で、本当に絵に描いてあるのだ。 くどく言うまでもなく、純平の日本人なるものは、この程度の日本人なのである。そ して、このガイジン妻とハ ーフのセーラー服女子高校生は、純平の亭主関白論や″豪快 な〃泥酔ぶりに、「オー、サムライ」と叫ぶのだ。これは、もちろん、作者の声である。 ここがまた、民主主義なのである。 純平は、漁師である。どうしてサムライなのであろうか。サムライは、理想型として したいふ は、単なる戦闘者ではない。天下国家を論じる士大夫である。だから、サムライが日本 人論を語ることはあるだろうし、語ったことについて責任も負わされるであろう。純平 おすみつ は、いっから、日本人論を、しかも、ガイジンを登場させて、その御墨付きをいただく ような日本人論を、えらそうに語ることが許されるようになったのか。明治から現代に 至る民主主義の潮流の中でのことであゑたかが漁師が、ガイジン劣等感丸出しの無内 容な論議を、日本人論として語ることは、民主主義だからこそ許されているのである。 この時、真の封建主義者なら、こう言うだろう。 あつばれ 純平が自ら天命として漁師を選び、立派な漁師たらんとしたことは天晴である。だっ たら、徹頭徹尾、まことの漁師たることに努めるべきである。何故、三流の民俗学者た らんとしたり、三流の愛国イデオローグたらんとするのか。魚を釣れ、魚について語れ。
ところが、純平は「亭主関白は日本人の伝統的美風」であり、それゆえに、つまり、 純平が日本人であり、だから、その美風にしたがうべきであり、それで亭主関白である のだと言う。 いったいどのようなものなのか。 では、純平の言う「日本人」とやらは、 笑止千万なことに、純平やその仲間たちは、金髪女の女陰が大好きなのである。金髪 女の女陰を大写しにしたポルノグラフィによだれを流して見入っているのだ。ま、それ はよろしい。男が女陰が好きで、黄色人種の女陰のほかに、白色人種の女陰も黒色人種 の女陰も好きであっても、さしつかえない。 見 ところで、物語が進展するうちに、どういうわけだか、突然、″教会〃が登場してく るのである。教会というのはキリスト教の教会である。日本人だの伝統だのという文脈義 から見れば、教会というなら、私が思い浮かべるのは、必ず天理教の教会だ。天理教教皿 会のタイコの音が、ドーンドーンと南国土佐の港町の昼下がりに鳴り響く場面のはずな 章 のだが、ここでは、キリスト教の教会なのである。 第 いかにも善良そうな感じの牧師がいて、その妻というのがガイジンな この教会には、 ーフの少女で、美しい女子高校生であり、セーラ のだ。そして、牧師夫妻の子供は、ハ ー服を着ているのである。まるで、絵に描いたようなガイジン観なのだが、マンガなの
たりする場面なのである。これが民主主義なのである。いやなのである。 純平は漁師である。自他ともに、どう見たって漁師である。しかし、ここで、純平は 民俗学者なのである。亭主関白とは、と問いかけ、日本人論をいい、美意識について論 じる。これは師とは思えない。明らかに民俗学者、それも三流、四流の民俗学者であ る。 ここであの「みんなの意見を聞きましよう」という、いやーな声が私の脳裏に幻聴の ように響くのである。 当然ながら、衆知を集め、異見に寛容であることは、前にも述べたように、よき封建 主義者たる者の心得だ。ところが「みんなの意見を聞きましよう」というキショク悪い 声は、どうせあらかじめ決まっている俗論を通す時の猫なで声なのである。 純平が漁師として、魚の採り方について意見を述べるとすれば、それこそ本当の「み んなの意見」であろう。だが、少年師に日本人論を語っていただくことが、本当の 「みんなの意見」なのだろうか。もちろん、純平が亭主関白で人生をやっていきたいと 思うのは、彼の勝手である。それは、私が、ハマチよりスズキのほうが好きだというの と、さしてちがわない。漁師であろうとなかろうと、いつの時代であろうと、亭主関白 が好きで、それを実行した人はいるのだ。 のうり
