魏志 - みる会図書館


検索対象: 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替
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1. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

「日本書紀』の編纂者はたしかに『魏志』倭人伝を読んでおり、そこに見える女王・卑弥呼の生 存年代が、『日本書紀』のなかで設定された神功皇后の生存年代と大体において合致すること、 それに加えて、『魏志』倭人伝に記された卑弥呼が「鬼道」という呪術・祭祀に関わる女性であ 、神功皇后も巫女としての能力をもっていたと伝えられていたことなどから、「卑弥呼Ⅱ神功 皇后説」を確信するに至ったようである。また、『日本書紀』編纂者がわざわざ『魏志』倭人伝 を持ち出してきて、神功皇后が卑弥呼であるなどと主張したのは、『魏志』倭人伝を書いた中国 や中国人というものを過剰に意識していたためではないか、と思われる。 ところで、たしかに卑弥呼と神功皇后は、外見上大変よく似てはいる。 しかし、まず、卑弥呼とは一般的にいわれているような邪馬台国の女王ではなく、『魏志」倭 人伝のなかでは、邪馬台国をはじめとした数十の国々より成る倭国の女王とされていた。つぎに、 卑弥呼というのは女王の個人名というよりは、特定の女性が就任する地位・身分の呼称と考える べきである。 残念ながら、初代卑弥呼の名前は不詳であるが、二代目卑弥呼の名前は魏志』倭人伝に採録 されていて、それは台与といった。弥呼、地、・身分の呼称、いわば職名であることは、すで 日本人はど に早くから指摘されているのであるが、いまだ」学一 = しての市民権を得ていない。 うしても、日本の黎明期に卑弥呼という名前の女王がいたことにしたいようなのである。そして、 1 18

2. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

ていけいていしゅん 皇后の摂政四十年。『魏志』には、「正始元 ( ニ四〇 ) 年に建忠 ( 建中 ? ) 校尉の梯携 ( 梯儁・ ~ か ) らが皇帝の詔書ど印綬どを奉して倭国まて遣わされた , ど見える。 皇后摂政四十三年。『魏志』がいうには、「正始四 ( ニ四三 ) 年、倭王は再び大夫の伊声者・ ~ ( 伊声耆 ? ) ど掖耶約 ( 掖邪狗 ? ) ら八人を遣わして貢ぎ物を献上して来た、どいうこどてあ ~ 皇后の摂政六十六年のこど。 語 この年は、中国の晋の泰初ニ ( ニ六六 ) 年にあたる。「晋の起居注」どいう書物には、「晋 ~ ( の武帝の泰初ニ年十月、倭の女王が何人もの通訳を用意して貢ぎ物を献上して来た」どいう・ 生・ こどが記されている。 皇 と『日本書紀』は、オキナガタラシヒメこと神功皇后が、『魏志』倭人伝に見える女王・卑弥呼の 国ことであるという解釈を示した最初の書物であった。すなわち、摂政三十九年・四十年・四十三 令年の三ケ条に引かれているのは、いわゆる卑弥呼に関する『魏志』倭人伝の記述であり、最後の とよ 律 摂政六十六年条は、卑弥呼の後を継いだといわれる台与 ( 壱与 ) に関わる「晋の起居注」 ( 起居注 とは、皇帝の日常の言動に関する記録。王朝の歴史を編纂するさいの資料になった ) の記載である。 ひみこ 1 17

3. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

れてはこないはずなのである。王朝の存在証明はともかくとして、王朝交替という劇的な展開は、 水野氏の頭のなかに最初からあったものといわざるをえない。 すなわち水野氏は、非実在の天皇を排して検出された天皇系譜を理解するにあたって、『古事 記』や『日本書紀』に見える伝承の一部をほとんど無批判に史実と認定している。他方、水野氏 は『魏志』倭人伝から読み取れると考えた史実を、『古事記』「日本書紀』から抽出した史実の上 に実に単純に重ね合わせてしまっている。『魏志』倭人伝の記述と『古事記』『日本書紀』の叙述 よ、 いとも簡単に結びつけられ、そこに実に大胆な歴史的な展開が素描されることになる。 崇神天皇に始まるという古王朝の瓦解は、『古事記』『日本書紀』に見える仲哀天皇による熊襲 征伐とその失敗の物語なしには導き出されてこないはずである。また、九州の覇者が古王朝を打 倒、その後して近畿地方で中王朝を樹立するという展開などは、『魏志』倭人伝に見える卑 ったとした上で、それは長年抗争を、た狗奴国によってほされ、 朝弥呼の邪馬台国は と九州は狗奴国の王によって統一されたという水野氏独自の解釈を前提にしたものである。そして、 一『古事記』『日本書紀』に見える神武天皇の東征物語、および九州で誕生した応神天皇が母である 世一じんぐう 万神功皇后に守られ東上を果たすといった物語をある程度史実とみとめ、それらを『魏志』倭人伝 章の解釈と結びつけることなしには成り立たないものであろう。 また、水野説に発想の根拠をあたえた江上氏の所説が、すでに崇神を、朝鮮半島から渡来し九 ひ 9

4. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

要するに卑弥呼とは、第一次倭国大乱と第二次倭国大乱のはざまにのみ存在し、その間の倭国 王の政治的支配を宗教的に支えた、この時期に固有の地位・身分であったということである。 わないのは、中国人のもつ中華思想という独 善的・自心的な世界観にもとづく誤解と偏見以外の何物でもないとわれる。中国人は、中 国から遠ざかれば遠ざかるほど、中国の文化や習俗とは程遠い未開・野蛮の文化・習俗があるに 相違ないと考えており、女性の君主を戴くことなどは未開・野蛮の象徴と見なしていたから、中 国から見て遠方にあるとされた倭国が女王を戴いていることは、かれらの独善的な世界観に合致 し、それを満足させるものだったのである。 卑弥呼の実態については、上記のように理解するのであるが ( 詳しくは、拙著『卑弥呼の正体』 洋泉社、一九九九年を参照されたい ) 、これまで、卑弥呼を女王、それも巫女王と信じて、だれも が徴塵も疑わなかったのは、『魏志』倭人伝にそのように明記してあることに加えて、『日本書 紀』がその叙述のなかで数少ない巫女王として描いていた神功皇后こそ、『魏志』倭人伝に見え る卑弥呼であるという独自の解釈を示していたことに原因があると思われる。これによって、わ れわれは、卑弥呼の実態を考えるさいに、知らず知らずのうちに神功皇后のイメージをそこに投 影してしまうことになった。これまで、卑弥呼の巫女王としての風貌が強調されてきたのは、『魏 志』倭人伝に対する史料批判の不徹底に加えて、正真正銘の巫女王、襯功皇后の存在・・・、 ( をし、 1 20

5. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

『魏志』倭人伝によって、その卑弥呼が君臨したという邪馬台国の所在を探し出すことが可能で こうなると、学問を あり、それが日本人にのこされた最後の最高のロマンだと信じて疑わない。 ようがない。 超えた思い込みの世界としかいい さて、この卑弥呼という地位・身分に関してさらにいうならば、それは女王の地位・身分をあ らわす呼称ではなく、倭国王 ( 男性 ) の近親女性でシャーマンとしての資質にすぐれた者が就任 し、倭国王の正当性を宗教的に保証した地位・身分のことなのではないかと考える。『魏志』倭 語人伝に描かれた卑弥呼は、その存在形態や、彼女を縛っている種々のタブーの在りかたなどから の いって、倭国内部の行政に関与できるような立場にはなく、彼女はあくまでも「鬼道」という祭 生 誕 儀にのみ奉仕する巫女だったようである。そもそも、シャーマンとしての資質が卓越していると の そ いう理由だけで最高首長に擁立された女性の実在をたしかめることは極めて困難なのである。 こ卑弥呼いう地位・身分は、二世紀の後半にきた最初の倭国舌後に、統一が成った 皇 国王 ( 邪馬台国王がえらばれた ) の地位を宗的に支えるために創出され と西日本一帯を支 国たものであった。そして世紀ば頃の一」度はの倭国大乱の後、西日本に加えて東海・中部地 ようになると、卑弥呼とよばれる役職はその姿を消し、・・新たな 令方が新たに倭国王の統合に加 律 政治的統合のシンポルとして創造された前方後円墳を、に・・し・・め・・ど・・し・ - た・巨 - 大な墳墓・・・ ( 古墳 ) 、・ど・そ・の 儀に取って代わられることになった、と考えられる。 1 19

6. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

よる百済救援の史実によって説明し尽くすことは不可能である。 このように、朝鮮半島の平定が、特定の天皇ではなくて皇后、しかも臨月を迎えていた皇后に よってなされたという荒唐無稽ともいえる筋書きは、応神に冠せられた「胎中天皇」という尊称 から論理的に考え出されたということができる。神功皇后という母親は、何と、そのむすこであ る応神天皇から生み出されたといえよう。子が母を生むという、物語世界ならではの逆転した関 係がそこにはある。 「神功皇后は卑弥呼であるー ? ・ホムタノ天皇が幼少のあいだは、その母てある皇后 ( 厳密には皇太后 ) オキナがタラシヒ・ ( メが摂政をつどめた。 皇后による摂政三十九年のこど。 『魏志』 つぎのように見える。「明帝の景初三 ( ニ三九 ) 年の六月に、倭の女王が大久の ~ たいほうぐん の難斗米 ( 難升米の誤りか ) らを遣わし帯方郡にやって来て、皇帝への拝謁を願って貢ぎ物・ りゅうか ・を献上した。帯方郡の長官てある鄧夏 ( 劉夏 ? ) は、下僚にかれらを引率させ、洛腸の都ま ~ ・て送らせるこどにした」。 1 16

7. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

ないかと推定したのである。 すなわち、まずは古王朝 ( 崇神王朝。呪教王朝とも ) と崇神・成務・仲哀三代である。崇神 天皇によって本州の西半部の統一が成し遂げられ、王朝が開幕したとする。ところが、仲哀天皇 が九州に対して仕掛けた征服戦争に失敗し、仲哀もその戦争によって倒れ、古王朝は崩壊してし まう。それとは裏腹に、仲哀を倒した九州国家によって西日本の統一が実現を見る。 この九州国家の王であった仁徳天皇によって中王朝 ( 仁徳王朝。あるいは征服王朝 ) が開幕する。 やまたい 古王朝を破り、これを崩壊させた九州国家とは、邪馬台国の後背に控えていた南九州の勢力、狗 奴国の後裔にほかならない。邪馬台国の女王、壱与の死後、狗奴国が九州を統一していたが、こ 、、うくり の国家の支配階層は北方系の森林騎馬狩猟民族 ( 高句麗・百済の支配者集団と同種の扶余系民族 ) 替であったという。仁徳天皇は九州から難波に遷り、強大な大和国家の統一事業を完成することに 交 朝なる。 と中王朝は仁徳の後、履中・反正・允恭・木梨軽皇太子・雄略・飯豊青皇女と続いたが、結局、 一内部崩壊によって瓦解してしまう。中王朝の崩壊後は、その王統とは血縁的なつながりをもたな おおとものおおむらじ 万い司祭者的王族の一人が大伴大連によって擁立される。この継体天皇のもとに成立を見たのが新 章王朝 ( 継体王朝。統一王朝ともいう ) であったというのである。 今日の目から見ると、『古事記』『日本書紀』と『魏志』倭人伝などの中国史料を自在に、かっ なにわ くだら

8. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

~ こどてあろう。そもそも、邪亜 ~ な子孫はかならす人民に嫌われ、順良な子孫は天下の大業を一 . 引き継ぐのにふさわしいどいう。これはわか家の私事にすぎないけれど、道理において隠す・ おおむらじ こどはゆるされない。大連たちの私有民はたくさんおり、国中に満ち満ちている。だから こそ後事を託すのだが、シラカノ ( 自髪 ) 皇太子は皇位継承の地位にあり、その仁孝は声高 ~ ・く聞こえている。その行ないや業績を見ても、わか志を引き継ぐのに申し分がない 以上の ~ ~ ようなわけて、皇太子が家臣の輔佐を得て天下を治めたならば、朕は何も思い残すこどなく・ めいもく 暝目てきるてあろう」 このように、雄略の最期は哀切を極めている。 ごうがん そこに、 かっての自信に満ちあふれた、傲岸な顔は見えない。彼は大勢の官僚たちの手を一人 ひとり握って別れを告げ、その間ずっとむせび泣いていたという。そして、オオトモノムロヤと ヤマトノアヤノッカの両名に対して遺詔が託され、その全文が記されている。それにしても、な ぜ、これだけ長文の遺詔がわざわざ掲載されているのであろうか。 実は、この遺詔、お手本があった。それは、『隋書』文帝紀の仁寿三 ( 六〇一一 l) 年七月条や同 四 ( 六〇四 ) 年七月条に見える文帝 ( 隋の高祖 ) の詔勅であり、雄略の遺詔はこれとほとんど同 198

9. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

井上光貞 「日本国家の起源」岩波書店、一九六〇年 同 「日本古代国家の研究』岩波書店、一九六五年 上田正昭ほか「エコール・ド・ロイヤル古代日本を考えるー古代天皇の謎』学生社、一九九三年 江上波夫 「騎馬民族国家ー日本古代史へのアプローチ』中央公論新社、一九六七年 加藤謙吉 「秦氏とその民ー渡来氏族の実像』白水社、一九九八年 神野志隆光「古事記ー天皇の世界の物語』日本放送出版協会、一九九五年 同 「古事記と日本書紀ー「天皇神話」の歴史」講談社、一九九九年 小林敏男 「古代王権と県・県主制の研究」吉川弘文館、一九九四年 斎川眞 「天皇がわかれば日本がわかる』筑摩書房、一九九九年 坂元義種 「倭の五王ー空白の五世紀」教育社、一九八一年 佐原真 「騎馬民族は来なかった』日本放送出版協会、一九九三年 篠川賢 「日本古代国造制の研究』吉川弘文館、一九九六年 鈴木靖民 「古代国家史研究の歩みー邪馬台国から大和政権まで』新人物往来社、一九八〇年 寺西貞弘 「古代天皇制史論ー皇位継承と天武朝の皇室」創元社、一九八八年 参考文献 ( 著者名五十音順 ) 248

10. 天皇誕生 : 日本書紀が描いた王朝交替

( 皇子がどのようにお情けを垂れようども、わらわの心は変わりません、お慕い申し上げ一 ているのは、シビ癶、まだけ : ・ワカササキは歌垣に参集した男女のなかて、嘲笑の的になっただけてあった。彼は逃げる・ ・ト从、つ その場を立ち去るしかなかった。 シビは、その父、ヘグリノマトリノオオオミ ( 平群真鳥大臣 ) どどもに、最近になって無 ~ ・礼な振る舞いが目立っていた。父子に対するワカサザキの憤りが、この夜、ついにはしけた。・ ・彼はオオトモノカナムラノオオムラジ ( 大伴金村大連 ) をよぶど、ただちに兵士を集め、ヘ . クリノマトリ 父子を討ち取るよう命じた。オオトモノカナムラの率いる兵士の手て、ますシ . ・ビが討ち取られた。カゲヒメもシビに殉した。そして、マトリのほうも屋形を包囲され、火・ ( を放たれ、その炎のなかてワカササキを呪詛しながら殺害された。 こうしてへグリ父子の一件が落着した後、ワカササキは靖れて天皇位を継承したのてあっ ~ ~ た。天皇は、カスガノイラツメ ( 春日娘子 ) を皇后に立てたが、彼女どのあいだになかなか ~ 王 . 子は恵まれなかった。そうこうしているうちに、天皇には奇行か目立つようになり、それか・ 国・しだいに人のロの端に上るようになってきた。 日く、天皇は、妊婦の腹のなかかどうなっているかが見たいどいい出し、ひどりの妊婦の・ 7 . 腹を割き、その胎児を凝視した。 じゅそ