輪廻転生に関するリアリティにも差が出てくれば、そこで支持される仏教のヴィジョンにも、 違いが出てくるのは自然だということを申し上ガこ、 ( オしわけです プラユキああ、だからアメリカのウイバッサナー実践者がテーラワーダとは関係を持ちたが らないのも理解できる、ということね 魚日よ、。 輪廻転生をリアルに感じているアメリカ人もいるでしようが、多くのアメリカの 仏教実践者にとっては、主たる問題は「この一生」のほうでしよう。そういうハラタイムでテ ーラワーダ仏教を見た場合、それが「人生否定、来世志向および二元論的」に映るというのは、 十分にあり得ることだと私は思います。 プラユキ前章で言っていた、アメリカで講義をしたテーラワーダ僧侶の方が、「私の話をい いと思ったのなら、なぜ直ちに出家しないのだ」と言ったという出来事は、その典型的な例か もしれないね。 魚川ええ。そういう発一言を聞けば、アメリカ人や、おそらくは多くの日本人も、「こういう 茲 ( 出家主義にはついていけない」と思うでしよう。こちらの文化圏において仏教の門を叩く一般 二の人たちは、「この一生において、自分の日常生活を少しでもよくしこ、 オし」と考えている場合 9 が多いわけですから、そこで「渇愛を滅尽して苦なる輪廻転生のプロセスから解脱しましょ う」なんて言われてしまったら、「これは人生否定じゃないか」と感じるわけです。
魚川そうなりますよね。とはいえ、たぶんテーラワーダの原則的な価値観からすれば、そこ まで本気で煩悩を捨てる覚悟があるなら出家すればい、 しーし、土玉たそのほ , フか「しよいこし J 」たし J も考えられていると思います。 例えば、これは日本の大乗仏教の僧侶で、長くアメリカで教えられた経験のある方から伺っ た言ですが、ある時にテーラワーダ僧侶の先生をお招きして、講義をしてもらったことがある そうです。話の内容自体は素晴らしかったので、講義の後に「よかったです」と感想を言った のですが、そうしたらその先生は、「君たち、本当に私の話がいし 、と思ったのか ? 」と一「ロ , フ。 それで、「はい、本当にそう思いましたよ」と答えたら、「じゃあ、なんでいますぐにテーラワ ーダで出家しないんだ」と言われたそうです。 つまり、そのテーラワーダ僧侶の方からすれば、本当に自分の話に納得して、それをいいと 思ったのであれば、直ちに俗世の生活 ( その大乗僧侶の方は既婚 ) を捨ててテーラワーダで出 章家することになるはすじゃないか。そうでないならば、君たちは私の話を、実はい、 しと思って 慧 いなかったのだ、ということなんですね。もちろん、全てのテーラワーダ僧侶の方がそういう ことを一言うわけではありませんが、そういう感覚は、たしかに上座部圏にはないわけではない 第 なと、当地で暮らしてみて思います。 プラユキうーん、私も一応テーラワーダ僧侶なんだけど : : そういったことを日本のお坊さ
112 プラユキ insightmeditation というのは、そもそもウイバッサナー瞑想の英訳語だよね。そ れの実践はするけれども、テーラワーダとの関係は持ちたくないと彼らは考えた、ということ かな ? 魚川そうです。この点に関してはケネス・タナカ『アメリカ仏教ーーー仏教も変わる、アメリ 力も変わる』 ( 武蔵野大学出版会 ) に記述がありますので ( 三 ). 一 ~ 8 ニ 29 ) 、それに従って申し上げますと、 彼らがテーラワーダとの関係を拒否した理由は主に二つあって、一つはインサイト・メディテ ーションの所属を一つの宗派に限定してしまうと、自分たちの独立性を保ちにくくなると考え たこと。これは、前章で述べたコーンフィールドさんたちのスタンスからも理解しやすい話で すよね。 そしてもう一つは、「人生否定 ()一「 e-negating) 、来世志向 (other-worldly) および二元論 的 (dualistic) な要素を持つ」東南アジアのテーラワーダと関係を持っことが大変難しいと考 - んたこ」こ亠ら、らは、、 しま日本でテーラワーダ仏教が紹介される際にはあまり指摘されないこ とですが、上座部圏で実際に数年のあいだ生活してみた私としては、アメリカの人たちにテー ラワーダがそういうふうに感じられることは、よく理解できますね 「ネタ」でも「物語」でもない、「事実」としての輪廻転生
