言われた人は、心優しい人だったので訂正した。 「すみませんでした。「片足の短い人」と訂正します」 「な、なんだとー 糾弾者は、ますます烈火の如く怒る。 「『片足の短い人』とは何事だ。「短い』という字は「短所』の『短』だ。劣っているよ うじゃないかー 「それじゃ、何と言ったらいいのでしよう 「『片足の長い人』と言いなさい」 る あ で 大 限 無 性 能 可 たしかに、もう片方の足が長すぎるという見方も成り立ちはする。 の 現代なら、さしずめ「ご不自由ーと言い換えさせられるところだろうか。平安・鎌倉主 期、民衆の間には、このような笑話が交わされ、知識人は、この話に深い意義を感じと封 り、文書に収録したのである。一方、民主主義社会である現代、単細胞的正義漢たちの三 ス・ ( ラシイご意見に、民衆は、知識人は、どのような態度を表わしているのだろうか。 私は、この言葉狩り・言い換えに関しては、しつこく資料集めをしているが、前から、 ″そのこと〃を書かなければならなくなったら新聞はどう書くだろうと思っていたこと
この二つの誤認にこそ、現代の学問・文化・教育の行きづまりの根があるのだ。 啓蒙主義者と大衆パンサイ主義者 民主主義者たちの誤認の第一。知者・非知者という問題。これについて、民主主義者 たちは、一見正反対の二つの立場に分かれる。一つは、啓蒙主義者、もう一つは、大衆 ハンザイ主義者である。 まず、タイプとしては古典的で、しかし、今でもしばしば見られる民主主義者たち、 その名を啓蒙主義者という人たちについて考えてみよう。 この人たちは、知者を進んだ者、非知者を遅れた者と考え、非知者を知者に進歩させ なければならないと考えている。たしかに、知の進・遅ということは、あるにはある。 それは、掛け算だけしかできない人より割り算もできる人のほうが進んでいる、という ことだ。 だが、掛け算だけ↓割り算も、という進・遅のものさしが、どこまでも適用できるも のだろうか。掛け算の先には割り算だけではない微分、積分、さらには、群論、環論、 となると、それを知っている人 ( 数学者 ) のほうが、知らない人 ( 国語学者、生物学者、 漁師、豆腐屋、農協職員 ) より必ずしも進んでいるとは決して言いきれない。限定され
ユダヤ人は、実に三千年近く差別され続けてきた。そして、彼らは苦闘の果てに、イ スラエルを建設した。そこで、差別はなくなったのか。たしかに、ユダヤ人に対する差 別はなくなりはしたが、今度は、ユダヤ人のパレスチナ人に対する信じがたいほどの差 別が発生して現在に至っている。イスラエルは、明らかに封建主義とは無縁である。人 民の人民による人民のための国家である。差別への訣別を目指して建設されたのである。 イスラエルの問題が、許容されるべき民族主義的″行き過ぎ〃だと言うのなら、黒人 については耳 : つか。 アメリカでは、アフリカから大量の黒人を拉致してきて奴隷としていた。黒人奴隷制 が民主主義に反するということは、 リンカーンによる奴隷解放宣言以前にも、当然論議 されていた。そこで、一部の民主主義者・人道主義者たちは、自主的に黒人奴隷を解放 一八二二年、民主主義的アメリカ人と解放された黒人奴隷たちは、アフリカの穀物海 岸の一帯を買い取り、ここに解放黒人のための新国家を建設することになった。この新 国家は、人民が黒人であることを除けば、風俗や諸制度はアメリカそのものであるよう につくられた。いわば、自由と平等の国アメリカが、黒人・白人問題がないだけ、タテ
