他方、反正のミッ ( ワケであるが、これは「ミッ + ( 十ワケ」と分解が可能であって、「ミッ とは天 ( 天帝 ) が皇帝 ( 天子 ) の治世を祝福して地上に下すという祥瑞 ( 珍しい動植物や自然現象 ) のこと。転じて、この世に有り難い、大変珍しいものという意味になる。 ミッハの ( は、『日本書紀』などの所伝では「歯ーのこととされている。反正が「生まれなが ミッハと命名されたというのだが、これはミッハと ら歯がひとつの骨のようであった」ために、 こすぎないであろう。本来は「歯ーではなく「刀ーであったと考え いう名前から連想された所説冫 るのが妥当である。したがって、ミッハワケ全体で「天から賜わった希有なる聖刀を分与する御 ~ 刀」ということになる。 物 このように、履中・反正はその名前から考えるならば、それそれ「聖なる稲穂を分与する王ー の 亡 「聖なる刀を分与する王 [ ということで、一方は、稲穂の分与を通じて生産権を掌握しているこ 興 そとを示し、他方は武器の分与を介して軍事権を掌握していることを物語っている。生産・軍事と いう王朝の存立の基盤がこの二代、この兄弟の時に確立されたということが示されているといえ 王よう。履中・反正兄弟は、物語全体の構想のなかでは、仁徳に始まった王朝の順調な滑り出しを 国象徴する存在として設定されているのではないか、と考えられる。 中 履中・反正とは、仁徳に始まる王朝の物語というフィクションのなかで、以上のような位置と刃 役割をあたえられたあくまでも架空の人物なのであるが、かれらの存在に関係するのではないか
履中が即位する前に起きた次弟のスミノエノナ カッ皇子の反乱は、実際は反正が鎮圧したような ものであって、履中は弟の奉仕と協力があっては じめて即位できたといっても過言ではない。履中 履中天皇 と反正という兄弟二人が、一体的な存在であった ことがこの点から窺われる。 幡梭皇女 履中と反正の名前から、物語全体のなかに占め 図 るこの兄弟の位置と役割について考えておきたい。 系 る 反正天皇 まず、履中のオオ〒ノイザホワケであるが、オ をオ工は地名 ( 摂津の難波津のこと ) だろう。大兄 津野媛 反という当て字は後世のものと考えられる。ワケと 大宅臣の祖 木事 中いうのは王や豪族の称号の一種で、もともとの意 弟媛 履 味は不明であるが、この場合は「何かを分ける ( 分与する ) 」という意味合いで使われているようである。イザホとは「イ ( 神聖な ) 十サ ( 稲 ) 十 ホ ( 穂 ) 」と分解することができ、結局、イザホワケ全体で「神聖な稲穂を分与する御方」とい った意味になる。 ( 葛城 ) 葦田宿禰 仁徳天皇 市辺押磐皇子 中磯皇女 158
. 代わるに如か丁、ど。 その晩、スミノエノナカッ皇子は兵を率い、イサホワケの宮を囲んだ。たまたま宮こ司戻・ ~ していたへグリノックノスクネ ( 平群木菟宿禰 ) ・モノノベノオオマエノスクネ ( 物部大前宿 ~ ・禰 ) ・アチノオミ ( 阿知使主 ) の三名は、イサホワケを起こし、すっかり酩酊している彼をも・ に乗せて、辛うして宮を脱出させるこどかてきた。 はにゆう 一行は東に向か 河内から大和への山越え道の少し手前、埴生坂 ( 大阪府羽曳野市野々 ~ ・上 ) まて来たどころて、ようやくイサホワケの目が覚めた。振り返るど、宮殿のあった方向・ ( が真っ赤に燃えている。 「なんだあれはー 一体何があったどいうのだ ? ・ど、絶叫するイサホワケをせかして、一行は大和国の石上神宮 ( 奈良県天理市 ) にたどり着 ~ / 、こどかて医、た。 イサホワケの弟のミッハワケ ( 瑞歯別 ) は、兄の難を聞きつけ、その跡を追って石上神宮・ ~ にやって来た。どころが、イサホワケは弟の心を疑い、会おうどもしない ミッハワケの執 ~ ( 拗な面会要求に、イサホワケはついに折れて、 ・「ようわかった。だか、そなたに会う前に = = しか欲し、 そなたに邪まな心かないどいう証 ( : わかっておろう、スミノエノナカッ皇子の首だ。それを持参したならば、そなた・ いそのかみ
