どうしたことであろうか。 振り返って見れば、履中↓反正↓允恭と三代にわたって王朝は順調に発展していったと描かれ ていた。しかも、允恭天皇の時代にはウジ・カバネ制度が再構築され、天皇を中心とした秩序世 仁徳天皇 稚野毛 一一岐皇子 忍坂大中姫 衣通郎姫 履中天皇 允恭天皇 大草香皇子 中蒂姫 安康天皇 木梨軽皇子 軽大娘皇女 雄略天皇 眉輪王 允恭・安康をめぐる系図 172
「日本書紀」年表 三四二仁徳天皇、皇后磐之暖の留守中に八田皇女を宮中に召す。皇后、激怒して帰らす 三四七皇后磐之媛が死去する 三五〇八田皇女を皇后に立てる 三五二隼別皇子の反乱が起きる 三九九仁徳天皇が逝去する。住吉仲皇子の反乱が起きる 四〇〇履中天皇が磐余稚桜宮で即位する 四〇五履中天皇が逝去する 四〇六反正天皇が即位する。丹比柴籬宮を造る 四一一反正天皇が逝去する 四一二允恭天皇が即位する 四一五允恭天皇、味橿丘で盟神探湯を行ない、氏姓の乱れを正す 四三五皇太子木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女との姦通が発覚する 四五三允恭天皇が逝去する。木梨軽皇子の反乱が起きる。安康天皇が石上穴穂宮で即位する 四五四大草香皇子の乱が起きる 四五五中蒂姫を皇后に立てる 四五六安康天皇、眉輪王に殺害される。雄略天皇、市辺押磐皇子を謀殺する。雄略天皇が泊瀬 2 ラ 5
う場所に住んでおられる若君」という程度の通称にすぎず、スクネという呼称から考えても、実 在の人物の生前の呼称ではありえない。やはり、名前も影が薄いといわねばならない。 しかしながら、彼は即位すると、新羅から招いた名医の診療をうけて病が本復し、その後、約 四十年におよぶ長期間在位したことになっている。存在感がひじように薄いにもかかわらず、な ・せか、結果的には大変偉大な天皇という評価をうけているのである。 允恭天皇の偉大さを物語るエ。ヒソードに、盟神探湯 ( クカタチ ) という神判による氏姓匡正の 伝承がある。允恭は、豪族たちの氏姓が乱れに乱れていることを憂慮し、これを一気に正そうと あまかし 企て、味橿丘にしつらえた大きな釜のなかの沸騰した湯に手を入れさせ、当事者たちの主張の真 物偽を明らかにしようとしたという。 亡 このことは、『古事記』允恭天皇段ではつぎのように描かれている。 興 たが あまかし ことやそまがつひさき の 是に、天皇、天の下の氏々名々の人等の忤ひ誤れるを愁へて、味白檮の言八十禍津日前にし そ へ やそとものお て、くか瓮を居ゑて、天の下の八十友緒の氏姓を定め賜ひき。 朝 ( さて天皇は、天下のそれそれの氏や名をもつ人びとの氏姓が、元来のものと異なり誤っているこ 的 国 とを憂慮して、甘樫丘の言八十禍津日前に、盟神探湯を行なうための釜を据え、宮廷にあって天皇 中 に奉仕するひじように数多くの者たちの氏姓をお定めになった ) 最近、これらの伝承から、五世紀後半の允恭天皇の時代にウジ・をハネ制度の成立をみとめる す
図 系 る め を 顕 允恭天皇 〇 難波小野王賢 うやまいたてまっ あがめまっ ひだしまっ たてまっ 畏敬兼抱りて、君と奉為らむと思ふ。奉養ること甚だ謹みて、私を以て供給る。 ( 畏敬して二人を抱き、君としてお仕えしようと思い、たいそう丁重に養育し、私物を提供するな どした ) 履中天皇 ( 葛城 ) 蟻臣 市辺押磐皇子 〇 春日大娘皇女 仁賢天皇 顕宗天皇 2 1 2
かれている。だが、君主が王室の繁栄のために多く の后妃をもっことはごく普通のことであったはずで 履中天皇 ある。仁徳の皇后イワノヒメがそれを理解しない 住吉仲皇子 ( できない ) とされているのは、一体どうしてであ 反正天皇 ろうか 允恭天皇 それにしても、すでに見たように、天命を自覚し、 民のためを思って租税を三年間も免除した仁徳の顔 大草香皇子 と、執拗に女性を追いまわす仁徳の顔とはまったく 幡梭皇女図異なるものであり、そのような相反するキャラクタ 日向髪長媛 系 る ーが仁徳という一個の人格のなかに同居しているの 八田皇女 めは、一見したところ不可解に思われる。普通に考え を 徳れば矛盾ともいえる、このようなキャラクター設定 鵡鳥皇女 が特別に矛盾したこととも考えられなかったのは、 どういうことなのであろうか。 君主が多くの后妃をもち、多くの子孫をもうけることは王室、王朝の繁栄につながることと考 えられていた。仁徳は天命をうけ、新たに王朝の始祖になった人物なのだから、王朝の繁栄の基 葛城襲津彦ー磐之媛 仁 150
Ⅱ中国的王朝一一一その興亡の物語 彼は、兄アナホノ天皇が暗殺されたと聞くや、天皇を殺害したマヨワノ王をはじめとして、同 母兄であるヤツリノシロヒコ・サカアイノクロヒコをその手で倒し、さらに勢いに乗じてイチノ へノオシイワノ皇子をもその手に掛けて殺している。みずからの即位を切り拓くために、ライヴ アルとなる皇子たちをすべて薙ぎ倒し、文字どおり血の滴り落ちる手で王位をみ取ったのであ る。 これはありそうで、なかなかない話といえよう。わが国において王位継承をめぐる争いには、 流血が付き物のように思われがち であるが、これだけ多くの王族の 血が一時に流れた事例も他にない だろう。寺西貞弘氏は、これらの 図記事から皇位の兄弟継承が成立す るる以前には、一定の兄弟のみなら めず、その従兄弟たちも候補者にな を 位るような、世代内継承とよぶべき 略皇位継承が行なわれていたのでは ないかと推測している ( 「古代天 允恭天皇 履中天皇 市辺押磐皇子 中蒂姫 安康天皇 坂合黒彦皇子 八釣白彦皇子 雄略天皇 ー・眉輪王 179
