また、十市県主のむすめてイサカヒメ ( 五十坂媛 ) てあるどもいわれる。 オオヤマトネコヒコフトニ ( 大日本根子彦太瓊 ) を生んだ。 皇位にあるこど百ニ年。百三十七歳て亡くなった。 玉手丘上陵 ( 御所市王手か ) に葬られた。 ついて、オオヤマトネコヒコフトニが即位した ( 孝霊天皇 ) 。 黒田廬戸 ( 奈良県磯城郡田原本町黒田か ) に皇居を営んだ。 皇后はホソヒメノミコト ( 細媛命 ) 。または、十市県主の始祖のむすめ、マシタヒメ ( 真舌・ 媛 ) てあるどもい、つ。 オオヤマトネコヒコクニクル ( 大日本根子彦国牽 ) をもうけた。 在位は七十六年におよび、亡くなった時は百ニ十八歳てあった。 陵は片丘馬坂陵 ( 奈良県北葛城郡王寺町か ) 。 オオヤマトネコヒコクニクルが皇位を継承した ( 孝元天皇 ) 。 皇居は軽境原宮 ( 橿原市大軽町付近か ) どいう。 皇后はウッシコメノミコト ( 鬱色謎命 ) て、ワカヤマトネコヒコオオヒヒ ( 稚日本根子彦大 ~ とおち いおと
雄略は「有徳の天皇」と絶賛される一方で「大悪の天皇」と恐れられた。雄略死後はその子の 清寧天皇 ( シラカノタケヒロク = オシワカヤマトネコ ) が皇位を継承したが、 , 冫を 彼こよ皇后もいなけ れば後嗣もなく、皇統が断絶する危機を迎えてしまう。 この時、履中の孫で、かって雄略に謀殺された市辺押磐 ( イチノ〈ノオシイワノ ) 皇子の遺児 はりま 二名が播磨で発見されゑかれらは清寧により皇嗣として迎えられ、清寧没後、まず最初に弟の けんぞう 顕宗天皇 ( オケ、クメノワクゴ ) が即位すゑ父が天皇ではない人物が即位したのは、仲哀に続 いてこれで二例目である。顕宗の没後は、その兄である仁賢天皇 ( オオケ、オオシ、オオス、シマ ノイラッコ ) が即位した。皇位継承において兄弟の順が逆転したのは、これが最初であろう。 ぶれつ 仁賢の後はその子の武烈天皇 ( オ ( ッセノワカサザキ ) が襲った。しかし、武烈は先の清寧と 同じように後嗣がいなかった。そして、民衆に対し残虐行為の限りを尽くして、死去する。ここ で再び皇統断絶の危機であるが、これを救ったのは応神天皇の五世孫、体天皇 ( オホド、ヒコ フトノミコト ) その人であった。彼は亡き武烈の姉である手白髪 ( タシラカノ ) 皇女の婿というこ とで皇位を継承した。こうして、皇統断絶の危険は再び回避され、新たに継体を起点とする皇統 がその歩みを開始することになる。 以上が『日本書紀』の描く継体までの天皇の歴史である。 これによるならば、父子継承、兄弟継承など、時代によってバリエーションはあるものの、基 うとく にんけん
皇子であるヤマトタケルの奮闘によって日本列島の軍事的統一が完成した。だが、ヤマトタケル せいむ は父天皇の後を継ぐことはなく、彼の弟にあたる成務天皇 ( ワカタラシヒコ ) が皇位を襲うこと になる。ここまでは実に整然とした父子相続によって皇位が継承されてきたが、これから後は少 し異なってくる。 ちゅうあい ヤマトタケルの遺児であった仲哀天皇 ( タラシナカッヒコ ) が登場するのである。彼は景行の くまそ 孫、成務の甥にあたる。仲哀はみずから九州の熊襲の征伐に向かうが、そこで亡くなってしまう おうじん ( 一説に戦死 ) 。仲哀の後は、その子の応神天皇 ( ホムタ ) が継承することになるが、仲哀が亡く じんぐう なった直後、その皇后オキナガタラシヒメ ( 神功皇后 ) が、神託をうけて朝鮮半島に攻め入り、 しらぎ 新羅を服属させることに成功した。応神はこの時、母皇后の胎内にあり、皇后が九州に凱旋した 後、その地で誕生したという。し 广神が幼少のあいだは、この神功皇后が摂政としてっとめた。 応神以降の皇位継承は、それ以前の直線的なものとはだいぶ様相が異なってくる。すなわち、 にんとく りちゅう 応神の子、仁徳天皇 ( オオサザキ ) が即位し、仁徳死後は、その子の履中天皇 ( イザホワケ ) 、つ はんぜい いんぎよう いで履中の弟の反正天皇 ( ミッ ( ワケ ) 、その弟の允恭天皇 ( オアサツマワクゴノスクネ ) が相次い あんこう ゅう で即位した。允恭の後を継いだのは、その子の安康天皇 ( アナホ ) で、安康横死の直後、弟の雄 りやく さつりく 略天皇 ( オオ ( ッセノワカタケ ) は居並ぶ皇位継承資格者たちを殺戮して皇位を勝ち取ることに なる。