12 0 しかし、テーラワーダの内在的な価値観からすれば、これは必ずしも当たらない。私たちは、 「卑俗に戻って諸欲を享受する」ようなことであれば、これまでの圧倒的に長い輪廻転生のプ ロセスの中で、散々やってきたわけです。そういう慣れ親しんだ同じことを、また繰り返すの ではなくて、せつかく人間に生まれられたのであれば、その機会を十分に活かして、解脱に向 けた精進をするのが、最高の人生の使い方じゃないか、ということになるわけですね。 プラユキなるほどね。そのように文化圏が異なれば、「何が慈悲か」「何が抜苦与楽か」とい う点に関する考え方も、少なからず異なってくるのは当然だと。 魚川そういうことです。瞑想をすることが、日常生活において「上手くやる」ことと必ずし こし」い , フか↓むしろ も繋がらなくとも、それが渇愛の滅尽に寄与したのであれば、瞑想は十分 ( 最高に「役立っている」と、テーラワーダ的な価値観からすれば、言われることはあり得るわ けです。そして、「渇愛を滅尽して苦なる輪廻転生のプロセスから解脱することが最高の価値 っ世界観からすれば、とにかくそのための瞑想を教えたり、世俗を捨てて出家するこ とを勧めたりすることも、抜苦与楽の慈悲行に当然含まれることになるわけですね。 プラユキうーん、そういった観点からしたら、私はテーラワーダ僧侶としては「異端」なの かもしれないね ( 笑 ) 。 。こだ、私がすっとフラユキ先生から色々と教えていたたいて どうでしようか ( 笑 )
ますから、思想的にはもちろん大問題であるにしても、少なくとも実践者にとって、輪廻に関 する議論はとりあえず「スルー」しておいても大きな問題はない。こだ、仏教について論じる 上では、そこは避けて通ることのできない問題ではあるし、一般レベルでの誤解が非常に多い トビックでもあるので、多少は丁寧に言及した、ということですね。 しかし、「ゼロポイント」の出版の後で、日本の大乗仏教の僧侶の方々を含めた、様々な読 者とお話しする中で、「どうも輪廻というのは、あんがい大した間題らしい」と感じるように なったんです。具体的に言うと、例えば「渇愛 ( タン、 ー ) 」に対する現代日本と上座部圏で の扱い方の違いに、輪廻思想が関わっているように思われる。 プラユキ渇愛というのは、喉が渇いた人が水を求めるような、欲望の対象を希求する根源的 な煩悩のことだよね。その扱いが、現代日本の仏教とテーラワーダ仏教ではどう違うの ? 魚川まずテーラワーダ仏教では、渇愛というのは基本的に滅尽、つまり尽く消滅させるべき ものですよね。 慈プラユキテーラワーダ仏教の目指す究極的な境地では、そうなるべきだろうね。 しょてんぽ・フりん 魚川そうですよね。これは当然のことで、ゴータマ・ブッダは最初の説法 ( 初転法輪 ) から、 「苦から解脱したければ渇愛を滅尽させろ」と言っているわけです。テーラワーダの人たちは、 これを基本的には文字通りに受け取るから、そうであれば少なくとも理想的には、「渇愛は滅
168 プラユキいや、時々やることもありますよ。やはりテーラワーダの正式な瞑想法ですし、一 定の効果もありますので、そこは否定していませんから。ただ、私としては、慈悲の瞑想をエ ゴイスティックにというか、「自分のため」といったニュアンスでる解釈も耳にすることは とい , フ思いはあります あったので、そういう方向は避けたい、 魚川「エゴイスティック」というのは、テーラワーダの慈悲の瞑想で、まず「私の幸せ」を 願 , フか、ら、し」い , フ「 ) 」で亠 9 ・かワ・ プラユキいや、そうではなくて、「この慈悲の瞑想も自分のための修行であって、自分の境 地を高めるためにやるんだ」とか、そういう解釈。慈悲というのは本来的には、心を開いて、 いま自分の周囲にいる人たちを幸せにしたり、苦を除いてあげるはずのものなんだけど、それ を自分に閉じこもって、単に瞑想の「境地」を高めるための手段にしてしまう 魚川実際の慈悲というのは、そういうものではないよ、と。 知・情・意にはたらきかけ、慈悲の心を育てる プラユキうん。それに、慈悲の心を育てるために瞑想をするというなら、その時間で、他に でさる一」し」は、 しくらでもある、とも思うからね 魚川具体的に、どういった方法があるんでしようか ?
