にミ uch 一 ng なものではあり続ける、ということです 魚川「気づきも一つの現象である」というのは、『自由への旅』でウ・ジョーティカ師も強調 されていましたね。「この気づきさえも無常・苦・無我であることがわかったら、そこに瞑想 する『私』は存在しない。 これを理解した時はじめて、瞑想者は無我に関する本当の洞察を得 るのです」と、ウ・ジョーティカ師は一一一口っています あるいは、瞑想によって得られる認知は、「頭だけを出した状態て , に流されていく」よ うなものだとも言われています。つまり、川の外に出て流れを眺めている状態 ( Ⅱプロセスか ら完全に detach した状態 ) ではないけれども、瞑想をしない状態だと頭まで水に浸かってい るのが、瞑想をすると頭だけは出して周囲を見渡せるので、障害物を避けたりなど、ある程度 のコントロールは利かせられる、ということです プラユキわかりやすい、よい喩えだね。気づきでさえも、生成消滅する現象のプロセスとい 章 う「川」と切り離されたものではなくて、あくまで「流れの中」にあるものだということだよ の 章 魚Ⅱよ、。 ( したた、これも「言うは易く、行うは難し」の典型例で、先ほども申し上げたとお 第 り、仏教の瞑想を実践する際に、「我を強化しよう」と思ってやる人は滅多にいないわけです。 にもかかわらず、結果としては「私ー対象」構造に巻き込まれて、むしろ瞑想によってそれを
フュージョンがもたらす多幸感をよしとするような恋愛とは、少しく性質の異なるものになる でー ) よ , フ プラユキたしかに。粗大な感覚の楽しみではない、 もうちょっと微細な、「囚われないこと からくる喜び」というのも体験できるだろうし、お互いに相手から学び合いながら成熟した女 性性と男性性の統合を果たし、さらには、協力し合いながら人々の抜苦与楽の実現ミッション に邁進していくといったことも可能になるでしようね。 魚川それが言葉どおりに実現できれば素晴らしいですね。 「粗大な感覚の楽しみでは ない」ということは、やはりフュージョンによる圧倒的な一体感がもたらす恋愛の楽しみは、 そこにおいて放棄されることになるでしよう 自分の人生における望ましいものとして、瞑想がもたらす状態を「選択する」ということが、 実践を行う一つの意味ですから、多幸感にせよ悲壮感にせよ、そういった感情の大波にフュー 章 ジョンして「持っていかれなくなる」ことは、瞑想者にとっての本です。ただ、それは当然 自のこととして、「フュージョンがもたらすもの」に関しては、自分の人生における望ましいも 三のとして選択しない、 という決断をするということです。瞑想を実践する際に、そのことには 自覚的であったほうがよいというのが、私の申し上げていることですね ウ・ジョーティカ師は瞑想に関して、「安らぎを得るためには、己の信念を明確にする勇気
ただ、私が中し上げているのは、そこには「選択の余地」があり、またその必要もあるとい うことです。ウ・ジョーティカ師がもう一つよく一一口われることに、 「誰も完璧ではない。私も 完璧ではないし、あなたも完璧ではありません。完璧なのは、伝説上のブッダだけです」とい うことがあるんですが、この意識は、非常に重要なものだと思います。 いまの日本はちょっとした瞑想プームで、それに関する言説の中には、瞑想があたかも「万 くし、病気も治るし、 能の処方箋」であって、それを実践すれば「仕事も人間関係も上手く 人格もよくなって、何もかもが成功します」といったような、「誇大広告」をするものもある。 しかし、瞑想というのは、もちろんそんなものではありません。 実際、「私が言うとおりに実践すれば、全て上手くできますよ」といったことを、瞑想指導 者が言葉の上では主張しているのだけれども、ご本人の現実の振る舞いにおいては、その理想 といった事例を、私はたくさん見てきました。 が言葉のとおりにはまるで実現できていない、 「瞑想の先生を選ぶ際には、その先生の『発言』だけではなく、その人の『為人』、つまり本人 の現実の振る舞いを、よく観察して判断してください」と私が強調するのには、そういった背 景もあるわけです。 たしかに、「伝説上のブッダ」は完璧ですし、そのパーフェクトなブッダのヴィジョンを胸 に抱いて、修行に励むことも大切です。たた 、現実には「正しくて完璧な瞑想法」が一つに定