- 古風な〃人生観・生活感覚を持っている。彼の恋人が ど病的なまでに好きで、また、″ やらよ ・ - 彼女は、わりあい平均的な女の子感覚の持ち主で、たとえば、必 一歳年長の八千代た。 / ずしも漁業がそんなに好きなわけでもなく、また、特に深い意味もないままに一応は高 校へ通ったりしている。 話は、この二人の少年少女の恋愛を中心にして発展するのだが、純平の″古風〃な言 動が、読者の″今風〃の感覚にほどよくひっかかるようになっている。そこが人気の的 ということで怒る人もいる。 なのだが、中には、″古風〃はいけない、″今風〃がしし そこで、新聞までまきこんで論争になったのだ。 せ 見 発 論争は、三流の評論家たちが「純平は封建的であってけしからん」「否、男の本音だ というような愚劣な意見を述べることに終始し、何の本質的な論議義 からしかたがないー 建 もなく、ただ「土佐の一本釣り』に話題を集める結果になっただけだった。 さて、私はと言えば、この作品が非常にいやなのである。別にウロコがとれたから漁 師の話がいやだというわけではない。私は、魚は好きである。この作品に貫かれている章 第 フンイキがいやなのである。このフンイキとは何か、と心にずっとひっかかっていたの たが、この作品には、民主主義の一番イヤラシイ面が強く出ているのである。 それはどんな場面かというと、純平が「亭主関白は日本人の伝統的美風だ」とロ走っ いまふう
何かの拍子に、ずっと心にひっかかっていたことが、急に噴出してきたひらめきによ って理解できてしまうことがある。アルキメデスは、入浴中にアルキメデスの原理がひ らめき、「ユーリカ ( 発見 ) ! [ と叫びながら人目もはばからず裸で走り出したという。 私も、「民」および「主ーのコンタクト・ウロコがとれると、両眼はきらめき、頭脳 はさえわたり、そして、封建主義を見いだすに至ったのだ。 「土佐の一本釣り」は民主主義である 私の評論対象とする分野の一つにマンガがある。マンガをめぐっての論議はよく起き るのだが、これがいつもほとんどジャーナリズムの好ネタふうの無内容な論議なのであ る。 かなり 「ビッグコミック」誌に連載の『土佐の一本釣り』 ( 青柳裕介 ) という作品は、 人気があるようで、レコード化されたり映画化されたりしているのだが、これが封建的 なのではないかと、ひと頃、新聞紙上で論議された。 話の都合上、このマンガのストーリ ーを手短かに紹介しておこう。 四国土佐の漁港が物語の舞台である。ここに中学を卒業して、カツォ釣り船に乗り込 んだ純平という少年がいる。純平少年は、漁師という職業がどういうわけだか、ほとん じゅんべい
そして、真の封建主義者は、純平からも、魚に関する衆知を集め、異見を聞くであろ だが、一主婦の立場から、一漁師の立場から、日本人論だの伝統だの美風だの、「み んなの意見」など聞いたところで、何の役にも立ちはしないのである。 以上のように考えた時、「土佐の一本釣り』が何故いやなのか、すっかり説明がつく ことに、私は気がついたのだ。 もちろん、私は、このマンガを弾圧しようという気も起きなかったのであるが、これ も、寛容ということで説明がつくのである。私のほうが理論水準が高いので、おのずとり 見 寛容の美徳もにじみ出ちゃったわけである。 発 を 義 主 東洋プームは、儒教を忘れている 建 封 こうして、私は、民主主義者によって陰画としてしか扱われなかった封建主義が、ポ據 章 ジティ・フな主張のある主義として、有効な現状批評をなしうる可能性を発見したのだ。 第 そこで、ポジティ・フな封建主義の核となるものは何だろうと考えていたのだが、やが て、またもや大発見をしてしまったのである。 この二、三十年ほど、欧米でも、西洋的・近代的な考えが限界に来ているという思潮
まるで逆なのである。 この論文は、まず次のように始まる。 「世の中に、大切にされ愛されるべきものは多いが、その中の第一は処女の純潔である。 とうと 金銀宝石が自然界で最も貴いものだとするなら、処女の純潔は、人間界の金銀宝石であ る」 ( 原文は文語体 ) こう説き起こした北村透谷は、続いて、 る 「ところが日本の文学ときたら、どうだ。悲しいことに、これまでの文学は、処女の純で 潔を尊重することを知らない。江戸時代の小説のひどさは論外として、いにしえの和歌 性 でも、処女の純潔を尊重していない」 能 可 と、封建時代を批判し、次のように断定する。 の みなもとむせんむお 義 主 「それ、高尚なる恋愛は、その源を無染無汚の純潔に置くなり」 建 この透谷の考えは、明治の反封建的・開明的な青年たちの中のごく一部の傾向だった 章 のかと言えば、これも、そうではない。透谷研究家によれば、ここに引用した論文冒頭 第 部分は、当時の開明的な青年たちの間で非常に有名なものであり、暗記して愛唱するも のがたくさんいたほどだったという。 明らかに、マクにこだわりだしたのは、近代的・民主的な、しかも青年たちだったの ー 0 引・