人たち。こういう人たちは、先の本当にすばらしい啓蒙主義者たちに共感できない、不 幸な、ねじけた、ひがんだ、卑屈な、くさい、民主心の持ち主である。彼らは、コンプ レックスから反アカデミズム・反権威主義を唱えながら内心では、アカデミズムや権威 への未練心を抱いている。 こういう人たちは、自分の知力が低くてやりこめられると、必ず「大衆に学べ」とロ 走るのである。微分、積分、群論、環論の話をしていてやりこめられた時に、大衆に学 べば群論がわかるというのだろうか。一字だけちがう。大衆に学ぶのではなく、大学に 学べ、と言うべきなのだ。この種の大衆・ハンザイ主義者は、明らかに、啓蒙民主主義と 表裏の関係にあるのである。 では、封建主義者は、知者・非知者について、どう考えるのか。これは、端的に、次 うんびよう の笑話が物語っている。出典は、江戸時代の「雲萍雑志』 ( 江戸後期の随筆、全四巻 ) 。 ゃなさわきえん 著者は、柳沢淇園 ( 但し、異説あり ) 、彼は、画や文に長じた儒者である。 ある三流知識人が文盲の人に啓蒙して言った。 かんにん 「ま、世の中で一番大事な心がけは、「椹忍』の二字だ。これだけ。これだけや」 すると、傾聴していた文盲の人は、いぶかしげに首をかしげて言った。 ーラ 0
ファシズム論議の見取り図 普通、学校やマスコミがロ走っているファシズムのイメージを構図化してみると、た いてい、次のようになっている。 田とにかく、ただただ悪いファシストという種類の人がいる。この人は、常日頃から、 戦争とか侵略とか少数民族抑圧とか管理社会化とか悪いことばかり考えている。何故 悪いことばかり考えているかというと、それは当然、その人がファシストだからであ る。その人は何故ファシストなのかというと、決まってるじゃないか、悪いことを考 れるから始末におえないのである。 そこで次にすこし、い力にしいかげんにファシズム論議がなされているのか見てみよ う。私が酒・タ・ハコを断って怒っているのがわかるから。 2 ファシズムはどう語られてきたか
ったのであるか。 であるけれども、体験としては、超特急にローレンツ短縮は観察されず、それは、光 なんてことは、誰一人考えていなかったはずである。つまり、 速が一番速いからだ あ で 応募民主主義者たちは、光は一番速いと学校や出版物で教えられたにすぎず、それは、 大 限 あくまでも抽象的概念にすぎないのだ。 無 それなのに、応募民主主義者たちにとって、光速は具体的実感として一番速いものと臨 可 なってしまっていたのである。 の 義 主 ここに、民主主義のカラクリがある。民衆の実感主義のカラクリがある。 建 潜在的封建主義少年であった私は、未だ明確に論理化し得ないながら、この構造を感 章 知していたのであった。 第 ″みんなの意見 民主主義では″みんなが発言する〃。そして″みんなの意見を聞く〃。 は同じように値打ちがあるれ。それは何故かというと、抽象的原理に依拠して意見を述 べたてる人は、ウソつきであり、そういう人は人間一人一人の価値を圧殺しようとする
チンクオレン これは、日本人が支那人を差別した言葉である。語源は「清国人」や「中国人」や チンクオラオ 「清国老」などが考えられる。支那人に多い「チャン ( 張 ) 」という姓からっくられた言 こういう差別用語は、日本人が支那人を差別した場合にかぎらない。 葉かもしれない。 英米人は支那人を差別して「チンクーと言うし、日本人を「ジャップ」という。こうい うことは、どんな民族間にもあることである。 だからといって、むろん、使ってよい言葉というわけではない。初めから相手を侮辱 る しようという場合ならともかく、民主主義者であろうと、封建主義者であろうと、対等で 限 の民族関係を望むかぎり、使うべきではない。 無 次に、「中共」という言葉。これは、「中国共産党」の略である。「日本共産党」を物 可 「日共」と言うのと同じである。これは、言葉として熟しているから、私も「中共」と の いう。「中ソ論争」という語も同じである。この「中共」という言葉が、かって政治主 的・意図的に使われたことがあった。それは、現在の中華人民共和国が国際的に未承認封 章 であった時に、あれは中国共産党 ( 中共 ) が勝手に臨時に一国を名のっているのだ、と 第 いう含みで使われたのである。 現在、日本は、自民党政権が支配しているが、親自民であろうと反自民であろうと、 「自民国ーという呼称が正当だとは思わない。同じように、「中共」という語は、あくま チュンクオレン