これはたしかに、キャパシ 印となるような、「気づきの灯台」であり続けなければならない ティが間われますね。 プラユキはい。 、いに間題を抱えた方を助けたいという場合に、最も大切なのは、「自分が巻 ということです。でも、だからといって距離をとるだけでは、相手が心を開い き込まれない」 」 . い , っ . てこちらの話を聞いてくれることもありません。そこで「共感しても巻き込まれない」 態度をどれだけ維持できるかということは、本当にその人のキャパシティというか、力量次第 の話になります。 たた、そのキャ。ハシティを広げるというか、相手の話を受容する基本的な態度をつくる上で、 瞑想が非常に役立っというところはあると思います。「巻き込まれない」というのは、「どんな に激しい感情の流れの中においても、明晰な気づきを保っておく」ということですが、これは まさに、瞑想で養われる態度そのものですからね。先ほどの喩えに即して言えば、五十の怒り 章を持った人に対して、こちらの安らぎが四十でも、話をしながら気づきを明晰に保てていれば、 茲 ( そこに二十のプラスアルフアの力が加わって六十対五十になり、何とか呑み込まれずにいられ 二る、といったことは実感としてあります 先ほどの魚川さんの話の中に、ウ・ジョーティカ師の「川」の喩えが出てきましたけど、そ こで指摘されていたように心という「川」の流れから身を乖離させすに、しつかりとコミット
10 0 かどうか」ということで言えば、立日楽としては楽しめなくなるかもしれないけど、そうした深 い瞑想状態に人っていく過程で、音の連続性が徐々に失われて、音楽が徐々に楽しめなくなっ ていくというフロセスそれ自体を興味深く「楽しめる」かもしれないね。 魚川それはもちろんおっしやるとおりで、連続性を失った現象が生成消滅するプロセスを、 「楽しむ」というよりは、むしろ「興味深く」観察することで、さらに瞑想は進んでい のように深い層の reality を知ることが、私たちが通常の意味で考える「現実」において適切 な振る舞いをすることにも繋がるというのは、ウ・ジョーティカ師をはじめとして、ミャンマ ーの多くの瞑想指導者たちが共通して言われることです。 「怒り」がどう生じるかを微細に観察する意味 いま申し上げたことは、音という外的な現象の認知に関する例ですが、同様のことは、 もちろん心の領域においても起こります。私たちが日常において経験する「怒り」や「悲し み」といった感情は実際のところ粗大なものなので、瞑想によって集中力を上げて微細なとこ ろまで観察が行き届くようになると、そうした粗大な心の動きの「解体」も進行する。 例えば「怒り」であれば、私たちはその強い感情の動きに支配されて、ついそれを行動化し ようとしてしまいがちですけれども、瞑想的な視野でその強烈な衝動を観察してみると、その
んに言えそうにはありませんな ( 笑 ) 魚川プラユキ先生は、そうしたことは言われませんね。『仏教思想のゼロポイント』でも触 れたことですが、テーラワーダと言っても一枚岩では当然なくて、そこには様々な思想的多様 性がのるし」い , っこし」でー ) よ , っ ーリ仏典から知られるゴータマ・ブッダの仏教の原理原則としては、やはり煩悩か ら離れた出家生活を送ることこそが、最善のこととして推奨されているように思います。 例えば、長者の子であったヤサという阿羅漢がおりますが、ゴータマ・ブッダは彼について、 ャサの心は煩悩から解脱してしまっているから、「かって在家であった時のように、卑俗に戻 って諸欲を享受することはできない」と言っています。つまり、ゴータマ・ブッダの教えに本 当に忠実に従って、煩悩を滅尽した修行完成者である阿羅漢になったのなら、もう世俗での生 活は不可能になるし、またそれでよいのだ、ということ。瞑想実践者が在家者であった場合で も、仮にその人が阿羅漢になった場合には、彼 / 彼女のその後の人生の選択肢は死ぬか出家す るか以外にない、 というのは、テーラワーダの一般的な教理でもありますよね。 実際、ウ・ジョーティカ師が『自由への旅』で書いていますが、瞑想の高度な集中の境地に おいては、例えば音楽を音楽として楽しむことはできなくなります。 プラユキ高度な集中状態にあれば、まあそうなりましようね。
魚川そうなんですよね。先ほど言及したウ・ジョーティカ師も言われていますが、瞑想に関 しては「続ける」ことが本当に大切なんです。それがわかっているから、真面目な瞑想者の 方々は自分に向いていない瞑想法でも続けてしまったりするわけですが、そこの判断は難しい ところですね プラユキそうだね。そういう意味では、最初の方向を定める時には、たしかに色々な先生や 教室を訪ねてみて、慎重に考えることが大切かもしれない。 リトリー , 「に関亠 9 る、 , 「ンター、不ッ , 「には 魚川ええ。それに、海外の瞑想センターや国内の 載らないような様々な情報も、そういう現場の瞑想教室に蓄積されていることが多いですから、 瞑想に興味を持っている方々には、ぜひ積極的に色々なところに顔を出していただくことをお 勧めしたいですね。 と思うのは、 あと、もう一つ一般の方が瞑想教室に通う際に念頭に置いて観察したほうがいい ひととなり その瞑想を教えている先生の人格というか、為人ですね。善悪というよりは ( もちろん、明ら かに「悪」ならやめたほうがいいでしようが ) 、むしろ「自分がそういうふうになりたいか」 を考えて、ご覧になってみてほしい。 プラユキああ、それは大切だね。 魚日よ、。 というのは、やはり瞑想の教師というのは、その瞑想を長年やってきて、現在の