る。 だが、学ぶべき点が多いことを認めた上でも、彼らが、さきほどのウイスキーと水の 図を書くとすれば、ファシズムがスターリニズムの隣に移行されるというだけのことな のである。おすすめメニ、ーは、あいかわらず中ほどの五品。ここでも、封建主義は論 外で、人外魔境か地底獣国なのである。 結局のところ、ファシストとは悪い奴、封建主義者とは輪をかけてもっと悪い奴、と翻 いうような単なる悪口になっているのが、封建主義に対する現状なのだ。 拠 根 たとえば、選挙の時。何の内容の検討もなく、ファシズムと民主主義が同じものだな どとは夢にも思わないかのように、ファシストというレッテルだけが飛び交う。 かって、何年か前のこと。″革新自治体〃があたかも日本の希望の星であるかのよう純 に思われていた頃のこと。それが、たかだか高度成長経済でふくれあがった豊かさの・フ ン取り合戦にすぎないことに気がっかれていなかった時のこと。公害と同じように、や民 章 がてはツケがまわってくることに無自覚な風潮が強かった頃のこと。東京都知事選は、 第 現職の美濃部亮吉と対立する石原慎太郎との一騎討ちになった。この時、美濃部は、石 原をファシストと呼んだのである。対する石原は、自分はファシストではない、そうい うのなら、ファシズム論争をやろうではないかと、提案した。
( イヤイヤではなく ) マゴコロから、国民の平等を望みもし、近代国民教育を与えもし げんさい たのだ。むろん、ある局面ごとでは、平等も教育も減殺されることがある。緩急自在に、 平等や教育を操ることによって、近代国家は生ぎ続ける。しかし、長期的に見れば、平 等も教育も、まちがいなく近代国家の本心である。 これに対して、″民衆の怒りが爆発〃したのが、先ほどの反平等一揆・反学校一揆な のだ。これは、進歩派であろうと保守派であろうと、近代主義者にとっては、信じがた いような蒙昧であり、忘れ去りたくてしかたがない不可解事なのだ。 しかし、民衆や国民に準拠して物事を考えようとする気など毛頭ない我ら封建主義者 は、ただ″近代が始まる際の地獄〃を凝視するのみであゑ近代国家を高く評価しても なんにもならない。一方、民衆の怒りを高く評価しても、これもなんにもならない。そ れは、片や管理社会を、片やファシズム・スターリニズム社会を招くだけである。 近代そのものを、民主主義そのものを、真の封建主義者は、天の理から、人の性から、 強く弾劾する。そして、また、そういった民主主義・近代主義の成立を許してしまった 腑抜けの堕落した封建主義者を心から恥ずかしく思う。そういった原点から、明治維新 を、二十世紀をふりかえらなければならないところまで、歴史は来ているのだ。 私は、さまざまな矛盾を露呈させている民主主義に大きな疑問を感じてきた。民主主 226
も敗戦直後の一時期を除けば、この類の本は出版され続けていた。その中で新しい動き が出てきたのが一九八〇年代である。山本七平や竹村健一など、ビジネスマンに人気の ある評論家たちが『論語』入門書を書き、ビジネス雑誌にも『論語』の特集を組むもの が出てきた。これには、『論語』に接していない戦後世代のビジネスマンが社会の中堅 に進出してきたこと、日本の国際的地位の高まりに応じてナショナルな・ハックポーンを 求める気持ちが個々のビジネスマンに芽生えたこと、などが挙げられる。このあたりの て 事情とこれら俗流「論語』入門書への批判は、『読書家の新技術』 ( 朝日文庫 ) に書いた っ ので、詳しくは再論しない。 その後、一九八九年に井上靖『孔子』が出版されてベストセラーになり、支那語をも 含む数箇国語に翻訳されて外国にも紹介されるに至った。ちょうど前節で述べた儒教文 化圏経済発展論が目につくようになっていた時期であり、相乗効果が生じたのである。 の 近 しかし、この『孔子』は、戦前までの教学儒教の伝統が途切れた現代に咲いた徒花のよ 最 うな代物であり、近時の儒教研究の成果が全く取り入れられていないはおろか、高校漢論 文程度の学力さえ疑わせる箇所もある。 いきどお じゅっじ 一例を挙げる。「論語』述而篇に、孔子の人となりを表わす言葉として「憤りを発し ては食を忘るーとある。これを井上靖は、人の道に外れたことに対する怒りで食事を忘 あだばな