序章万世ー系と王朝交替と 百 映王 家 〔倭王家〕 倭讃 珍 倭済 余慶 興 武 これを同じ『宋書』百済伝に見える百済王位の継承関係と比 較するならば、讃・珍が属する血縁集団と済・興・武の属す る血縁集団とは別個のものであって、珍から済への王位継承 のさいには、政変を伴った王を出す一族 ( 王系 ) の変更が想 定される。 讃や済が、倭という姓を冠してよばれていることを根拠に、 国両者はやはり同じ一族であったとする反論もあるが、倭姓が 倭国王の現実の血縁関係とは無関係の、中国側から一方的に 宋あたえられたものであることを軽視してはならない。讃と済 家が同じ倭姓を名乗 0 ているからといって、かれらが同じ一族 済の出身者であったとは限らない。むしろ、『宋書』倭国伝で 最初にあらわれる倭国王の讃と、つぎの珍とは続柄が不明の 王倭国王・済の二名のみに、わざわざ姓が冠せられていること のの意味を重視すべきであろう。 世要するに六世紀以前は、王位が血統によって継承されてお 五 らず、王にふさわしい人格・資質の持ち主をもとめ、王位が くだら
るならば、倭国王済をモデルとした人物は『日本書紀』のなかに発見することができない、 わねばならない。その点は、済のつぎの興も同じである。 讃Ⅱイザホワケ、珍Ⅱミッ ( ワケとするならば、済は、イザホワケとミッ ( ワケの同母弟とさ れているオアサツマワクゴノスクネと考えたいところであるが、済という名前とオアサツマワク ゴノスクネという名前とのあいだに接点はほとんどみとめられない。オアサツマワクゴノスクネ という名前のどの部分をどう訳せば、済という名前になるというのか。オアサツマワクゴノスク ネという虚構のなかの人物と倭国王済とは、ほとんど無関係といわねばならない。オアサツマワ クゴノスクネの子とされるアナホ ( 安康天皇 ) が、済の世子 ( 世継ぎ ) の興に相当するのではな 物 いかという所説も、アナホの意味が不詳であり、興がアナホの意訳であると断定できる材料がな の 亡 いので、現在のところ成り立たないといえよう。 いうのを日らかなのであるが、 世継ぎ、興そ弟 ; そそもそも、讃と珍は弟であの に関する記載が見えず、この点を重するならば、両者のあいだには直接 一珍と済との間に。 王的な血縁関係がなかった可能性が考えられる。したがって、『日本書紀』などに見える天皇の血 国縁関係をたよりに、倭の五王が『日本書紀』の何天皇に相当するかを議論すること自体、大きな 中 疑問と限界があるといわねばならない。 169
を意味する通称にすぎず、その別名、オオホド ( 大なるホド ) は、継体の名前であるオホド ( 小 なるホド ) から考え出されたあくまでも系譜上の名前である。この二代の名前は実在の人物のも のとは考えがたく、系譜の上での位置関係をあらわしたたけのいわば架空の人物名と見られよう。 要するに、継体が応神五世孫とされているのは、彼が武烈と同世代とされたことに由来すると 考えてよいのではないか、ということである。もともとは応神で終わっていた物語Ⅱ世界をうけ て、仁徳に始まる物語Ⅱ世界の登場人物は、仁徳 ( 応神一世 ) ー履中・允恭 ( 同二世 ) ー市辺押 磐皇子・雄略 ( 同三世 ) ー仁賢・清寧 ( 同四世 ) ー武烈 ( 同五世 ) と続いていた。武烈自身が応神 五世孫とされていたので、彼と同世代とされた継体も五世孫になった、ということなのではない 物だろうカ 亡 そう考えてよいとすれば、継体が応神の五世孫であるとする伝えは、仁徳に始まり武烈に終わ 興 そる物語Ⅱ世界の創造をふまえて出来上がったものと考えることができるであろう。そもそも、応 一神の五世孫という表現自体が、もともとは別々の物語Ⅱ世界に属していたはずの応神と仁徳が父 王子関係で結ばれなければ、生まれてこないものである。 国継体天皇が実在の人物であるとしても、その系譜的な位置や治天下大王としての正当性に関す 中 る記述は、すべて、神武から応神までの物語と、仁徳に始まり武烈に終わる物語とが接合された 後に作り出されたものということができる。その時期は、『日本書紀』の長い編纂のプロセスの 229