シキッヒコアマテミが即位した ( 安寧天皇 ) 。 うきあな 皇居は、片塩浮孔宮 ( 奈良県大和高田市片塩町か ) どいった。 皇后は、ヌナソコナカッヒメノ、こコト ( 渟名底仲媛命 ) てあった。あるいは、磯城県主の ・むすめ、カワッヒメ ( 川津媛 ) ど伝えられる。 ・オオヤマトヒコスキトモ ( 大日本彦耜友 ) を生んだ。 皇位にあるこど三十八年、五十七歳 ( 六十七歳 ? ) て亡くなった。 みほとのいのえ 畝傍山南御陰井上陵 ( 橿原市吉田町か ) に埋葬された。 つぎに、オオヤマトヒコスキトモが天皇になった ( 懿徳天皇 ) 。 皇居は、軽曲峡宮 ( 橿原市大軽町付近か ) 。 皇后は、アマトヨッヒメノミコト ( 天豊津媛命 ) だが、磯城県主の弟のむすめてイズ、こヒ ~ メ ( 泉媛 ) ども、また、同しく磯城県主のむすめ、イイヒヒメ ( 飯日媛 ) どもいう。 シキッヒコタマテミ ( 磯城津彦玉手看 ) を生んだ。 在位三十三年、八十四歳て亡くなり、桃花鳥田丘上陵 ( 奈良県橿原市四条町か ) に葬られ かるのまがりお つきだ 8 4
歳と、『日本書紀』に較べて、やや押さえめといったところ。 まず前者であるが、このように整然とした父子直系による皇位継承はもちろん歴史的な事実で はなく、ある段階の皇位継承の実態をふまえて、「皇位継承はかくあるべしーという理想を投影 して作られたものではないかと考えられている。 かいふうそうかどの 神・・ル怦・これについては、『懐風藻』葛野王伝が参考になる ( 現代語訳 ) 。 に編まれた漢詩集であるが、一部の作者に略伝が付されている。葛野王は、 『懐風藻奈 語天智皇の、であり、壬申ので敗れ自殺した大友皇子の子である。ちなみに、母は天武天皇の のむす十市皇女。 高市皇子が亡くなった後、天武天皇の皇后、野讃良皇女 ( 持統天皇 ) は皇族・貴族を禁中 そ に召集し、だれを皇嗣にするかを話し合わせた。時に皇族や貴族らは、それそれ私情にまか せて候補者の名前をあげたので、会議は収拾のつかないありさまとなった。この時、葛野王 皇 と はすすみ出て、つぎのように述べた。 家 国 「顧みるにわが国家は、神代以来、父子相続で皇位を継承してまいりました。もし兄弟で皇 ひつじよう 令 位を継承したならば、それが内乱の原因となるのは必定。どうして天の御心をわれらが測る 律 ことができるでしようか。人間関係から推し量るならば、皇嗣はおのずと決まっているとい えましよう。われらが口を挟む余地など、ありますまい」 おち うののさらら
Ⅱ中国的王朝一一一その興亡の物語 彼は、兄アナホノ天皇が暗殺されたと聞くや、天皇を殺害したマヨワノ王をはじめとして、同 母兄であるヤツリノシロヒコ・サカアイノクロヒコをその手で倒し、さらに勢いに乗じてイチノ へノオシイワノ皇子をもその手に掛けて殺している。みずからの即位を切り拓くために、ライヴ アルとなる皇子たちをすべて薙ぎ倒し、文字どおり血の滴り落ちる手で王位をみ取ったのであ る。 これはありそうで、なかなかない話といえよう。わが国において王位継承をめぐる争いには、 流血が付き物のように思われがち であるが、これだけ多くの王族の 血が一時に流れた事例も他にない だろう。寺西貞弘氏は、これらの 図記事から皇位の兄弟継承が成立す るる以前には、一定の兄弟のみなら めず、その従兄弟たちも候補者にな を 位るような、世代内継承とよぶべき 略皇位継承が行なわれていたのでは ないかと推測している ( 「古代天 允恭天皇 履中天皇 市辺押磐皇子 中蒂姫 安康天皇 坂合黒彦皇子 八釣白彦皇子 雄略天皇 ー・眉輪王 179
