この二つの誤認にこそ、現代の学問・文化・教育の行きづまりの根があるのだ。 啓蒙主義者と大衆パンサイ主義者 民主主義者たちの誤認の第一。知者・非知者という問題。これについて、民主主義者 たちは、一見正反対の二つの立場に分かれる。一つは、啓蒙主義者、もう一つは、大衆 ハンザイ主義者である。 まず、タイプとしては古典的で、しかし、今でもしばしば見られる民主主義者たち、 その名を啓蒙主義者という人たちについて考えてみよう。 この人たちは、知者を進んだ者、非知者を遅れた者と考え、非知者を知者に進歩させ なければならないと考えている。たしかに、知の進・遅ということは、あるにはある。 それは、掛け算だけしかできない人より割り算もできる人のほうが進んでいる、という ことだ。 だが、掛け算だけ↓割り算も、という進・遅のものさしが、どこまでも適用できるも のだろうか。掛け算の先には割り算だけではない微分、積分、さらには、群論、環論、 となると、それを知っている人 ( 数学者 ) のほうが、知らない人 ( 国語学者、生物学者、 漁師、豆腐屋、農協職員 ) より必ずしも進んでいるとは決して言いきれない。限定され
なく、通俗的正義漢を自分たちの利益代表・代弁者と認めなければならないという屈辱 が、私には、想定しただけでとても耐えがたいのだ。 つまり、ここで、身障者たちは二重に抑圧されている。まず、健常者中心の社会で、 具体的に不便であること。次に、にこにこ根性主義者や類型的正義漢を自分たちの代表 と認める引き換えにしか、福祉を得ることができないということ。 もちろん、心から支持できる代表を選びうることなど不可能だろう。それは、身障者 にかぎらず、あらゆる弱者の場合について言える。労働者、僻地住民、少数民族、いずで 限 れの場合も、自分たちの発言を有効にするための代表を立てざるをえない。そして、必 無 性 ずと言っていいほど不満足な代表者たらざるをえない。 能 可 しかし、弱者の代表者が、強者の通俗道徳と密通して私を抑圧してきたなら、私はど の 義 主 のように耐えたらいいのか。 建 私は、幸運にも、一生涯身障者にならないかもしれない。しかし、まちがいなく老人封 にはなる。しかも、現在のところ、養老院 ( 何で「老人ホーム』などと和洋折衷造語を三 使わなければならないのだ ) へ行く可能性は濃厚である。ここでも、私は、老人という 弱者たる立場には、頑張って耐えたい。 しかし、どこかの高校生が指人形を持って巡回して来たり、伝統芸能保存家という名 20 ー・
身障者の方、歓迎ー 身障者割引有。身障者手帳呈示のこと。 と、書かれていたのだ。これには、まいった。私の思考より、現実のほうがずいぶん ススんでいる。まず第一に、ストリツ。フ劇場興行主のヤサシサとガメッサの融合がすば らしい。そして、第二に、そのヤサシサを裏切り、そのガメッサの上を行く客がいると いうことがすばらし、 学割なら学生証の呈示がなければインチキされるかもしれないが、身障者は、公的手 続きの場合ならともかく、当人を見れば目や足が悪いことぐらいわかるはずだ。それな のに手帳を呈示させるというのは、きっと、そうでもさせないと、身障者のフリをして 安く入場する不心得者がいるからであろう。 こういう時こそ、心おきなく″したたかな大衆の生きざま〃という民主主義者の好む じようとうく 陳腐な常套句を使ってみたい。 片足は長いのか短いのか 一方で、近代的制度の中で茶番を演しる大衆の・フザマというものもある。
ス面は別にして、はりつめた生産のありようを反映しているのである。日本は、戦後、 膨大な給与生活者を生み出した。そうすれば、必然的に、生産点と生活点の分離が生じ、 主婦は、ひたすら緊張感を喪失していく 亭主は、生産点での苦痛を主婦に伝えにくく、 ということになったのだ。 だが、このマルクスの理論をマルクス主義者と称する民主主義者たちは、今私がやっ というのは、彼らは、前近代的社会↓都市労働者が たように活用することはできない。 増大する資本主義社会↓都市労働者の団結↓社会主義革命↓理想的究極社会、という流で れで歴史を見ているからである。これによれば、給与生活者が増大することに反対する鰍 ことはできないのだから。私のように、封建主義に目覚めた者のみが、マルクスの遺産 可 を最も有効に活用できるのである。 の 義 主 建 武士の妻は何故りりしいのか 封 章 次に、もう一期さかの・ほって、武士の妻から初期主婦へという過程はどうか。これは 第 もう、封建主義理論でのみ説明可能なのである。武士の妻は、初期主婦・全盛期醜悪主 婦が望んだように、労働作業にわずらわされることはなかった。武士は、いわば、お城 Ⅱ会社へ通勤する給与生活者だったからである。武士の労働 ( というのもヘンだが、現
