安康天皇 - みる会図書館


検索対象: 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替
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1. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

「日本書紀」年表 三四二仁徳天皇、皇后磐之暖の留守中に八田皇女を宮中に召す。皇后、激怒して帰らす 三四七皇后磐之媛が死去する 三五〇八田皇女を皇后に立てる 三五二隼別皇子の反乱が起きる 三九九仁徳天皇が逝去する。住吉仲皇子の反乱が起きる 四〇〇履中天皇が磐余稚桜宮で即位する 四〇五履中天皇が逝去する 四〇六反正天皇が即位する。丹比柴籬宮を造る 四一一反正天皇が逝去する 四一二允恭天皇が即位する 四一五允恭天皇、味橿丘で盟神探湯を行ない、氏姓の乱れを正す 四三五皇太子木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女との姦通が発覚する 四五三允恭天皇が逝去する。木梨軽皇子の反乱が起きる。安康天皇が石上穴穂宮で即位する 四五四大草香皇子の乱が起きる 四五五中蒂姫を皇后に立てる 四五六安康天皇、眉輪王に殺害される。雄略天皇、市辺押磐皇子を謀殺する。雄略天皇が泊瀬 2 ラ 5

2. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

どうしたことであろうか。 振り返って見れば、履中↓反正↓允恭と三代にわたって王朝は順調に発展していったと描かれ ていた。しかも、允恭天皇の時代にはウジ・カバネ制度が再構築され、天皇を中心とした秩序世 仁徳天皇 稚野毛 一一岐皇子 忍坂大中姫 衣通郎姫 履中天皇 允恭天皇 大草香皇子 中蒂姫 安康天皇 木梨軽皇子 軽大娘皇女 雄略天皇 眉輪王 允恭・安康をめぐる系図 172

3. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

~ つぎの天皇にど望む声が高まっていった。 ・キナシノカルノ皇子はみすからの手てアナホノ皇子を討ち、是が非ても皇位を継承しよう・ どした。だが、肝心の兵力か集まらない 仕方なく彼は、モノノベノオオマエノスクネ ( 物 ・部大前宿禰 ) の屋形に逃げ込んだ。 アナホノ皇子が兵を率いてオオマエノスクネの屋形を囲むど、オオマエノスクネが出て来 ~ 「それかしかよきように取り計らいますゆえ、兄君を殺すこどだけは夬してなさいますな」 ~ ど告げたのて、しばらく攻撃を控えているど、やがて再びオオマエノスクネがあらわれ、 語 「 : : : たった今、皇太子は自害なさいました かくんど地に膝をつくど、両手て顔を覆った。 そ 朝 王 かって、履中天皇の即位前にはスミノエノナカッ皇子の乱が起きた。 , 後の反正天皇がこれを鎮 国めたことは、すでに見たとおりである。そして今回、アナホノ皇こと安康天皇が即位する直前 にキナシノカルノ皇子の乱が勃発したのである。 後述するように、安康の時代になって反乱は加速度的に発生していくようになる。これは一体、

4. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

Ⅱ中国的王朝一一一その興亡の物語 彼は、兄アナホノ天皇が暗殺されたと聞くや、天皇を殺害したマヨワノ王をはじめとして、同 母兄であるヤツリノシロヒコ・サカアイノクロヒコをその手で倒し、さらに勢いに乗じてイチノ へノオシイワノ皇子をもその手に掛けて殺している。みずからの即位を切り拓くために、ライヴ アルとなる皇子たちをすべて薙ぎ倒し、文字どおり血の滴り落ちる手で王位をみ取ったのであ る。 これはありそうで、なかなかない話といえよう。わが国において王位継承をめぐる争いには、 流血が付き物のように思われがち であるが、これだけ多くの王族の 血が一時に流れた事例も他にない だろう。寺西貞弘氏は、これらの 図記事から皇位の兄弟継承が成立す るる以前には、一定の兄弟のみなら めず、その従兄弟たちも候補者にな を 位るような、世代内継承とよぶべき 略皇位継承が行なわれていたのでは ないかと推測している ( 「古代天 允恭天皇 履中天皇 市辺押磐皇子 中蒂姫 安康天皇 坂合黒彦皇子 八釣白彦皇子 雄略天皇 ー・眉輪王 179

5. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

によって減亡、終焉を迎えるという明確な筋書きをそこに見て取ることは容易であろう。仁徳に 始まる王朝の物語よ、 言を一と一て、焉を迎えるのである。 以上によって、仁徳を新たに主人公に設定して書き起こされようとした物語の主題は、ほ・ほ明 らかになったといえよう。それは、天命の存在を基軸とする中国的な王朝の始まりとその栄え、 そして衰えと減びを具体的に描こうとするものであった。いい 換えるならば、中国的な王朝がわ が日本にも存在したのだという証明が仁徳から武烈までの一続きの物語なのであって、仁徳に始 まる王朝の盛衰・興亡というのが物語を貫く明確な主題であったということができる。 さて、この王朝がその後どのように展開していったというのか、続けて見ていくことにしよう。 反乱、また反乱 履中・反正・允恭・安康天皇 ニ人で一人前 ? ーーーイザホワケとミッハワケ ~ オオササキノ天皇が亡くなって、その服喪期間が終わった頃のこど。 ハタノヤ・ 皇太子のオオエノイサホワケノミコト ( 大兄去来穂別尊 ) は、即位を前にして、 ・シロノスクネ ( 羽田矢代宿禰 ) のむすめ、クロヒメ ( 黒媛 ) を妃に迎えようど思い、弟のス、こ

6. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

いよいよ、大団円 ! ーー応神の後継者問題 中国的王朝ーーーその興亡の物語 恋する聖天子ーー仁徳天皇 新しく物語を書き起こす苦労三年間も租税を免除 ? もてまくる夫、嫉妬する妻 : ・ 中国的な王朝の存在証明 ? 反乱、また反乱ーーー履中・反正・允恭・安康天皇 : イザホワケとミッハワケオアサツマ 二人で一人前 ? ワクゴノスクネーーー存在感ゼロ、なのに偉大な天皇どう して ? こんなに反乱が : 大いに悪しき天皇ーーー、雄略天皇・ 血塗られた王位継承鉄剣銘文のワカタケルノ大王 「有徳の天皇」ーーー神々と友達づき合い 「大悪の天皇」 誤って多くの人を殺す雄略天皇の末路 4 繰り返される断絶と再生ーー清寧・顕宗・仁賢・武烈天皇・ 清寧天皇ーーー影の薄い後継者顕宗と仁賢ーー・さまよえる 136 135 203

7. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

後継者とされていた天皇 ( 武烈 ) との位置が交換されたことが想定されるわけである。 以上のように考えられるとするならば、本来の武烈に代わって雄略の後継者の位置に据えられ た清寧について、ライヴァルにあたる諸皇子をそれこそ薙ぎ倒して、皇位をもぎ取った次第が語 こよその異母弟・星川皇子の反乱事件し られたとしてもおかしくはないのであるが、清寧即位前冫。 か記されていない。煬帝即位のさいに見られたその父 ( 文帝 ) もふくめたライヴァルたちに対す る凄惨なまでの粛清劇は、一体どこにどのように記されているかといえば、それは清寧ではなく、 その父雄略の即位前に場所を移して記されていると考えられるのではあるまいか。 そのように考えるならば、安康天皇の横死後、雄略が極めて異例のプロセスで即位を果たした 物とする物語が配置されている意味が、ある程度諒解できるように思われるのである。 亡 興 の 4 繰り返される断絶ど再生ーー清寧・顕宗・仁賢・武烈天、皇 そ 王清寧天皇ーー影の薄い後継者 的 ・オオハッセノワカアケノ天皇の不安は的中した。 天皇が亡くなるど、妃のひどり、キビノワカヒメ ( 吉備稚媛 ) は、その子、ホシカワノ .

8. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

界、いい換えれば、王朝の秩序世界が新たに生まれ変わったと語られていた。仁徳が没した直後 ですら反乱が起きているのであり、安康の時代に入っていきなり反乱が頻発するようになったと しても、ここで急に王朝の動揺や凋落が描かれようとしているとは考えがたいであろう。 頻発する反乱事件が、あくまでも王朝の順調な発展と安泰という文脈のなかで語られているこ とを考えるならば、一見、王朝の屋台骨を揺るがす危険な出来事である反乱といえども、それは 王朝の繁栄と安泰を物語るエ。ヒソードとして造作・配置されていると見なすことができよう。す なわち、何度反乱が起きようとも、その都度無事に平定されて、王朝は微動だにしていないとい うことを強調しようとしているのであり、反乱の頻発とその鎮圧を描くことによって、逆説的に 物 王朝の安泰・隆盛を説こうとしているのではないか、ということである。 の 興たた、すぐ後で .. るように、安康の奪一幻〕・ど・に・な・ 0 ・・た・反甜物問にソつぎのオオ ( ッセノ そワカタケこと雄略天皇の嵐代の予告篇としての意味が込められていたことは、決して否定で きないところであろう 王 ここで、安康天皇の最期を見届けることにしよう。 的 国 中 ~ アナホノ天皇は、乱暴者の弟、オオハッセノワカアケノ ( 大泊瀬幼武 ) 皇子のためによき・

9. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

るならば、倭国王済をモデルとした人物は『日本書紀』のなかに発見することができない、 わねばならない。その点は、済のつぎの興も同じである。 讃Ⅱイザホワケ、珍Ⅱミッ ( ワケとするならば、済は、イザホワケとミッ ( ワケの同母弟とさ れているオアサツマワクゴノスクネと考えたいところであるが、済という名前とオアサツマワク ゴノスクネという名前とのあいだに接点はほとんどみとめられない。オアサツマワクゴノスクネ という名前のどの部分をどう訳せば、済という名前になるというのか。オアサツマワクゴノスク ネという虚構のなかの人物と倭国王済とは、ほとんど無関係といわねばならない。オアサツマワ クゴノスクネの子とされるアナホ ( 安康天皇 ) が、済の世子 ( 世継ぎ ) の興に相当するのではな 物 いかという所説も、アナホの意味が不詳であり、興がアナホの意訳であると断定できる材料がな の 亡 いので、現在のところ成り立たないといえよう。 いうのを日らかなのであるが、 世継ぎ、興そ弟 ; そそもそも、讃と珍は弟であの に関する記載が見えず、この点を重するならば、両者のあいだには直接 一珍と済との間に。 王的な血縁関係がなかった可能性が考えられる。したがって、『日本書紀』などに見える天皇の血 国縁関係をたよりに、倭の五王が『日本書紀』の何天皇に相当するかを議論すること自体、大きな 中 疑問と限界があるといわねばならない。 169

10. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

陥るが、そのような試練を乗り越えて、最後にはその身分が明かされ、彼あるいは彼女が大きな 丿ー展開の物語を指す。古今東西を問わず、語り継がれてきたお 幸福を手にするといったストー 馴染みのモチーフであるといえよう。 オオケとオケはイザホワケノ天皇 ( 履中 ) の孫であり、有力な皇位継承候補であったイチノへ ノオシイワノ皇子のむすこであるから、間違いなく貴種といえよう。かれらのような兄弟が実在 し、父が雄略によって無惨に謀殺された後、雄略の魔の手を逃れ各地を流亡し、辛酸を嘗め尽く したことが事実としてなかった、とはいい切れない。 ー展開のなかで だが、何といっても不審であるのは、オオケ・オケの兄弟は、一連のストーリ 語 物一貫してこどものまま、成長していないことである。『日本書紀』の年代観によれば、安康天皇 興が暗殺された直後、雄略が決起し、イチノ ( ノオシイワノ皇子らを殺害した年は西暦四五六年と の そいうことになっている。この時、オオケとオケは、潜伏先でタ = ( ノワラワと名乗ったというく らいだから、幼児あるいは童子だったのであろう。 王そして、かれらが自分たちの身分を明かしたのは、雄略の二十三年におよぶ治世が終わり、そ 国のむすこ清寧の時代になった四八一年のこととされているのに、かれらはその時もいまだに少年 中 のままなのである。『日本書紀』によれば、兄弟を縮見ミャケで発見したイヨノクメべノオダテ は、オオケとオケを、 2 1 1