とめることは困難であろう。前者、すなわち政治組織の形成は、五世紀後半ともなれば、これを ある程度みとめることができるが、後者、王位の血縁による世襲となると、なおこの段階では未 成立というのが実態であろう。ウジ・カ・ ( ネ制度が成立する条件が出揃うのは、やはり六世紀の 前半を待たねばならないと考える。 盟神探湯による氏姓匡正の物語では、天皇を中心とする秩序の表象であるウジ・カ・ ( ネは、す でに允恭天皇の時代以前に厳然として存在したものとされており、あくまでも、その乱れを正そ うというのが允恭の事績とされているのである。そこでは天皇を中心とする秩序世界の再構築と いうことが語られているのであって、仁徳に始まる王朝の物語のなかで、その王朝の発展のさま 物 がこのような形で表現されているのだと考えておくべきであろう。 の 興すなわち、履中の時に稲穂の分与を通じて生産権の掌握が、反正の時に刀の分与を通じて軍事 そ権の掌握がなされたことが語られた後、允恭の時代に日本の王権にとって最も重要といわれるウ ジ・カ。 ( ネの秩序の再構築が行なわれたと描くことによって、仁徳に始まった王朝の順調な発展 王のさまが段階的に語られているといえるであろう。 的 国 さて、ここで再び、『宋書』倭国伝を見ておこう。オアサツマワクゴノスクネノ天皇のモデル 中 となった倭国王の存在はそこに確認できるであろうか。
学説も見られるようになった。だが、オアサツマワクゴノスクネといわれる允恭天皇は、あくま でも仁徳に始まる王朝の興亡・盛衰物語というフィクションの一登場人物にすぎない。 , 彼を実在 の人物と見なし、その実際の事績として氏姓制度の確立をいうのは賛成しかねる。諸豪族にウ ジ・カ・ハネを授与する王権の成熟自体を問題としないで、ウジ・カ・ハネ制度の成立を議論するの は疑問である。 ここで、ウジ・カ。ハネ制度について簡単に解説しておこう。 ウジとは、大王 ( 天皇 ) に奉仕する政治的な地位を父系で相続していく一族を意味するが、そ のようなウジが本格的に成立を見るのは七世紀後半の天智天皇の時代になってからであった。そ れ以前であれば、大王を中心に形成された政治組織のなかで一定の役割・職務を世襲した一族を 指すのがウジ、と考えておけばよい。 他方、カバネとは、その政治組織内部における各豪族のランキングを示した称号である。ウジ おみ へぐりもののべおおとも の標識であるウジナ ( たとえば、蘇我・平群・物部・大伴など ) と、このカ・ハネ ( たとえば、臣・ むらじあたいみやっこおびと 連・直・造・首など ) とが組み合わされて豪族層の呼称とされたので、ウジ・カ・ハネと並び称 されるわけである ( いわゆる蘇我氏の人間は蘇我臣某、物部氏であれば、物部連某と名乗った ) 。 したがってウジ・カバネ制度とは、大王を中心とした政治組織の確立、何よりも政治組織の中 核にある大王が特定の一族から固定的に選出・推戴されるようにならない限りは、その成立をみ 166
皇子であるヤマトタケルの奮闘によって日本列島の軍事的統一が完成した。だが、ヤマトタケル せいむ は父天皇の後を継ぐことはなく、彼の弟にあたる成務天皇 ( ワカタラシヒコ ) が皇位を襲うこと になる。ここまでは実に整然とした父子相続によって皇位が継承されてきたが、これから後は少 し異なってくる。 ちゅうあい ヤマトタケルの遺児であった仲哀天皇 ( タラシナカッヒコ ) が登場するのである。彼は景行の くまそ 孫、成務の甥にあたる。仲哀はみずから九州の熊襲の征伐に向かうが、そこで亡くなってしまう おうじん ( 一説に戦死 ) 。仲哀の後は、その子の応神天皇 ( ホムタ ) が継承することになるが、仲哀が亡く じんぐう なった直後、その皇后オキナガタラシヒメ ( 神功皇后 ) が、神託をうけて朝鮮半島に攻め入り、 しらぎ 新羅を服属させることに成功した。応神はこの時、母皇后の胎内にあり、皇后が九州に凱旋した 後、その地で誕生したという。し 广神が幼少のあいだは、この神功皇后が摂政としてっとめた。 応神以降の皇位継承は、それ以前の直線的なものとはだいぶ様相が異なってくる。すなわち、 にんとく りちゅう 応神の子、仁徳天皇 ( オオサザキ ) が即位し、仁徳死後は、その子の履中天皇 ( イザホワケ ) 、つ はんぜい いんぎよう いで履中の弟の反正天皇 ( ミッ ( ワケ ) 、その弟の允恭天皇 ( オアサツマワクゴノスクネ ) が相次い あんこう ゅう で即位した。允恭の後を継いだのは、その子の安康天皇 ( アナホ ) で、安康横死の直後、弟の雄 りやく さつりく 略天皇 ( オオ ( ッセノワカタケ ) は居並ぶ皇位継承資格者たちを殺戮して皇位を勝ち取ることに なる。