2 51 あとがき 思います。いずれも ( しつこい勧誘を受けるような ) 教団色はなく、一定の評価があり、安心 いくつか実際に体験されてみて、自分の性質や目的に合うか して参加できるものばかりです。 など体感覚で確かめてみていただけたらと思います。そしてその後は、 foodfor 一一 fe として時 宜に応じて活用するもよし、その道を極めていくのもよしです。 まずは、仏教の学びを深めたい、 瞑想を体験してみたいという方には以下をお勧めします。 ◇テーラワーダ仏教の大御所スマナサーラ長老の「日本テーラワーダ仏教協会」 (http://www ・ 」 -theravada. net/) ◇ゴエンカ系の瞑想が体験できる「日本ヴィバッサナー協会」 ( h ニ三、、 www.」 p. dhamma. 。「 g 、 940. html?&L=12) ◇アビダンマ講義で定評のあるマハーカルナー禅師の「パオ森林僧院日本道場」 (http://www・ paauk.jp/) ハン師の教えと瞑想実践を日本で普及してい ◇世界的に著名な仏教僧であるティク・ナット・ る rwind of smile —微笑みの風—」 (h 三 )://www.windo 「smile.com/) ◇本書でも度々登場してきた藤田一照師の主宰する「仏教的人生学科」 ( h 三 ) ミ「 u 」二 , , 一 n 「 ( こ。 ◇小池龍之介氏の「月読寺」 (http://iede.cc/)0
12 2 事した方というのが、フィリビン人の神父さんであるルべン・アビト先生という方だったんで す。この方は、もちろんカトリックのキリスト教徒なんですけれども、フィリビンの大学で物 理学を学んだ後、東大のインド哲学仏教学科に入られて、そこで博士課程まで修了された。 魚川一九七八年、私の生まれる前に東大の印哲を修了されているんですね。大先輩だ プラユキええ。だからアビト先生は、上智で仏教哲学などを教えられていたんです。それで 私が惹かれたところとしては、この方は仏教の勉強だけではなくて修行もなさっていて、禅寺 で印可 ( 一定の境地に達したという老師からの証明 ) も受けられたりしていたんですね。 魚川それはすごいですね。 プラユキそれだけではなくて、アビト先生は社会のことにも大きな関心を持っていた方で、 そのような宗教的な精神を社会問題を解決するためにどう活かすか、といったことも考え、私 たち学生にも間いかけたりされる方だったんです。つまり、机上の学間だけではなくて、哲学 であれ宗教であれ、それを私たちが直面する具体的な間題にどのように活かすか、ということ も、常に考えられていた 先生の著書には、『宗教と世界の痛みーー仏教・キリスト教の心髄を求めて』 ( 明石書店 ) や 『病める日本を見つめてーー人間解放と宗教の再生』 ( 御茶の水書房 ) などがありますが、キリス という二者のバランスを、どちらにも ト教と仏教、理論と実践、また宗教的実践と社会的実践
2 2 0 「宗教としての仏教」なら「選択の余地」はない プラユキまあそういう人たちからすれば、「この薬は現実にガンだって治せるんだから、そ れを否定する君は薬の価値を貶めている」ということになるんでしよう。 魚川それはあまりにも、実態を無視した主張だと思うんですけどね : 私が言っているの は、「この一種類の鎮痛剤が仏教の処方する『全て』だ」ということでもなくて、「仏教の名の 下に処方される薬には複数あって、それぞれに効果効能が異なるから、服用に際しては自分の 症状に合ったものを、きちんと選んで飲んでくださいね」ということで、仏教という名のつい た「複数の」薬がもたらす多様な効果効能自体は否定していないんだけど、「私の推奨する、 「この薬はインチキだ ! 」と言いたくなります。 私が申し上げているのは、そういう不幸な事態に陥らないために、「鎮痛剤」は「鎮痛剤」 として、現実的な評価を正当にしよう、ということなんです。「この鎮痛剤を飲めば痛みはす くに鎮まるけど、ガンは治らないよ」と正確に伝えることが、薬に対する最高の評価になると、 私としては思いますし、そこで無理やり「いやガンも治るんだ」と言い張ることは、むしろ薬 の世評を落としてしまう行為だとも思うのですが、世の中にはそう考えない方もいるみたいで すね。