( ノエノナカッ ( 住吉仲 ) 皇子を遣わして婚儀の日取りを告げさせた。 どころが、スミノエノナカッ皇子はクロヒメの美貌に心を奪われ、自分こそが皇太子てあ ~ ・るど偽って、彼女ど関係をもってしまったのてある。そうどは知らないイサホワケは、クロ ・ヒメの屋形に忍んて行き、彼女がいる帳のなかへ入ろうど暗闇をすすむど、床にあった鈴に 足が触れて、それがかすかに鳴った。 「これは : ・ど、イサホワケが尋ねるど、クロヒメは、 ・「ああ、それならば、今朝方お帰りのさいにお忘れになった鈴ては ? 」 語 物 ・ど、何の疑いも見せすに答える。イサホワケは知っていた、この特徴のある鈴がス、こノエノ ~ 興・ナカッ皇子のものてあるこどを。こどもあろうに、弟はわが名を騙ってクロヒメど関係を結 そ・んてしまったのだ。 イサホワケはその夜、何もいわすに帰った。宮に帰るど酒を飲み、今夜のこどは忘れてし ( ごうがん 王・まおうどした。しかし、杯を重ねるたびに弟の傲岸な顔か目の前にちらっき、 いっしか深酔 . いしてしまった。 ・スミノエノナカッ皇子は兄がすべてを知ったこどを察し、覚悟を决めた。皇太子てある兄・ラ . への造反が発覚した以上は、座して罰をうけるよりも、決起して兄を討ち取り、兄に取って . とばり かた
によって減亡、終焉を迎えるという明確な筋書きをそこに見て取ることは容易であろう。仁徳に 始まる王朝の物語よ、 言を一と一て、焉を迎えるのである。 以上によって、仁徳を新たに主人公に設定して書き起こされようとした物語の主題は、ほ・ほ明 らかになったといえよう。それは、天命の存在を基軸とする中国的な王朝の始まりとその栄え、 そして衰えと減びを具体的に描こうとするものであった。いい 換えるならば、中国的な王朝がわ が日本にも存在したのだという証明が仁徳から武烈までの一続きの物語なのであって、仁徳に始 まる王朝の盛衰・興亡というのが物語を貫く明確な主題であったということができる。 さて、この王朝がその後どのように展開していったというのか、続けて見ていくことにしよう。 反乱、また反乱 履中・反正・允恭・安康天皇 ニ人で一人前 ? ーーーイザホワケとミッハワケ ~ オオササキノ天皇が亡くなって、その服喪期間が終わった頃のこど。 ハタノヤ・ 皇太子のオオエノイサホワケノミコト ( 大兄去来穂別尊 ) は、即位を前にして、 ・シロノスクネ ( 羽田矢代宿禰 ) のむすめ、クロヒメ ( 黒媛 ) を妃に迎えようど思い、弟のス、こ
な君主とされているのである。 また、女性関係という点でも、仁徳と武烈は対照的な人物ということになっている。仁徳が多 くの女性と関係をもち、数多くの子孫に恵まれたことになっているのに対して、武烈には后妃 かすがのいらつめ ( 春日娘子 ) はいるものの、素姓がいまひとっ不明の女性であり、しかも、彼女とのあいだにつ に子」 - お恵まれず、・・結既 0 モ朝を滅亡に陥 ' しま 0 たとされている。そればかりか『日本 書紀』では、武烈はひそかに想いを寄せていたモノノベノカゲヒメ ( 物部影媛 ) を別の男性に奪 われてしまうという、恋の不成就者 ( いわゆる、もてない男 ) とされており、その点、恋の成就 者、もてる男の仁徳とは大違いという設定になっているのである。 物それそれの臣下についても、ほ・ほ同様な対応関係を見て取ることができる。すなわち、仁徳に 亡は ( グリノックノスクネ ( 平群木 ~ 兔宿禰 ) という忠臣が仕えていたが、武烈天皇には〈グリノマ の トリノオオオミ ( 平群真鳥大臣 ) という希代の悪臣・逆臣がいたことになっている。マトリのむ そ 一すこのシビ ( 鮪 ) は、武烈の想い女であるカゲヒメを奪 0 た男とされている。ックはミミズクの 王ことであり、ツクとマトリという、やはりともに鳥の名前をもつ人物どうしが、まさに対照的な 国人物として描かれ、配置されているわけである。 中 サザキの名を共有する二人が、このように対照的なキャラクターに設定されているのは、明ら かに一定の作為の産物なのであって、天命をうけた仁徳によって開かれた王朝が、数代後の武烈 153
中国的な王朝の存在証明 ? 以上、仁徳による三年間の租税免除の話、仁徳の女性遍歴と皇后の嫉妬の話の二つから、仁徳 に始まる物語が、ひとつの王朝の物語として構想されたものであったことが明らかになった。そ の王朝とは、世界の人民をわが子のように愛し慈しむことができるほどの徳の持ち主に天命が下 り、皇帝となったその人物によって開かれた王朝のことであり、まさに中国的な意味での王朝と いうことができよう。それは日本列島に実在した王朝の物語ではありえず、中国的な王朝 ; 日本 にも存在したことを主張しようとする虚構である。 それでは、この王朝、仁徳に始まっていつまで続いたというのだろうか。それについては、仁 徳の子孫をながめてみると、仁徳と大変よく似た名前の がいることが手掛かりになる。 ふれつ それは、オハッセノワカサザキ ( 小泊瀬稚鷦鷯 ) 、すな武烈天皇ある。オハッセのオとは、 オオ ( 大 ) に対するオ ( 小 ) であり、 ハッセは地名である ( 後述 ) ザキというのは鳥の名で、 小さな体驅ながら勢いのある声で鳴くミソサザイのことである。 仁徳とサザキの名を共有する武烈は、仁徳とはまったく対照的な人物として描かれている。詳 しくは後述するように、彼は民衆の生活をまったく顧みないばかりでなく、民に対して残虐な行 為を繰り返し、それを快楽としているような暴君であり、そのために皇統を断絶の淵に導いた天 皇として描かれている。仁徳を聖帝・聖天子とするならば、武烈はそれとは正反対の暴君、残虐 1 ラ 2
