事態が続出し、にわか勉強をしたことも再三であった。ともかくも、そうこうしながら、 原稿用紙たかだか三百枚を一年かけて脱稿した。 だが、その後、出版社側と販売方針をめぐって意見の対立が生じた。すなわち、書名 と装訂をどうするかである。出版社側は、同社がそれまでやってぎた路線で売りたがっ た。それは、旧来の読書人の意表をついた″面白本路線〃とでも言うべきものであった。 そのこと自体には、私も異論はなかった。問題なのは、その意表のつき方と面白さの内 容であった。私は、自分の思想そのものが十分に良識や通念の意表をついたものであり、 面白さについても極力配慮したつもりだった。だからこそ、書名や装訂は内容をまっと うに前面に押し出した正攻法で行きたい、 と主張した。出版社の提示した路線は、譬喩 的に言えば、お見合いの成算が十分にある娘に、わざわざ髪を真赤に染めさせ、厚化粧 をぬりたくらせ、スパンコールのついたラメ入りのドレスを着させて、相手の男性に引 き合わせるようなものだと、私には思えたからである。 私は、書名は次の二つを提案し、このうちのどちらかにしたいと言った。 「封建主義宣言』 「封建主義者かく語りき』 これに対して、出版社側は、代案として奇を衒った書名を次々に提起してきた。私は、 てら
「礼」や「浪費」より、もっと近代的思考に疎まれていた概念、それは「分だ。「分 をわきまえる」「分際を知れ」、そして「身分の「分」だ。 民俗学者谷川健一の対談集「民俗学の遠近法』で、谷川と文学者川村二郎とは、分を 知る・身のほどを知るということの抑圧の面を排し、プラスの面を引き出せないかと語 っている。つまり分を知ることによって、独創ぶった一人よがりの″個性〃をあがめる より、もっとその人本来の能力が出てくるのではないか、というのだ。で、具体的にど うするのかということになると、ここでも残念ながら処方箋は出ていない。 それは、この対談でもあらかじめ断わられているように、分を知ることの抑圧の面が、 あまりにも強かったからである。分の社会的・制度的固定化が世襲的身分を生じさせ、 それこそ、何の天分もない・ ( 力が親の身分を受け継ぐという、分際をわきまえぬことが 往々にしてあったからである。 だが、封建主義は、決して世襲制を主張しない。帝位のような、その極限にあるよう ぜんじよう に思われているものさえ、第一原則は、天分による継承である。これを「禅譲」という。 ぎよう 封建主義の理想社会、妓腹撃壌の世の帝・堯は、帝位を自分の子に譲らず、有徳の人 しゅん 物・舜に譲った。舜帝もまた、帝位を子に譲らず、それにふさわしい禹に譲ったのであ る。この三帝の時代を儒者たちが聖なる時代としたのは当然のことである。 ぶん 2 ー 0
てからは、ソ連からも切られることになった。こういった事態そのものが、現代思想の 行きづまりの一つ、スターリ = ズムの象徴なのだが、それはさておき、このゲリラたち の生活実態は、報道されたところによれば、まるで修道者たちのように禁欲的であると 食料は、肉と・ ( ターがないどころではなく、衣類はといえば、夜寝るのに一人一枚の 毛布すら十分ではない。それどころか、恋すら許されない。さすがに最近では、恋愛ぐ らい規律を乱さなければいいではないかということになったらしいが、それでも、恋愛 どころではないといった気持が、ゲリラたち各自に強、。 それで、このゲリラたちに、いやでしようなあという同情の念がわくかといえば、決 してそうではない。自分が今すぐ彼らと同じようにやれるかということはまったく別と して、二十歳やそこらで、うまいものを食わず、暖かい衣服も身につけず、恋すら知ら おもむ ずに死地に赴く青年たちの姿は、不思議にも激しい感動をよび起こすのである。 これはどうしたことだろうか。 同じ社会主義、同じような物資の欠乏、同じような " お固い倫理。、それでありなが ら、片や嫌悪、片や強い感動。 これは、ソ連や中国では特権官僚が発生しているからだという理由からは、完全には