0 して ( 笑 ) 。 プラユキなんだこれは、と ( 笑 ) 。 魚川最初は本当にそういう感じだったんですが、手にとってパラバラと読んでみると、これ が実に素晴らしい内容なんです。それで、もちろん購人いたしまして、読み終わる頃には、す つかりフラユキ・ファンになっていました。 プラユキ恐縮です ( 笑 ) 。 たど 魚川それから、伝手を辿って先生に連絡を取りまして、二〇一二年に、はじめてスカトー寺 に滞在させていただいた。それが、私とプラユキ先生の出会いの経緯ですね。 智慧と慈悲のプラクティカルな総合 プラユキ魚川さんは『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』 ( 新潮社 ) で、仏教の いいんだよ』 根源的な思想構造を、理論的に解明しているよね。他方、私の『苦しまなくて、 は、悩みを抱えた人たちに応対するケーススタデイから、仏教の「苦から解放される道筋」 ついて具体的に書いたもので、必ずしも理論的な著作ではないけれども、魚川さんにとっては、 どこかよかったの ? 魚川やはり仏教における智慧と慈悲の両面を、個人が実践において見事に総合した例を示し
凡夫のための仏教 人生の糧 / 冬舎新書 , ク型 . 「正しい / 本当の仏教」にこたわるのは不毛 煩悩は消滅させるべきものか、させなくていいのか 瞑想をすれば人格が「よく」なるとは限らない 瞑想することでかえって苦しむ「瞑想難民」問題 偲い通りに振る舞うこと」が自由ではない 仏教の一部たけを取り出した「マインドフルネス」への懸念 信仰 じゃなく としての ム教活用法 / 幻冬舎公式 WEB マガジンさ 無料の会員登録で新刊情報 豪華執筆陣によるコラムを毎 定価 ( 本体 800 円十税 ) 435 Y800 6 + 豼 www . gentosh ・ 悟らなくたって、いいじゃないか 写真 : PIXTA
130 た仏教の実践をしたくとも、貧しくてはそういう余裕もなかなかできないから、まずは物質的 なところで基盤を整えて、その上で心の開発をしてもらう、といったような。 プラユキそうです。そこを同時にやってい く。例えば、自然農法の導人といったことでも、 そこには農薬を撒いて、生き物を殺生することを避けるといったような、仏教精神が織り込ま れているわけです。あるいは、他の発展途上国でも行われていた、農村の互助的な米銀行の設 立の際に、その資本となる米や現金を、定期的に行われる伝統的な仏教儀礼における寄進から 賄い、そうすることで経営を安定化させたりとかね。 魚川なるほど。物質的な開発がそのまま心の開発にも繋がるように、仏教精神をプロジェク トに織り込んでいくわけですね。 プラユキそういうことですたた 第一の目的はあくまで心を育てることだから、僧侶にな ってみると、「何よりも瞑想をきちんとやって、内的な開発をしないと駄目だよ」ということ を、師匠からは言われました。 魚川プラユキ先生としては、社会問題にずっと関心があったし、農村における開発僧の活動 、、↓丿い」↓ ) 小 に魅力を感じて出家もしたんだけれども、寺に入ってみると、「物質的な開発もし ずは心の開発だよ」ということを言われて、思いがけずというか、瞑想にも徹底的に従事する ことになったわけですね。 こめ
本質的にあるわけです。 つまり、 ーソナリティという実体的なものの存在を前提とした上で、そこに手を加えて変 容させる、ということにとどまらず、「無我」を洞察することを通じて、そのパーソナリティ というもの自体を解体し超越するところにまで、仏教的実践のヴィジョンは及んでいる。ここ は、一般的な心理療法と仏教的な心の問題への対処法との、相違点であるかもしれません。 私自身は、カウンセリング的なこともしますけれども、あくまで仏教者として相談に来られ る方々に対応していますから、やはりこの「無我性」の直観というところまで相談者の方を導 いていきたいし、またそうしてこそ、人のあり方が短期間で大変容するということも、生じ得 ると確〕信しています。 魚川プラユキ・チャートで言うところの非人称的な三二として、自身の「人格」すら実体的 なものではない、 無常なる現象の一つとして観察する智慧の「目」を養う、ということですよ ね。やはり仏教である以上、根底にはそのヴィジョンがなければならない、 というのは、全く そのとおりだと私も思います。 章 プラユキそうですね。比喩的に言えば、私たちはふだん xy 平面の座標の中だけで生きてい 第 るわけです。それだけを「現実」だと思っていて、そこで右に行くのか左に行くのか、そのた めには「自分」をどうしたらいいのか、そういうことだけを考えて生きている。つまり、今回