礎を築いた人物であったということで、多くの子孫をもうけたはずたと考えられたのであろう。 多くの子女をもうけるには、多くの女性と関係をもたなければならない。多くの女性と関係をも っということは、仁徳の女性に対する情熱もさることながら、彼がそれだけ女性にもてる要素を もっていたということである。 二ロ オめに創られたエビソードだったのではないか、と見たほうが 徳の女性、の よさそうである。なぜならば、一夫多妻が常識ともいうべきこの階層において、これだけ夫の女 性関係に嫉妬する妻というのが、どう考えても不自然な設定のように思われるからである。 物 イワノヒメは、その名前から考えれば、岩にこもる斎女であり、本来は男女関係や嫉妬などと の 興はおよそ無縁の存在だった。彼女が祭祀に用いる御綱葉を採取するために紀伊国に赴いたという そェビソードを想起されたい。イワノヒメの実家は葛城氏とされていたから、イワノヒメとは、葛 城氏が基盤とした葛城山の岩に宿る精霊がその原像であったと考えられるのではあるまいか。イ 王ワノヒメは本来、女神あるいは神に仕える神聖な女性とされていたのであり、夫の女性関係に狂 国おしいまでに懊悩する女性というように強調して描かれたのは、天命をうけて王朝を開いた仁徳 中 の皇后とされた結果にほかならないであろう。
かれている。だが、君主が王室の繁栄のために多く の后妃をもっことはごく普通のことであったはずで 履中天皇 ある。仁徳の皇后イワノヒメがそれを理解しない 住吉仲皇子 ( できない ) とされているのは、一体どうしてであ 反正天皇 ろうか 允恭天皇 それにしても、すでに見たように、天命を自覚し、 民のためを思って租税を三年間も免除した仁徳の顔 大草香皇子 と、執拗に女性を追いまわす仁徳の顔とはまったく 幡梭皇女図異なるものであり、そのような相反するキャラクタ 日向髪長媛 系 る ーが仁徳という一個の人格のなかに同居しているの 八田皇女 めは、一見したところ不可解に思われる。普通に考え を 徳れば矛盾ともいえる、このようなキャラクター設定 鵡鳥皇女 が特別に矛盾したこととも考えられなかったのは、 どういうことなのであろうか。 君主が多くの后妃をもち、多くの子孫をもうけることは王室、王朝の繁栄につながることと考 えられていた。仁徳は天命をうけ、新たに王朝の始祖になった人物なのだから、王朝の繁栄の基 葛城襲津彦ー磐之媛 仁 150
した場合の措置で、日本人が外国にいた期間が一年以上、二年未満であれば、三年間の租税免除、 また、家人や奴といった隷属民がその身分を解放されて、独立した家を営むことになった場合に も、三年間の租税免除となっている。最後の外蕃還条であるが、これは外国に公使として遣わさ れた場合、とくに唐に派遣された時には、帰還後、三年間租税が免除されるというのである。 このように、三年間の租税免除というのは、律令制国家のもとでごく一般的に見られたもので あった。また、七世紀の後半から『日本書紀』が完成する八世紀前半までには、何と十三回の復 が給せられたが、そのうち五回までが「復三年」であり、これは最も多い「復一年」に次ぐもの であった。三年という数値だけを見るならば、仁徳による租税免除の話は、この時代の知識によ 語 物って修飾をうけている可能性が十分にみとめられるわけである。 亡 さて、オオサザキこと仁徳天皇が三年のあいだ租税を免除し、その結果生じた不如意な生活を 興 いかにも教科書的なエ。ヒソードが意味するものとは、 そまったく苦ともせずに耐え忍んだという、 一体何であろうか。仁徳のキャラクターよ をいかにも優等生然としており、エ。ヒソードとしては少 王しも面白みが感じられない。 国仁徳は、このエ。ヒソードを通じて儒教的な意味での聖人・聖人君子、その身分を考慮するなら 中 ば、聖帝・聖天子というべき人物として描かれようとしているといえるであろう。中国において 聖帝・聖天子といえば、王朝の始祖、開祖ということでほ・ほ相場が決まっている。 145