騎馬民族 - みる会図書館


検索対象: 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替
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1. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

力選出・推戴されていることは間違いない。これならば、万世一 本的こ同じ一族から々 系というのも承認せざるをえないであろう。 しかしながら、もちろんそれは、『日本書紀』の記す天皇系譜や皇位継承の次第に一点の疑問 も虚偽もない、と仮定した上での話なのである。 騎馬民族が来た ? ーー王朝交替説の前提 アジア・太平洋戦争の終結後、天皇は大日本帝国の統治権の総攬者から一転して国民統合の象 徴に変身し、これによって歴史上の天皇に対する本格的な研究、批判的な検討がようやく自由に 行なえるようになった。古代天皇について詳述する『日本書紀』に関する研究もこれによって活 替況を呈するに至った。 朝古代日本における王朝の交替を大胆に想定する、いわゆる王朝交替説もその一つであったが、 とこの王朝交替説に発想の根拠を提供したのが、江上波夫氏によって一九四八 ( 昭和二十一一 D 年に 系 唱えられた遊牧騎馬民族征服王朝説であった。江上説の大要は『騎馬民族国家』 ( 中公新書 ) に 万よって知ることができる。 章江上氏は、朝鮮南部にあった遊牧騎馬民族が渡海して九州に上陸し、その地を席巻した後、こ んどは大挙して東上開始、やがて近畿地方一帯を制圧して天皇家の始祖になったという実に大胆 そうらん

2. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

高句麗 3 世紀末、扶余族が 高句麗より半島南下 4 世紀末から 5 世紀 初め、近畿地方征服 馬韓ス辰韓 日本海 ( 新羅 ) 百済戸 倭 「弁韓 % ( 任那 ) 。 太平洋 4 世紀初め 九州に上陸 な仮説を発表した。江上氏によれば、騎馬 半軍団を率い朝鮮半島から九州にやって来た 朝騎馬民族の王こそが、『古事記』『日本書紀』 族で「ハックニシラススメラミコト」 ( 初代 馬 0 天皇という意味。後述 ) とよばれてい崇 神天白にほかならないというのである。そ 明 俊切して、九州から東上し、近畿を軍事的に制 細肥圧したのが応神天皇であったとする。 江上氏は、日本の古墳の副葬品が、前期 を」の宝器的・象徴的・呪術的なもの ( 鏡・ 族剣・玉・碧玉など ) から、後期の実用的・ 馬礰軍事的なもの ( 武器・馬具・よろい・かぶと るかなど ) に激変を遂げたことをその第一の論 にし拠にあげている。古墳時代の後期、すなわ 説進 上南ち四世紀後半の中頃以後に、乗馬の風習や 江を 文化をもった民族が日本列島にやって来て、

3. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

きた戦前の天皇制に対する根本的な批判と懐疑のなかから誕生し、大いに脚光を浴びたが、後述 冫オりこの王朝交替説とともに、戦後 の日本古代史研究にまったく新たな地平を切り拓くことになった。 今日、江上氏が当初提唱したような騎馬民族征服王朝説を全面的に支持する研究者は少ない。 たが、その影響をうけて、日本の支配者集団が海外から渡来して来たのではないかという、決し とつけっ て証明されざる「幻想」をいまだに抱いている人は意外に多い。聖徳太子の正体が突厥から渡来 した王子であったとする奇説も、発想のレヴェルで江上説の影響をうけているといえよう。後述 するように、江上説は王朝交替説を導き出す役割を果たしたが、それだけではなく、日本の古代 史に関心を寄せる人の多くに、天皇家の始祖が海外より渡来したという「幻想」、真実の探究に とっては不要ともいえる色眼鏡をあたえてしまったことは否定できないであろう。 また、江上氏自身はその後、自説を守り、補強するために巧みに論点の重心を移動させ、その 結果、日本文化の基層にある騎馬民族の文化や習俗の発掘に精力を傾けるようになり、それらを 積み重ねることによって、外来の騎馬民族による日本列島征服まで証明できると錯覚・強弁する に至っている。江上説は刻一刻と、その姿を変えているのである。 いよいよ、王朝交替説の登場

4. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

瞬く間にその地を制覇したことを想定しなければ、この激変は説明できないというのである。江 上・騎馬民族征服王朝説の根幹ともいうべきこの点について、考古学者の多くは否定的である。 すなわち、前期古墳から後期古墳にかけての副葬品の内容変化は、江上氏のいうような激変では ありえず、百年近い時間を要した緩やかな変化であったというのが、現在最も有力な見解となっ ている。 江上氏は、崇神をかっては朝鮮半島の南部にいた騎馬民族の王者と見なしているが、そもそも、 この根拠は一体何であろうか。それは、ミマイリヒコイニエ ( 『古事記』では御真木入日子印恵、 「日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖 ) とい崇神の諡ロであった。 みまな ミマキイリヒコとは、ミマ・キすなわち朝鮮南部にあった任那の城 ( 都 ) の意であ 江上氏は、 と り、イリ・ヒコとは、そこ ( 任那 ) から日本列島に入って来た貴人を意味するのであり、総じて 替 朝崇神の諡号は「任那の王都からやって来た貴人」という彼の素姓を語っているのであると考えた。 としかし、この点も疑問が多く、ミマキを江上氏のように任那の都城と考えるのは無理であって、 き 系 ミマキはミマすなわち高貴な人の子孫の、キすなわち奥っ城 ( 墓 ) という意味と見なすのが妥当 万なようである ( この点、後述 ) 。 章ともあれ、この江上説の登場により、崇神天皇は一躍クローズアップされることとなり、崇神 を起点とする王統の存在が注目されることになった。騎馬民族征服王朝説は、万世一系とされて

5. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

井上光貞 「日本国家の起源」岩波書店、一九六〇年 同 「日本古代国家の研究』岩波書店、一九六五年 上田正昭ほか「エコール・ド・ロイヤル古代日本を考えるー古代天皇の謎』学生社、一九九三年 江上波夫 「騎馬民族国家ー日本古代史へのアプローチ』中央公論新社、一九六七年 加藤謙吉 「秦氏とその民ー渡来氏族の実像』白水社、一九九八年 神野志隆光「古事記ー天皇の世界の物語』日本放送出版協会、一九九五年 同 「古事記と日本書紀ー「天皇神話」の歴史」講談社、一九九九年 小林敏男 「古代王権と県・県主制の研究」吉川弘文館、一九九四年 斎川眞 「天皇がわかれば日本がわかる』筑摩書房、一九九九年 坂元義種 「倭の五王ー空白の五世紀」教育社、一九八一年 佐原真 「騎馬民族は来なかった』日本放送出版協会、一九九三年 篠川賢 「日本古代国造制の研究』吉川弘文館、一九九六年 鈴木靖民 「古代国家史研究の歩みー邪馬台国から大和政権まで』新人物往来社、一九八〇年 寺西貞弘 「古代天皇制史論ー皇位継承と天武朝の皇室」創元社、一九八八年 参考文献 ( 著者名五十音順 ) 248

6. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

州を征服した騎馬民族の王と見なしていた点も、水野氏の王朝交替説の成り立ちを考える上で無 視できないところである。 だが、水野氏の所説のなかで何よりも問題なのは、そもそも王朝とは何なのかが、かならずし も十分に定義されないまま、実にドラマティックな政権の交替劇だけが描かれ、論じられている はたし ことではなかろうか。王朝の本質ともいうべき王位の血統による世襲というシステムが、 てそのように早い時期に成立していたといえるのか。また、王朝が替われば、民衆に対する支配 の形態や内容に何らかの変化が生ずるのか否かという、王権の歴史を考える上で最も重要な問題 がほとんど不問に付されてしまっている。 のりカたについていえば、 水野氏に始まる王朝交替説にもかかわらず六世紀以 ~ の それはいわダを刄」・・系・でなく、また、さりとて王朝のドスティ , クな交替があ 0 たともい えない、と考えられる。なぜならば、『宋書』倭国伝からは五世紀段階の倭国王位の継承のよう すが窺われるが、それによるならば、王位がまだ特定の一族に固定しておらず、王を出すことが できる一族はなお複数存在したようだからである ( 後述するように、倭国王の漢字一字の名前は、 王の固有名の意味に相当する意味をもった漢字を当てはめたものと考えられる ) 。 そ弟一で、武は済・興 のことをわが父兄といっているが、問題は珍と済のあいだに続柄の記載が見えないことである。

7. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

高橋崇 木村茂光 ハタケと日本人 蝦夷の末裔 日本史 阿部謹也・網野善彦 采女 ( うねめ ) 門脇禎二中世の風景 ( 上下 ) 石井進・樺山紘一 日本人と日本文化 網野善彦 司馬遼太郎和同開珎 藤井一二古文書返却の旅 ・キーン 日本文化交流小史上垣外憲一古代日本の四季ごよみ藤井一二中世都市鎌倉を歩く松尾剛次 おしは 神々の体系 上山春平古代農民忍羽を訪ねて関和彦中世のことばと絵五味文彦 続・神々の体系 和歌森太郎 上山春平食の万葉集 廣野卓山伏 日本の神々 松前健聖徳太子 高橋富雄一 田村圓澄征夷大将軍 苗字の歴史 高橋富雄 豊田武信仰の王権聖徳太子武田佐知子義経伝説 刊 既 森茂暁 騎馬民族国家 ( 改版 ) 江上波夫大化改新 遠山美都男後醍醐天皇 書 古代朝鮮と倭族 鳥越憲三郎壬申の乱 遠山美都男皇子たちの南北朝森茂暁公 弥生の王国 鳥越憲三郎持統天皇と藤原不比等土橋寛天皇誕生 遠山美都男一 邪馬台国 大林太良日本書紀の謎を解く森博達 委国 岡田英弘天武朝 北山茂夫 古墳の発掘 ( 増補版 ) 森浩一女帝と道鏡 北山茂夫 帰化人 角田文衞 上田正昭承香殿の女御 古地図からみた古代日本金田章裕平安朝の母と子 服藤早苗 蝦夷 ( えみし ) 高橋崇平安朝の女と男 服藤早苗

8. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

目次 序章万世一系と王朝交替と : 「日本国は万世一系」たしかに万世一系 ? 騎馬民族が いよいよ、王朝交替説の登 来た ? ーーー王朝交替説の前提 場王朝とは何か ? 王朝交替とは ? 本書の課題 二つの物語Ⅱ世界の発掘 律令制国家と天皇ーーーその誕生の物語 1 イワレヒコの東征ーーー神武天皇・ 始祖王、イワレヒコーー神々の聖なる混血東征の起点ー イワレヒコ ーなぜ日向なのか ? なぜ東征するのか ? イワレヒコのた のたたかい ( 一 ) 大和を制圧せよ ! たかい ( 一 l) 神々のむすめとの蜜月ーーー綏靖天皇 5 開化天皇 ( 欠史八代 ) 欠史八代は実在の天皇 ? 欠史八代の名前とその正体 なぜ父子直系で、しかも長寿なのか ? な・せ県主のむすめ 26 25

9. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

ないかと推定したのである。 すなわち、まずは古王朝 ( 崇神王朝。呪教王朝とも ) と崇神・成務・仲哀三代である。崇神 天皇によって本州の西半部の統一が成し遂げられ、王朝が開幕したとする。ところが、仲哀天皇 が九州に対して仕掛けた征服戦争に失敗し、仲哀もその戦争によって倒れ、古王朝は崩壊してし まう。それとは裏腹に、仲哀を倒した九州国家によって西日本の統一が実現を見る。 この九州国家の王であった仁徳天皇によって中王朝 ( 仁徳王朝。あるいは征服王朝 ) が開幕する。 やまたい 古王朝を破り、これを崩壊させた九州国家とは、邪馬台国の後背に控えていた南九州の勢力、狗 奴国の後裔にほかならない。邪馬台国の女王、壱与の死後、狗奴国が九州を統一していたが、こ 、、うくり の国家の支配階層は北方系の森林騎馬狩猟民族 ( 高句麗・百済の支配者集団と同種の扶余系民族 ) 替であったという。仁徳天皇は九州から難波に遷り、強大な大和国家の統一事業を完成することに 交 朝なる。 と中王朝は仁徳の後、履中・反正・允恭・木梨軽皇太子・雄略・飯豊青皇女と続いたが、結局、 一内部崩壊によって瓦解してしまう。中王朝の崩壊後は、その王統とは血縁的なつながりをもたな おおとものおおむらじ 万い司祭者的王族の一人が大伴大連によって擁立される。この継体天皇のもとに成立を見たのが新 章王朝 ( 継体王朝。統一王朝ともいう ) であったというのである。 今日の目から見ると、『古事記』『日本書紀』と『魏志』倭人伝などの中国史料を自在に、かっ なにわ くだら

10. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

騎馬民族征服王朝説をうけて、最初に古代日本における王朝交替を体系的に論述したのは水野 祐氏であり、それは一九五二 ( 昭和二十七 ) 年のことであった。その大胆な構想とそれを裏付け ようとする論証は、水野氏の著書『日本古代王朝史論序説』 ( 小宮山書店 ) に詳しい それによるならば、まず水野氏は、『古事記』に見える天皇の崩年干支 ( 天皇が亡くなった年の 干支 ) に着目する。『古事記』には崇神・成務・仲哀・応神・仁徳・履中・反正・允恭・雄略・ すしゅんすいこ あんかんびだつようめい 継体・安閑・敏達・用明・崇峻・推古の十五天皇についてのみ崩年干支が記されている。そのう ち安閑・用明・崇峻・推古を除く、他の十一天皇の崩年干支は『日本書紀』のそれとはまったく 合 糸」 ( 天皇の系譜を記した書物 ) に記載されていた、信用するに足り伝であると定する。 きんめい きなしのかる そして、上記の十五天皇に木梨軽太子・飯豊青皇女・欽明天皇を加えた計十八代こそが実在の 交 せんか と ・ - 賢引・武烈の・叫天皇第、化天皇の計十七代は架空の天皇にすぎないと論じた。水野氏は江上氏にな 一らい、「ハックニシラススメラミコト」Ⅱ崇神天皇の存在を重視し、これを実在最初の天皇と考 万えた。そして、これら非実在の天皇が考え出され、天皇系譜のなかに加えられたのは、『古事記』 章『日本書紀』の編纂過程において、「万世一系の神聖なる皇統」を証明するためであったと述べた のである。 ゅう かんし