筑紫で応神天皇を産む 二〇一この年を神功皇后の摂政元年とする 二六六「晋起居注」によれば、この年、倭の女王が朝貢するという 二六九神功皇后が逝去する ( 燗 ) 二七〇応神天皇が即位する 二七四諸国に海人と山守部を置く 二八三弓月君が来朝する 二八四阿直岐が来朝する 二八五王仁が来朝する 二八九阿知使主・都加使主が来朝する 三〇九応神天皇、莅道稚郎子を皇太子に立て、大山守命に山川林野の管理を、大鷦鷯尊 ( 仁徳 天皇 ) に国政の輔佐を委任する 三一〇応神天皇が逝去する ( Ⅷ ) 。 三一〇皇太子菟道稚郎子、兄仁徳天皇と皇位を譲り合う。その間に大山守命の反乱が起きる 一三菟道稚郎子が自殺。仁徳天皇が即位する。難波高津宮を造る 三一六仁徳天皇が課役を三年間免除する 254
朝倉宮で即位する 四五八雄略天皇、吉野で狩猟、怒って御者を殺す。天下の人、「大悪の天皇ーと恐れる 四六〇雄略天皇が葛城山で一事主神と出会う。雄略、「有徳の天皇、と讃えられる 四六一雄略天皇、葛城山で狩猟、舎人を殺そうとするが、皇后に諫められる 四七九雄略天皇が逝去する。星川皇子の反乱が起きる 四八〇清寧天皇が磐余甕栗宮で即位する 四八一白髪部を設置する。播磨の縮見屯倉で仁賢天皇・顕宗天皇が発見される 四八四清寧天皇が逝去する。仁賢・顕宗兄弟、皇位を譲り合う 四八五顕宗天皇が近飛鳥八釣宮で即位する 四八七顕宗天皇が逝去する 四八八仁賢天皇が石上広高宮で即位する 四九八仁賢天皇が逝去する。平群直鳥父子の乱。武烈天皇が泊瀬列城宮で即位する 五〇六武烈天皇が逝去する 五〇七応神天皇の五世孫 , …霾体天皇が越前三国から迎えられ、河内樟葉宮で即位する 256
恋する聖天子ーー仁徳天皇 新しく物語を書き起こす苦労 ・ホムアノ天皇が亡くなった後、皇太子のウジノワキイラッコ ( 道稚郎子 ) ど、その兄の . ・オオササキノミコト ( 大鷦鷯尊 ) どは、互いに皇位を譲り合った。 「天下を治める仕事は大変なものてす。それがしは弟て人どしての修養も足りません。亡き・ 父上がそれがしを皇嗣に定めたのは、决して、それがしの人徳やオ能をみどめたからてはあ . ・りません。たたただ、可愛さゆえのこどてす。どうか、兄上が皇位をお継ぎください」 ど、ウジノワキイラッコ。それに対してオオササキは、 ~ 「それは無理だよ。亡き父上はきちんど人物を見定めて、そなたを皇嗣に決めたのだ。その . たやす ~ 先帝の遺志を容易く棄て去るこどなどてきはしない」 ( どいって、一歩も譲らなかった。 ・兄弟が皇位を譲り合っているあいだに、 かれらの長兄にあたるオオヤマモリノミコト ( 大・ ~ 山守命 ) は、
ないと見なされてきたのである。 しかしながら、前章の最後のところで述べたように、応神は、完成した天皇の地位と権力を三 人のむすこたちに、それこそ平等に分割して譲渡したと描かれていた。物語自体はそこでめでた き終幕を迎えており、本来的には三人のむすこたちのあいだに揉め事や確執の芽は何ら存在しな かったはずなのである。 それなのに、ウジノワキイラッコとその兄のオオサザキとが互いに相手を思い遣り、皇位を譲 り合ったというのは、考えてみれば、おかしな話であろう。ウジノワキイラッコも、その異母兄 にあたるオオサザキも、物語のなかではすでに天皇の地位と権力を父から譲られているのであっ 物て、いまさら、何を譲り合うというのであろうか。かれらはそれそれ、すでに天皇とされていた 興のである。 そ他方、オオヤマモリは、父応神が生前において自分を疎んじており、それゆえに父の死後、弟 彼も応神から天皇の地位と権力の一部を譲 を倒してそれに取って代わろうとしたというのたが、 , 王られており、すでに歴とした天皇だったのである。弟を偏愛する父に疎んじられて云々という筋 国書き自体が、極めて空疎な、説得力の乏しいものといわざるをえないであろう。 中 結局のところ、応神の死後にオオヤマモリが皇位をねらってウジノワキイラッコに対し反乱を ついにはウジノワキ 起こしたり、また、ウジノワキイラッコとオオサザキとが皇位を譲り合い れつき 139