4 というのはべクトルのない現象の如実 ( ありのまま ) を知るこ ご説明いただいたとおり、智慧 とだし、慈悲というのはそのような「べクトルのない世界」の風光を知りながら、それでも敢 えて、べクトルのある物語の世界に関わることです。このように、一見乖離しているようにも 感じられる智慧と慈悲を、それでも統合したヴィジョンを示すからこそ、仏教はスゴいんです ね。したがって、この両者を単純にシームレスな性質のものと捉えてしまうと、仏教の根源的 な価値を十全に評価することが難しくなるのではないかと、私は考えます。 プラユキ序章で魚川さんが言っていたように、「あらゆる欲望による条件づけ ( 物語 ) 」が解 除されて、ただ 現象が継起する様を中立的に如実知見するのが智慧であり、そこでは「ああし しかー ) 、に、も こうすべきだ」という「べクトル ( 行為の方向づけ ) 」がはたらかない。 こうすべきだ」 かかわらず、仏教においてはそうした智慧を悟り知った者が、「ああしたい、 という、「べクトル」のある物語の世界を生きている衆生に再び関わって、彼らのために抜苦 与楽の慈悲行を実践することが推奨されている。 この二つが単純にシームレスだからスゴいのではなくて、少なくとも見かけ上は性質的に乖 離している智慧と慈悲の両者が、実践において統合されてしまうからこそ仏教はスゴいんだと 魚川さんは言いたいんだよね。懸隔の存在を知らなければ、それを飛び越えることの凄味もわ からないと。
子書籍とオンデマンド版で復刊していますが : プラユキいまは Kindle 版 (Ev01ving) と、オンデマンドのペ バック版 ( 研究所 ) があ りますね。 魚川それは本当によかったです。プラユキ先生の実践されている仏教は、抜苦与楽の具体的 な方法としてはもちろん、思想的・理論的な側面から見てもたいへん興味深く、価値あるもの ですからね。 ただ、そのことがなかなか見えにくい現状はある。では、なせそうなるのかと考 えてみた場合、その広い意味での背景には、「実践する仏教」に関するパースペクテイプの混 乱という状況があるのではないかと、私としては思っています。 テ プラユキ ースペクテイプの混乱 ? 。へ 魚川「混乱」というよりは、むしろ「欠如」かもしれません。現代日本において、テーラワ の ーダのウイバッサナー瞑想は、「マインドフルネス」の流行とともに、一般にも一定の知名度 教 仏 がありますし、チベット仏教の瞑想も入ってきています。そして、禅などの伝統的な日本の大 す 乗仏教の実践も、もちろん様々に教えられている。 実 章 プラユキいまは本当にたくさんの選択肢がありますよね。 魚川はい。東京や大阪などの大都市周辺なら、インターネットで検索すれば、どんな実践で も教えてくれる先生や教室 ( 寺院やカルチャーセンター、個人的なワークショップでの指導な
輪廻転生に関するリアリティにも差が出てくれば、そこで支持される仏教のヴィジョンにも、 違いが出てくるのは自然だということを申し上ガこ、 ( オしわけです プラユキああ、だからアメリカのウイバッサナー実践者がテーラワーダとは関係を持ちたが らないのも理解できる、ということね 魚日よ、。 輪廻転生をリアルに感じているアメリカ人もいるでしようが、多くのアメリカの 仏教実践者にとっては、主たる問題は「この一生」のほうでしよう。そういうハラタイムでテ ーラワーダ仏教を見た場合、それが「人生否定、来世志向および二元論的」に映るというのは、 十分にあり得ることだと私は思います。 プラユキ前章で言っていた、アメリカで講義をしたテーラワーダ僧侶の方が、「私の話をい いと思ったのなら、なぜ直ちに出家しないのだ」と言ったという出来事は、その典型的な例か もしれないね。 魚川ええ。そういう発一言を聞けば、アメリカ人や、おそらくは多くの日本人も、「こういう 茲 ( 出家主義にはついていけない」と思うでしよう。こちらの文化圏において仏教の門を叩く一般 二の人たちは、「この一生において、自分の日常生活を少しでもよくしこ、 オし」と考えている場合 9 が多いわけですから、そこで「渇愛を滅尽して苦なる輪廻転生のプロセスから解脱しましょ う」なんて言われてしまったら、「これは人生否定じゃないか」と感じるわけです。