厳しくて、生活の上で在家信徒に依存しなければならない面が非常に大きいんです。単に自分 ということであれば、在 自身が瞑想修行をして、一人の生活を心安らかに過ごしていきたい、 家でいるほうが便利なことはすっと多いでしよう しかし、ウ・ジョーティカ師のその願望に対して、師匠は、ブッダが僧侶たちに食べ物を育 てたり調理したりすることを禁じた理由を問いかけた上で、「もし僧侶たちが自分の食べ物を 育てて、自分の食事を調理し、人々から離れたところに留まっていたら、誰が教えを伝えてい くのかね ? お前が人々と付き合おうとしないなら、誰が彼らを教えるのかね ? 」と一一一口って、 曽侶になることを勧めたそうです この話に表現されているように、仏教というのは「世の流れに逆ら」って、通常の「人間 的」な「私ー対象」関係の拘束を脱した、智慧のパースペクテイプを開くものですが、しかし その帰結は、「人間と縁を切ること」ではないんです。菩提樹下で「べクトルのない」智慧の ちゅ・つちょ 風光を得たゴータマ・ブッダが、躊躇した上で、それでも衆生に対する「べクトルのある」慈 悲の実践へと一歩を踏み出す決断をした。その瞬間に、「仏教」ははじまったわけですから。 プラユキそうですね。智慧の風光を根底に有した上で、慈悲の実践を現実に行うこと。仏教 第 3 が最初期から維持している根源的なヴィジョンはそれだし、「自由」というのも、もちろんそ こに現れる。「べクトルのない」智慧の風光が見えていなかったら、現実の衆生を対象とした、
242 観点で理解している限り、役に立っレベルも限定されてパフォーマンスも下がってしまうでし よ , フか・ら , ね ただ、私としては、「人格」自体の「解体」をもたらすような「無我性の直観」を、むしろ 新しく、よりよい人格への大変容の契機ともすることができるように、 「②のパースペクティ プを開くこと」を、①の「私ー対象」関係の世界において、一切衆生の幸福に繋がるような仕 方で、適切に活用したいとも思うんです。それが、出家以来スカトー寺を拠点として、私がず っとやってきたことでもありますから。 魚川それは、もちろん私も同意いたします。いま私が申し上げたのは、智慧へと至る仏教の 「向上の道」のほうですが、そのパースペクテイプを開いた人が、今度は衆生と交わって、抜 く。この智慧と慈悲、向上と向下の道の双方 苦与楽の慈悲の実践に邁進する「向下の道」を行 が備わって、はじめて仏教の真価が発揮されるというのは、全くおっしやるとおりなんです。 私が従来ずっと申し上げているのは、「この両者を単純にシームレスに繋げないことこそか、 仏教の凄味であり妙味であるものを、正当に評価することになる」ということです 本聿日で何度か一一一口及したウ・ジョーティカ師は、かって在家であった頃、師匠に「私は僧侶に なるよりもむしろ隠者になりたい。僧侶は人々に依存し過ぎているから」と一「ロったことがある そうです。実際、テーラワーダの正式な僧侶というのは、お金を扱えないことなど律の縛りが
魚川はい。瞑想で集中力が上がってくると、スポーツ選手などが経験すると言われる「ゾー ン」のように、現象がゆっくり知覚されるということが起こります。それがさらに進むと仏教 用語で「刹那滅」と言われる、現象の微細な生成消滅のプロセスが観察されるようになります から、そうすると、音楽も連続性のあるメロディとしては聴けなくなる。 つまり、先ほどの話の文脈に即して言えば、音楽というのも、私たちが聴覚への感覚人力を 組み合わせることで連続性のあるものとして形成した、一種の「イメージ」なんですね。それ が高度な集中力に基づいた観察によって「解体」されると、もはやイメージから連続性は失わ れて、私たちは音楽を音楽として聴けなくなる。「連続性がなかったら、私たちは何も楽しむ ことができないのです」と、ウ・ジョーティカ師は一言っています。 プラユキそうだね。通常の私たちの意識状態だとドレミのレ音を聞いている時にド音の記憶 を保持しており、かっミ音の到来をあらかじめ予期しているからそれをひとまとまりのメロデ 章イとして知覚できるわけだけど、「集中系」の瞑想を徹底すれば、あたかもオシロスコープで 波形を検出するような感じになって、レ音が奏でられている時には、ド音は既にそこになく、 ミ立日も未だない感じになるから、メロディとして知覚されなくなるわけだよね。 第 でもまあそれは深い瞑想状態に没人している状態の時という 限定的な条件の中でということ で、その状態で現実生活を生き続けるということでもないでしようからね。あと、「楽しめる