っていますが、そうした施設のほとんどは、僧侶がトップを務める寺院です。 プラユキスカトー寺も、英語で指導できる僧侶がいる時もあるし、私も日本人を受け入れて 瞑想を教えているから、そういう意味では「瞑想センター」に人るでしようね。 魚川ええ。プラユキ先生のスカトー寺は、基本的に二週間の滞在を上限としているそうなの で、タイならば普通にノービザで滞在できる期間内ですが、長期の滞在を考える場合には、そ のためのビザの申請が必要になるでしよう。このあたりの制度は、流動的に変化することがあ り得るので、その都度インターネットなどで確認していただければと思います。 滞在先での部屋や食事は、タイやミャンマーの場合、基本的にはセンターから支給されるこ とになります。瞑想センターの中に部屋なり小屋 ( クティ ) なりがあって、そこを割り当てら れた上で、時間になったら食堂などで食事をいただく形ですね。瞑想センターでは「午後に食 事をとらない」という戒 ( ルール ) を守りますので、食事は午前中に済ませる朝食と昼食の二 。こけ、というところが多いと思います 回になるか、あるいは午前に一食カ プラユキスカトー寺の場合、基本的に食事は托鉢後の朝の一食。外部から多くの人がやって ( 瞑想合宿 ) が開催されている時には、さらに昼食が出ることもありますね。 あと、盛り付けがバイキング方式なので、一食がきついという人は朝食時に少し余分に取って おいてもらって、お昼前に自分の部屋で食べることも許可しています。
います。 しかし、そこで気づきの力が育っていれば、そこで縁によって生じた煩の命ずるところに、 そのまま従ってしまうことはない。「あのバッグを買わないと我慢できない」とか、「あの人と 付き合えなければ死んでしまう」とか、そういう強烈な衝動の支配力にストップをかけて、 「これは本当に私を幸福にしてくれるのか」と、冷静に判断して選択する心のスペースができ るわけです。仏教的な意味での自由というのは、基本的にこの「選択できる余地」をつくるも のなんだと思いますね。 「空気を読むこと」が無我ではない たしかに仏教的な自由というのは、基本的にそういうことなのだろうと私も思います こだ、問題はその具体相ですね。瞑想の智慧によって育てられた気づきのカで、縁によって生 嶂じた思いや煩悩に、ナイーヴに従うことなく生きていける。そういう人の日常における振る舞 いが実際にはどのようなものになるのかということです 先ほどの「思いどおりに振る舞うことが自由ではない」というのと同時に、私かよく一言うの 第 は、「空気を読むことが無我ではない」ということなんです。日本語の日常会話でも、よく 「我を立てるな」なんて表現がされますけれども、これは実際には、「空気を読め」という意味
て、世界の一切衆生と共創する物語を現し出していくことに他ならないんです。私が「瞑想は 日常生活に役立たなければ意味がない」と考え、実相法と実践法を基本的には不可分のものと して捉えるのも、やはり仏教というのは智慧を獲得するだけでは半分で、それが衆生に対する 抜苦与楽の慈悲行へと活かされてはじめて、ブッダの意図にもかなうと思うからですね。 テーラワーダは「人生否定、来世志向およびニ元論的ー ? 魚川智慧の風光が慈悲の物語へと表現されることが仏教の本質だ、ということには、もちろ ん私も同意します。ただ、そういった慈悲の物語の示現のされ方、つまり「何が抜苦与楽なの か」という点に関する考え方は、個人や文化圏によって相違が出てくる可能性はあると思いま す。 プラユキ多様な物語に自在に応対するのが慈悲の性質だから、それはもちろん、そうなりま すよね。 悲 慈 魚日よ、。 とくに文化圏の問題は大きいと私は思っていまして、例えば前章で言及したコー 章 ンフィールドさんたちの設立した—やスビリット・ロック、そうしたセンターを中心とし 第 てインサイト・メディテーションを実践するアメリカの人々は、基本的にはテーラワーダに属 することを拒絶しています。