「ナラテポー」は「エンジェル・マン」 魚川「プラユキ・ナラテポー」って、不思議な響きの名前ですよね。どういう意味なんです かワ・ プラユキ「プラ」はタイでのお坊さんに対する尊称。「ユキ」は本名から。「ナラテポー」は、 ーリ語の nara , devo をタイ語の発音で読んだものです。 nara は男、 devo は仏教用語で「天 人」のことで、「神」とも訳されるけれども、一神教の創造神ではなくて、天界に住む、人間 よりはちょっとレベルが上の存在たちのこと 。だから、「ナラテポー」というのは、さしすめ 「エンジェル・マン」とでもいった意味になりますかね。 それは素敵な名前ですね。 魚川「エンジェル・マン」 プラユキそうですね。なかなか気に人っています 魚川最初ですから、まずはご紹介をしておきますね。プラユキ先生は、タイのワット・ ・スカトー ( スカトー森林寺 ) という寺院で、一九八八年にテーラワーダ僧侶として出家さ じよ・フざぶ れ、いまの「プラユキ・ナラテポー」という名前を与えられました。テーラワーダ ( 上座部 ) というのは、スリランカ・ミャンマー・タイ・ラオス・カンボジアといった東南アジアの国々 において主に信仰・実践されている、仏教宗派の一つです。
て、世界の一切衆生と共創する物語を現し出していくことに他ならないんです。私が「瞑想は 日常生活に役立たなければ意味がない」と考え、実相法と実践法を基本的には不可分のものと して捉えるのも、やはり仏教というのは智慧を獲得するだけでは半分で、それが衆生に対する 抜苦与楽の慈悲行へと活かされてはじめて、ブッダの意図にもかなうと思うからですね。 テーラワーダは「人生否定、来世志向およびニ元論的ー ? 魚川智慧の風光が慈悲の物語へと表現されることが仏教の本質だ、ということには、もちろ ん私も同意します。ただ、そういった慈悲の物語の示現のされ方、つまり「何が抜苦与楽なの か」という点に関する考え方は、個人や文化圏によって相違が出てくる可能性はあると思いま す。 プラユキ多様な物語に自在に応対するのが慈悲の性質だから、それはもちろん、そうなりま すよね。 悲 慈 魚日よ、。 とくに文化圏の問題は大きいと私は思っていまして、例えば前章で言及したコー 章 ンフィールドさんたちの設立した—やスビリット・ロック、そうしたセンターを中心とし 第 てインサイト・メディテーションを実践するアメリカの人々は、基本的にはテーラワーダに属 することを拒絶しています。
んに言えそうにはありませんな ( 笑 ) 魚川プラユキ先生は、そうしたことは言われませんね。『仏教思想のゼロポイント』でも触 れたことですが、テーラワーダと言っても一枚岩では当然なくて、そこには様々な思想的多様 性がのるし」い , っこし」でー ) よ , っ ーリ仏典から知られるゴータマ・ブッダの仏教の原理原則としては、やはり煩悩か ら離れた出家生活を送ることこそが、最善のこととして推奨されているように思います。 例えば、長者の子であったヤサという阿羅漢がおりますが、ゴータマ・ブッダは彼について、 ャサの心は煩悩から解脱してしまっているから、「かって在家であった時のように、卑俗に戻 って諸欲を享受することはできない」と言っています。つまり、ゴータマ・ブッダの教えに本 当に忠実に従って、煩悩を滅尽した修行完成者である阿羅漢になったのなら、もう世俗での生 活は不可能になるし、またそれでよいのだ、ということ。瞑想実践者が在家者であった場合で も、仮にその人が阿羅漢になった場合には、彼 / 彼女のその後の人生の選択肢は死ぬか出家す るか以外にない、 というのは、テーラワーダの一般的な教理でもありますよね。 実際、ウ・ジョーティカ師が『自由への旅』で書いていますが、瞑想の高度な集中の境地に おいては、例えば音楽を音楽として楽しむことはできなくなります。 プラユキ高度な集中状態にあれば、まあそうなりましようね。
魚日よ、。 そういう意味において、最終的な統合のヴィジョンを見据えつつ、同時に智慧と 慈悲の性質的な乖離について丁寧な目配りもしておくことは、仏教の理解と実践のために、と ても大切なことだと思います。 プラユキなるほどね。だから今回の対談では、「智慧」と「慈悲」と、この両者が統合され た「自由」の境地について、順を追って話していくことになっている、と。では、さっそく智 慧の性質から、一緒に考えていきましようか コーンフィールド氏のタイ・ミャンマー修行体験 そこで今回は、テーラワーダ仏教の実践の文脈から、智慧というものの性質につ いて考える上で、参考になりそうな資料を一つ持ってきました。ジャック・コーンフィールド (Jack Kornfield) の "This Fantastic, Unf01ding Experiment" という文章です。英文ですが、 インターネットで無料公開されていますので、このタイトルと著者名で検索していただければ、 の 刪ファイルをダウンロードして、どなたでもお読みになれます。 章 ジャック・コーンフィールドというのは、西洋世界にテーラワーダのウイバッサナー瞑想を 第 紹介した草分け的存在の一人で、アメリカのマサチューセッツにある一 n ム gh ( Med 一 ( a ( ぎ n Society (**än) という瞑想センターの共同創設者でもあります。現在アメリカを中心とし