説明しきれない。それもあるにはある。しかし、特権といったって、国全体の生活水準 が低いのだからしれたものだし、その生活水準全体は、たしかに革命以前よりはよくな ほうがんびいき り、一般国民への分配もよくなっているのであゑ判官贔屓という面もあるが、やはり、 ソ連だって、どれほど多くの国と海上・陸上で国境を接 それだけでは説明しきれない。 した中で革命をなしとげなければならないかを考えれば、十分に同情に値する″判官〃 だといえるのである。 この二つの差は、こんなことではかたづけられないのだ。ゲリラたちとソ連・中国の 国民たちに課せられている " 何故に自分を律しなければならないのか。という " 哲学。 が、似ているようですこしちがうからなのだ。 天の義と断ち物、パンと肉 ゲリラたちは、″天の義〃によって″断ち物〃をしているのである。 ゲリラたちにとっての″天の義〃というのは革命の大義のことだ。この大義の具体的 な実現目標自体は、豊かな食料とか外国勢力の侵略・搾取を排除するとか、きわめて " 地上的なこと。である。しかし、彼らは、たとえば十年後の一キログラムの肉のため に命をかけているのでもなければ、二十年後に華やかな国産乗用車が街中を走りまわっ ・・・序封建主義について一体何を知っているというのか
は、中学か高校の社会科の副読本によくある『明るい民主主義』といったたぐいの認識 しかないのである。 一方で、もうすこし知的な場所では、トックヴィルや ( イエクの再評価が言われ、欧 米では「アナルコ・キャビタリズム ( 無政府資本主義 ) 」という新概念の提起まで始ま っている。しかし、いかんせん、専門家たちは自分の見識を広く有効に伝えることをせ ず、また、しばしば発言が慎重にすぎる。 こうした状況を考えれば、十年前に世に問うた本書は、粗暴とも一言える知的挑発性に おいて、今なお十分な有効性を持っていると信ずる。未熟さや不備が気にならないでは ないが、旧版の原形をなるべくそのまま生かして改題増補版とするのは、そのような理 由からである。 旧版との異同に関しては次の通り。 ・明らかな誤記・誤植は訂正した。 ・文意を通りやすくするための修正、また、旧版以来の時間的変化に伴う表現上の修正 は、最小限行なった。但し、一七九ページで触れた野末陳平は、その後さらに所属を 変えて今一九九一年では自民党に入党しているが、この種の記述は旧版のままとした。 ・・・改題増補版あとがき 26 ぃ
なく、通俗的正義漢を自分たちの利益代表・代弁者と認めなければならないという屈辱 が、私には、想定しただけでとても耐えがたいのだ。 つまり、ここで、身障者たちは二重に抑圧されている。まず、健常者中心の社会で、 具体的に不便であること。次に、にこにこ根性主義者や類型的正義漢を自分たちの代表 と認める引き換えにしか、福祉を得ることができないということ。 もちろん、心から支持できる代表を選びうることなど不可能だろう。それは、身障者 にかぎらず、あらゆる弱者の場合について言える。労働者、僻地住民、少数民族、いずで 限 れの場合も、自分たちの発言を有効にするための代表を立てざるをえない。そして、必 無 性 ずと言っていいほど不満足な代表者たらざるをえない。 能 可 しかし、弱者の代表者が、強者の通俗道徳と密通して私を抑圧してきたなら、私はど の 義 主 のように耐えたらいいのか。 建 私は、幸運にも、一生涯身障者にならないかもしれない。しかし、まちがいなく老人封 にはなる。しかも、現在のところ、養老院 ( 何で「老人ホーム』などと和洋折衷造語を三 使わなければならないのだ ) へ行く可能性は濃厚である。ここでも、私は、老人という 弱者たる立場には、頑張って耐えたい。 しかし、どこかの高校生が指人形を持って巡回して来たり、伝統芸能保存家という名 20 ー・