すなわち、オオハッセというのは「オオ ( 大 ) 十ハッセ ( 泊瀬 ) 」であり、仁徳に始まった王朝 ぶれつ を後に減・ほすことになる武烈天皇の名前、オハッセノワカサザキの「オ ( 小 ) 十ハッセ ( 泊瀬 ) 」 に対応するものである。つぎにワカタケとは、「若々しい勇者ーを意味する普通名詞であるが、 武烈の名前の一部であるワカサザキとワカを共有している。その限りにおいて、やはり武烈と対 応関係にあるといえるだろう。オ、ツセノワカサザこと一絜か、オオサザキとよばれた仁徳と 対応関係にあったように、雄略は一連の物語の構想のなかで、何らかの意味において武烈と対応 関係にあると位置づけられていたことになる。これを整理して示すならば、 【サザキの対応関係】 物 仁徳 : : : 聖帝 ( 王朝の始祖 ) 愈↓武烈 : : : 暴君 ( 王朝の終焉 ) の 興【 ( ッセとワカの対応関係】 の 愈↓武烈 : : : 暴君 ( 王朝の終焉 ) 雄略 : ・ そ という図式が成り立つであろう。 王雄略に振り当てられた役割が一体どのようなものであったのか、これについては、『日本書紀』 国に見える雄略をめぐる物語の解読を通じて明らかになるであろう。 中
礎を築いた人物であったということで、多くの子孫をもうけたはずたと考えられたのであろう。 多くの子女をもうけるには、多くの女性と関係をもたなければならない。多くの女性と関係をも っということは、仁徳の女性に対する情熱もさることながら、彼がそれだけ女性にもてる要素を もっていたということである。 二ロ オめに創られたエビソードだったのではないか、と見たほうが 徳の女性、の よさそうである。なぜならば、一夫多妻が常識ともいうべきこの階層において、これだけ夫の女 性関係に嫉妬する妻というのが、どう考えても不自然な設定のように思われるからである。 物 イワノヒメは、その名前から考えれば、岩にこもる斎女であり、本来は男女関係や嫉妬などと の 興はおよそ無縁の存在だった。彼女が祭祀に用いる御綱葉を採取するために紀伊国に赴いたという そェビソードを想起されたい。イワノヒメの実家は葛城氏とされていたから、イワノヒメとは、葛 城氏が基盤とした葛城山の岩に宿る精霊がその原像であったと考えられるのではあるまいか。イ 王ワノヒメは本来、女神あるいは神に仕える神聖な女性とされていたのであり、夫の女性関係に狂 国おしいまでに懊悩する女性というように強調して描かれたのは、天命をうけて王朝を開いた仁徳 中 の皇后とされた結果にほかならないであろう。
とあるから、やはり二人は二十数年経ってもこどものままだったのである。明らかにオオケとオ ケ兄弟は、父が横死した時点から成長が止まっているのでり、二人を取り巻く時間は完全に静 止したままであったといえよう。また、身分を明かし弟ほうが兄を差し置いて卩、し、弟が 先に亡くオたので、その後兄が卩、したというのも、実際の王位継承を考えると、不自然と いえば不自然といわざるをえない このような兄弟をめぐる一連の物語から、歴史的な事実関係をただちに読み取ろうとすること は不可能であり、また無意味ではないだろうか。やはり、オオケ・オケ兄弟の物語 ( 貴種流離譚 ) ひとこま は、仁徳に始まるとされた王朝の興亡・盛衰という長い長い物語の一齣なのであって、そのよう 一一口 物な文脈のなかでその意味するところを考えるのが妥当であろう。 興仁徳に始まった王朝は、兄弟のうち兄のオオケこと仁賢天皇のつぎの武烈天皇で終幕を迎えた そとされている。したがって、オオケ・オケの流離・辛酸の物語とその結末としての二人そろって の即位という ( ッビー〒ンドは、王朝の終末という壮大なフィナーレ直前の舞台設定として、そ 王の意義を考えるべきではなかろうか。 的 国 以上見たように、イチノ ( ノオシイワノ皇子の遺児が苦労を重ねたすえに見いだされ、晴れて 中 皇位を継承するという展開自体は歴史的事実からは程遠いものなのであるが、オオケ・オケのい この問題に手掛かりを提供する ずれもが、実在の人物とまったく無関係であったとはいえない。 213
していたとは到底考えられないし、そもそも「有徳ーと「大悪」とは、極めて、屯かっ図式的に 把握され、表現された薄っぺらな個性にすぎない。この点だけから見ても『日本書紀に描か れてい雄略天白、実在の人物ではありえず、虚構のなかの一登場人物であることは明らかであ いうまでもなく、仁徳に始まる中国的な王朝の興亡・盛衰の物語である。 る。その虚とは、 雄略は絶えず、おのれの意志や決断を至上のものと考え、それにしたがって行動したという。 だから、その感情や怒りにまかせて、誤って人命を奪うことが多かった天皇として描かれており、 それが「大悪の天皇」とよばれた所以であった。この点は、雄略とハッセ・ワカという名前を共 有し、その点で対応関係がみとめられる武烈が、後述するように、実に多数の人を殺傷し、人が 語 物死や恐怖に直面するさまを見て楽しんでいたというのとは意味合いはだいぶ異なるとしても、多 亡 くの人命を平然と奪ったという点では共通するものがあるといえよう。この点を整理すると、つ 興 そぎのとおり。 【徳を基軸にした関係】 朝 仁徳天皇 ( 聖帝、聖天子 ) ーー , ・雄略天皇 ( 有徳の天皇 ) ーーー武烈天皇 ( 暴君 ) 王 国【ハッセとワカの対応関係】 中 雄略天皇 ( 大悪の天皇 ) 介↓武烈天皇 ( 暴君 ) 雄略は「有徳の天皇」とよばれ、仁徳に始まる王朝最盛期の天皇とされてはいるが、王朝の最 ゆえん 19 ラ