封建主義による究極的理想社会の話をする前に、では、民主主義者たちは、その究極 社会をどう考えているのだろうか。 民主主義者の中には、現実主義ということをユメのないことだとはきちがえている人 がいるが、こうしたユメのない民主主義者たちは、現在も議会主義だし、将来もずっと 議会主義だというような、聞くだけソンしたような答えをする。議会で種々な意見を出 しあうぐらいのことは、封建主義か民主主義かというほどの問題ではない。そんなもの が理想形態とは言えない。 一方、ユメのある民主主義者という人たちもいる。こういう人たちは、現在の民主主 義を維持するシステムは、それはそれとして、理想社会のヴィジョンも持っている。そ れはどんなものかというと、ほとんどが「無政府共産」なのである。 マルクスが・ハ力にした空想的社会主義者も最終的に、というより近接未来的に、無政 府共産主義社会を目標としていた。また、無政府主義者たちも、当然ながら、これであ る。十八世紀の啓蒙的民主主義者たちの多くも、たぶん、これだろうと思われる。 マルクスとエンゲルスはといえば、近接未来の部分は、非常に緻密に論理を組み立て、 それをレーニンが受け継ぐのだが、究極形態になると、やはり抽象的に無政府共産とな り、有名な「人は、能力に応じて働き、欲望に応じて取る」ような状態になる、として
しいとしょ れないのである。「期待される人間像」が強制的に設定されるのは、まあ、 う。しかし、「期待されざる人間像」まで強制的に設定されてしまったら、この抑圧に 対して、どう抵抗したらいいのか。 すでに述べたように、封建主義は究極的に「天下太平」「鼓腹撃壌ーの理想社会を目 指している。そこではもちろん、障害者は持てる力を発揮できる。のみならず、よしん ば持てる力なんてまったくない障害者だろうと、十分に保護される。 あ で な・せならば、封建主義は、西欧近代的な資本主義・社会主義の意味での効率主義とは 大 限 無縁だからだ。かくされた能力がある人はそれに応じて報われる、というなら、能力が 無 まったくない人は報われなくていいのか。封建主義者は、そう考えない。報われるべき臨 可 人は、能力なんていうものの後押しを要せず、ただ自律的に報われるべきなのだ。 の また、封建主義は、差別をも論理に組み込む。人間の「期待されざる面 [ をも、多様主 に視野に入れる。な・せならば、封建主義者は、人間を″羊たち〃と見るような画一的な封 章 とい、つ 思考方法は採らないからだ。民主主義者のような″見えるところしか見えない〃 第 近代合理主義の思考方法は採らないからだ。もちろん、封建主義者だって、民主主義者 見えないところ〃もある 以上に〃見えないところまで見える〃わけではない。ただ、″ ことを知っているのである。 20 引・
うんぬん かくされた前近代・かくさ たかがクソガキの「かくされた創造性」を云々する前に、 れた非西欧・かくされた封建主義について、何一つ知らない傲慢と怠惰をこそ恥じるが 封建主義者は、民主主義者のいう多様性を信じない。それは、全世界史・全地球的規 模で見れば、ごくごく狭い民主ランドの中での多様性にすぎない。それは、多様性とい う名の均一化である。 あ で 封建主義者は、また、民主主義者のいう「体全体で表現ーや実感なんてものも信じな 大 。近代国民教育を疑うことを知らぬかぎり、近代教養の限界を知らぬかぎり、実感な 無 性 どというものは、常に国家原理・市民原理の手の内にあるからだ。 能 可 の 封建主義者の教育論は、きわめて明快である。 学ぶべき者が学ぶべきことを学ぶべきように学ぶ。それが″天の命〃にしたがうこと主 だからであるー・ーこうだ。 章 そして、怠けたくなった時は、しかたがないから怠ける。それは、″人の性 ( 性質 ) 〃 第 だから、しかたがないのである。この場合、決して開きなおってはならない。″命 ほうに、あるいは、″性〃のほうに、開きなおり、一義的に思考するのは民主心の発想 なのだ。
