呼ばれますが、それはカトリックのフランスがプロ テスタントについて参戦し、それが講和条約による終戦を導いたからです。宗教で敵と味 という時代はこれで終わります。 方が分かれる、宗教が理由で戦争が終わらない、
目次 はじめに・ 第一章フランスらしきものの胎動・ 第一節「フランク王国 , ーーフランスらしきものの起源 : 第二節「フランクク帝国」ーー・東ローマ帝国と張り合う : 第三節「十字軍 , ーー・インノケンテイウス三世の舎弟分 : 第四節「百年戦争」ーージャンヌ・ダルクが見殺しにされたわけ・ 第二章宗教戦争と主権国家の誕生 : 第一節「西欧の裏切り者ー ハプスプルク家とシバキ合い 第二節「フランス三国志」ーー王権カトリック 4 ュグノー 第三節「リシュリュー公爵」ーーフランス絶対王権の信奉者 : 第四節「マザラン枢機卿」ーーー最後の宗教戦争とウエストファリア条約 : ・ 64 56 48 41 31 25 20 15
ノーから見れば裏切り者ですし、カトリックから見れば信用ならないやつです。 一六一〇年、アンリ四世は狂信的なカトリックに暗殺されました。 いやはや、代表的な事実を並べているだけでゲンナリします。フランスは、これほどま でに宗教戦争が激しかったのです。 フランスでは、二十世紀まで「教育は教会と国家のいずれが行うべきか」の決着がっき ませんでした。現代、フランスは政教分離の原則が欧米諸国のなかでもっとも厳しいので すが、宗教戦争の深刻な歴史があるからです。 ちなみに、フランスでは創価学会はオウム真理教と同様、カルト宗教認定されています。 第三節「リシュリュー公爵」ーーーフランス絶対王権の信奉者 日本人が最初にフランス人と接触したのは、伊達政宗が派遣した支倉遣欧使節団といわ れています。一六一三年、支倉常長らはスペイン、ローマへ向けて出発、フランスにも上 陸しています。 この翌年の一六一四年に、日本では大坂冬の陣が始まります。また、一 , ハ三七年には島 原の乱が起きました。いずれも徳川将軍家に対し、多くの切支丹 ( カトリック ) が武器を