いうものは過去のものだと信じ込んでいるから、せい・せい思いつくものといえば、″未 来社会の高級パン〃なのである。 そして、しよせん。 ( ンでは " 天。の代用にならないと気がついた時、そこに流れ込む のは通俗道徳である。 の だから、ゲリラたちを律している哲学は " 天の義。なのに対し、ソ連国民の哲学は、 感動的とはほど遠い″通俗禁欲道徳〃だということになる。 て もちろん " 天〃も、その下にいる人間が生んだ幻像である。だが、幻像でいっこうに かまわない。実体であるとされる " 未来の高級。 ( ン。に支配されるより、自分の幻像を知 何 体 自分の決断によって選び取ることができれば、そのほうがどれだけすばらしいかしれな て っ 義 主 建 序 くわしい話は、それそれのテーマの箇所で述べるとして、とりあえずのところ、エリ トリアのゲリラたちとソ連国民との似て非なる立場というものが、以上のような考えで 説明できるのだ。 しかしながら、現代社会の解説者である学者・評論家・ジャーナリストたちは、この ような見解は採らないのである。
出る、カナで書いて三字、マ〇コ、これは何ですかという問いに、たいていの子は「マ ナコ」と答えた。むろん、これは正しい。ところが一人だけ「マンコーと答えた子がい た。みな一斉に同じ方向に考えを向けていた時、その子だけは別の方向に頭を働かせて いたのだ。 なんていう調子で教育論議がされることになる。 その上、もっとあきれたことに、この天声人語には、次のような部分がある。 答えが一つ〔だけ〕あって先生がそれを隠している。生徒は先生の考えている正解を 探りあてようとする。そういうクイズ番組のような教室では、みんなが考えもっかない ことを思いつく能力、自分自身の発想を大切にする能力は育ちにくい ( ほ・ほ原文のまま ) したい、クイズは、どちらのほうなのだ。「氷が解けたら何になるか」との問い冫 「春になる」と答えるのがクイズでなければ何なのだろう。それに、まあ創造性讃美の 紋切型なこと。私なら、こう言いたいね。 みんなが考えもっかないことを思いつく能力、自分自身の発想を大切にする能力、と
「あれ、おかしいですな。「かんにん』なら、ほら ( と、指を折りながら ) 、か・ん・ に・ん、で四字じやございませんか。何か思いちがいをなさっておられますまいか」 「ははは、これだから愚昧な人は困る。堪忍とは、「椹え忍ぶ」と書いて二字だ」 「ええつ、また一字ふえましたな。た・え・し・の・ぶ、ですと、五字になりますが」 ええい、勝手にするがい 「ば、ばかな奴だ。こんな愚かな文盲は、本当に救いがたい。 あ で 怒った三流知識人が立ち去ろうとすると、文盲の人は微笑みながら言った。 大 「何とでもおっしやるがよろしかろう。私は『かんにん』の四字を知っておりますから、鰍 どんなに罵られても腹は立ちません」 能 の この種の三流知識人は、自分が恵まれている時は啓蒙主義者として現われ、自分が不主 遇な時は大衆・ ( ンザイ主義者として現われるのだ。それを小気味よく嗤った柳沢淇園は、封 章 もちろん、断固たる封建主義者であった。 第 文化についてのニつの物語 民主主義者たちの誤った共通認識の第二。それは、言語や文化の持つ、すばらしさと ののし
まず、自由について。 自由という場合、言論の自由・職業の自由・居住の自由など、さまざまな自由がある のだが、そもそも、それらをすべて「自由ーという概念でまとめていいものであろうか という疑問が生ずる。とはいえ、これも全部論しる余裕はないので、ここでは、言論の 自由についてたけ述べる。その言論の自由でさえも、言論の自由という一語で述べるこ る とはできない。分けて考えてみよう。 あ 田自分一人の見解では、気がっかなかったこと・誤っていることがある。いろんな人 拠 根 という言論の自由。 の意見を聞いてみましよう こんなことは、ただ単に衆知を集めるというたけのことであり、民主主義にかぎった 絶 ものではまったくない。 義 という言論の自由。 図自分の気に入らない意見も大切にしなければならない 主 主 民 こんなことは、単に寛容というだけのことである。いうまでもなく、寛容というのは、 一つの″徳〃である。封建主義においては、徳と政治が分離化していなかった。だから、章 第 封建主義下の法律には、徳に関連したものが多い。一方、民主主義では、徳は個人の思 想であり、個人の思想は自由なのである、という理由で、徳と政治を分離した、という より、そのつもりになった。そこで、法律の中のどこを見ても、徳に関連したものはな