た分野での進歩が全学問・全人間分野での進歩とはかぎらないからである。 同じことは、知の体系のちがいの問題についても言える。文明のちがいが進歩のちが いなのか、ということだ。 映画「猿の惑星』の中で、オランウータンが人間の下等さを問うために次のよう に言う。「サルの憲法十八条に何が書いてあるか言ってみろ。なに ? 知らない ? 見 ろ、何て下等な奴だ」。そのくせ、サルたちは "FIy" ということを知らず、人間が紙 る ぎようてん あ で で飛行機を折って、すいと″ FIy 〃させると仰天するのである。 大 しかし、本当にすばらしい啓蒙主義者という人もいる。たとえば、フランスの百科全 書派の人たちがそうだ。彼らは民主主義者ではあるけれども、封建主義者である私をも 共感させる部分を持っている。それは何か。彼らの、知ることへの情熱・教えることへ の 義 主 の情熱、そして、啓蒙主義を選びとった決断力である。 建 だが、現代の啓蒙主義者たちに、そういったものがあるか。すでにできあがった知の封 章 体系の力を背景に、虎の威を借る狐のようにふるまっているだけなのだ。ここで、また 第 サービス。「虎の威を借る狐ーの出典、イソップ ( ありそうだ ) じゃないそ。「戦国策』 である。 第二に、今、しばしば見られる民主主義者たち、その名を大衆・ハンザイ主義者と言う
という理念をいくらひねくりまわしても、節なんていう、時には・ハカ・ハ力しくもある理 念は決して出てこない。それにもかかわらず、崔益鉉の言動は激しく人の心を打つので ある。それでもなお、節を無視しようとする民主主義者は、いずれ、ニセモノの節を説 やから く輩に足をすくわれるか、あるいは、自らが節の代用品の通俗道徳を口走る輩になり下 がるのである。 呪われよ、民主主義者。栄光あれ、封建主義者 ( 見習い ) 。進撃せよ、封建主義者 あ ( 検定三級 ) 。 で 大 無 民主主義は「無政府社会」をユメ見ている 能 可 崔益鉉を高く評価することに対して、こういう反論が予想される。 の 義 封建主義者による反侵略闘争などというものは、あくまでも、侵略に反対するという 主 消極的なものたから成り立ったのであり、つまりは、やられたからやりかえしたという封 章 反射的なものでしかなく積極的な政治理念や究極的な理想社会形態などはありはしない 第 ・ころ、つ、 AJO 実に、これは、反封建主義者たちが流し続けてきたデマなのである。封建主義は、現 いんじゅんこそく 状維持的、現実追認的、因循姑息な無気力思想た、というわけなのだ。
そこからは、ガリ勉優等生のみを認めるという考えか、つつばり暴走族こそ″青春の 生きざま〃だという考えか、どちらにしろ、病んだ考えしか出てこないのである。 民主教育から「嘖きこぼれた」少年 私は、一九七九年一月に起きた痛ましい事件を忘れることができない。 大衆を憎悪する少年が、まず祖母を殺し、次に大衆を無差別に射殺する計画だったが、 これは果たさず、投身自殺した事件である。私は、この事件そのものには、ほんのすこ ししか共感しない。 この程度の思考・情念は、青年期の者が時に抱くものだし、しかも、 オトナになった頃には、雲散霧消してしまうものだからである。私が、この事件を決し て忘れまいと心に決めたのは、事件後の、教育者・出版人・評論家たちの卑劣な扱いの ゆえである。 たとえば、後に起きた金属・ハット両親殺人事件は、まったく正当な扱いを受けている。 犯人の青年を弱虫だと非難する者、両親の教育観にこそ責任があったのだとして青年を 弁護する者、教育制度のひずみこそ問われるべきだとする者、そういった立場を異にす るさまざまな人々の誰もが、ことの本質から目をそらそうとはしていない。犯人の青年 ・ : たとえ結果としてではあれ、提起した問題を、まっとうに受けとめようとしている。