フュージョン - みる会図書館


検索対象: 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門
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1. 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門

さんであれば、「自我で描く画家」と「風が描く・水が描く画家」を往還することは可能なの 2 ではないでしようか どうでしよう。あるいは、先ほども話に出た熊野宏昭先生が日本に紹介されている、第 三世代の認知行動療法に「 (Acceptance and Commitment Therapy) 」というものが ありますね。この < は「マインドフルネス」との関係が深い行動療法ですが、そこに「フ ュージョン」という概念があります。これは「考えたことと現実を混同してしまうこと」で、 この対談の文脈で言えば、「物語を現実であると考えて、そこにはまり込んで ( 融合して ) し ま , フこと」にョたるでしょ , フ (<O+* と「マインドフルネス」の関係についてより詳しくは、サンガ社発行『別冊サ ンガジャパン 1 』 ( 三 ). 20P2 一 5 ) に所収の、熊野宏昭「行動療法の中で生かされる仏教のマインドフルネス」を参照のこと ) 瞑想で養われるのは、まさにこの「フュージョン」をしない心的態度であると思うのですか、 これは言い換えれば、「フュージョンを喜ぶような生き方はしないことを選択する」というこ とではないでしようか 悟後のゴータマ・ブッダが述懐したように、 「世の人々は、欲望の対象を楽しみ、欲望の対 欲望の対象を喜んでいる」 ( 『聖求経』 ) のだけれども、そういう生き方を、少なく とも部分的には停止する選択をするということですね。 例えば恋愛がもたらす多幸感などは、「フュージョン」が多くの人にとって好ましく感じら

2. 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門

212 ジョンの状態に関しても、自由な実験として入ってみることは可能だと思うんです。まさに 「タム・レンレン」、子供が遊ぶような感じでね。 「瞑想する」とは「選択する」こと 魚川それはわかります。ただ、 瞑想者の場合は「気づきの意識」が伴っているわけですから、 子供の遊びに対するフュージョンと全く同じというわけでは、やはりないと思います。 また芸術に関して言えば、創作をする際のフュージョンと、それを享受する際のフュージョ ンでは、やはり性質が違ってきます。創作家である横尾龍彦さんについて申し上げれば、彼は ずっと画家をやってきたのに、五十代になってから「描けなくなっても、 しい」とまで思いつめ て、禅に賭けられたわけですね。その結果として横尾さんは「シュールレアリスティックでデ モーニッシュな幻想画家」から、「風が描く・水が描く画家」へと変わられた。それは、簡単 にイったり戻ったりできるような種類の変容ではなかったでしよう。横尾さんは、もっと根源 的な「選択」をされたのだと、私としては理解しています。 こういう「選択」の可能生は、やはり瞑想者が意識しておかなければならないことでしよう。 恋愛を例にとるならば、そもそも出家者は恋愛をしないという「選択」をするし、そこまでい かない在家の熱心な瞑想修行者でも、もし彼 / 彼女が恋愛をする場合には、それは一般的な、

3. 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門

れるものを与える、典型例になると思います。「現実をありのままに」観察しながら、同時に 恋愛の物語に集中し没人するということは、やはり難しいでしよう。先ほどの芸術制作の場合 にしても、作家が「フュージョン」した状態であることが作品の質に直結する事例は多いと思 いますし、そういう「フュージョンがもたらすもの」からは、やはり瞑想者は一定の距離をと るという選択を、せざるを得ないのではないかと思います。 ただし、再び幾重にも強調しておかなくてはなりませんが、私は「だから瞑想は悪い」とか 「仏教は私たちにとってよくない」とか、そういうことを一言いたいわけではありません。そう ではなくて、瞑想をするからには、やはり実践者は仏教の示す価値判断に多かれ少なかれ影響 を受けざるを得ないし、そこは自覚的な選択が必要になる、ということ。その選択の是非善悪 については、個人が判断されるべきことです。 様々な状態に心をチューニングする訓練 プラユキうーん、私としては、先ほども言ったように、そこはもうちょっと自由に、融通無 礙にやれると思うんだよね。フュージョンということで言えば、気づきを伴わせながら、それ 第 9 をすることは可能だと思う。言わば、「目覚めた意識でフュージョンする」わけ。 私が思うには現象のレベルで「『フュージョン』をしない心的態度」をとれるようになれば、