ていることを思い浮かべて死地に赴くわけでもない。そういった具体的な″地上の実 利〃一切をのみ込んだ革命の大義が、一人一人の頭上に″天の義〃としてあるのだ。 一方、ソ連国民のほうはどうか。彼らは、何のために「禁欲」させられているのか。 ソ連国民は、未来に来るであろう共産主義的楽園に住む人々の利益のために禁欲的でな ければならないのだとされる。一種の貯金である。いっ満期になるかもしれない現物後 渡しのローンである。男女道徳に関しても、未来の共産主義的理想社会に住む男女は、 こんなに理想的な男女道徳の中で生きている、だから、それを手本にして、現在も、そ れになるべく近い男女道徳を採らなければならないのだ、とされる。 ここでは、″天・人〃という上下の関係が、″未来・現在〃という前後の関係になって これは、きわめて下品なすりかえである。 馬は、目の前にぶらさげられた = ンジンによって走る。人間だって、腹がすいていれ ば、目の前の。 ( ンのために走るかもしれない。それは、同じようにイキモノであるから だ。しかし、。 ( ンのために走るからといって、それを″パン・人。という上下関係に置 き換えたとすれば、そんな″哲学〃で人を感動させることはできない。 そこで、指導者たちは、″天〃に代わり得るようなものを探すわけだが、″ 天〃なんて
「あれ、おかしいですな。「かんにん』なら、ほら ( と、指を折りながら ) 、か・ん・ に・ん、で四字じやございませんか。何か思いちがいをなさっておられますまいか」 「ははは、これだから愚昧な人は困る。堪忍とは、「椹え忍ぶ」と書いて二字だ」 「ええつ、また一字ふえましたな。た・え・し・の・ぶ、ですと、五字になりますが」 ええい、勝手にするがい 「ば、ばかな奴だ。こんな愚かな文盲は、本当に救いがたい。 あ で 怒った三流知識人が立ち去ろうとすると、文盲の人は微笑みながら言った。 大 「何とでもおっしやるがよろしかろう。私は『かんにん』の四字を知っておりますから、鰍 どんなに罵られても腹は立ちません」 能 の この種の三流知識人は、自分が恵まれている時は啓蒙主義者として現われ、自分が不主 遇な時は大衆・ ( ンザイ主義者として現われるのだ。それを小気味よく嗤った柳沢淇園は、封 章 もちろん、断固たる封建主義者であった。 第 文化についてのニつの物語 民主主義者たちの誤った共通認識の第二。それは、言語や文化の持つ、すばらしさと ののし
一人は、酒売りである。そこで、彼は、自分の酒を相手にふるまい、二人は、心地よ く酔った。 やがて、二人は、つきぬ話も打ち切り、各々の宿へ帰ろうということになった。しか し、もう一人の物売りには、心にかかることがある。彼は、かわらけ ( 素焼きの皿 ) を 売っているのだが、その日はまだ一枚も売れていない。酒売りの男がご馳走をしてくれ た返礼に何かしたくても金がない。 「そんなこたあ、気にすることねえだ。まさか、かわらけなんそおらにくれる気じゃあで んめえ。おらいらねえそ。んなもの重いばっかりだからな、はつはつは」 無 性 「はつはつは、そうだな。じゃ、こうすべ。おめえも売り物の酒をふるまって十文ばか 能 可 り損をしただから、な、おらも : : : 」 の 義 主 かわらけ売りの男は、かわらけを十枚ばかり取ると、それを地に投げつけて割った。 建 封 章 この話は、江戸時代の笑話集に収録されているのだが、たぶん、元は笑話ではなかっ 第 たと思われる。もっと古くから民間に伝わっているこの話の雰囲気は、同じ「笑い」で も「わらい」ではなく、「えみ」、つまり、「ほほえましい、話の感じなのである。 これは何を意味しているのか。 207 ・・