ますから、思想的にはもちろん大問題であるにしても、少なくとも実践者にとって、輪廻に関 する議論はとりあえず「スルー」しておいても大きな問題はない。こだ、仏教について論じる 上では、そこは避けて通ることのできない問題ではあるし、一般レベルでの誤解が非常に多い トビックでもあるので、多少は丁寧に言及した、ということですね。 しかし、「ゼロポイント」の出版の後で、日本の大乗仏教の僧侶の方々を含めた、様々な読 者とお話しする中で、「どうも輪廻というのは、あんがい大した間題らしい」と感じるように なったんです。具体的に言うと、例えば「渇愛 ( タン、 ー ) 」に対する現代日本と上座部圏で の扱い方の違いに、輪廻思想が関わっているように思われる。 プラユキ渇愛というのは、喉が渇いた人が水を求めるような、欲望の対象を希求する根源的 な煩悩のことだよね。その扱いが、現代日本の仏教とテーラワーダ仏教ではどう違うの ? 魚川まずテーラワーダ仏教では、渇愛というのは基本的に滅尽、つまり尽く消滅させるべき ものですよね。 慈プラユキテーラワーダ仏教の目指す究極的な境地では、そうなるべきだろうね。 しょてんぽ・フりん 魚川そうですよね。これは当然のことで、ゴータマ・ブッダは最初の説法 ( 初転法輪 ) から、 「苦から解脱したければ渇愛を滅尽させろ」と言っているわけです。テーラワーダの人たちは、 これを基本的には文字通りに受け取るから、そうであれば少なくとも理想的には、「渇愛は滅
すね。金銭的に余裕のある方は、もちろんたくさん出されますが、あまり余裕のない方は、可 能な範囲で出してもらえれば構いません。最近は、センターに人る時点でいくらかの支払いを あらかじめ求めるところもあるようですが、それも決して高い金額ではないと思います。 プラユキスカトー寺の場合も、基本的にお布施方式ですね。もちろん払う金額の多寡で扱い を変えるようなこともありません。 魚川タイやミャンマーの場合ですと、最近は *--POO の格安航空券もありますし、少なくとも 日本で普通に生活するよりはずっと安い金額で、交通費も含めて数カ月の長期滞在をするだけ の費用を賄うことは可能でしよう。瞑想センターの中に人ってしまえば、やることは瞑想だけ で、食事などは与えられるわけですから、お金を使う機会もありませんし。 プラユキそうですね。お金を含めた貴重品などは、最初に預かってしまう瞑想センターも多 しでしょ , フ 魚川一一一口語に関しては、スカトー寺の場合はもちろんプラユキ先生が日本語で対応してくださ いますから、お寺まで辿り着けるだけの旅行会話ができれば問題ありません。ミャンマーの瞑 想センターの場合も、 いまは日本語の通訳がいるところがいくつかあります。日本語の通訳が いないセンターでは、基本的に英語で瞑想指導を受けることになるでしよう。 プラユキ英会話に慣れていない人にとってはちょっと大変かもしれませんね。
プラユキインドの古い一「ロ葉である、 ーリ語で書かれた聖典を保持していて、そこに伝えら れるゴータマ・ブッダの教えを、基本的にはそのまま受け継いでいる宗派だと言われています 魚川そうして出家されてから、基本的にはタイのスカトー寺で修行しつつ、時々は日本にも いらっしやる、という生活を、プラユキ先生は続けてこられた。その「エンジェル・マン」と 私が出会ったのは、『苦しまなくて、 いいんだよ。』 ( 研究所 ) という、先生のこの著作がき つかけです。 プラユキこのオレンジ色の本ね。 「のヤすらかド生きるた第 ? ブッタ。の粤 、苦しなくて、 仏教のやさしさに つつれる本 タ内・バから北東 0 0 拠洋い食のて物家した日木人第もとを なをか、れる日事人が第えてい ブッノの敵賢とをを心ま受勢ぐ による・災代わ対歳 魚日よ、。 ーし私は大学院で仏教学を勉強してから、二〇 〇九年の末にミャンマーに渡航し、それからしばらくは 瞑想センターにこもって、ずっと瞑想をやっていました。 そして、それが自分なりに一段落したので、日本に一時 帰国していたんですね。それでたまたま書店に行って仏 教書の棚を見ていたら、この派手な色の本が目に人った。 プラユキほー 魚川帯にはドーンと、謎のお坊さんの写真が出ていま