4. 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門

フュージョンがもたらす多幸感をよしとするような恋愛とは、少しく性質の異なるものになる でー ) よ , フ プラユキたしかに。粗大な感覚の楽しみではない、 もうちょっと微細な、「囚われないこと からくる喜び」というのも体験できるだろうし、お互いに相手から学び合いながら成熟した女 性性と男性性の統合を果たし、さらには、協力し合いながら人々の抜苦与楽の実現ミッション に邁進していくといったことも可能になるでしようね。 魚川それが言葉どおりに実現できれば素晴らしいですね。 「粗大な感覚の楽しみでは ない」ということは、やはりフュージョンによる圧倒的な一体感がもたらす恋愛の楽しみは、 そこにおいて放棄されることになるでしよう 自分の人生における望ましいものとして、瞑想がもたらす状態を「選択する」ということが、 実践を行う一つの意味ですから、多幸感にせよ悲壮感にせよ、そういった感情の大波にフュー 章 ジョンして「持っていかれなくなる」ことは、瞑想者にとっての本です。ただ、それは当然 自のこととして、「フュージョンがもたらすもの」に関しては、自分の人生における望ましいも 三のとして選択しない、 という決断をするということです。瞑想を実践する際に、そのことには 自覚的であったほうがよいというのが、私の申し上げていることですね ウ・ジョーティカ師は瞑想に関して、「安らぎを得るためには、己の信念を明確にする勇気

5. 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門

210 フュージョンしないで生きることも、敢えてフュージョンして生きることも自由に選択可 なると思うんだよね。その時の基準は、「自他の抜苦与楽」に照らし合わせて選択すればいい のではないかと思います。 魚川それが本当に言葉通りに実現できるならば、すごいことですね。 プラユキできると思いますよ。例えば、子役の芦田愛菜の YouTube 動画とか見たことある けど、求めに応じて一瞬にして涙流してエーンエーン泣けちゃうんだよね。どうしてるのかと いうと、「お母さんが死んじゃった」とかって想像するんだそうです。もちろん彼女は実際お 母さんは死んでなんかいないということも心の片隅で知っているわけだよね。でも自由自在に そういった芸当もできる。 実は私も一つの実験というか修行として、色々なジャンルの音楽を聴いてみたことがあった んです。クラシックからテクノ、トランスミュージック、ノイ、ス、ポッフス、演歌などなど、 ビートの速いものから遅いものまで。そうして、それぞれの音楽に心を同調させてみて、そこ で何が起こるかを観察してみた。例えば、演歌の情念の世界とか、そこに心を合わせつつ、同 時に目覚めた意識も保っておくわけです。 魚川音楽に同調することで、色々な状態に心をチューニングする実験をされたわけですね。 それは上手くいったんでしようか ?

6. 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門

第三章自由の章阜 世間的な意味での「自由」とは ? 仏教的な「自由」は世間的な「自由」とどう違うのか 「思いどおりに振る舞うこと」が自由ではない哂 「空気を読むこと」が無我ではない 「瞑想すると上手くいく」のではない 仏教の一部だけを取り出した「マインドフルネス」への懸念 「戒」を守るとなぜ自由になるのか 智慧へと上って慈悲に下る、大切なのはこの循環 「状態と意味に対する微細な囚われ」が瞑想の罠 真と善を、美しく表現する個性こそが自由である 理想は「観音吾薩パフォーマンス」 物語と融合する「フュージョン」がもたらすもの 様々な状態に心をチュー一一ングする訓練 「瞑想する」とは「選択する」こと 「唯一の正しくて完璧な瞑想法」を想定してはいけない 瞑想に関する「誇大広告」の問題点

7. 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門

206 物語と融合する「フュージョン」がもたらすもの へんよくわかりました。ただ、そうした 魚川先生が理想とされている境地に関しては、たい 境地を額面どおりに現実化できる可能性がどの程度あるか、という点に関しては、もう少し議 論の余地があるかもしれません。 例えば「美」というテーマについて申し上げますと、これは鎌田東二先生 ( 上智大学グリー フケア研究所特任教授 ) から伺った話ですが、最近 ( 二〇一五年十一月 ) 亡くなられた画家で、 横尾龍彦さんという方がいらっしゃいました。この方の若い頃の画風は、鎌田先生の一「ロ葉を借 りれば「シュールレアリスティックでデモーニッシュな幻想画家」といったものだったのです けれども、五十代に人ってから精神的な悩みを抱えられて、禅の山田耕雲老師に参禅修行を願 、、↓丿い J って い出たんですね。すると山田老師からは、「あなた、禅をやりたいならやってもし うしたら描けなくなるよ」と言われた。しかし、「それでもいいです」ということで禅をやら れて、見性 ( 禅における、一種の「悟り」体験 ) を認められるところまで修行を進めたのだけ ど、そうすると実際に描けなくなったそうです。 そこから横尾さんは試行錯誤されて、画風を大きく変えられた。これも鎌田先生の言葉を借 りれば、「自我で描く絵を捨てて、『風が描く・水が描く』画家」になられたんですね。実際、 後期の横尾さんの絵は、前期のそれよりもぐっと抽象的で、精神世界の色彩を直接的にキャン