な君主とされているのである。 また、女性関係という点でも、仁徳と武烈は対照的な人物ということになっている。仁徳が多 くの女性と関係をもち、数多くの子孫に恵まれたことになっているのに対して、武烈には后妃 かすがのいらつめ ( 春日娘子 ) はいるものの、素姓がいまひとっ不明の女性であり、しかも、彼女とのあいだにつ に子」 - お恵まれず、・・結既 0 モ朝を滅亡に陥 ' しま 0 たとされている。そればかりか『日本 書紀』では、武烈はひそかに想いを寄せていたモノノベノカゲヒメ ( 物部影媛 ) を別の男性に奪 われてしまうという、恋の不成就者 ( いわゆる、もてない男 ) とされており、その点、恋の成就 者、もてる男の仁徳とは大違いという設定になっているのである。 物それそれの臣下についても、ほ・ほ同様な対応関係を見て取ることができる。すなわち、仁徳に 亡は ( グリノックノスクネ ( 平群木 ~ 兔宿禰 ) という忠臣が仕えていたが、武烈天皇には〈グリノマ の トリノオオオミ ( 平群真鳥大臣 ) という希代の悪臣・逆臣がいたことになっている。マトリのむ そ 一すこのシビ ( 鮪 ) は、武烈の想い女であるカゲヒメを奪 0 た男とされている。ックはミミズクの 王ことであり、ツクとマトリという、やはりともに鳥の名前をもつ人物どうしが、まさに対照的な 国人物として描かれ、配置されているわけである。 中 サザキの名を共有する二人が、このように対照的なキャラクターに設定されているのは、明ら かに一定の作為の産物なのであって、天命をうけた仁徳によって開かれた王朝が、数代後の武烈 153
の場合の「有徳ーというのは、本来的には、神に匹敵するような強大なパワーを保持しているこ いきおいまします とを指して、このようにいったものと考えられる。「有徳ーが「至徳」 ( 物妻いパワーをお持ち である ) と同義であることからも、それは明らかであろう。 しかし、それに「有徳ーという漢字が当てはめられたわけで、「有徳」というのは、中国にあ っては天 ( 天帝 ) が世界を支配する者 ( 皇帝Ⅱ天子 ) を指名・決定するさいの絶対的なバロメー ターとなった徳を人並みはずれて保有している人物に冠せられる賛辞にほかならない。天命をう け皇帝になることができる基本的かっ絶対的な資質・条件が「有徳」であるといってよい。した がって、つぎのような関係になろう。 【徳を基軸にした関係】 仁徳天皇 ( 聖帝、聖天子 ) ーーー雄略天皇 ( 有徳の天皇 ) すなわち、「有徳ーという雄略に対する評価は、王朝の始祖であり、それゆえに聖帝とされた 仁徳との対比において、そのように語られているのである。ということは、仁徳と対比された雄 略は、王朝の最盛期の天皇、仁徳に始まる王朝にいわば全盛期を現出させた天皇として位置づけ られ、そして描かれていると考えてよいであろう。 かいこう 『日本書紀』のなかで雄略が「有徳」といわれた話を よ、この葛城の一事主神との邂逅の物語以外 には見えない。たが、後にあらわれる武烈天皇との対比でいうならば、武烈の時に減び去ること 188
( ノエノナカッ ( 住吉仲 ) 皇子を遣わして婚儀の日取りを告げさせた。 どころが、スミノエノナカッ皇子はクロヒメの美貌に心を奪われ、自分こそが皇太子てあ ~ ・るど偽って、彼女ど関係をもってしまったのてある。そうどは知らないイサホワケは、クロ ・ヒメの屋形に忍んて行き、彼女がいる帳のなかへ入ろうど暗闇をすすむど、床にあった鈴に 足が触れて、それがかすかに鳴った。 「これは : ・ど、イサホワケが尋ねるど、クロヒメは、 ・「ああ、それならば、今朝方お帰りのさいにお忘れになった鈴ては ? 」 語 物 ・ど、何の疑いも見せすに答える。イサホワケは知っていた、この特徴のある鈴がス、こノエノ ~ 興・ナカッ皇子のものてあるこどを。こどもあろうに、弟はわが名を騙ってクロヒメど関係を結 そ・んてしまったのだ。 イサホワケはその夜、何もいわすに帰った。宮に帰るど酒を飲み、今夜のこどは忘れてし ( ごうがん 王・まおうどした。しかし、杯を重ねるたびに弟の傲岸な顔か目の前にちらっき、 いっしか深酔 . いしてしまった。 ・スミノエノナカッ皇子は兄がすべてを知ったこどを察し、覚悟を决めた。皇太子てある兄・ラ . への造反が発覚した以上は、座して罰をうけるよりも、決起して兄を討ち取り、兄に取って . とばり かた