172 世間的な意味での「自由ーとは ? 魚川本章のテーマは「自由」です。この対談の文脈においては、これまで話してきた智慧と 慈悲という仏教の二つの側面が融通無礙に統合され、自らの身をもって、それを現実に表現で きる境地のことですね。プラユキ・チャートにおいても、「仏・法・僧」の中では「仏」、ま =. w に対してはま一・・などと、仏教の叡知が人格的に体現されたあり方が、「自由」の項に配当 されています。 また、プラユキ先生は『自由に生きる』や『自由になるトレーニング』 (Evolving) といった 書籍も出版されていて、これは先生にとっても基本的なテーマの一つです。そこで、まずはプ ラユキ先生の定義される「自由」の内容について、お聞かせ願えればと思います。 プラユキそうですね。まず一般的 ( 世間的 ) な「自由」の理解を確認しておきたいので、 くつか辞書での定義を挙げてみますと、こんな感じです。 心のままであること、あるいは外的束縛や強制がないことを意味する。 ( 『プリタニカ国際大百 科事典小項目事典』一部略 )
190 でしょ , フ 魚川それは、もちろんよくわかります。だから私も『仏教思想のゼロポイント』において、 仏教における戒律の意義と重要性を強調していますしね。私が「仏教が教える解脱のための瞑 想を修することは、世俗的な意味で人格を『よく』することと、直接的には繋がらない」と言 怒り出す人がいるのですが、私はだからといって瞑想実践者の倫理を否定しているわけ ではありません。「戒律を守る限り、瞑想実践者は社会的にも『悪い人』にはならない」とい うのは、私が各所で同時に強調していることです。 ーリ仏典において、 実際、これは日本の仏教の文脈ではあまり強調されないことですが、パ ブッダの法と律というのは、多くセットで言及されるんですね。真理を宣べ伝える法というの は、社会的な振る舞いの規範である律とともに学ばれるべきものである、というのは、ゴータ マ・ブッダの頃からの仏教の基本方針であったということです。 「戒」を守るとなぜ自由になるのか プラユキそこは、本当に大切なところだと思いますね。この戒・定・慧と、智慧と慈悲の関 係については、私はこれを真・善・美と関連させつつ、次の図 ( 図Ⅳ ) のように考えているんで す。
どうやら日本は何度目かの、プチ・瞑想プームのさなかにあるらし い私はふだんミャンマ ーのヤンゴンに暮らしているので審らかには知らないが、 近年はアメリカにおける「マインド フルネス」実践の流行の余波が日本にも及び、テレビ番組で特集が組まれたり、あるいはファ ッション雑誌の記事などにもこうした実践が取り上げられて、身心ともに健康な生活を実現す そくぶん ることを目的に、新しく瞑想に注目する方々も増えていると仄聞している。 こうした傾向は、理論と実践の両面から、多少なりとも瞑想に関わってきた私のような人間 にとっては、基本的に喜ばしいものである。あるタイプの瞑想を適切に実践することで、人の 視界に他のことでは得られないような種類の風光が開かれ、そうすることで、その人の人生が め よりよい方向へと決定的に変化することがあり得るということを、私は知っているからだ。 とはいえ、全てのタイプの瞑想が、あらゆる種類の人々にとって「よい」影響を及ぼすかと 言えば、事情は必ずしもそう単純ではない。 「悪い瞑想」が存在するから、というよりも、多 つまび はじめに
194 です。 魚川なるほど。戒を守る生活をすることで、煩悩の命ずるところに無軌道に従って、むしろ ストレスを溜めてしまうということもなくなり、仏教的な意味での「心からの自由」が達成さ れる。そして、そのような生活態度は同時に「美しい」ものでもある、ということでしようか プラユキそういうことです。戒を守るということは、悪行為を避けることを通じて、自分自 身の価値を毀損せずに保っということですから、それは健全な自尊心を育むことにも繋がりま す。そして、倫理的な生活態度を継続することは、もちろん他者からの尊敬を勝ち得ることに も繋がりますから、それが「日常生活をよくする」ための基盤にもなるわけです。まさに、私 たちは「戒を守ることによって、戒に守られる」わけですよ。 智慧へと上って慈悲に下る、大切なのはこの循環 プラユキこの、戒律からはじめて智慧に至り、再び智慧を基礎として戒律に戻るという、向 上と向下の道の循環は、大乗、テーラワーダを問わず仏教の基本です。これなしで、ただ瞑想 して智慧を得るということだけに偏ってしまうと、「べクトルのある」物語の日常において適 切に振る舞うことがないがしろにされるというか、場合によってはそれを否定的に捉えて、 「べクトルのない」世界だけを高く評価し、そこに囚われるということも起こり得る。言わば、