プラユキ「大乗仏教批判の書」として、好意的に読んだわけね。 魚川ええ。それで、ある時、そういう読者の方にお会いする機会があったので、ちょっと訊 いてみたんです。「あの本のどこを読んで、大乗仏教批判だと思ったんですか ? 」って。そう したら、「いや、虚心坦懐に読めばそう書いてあるでしよう」とおっしやるから、「いやいや、 それは具体的にどの部分ですか ? 」と、嫌な著者なんですがしつこく訊いた ( 笑 ) 。 そうしたら、「いやだって、大乗仏教はゴータマ・ブッダの仏教と全く同じではない、 書いてあるじゃないですか。それは批判でしよう ? 」と、答えてくださったんですね。それを 聞きまして、「ああ、そういうふうに考える人がけっこういるんだ。これこそが、私の当面し なければならない間題なんだな」と、よく理解できたんです。逆に言えば、私自身には、そう いう感覚が全くなかったんですね。 プラユキ「全く同じではない」と指摘したら、それが直ちに「批判」になるという感覚が、 なかったということね 魚日よ、。 近代仏教学の成果が広く社会的に共有されている現代日本において、大乗仏教の 全ての教説と、ゴータマ・ブッダの教説が「全く同じ」であるという前提を維持することは、 特定の宗教的な立場を有する方は別としても、一般には難しいですから。 ーリ経典から知られる限りで そこで私が『仏教思想のゼロポイント』で行ったことは、「。、
たから、そこに本質的な相違があるはずがない、 という前提で考えた場合、そこでそれぞれの 実践の性質と「目的地」を精査して、異なった複数の実践相互の位置づけを、一望して把握で きるようなハースペクティ、フをつくろうという動機は、はたらきにくくなりますから。 プラユキみんな「同じ一つのこと」をやっているという前提であれば、相違の性質を明確に する作業は必要なくなるからね。 魚Ⅱよ、。 ( し私がこの問題に気がついたのは、『仏教思想のセロポイント』に対する、読者の 方々の反応からです。どうも一部の読者の方々は、あの本を「大乗仏教批判」だと読まれたみ たいて・ プラユキそういう人もいたんた 。へ というのも、著 魚川これは私にとっては椅子から転がり落ちるレベルの衝撃でして ( 笑 ) 。 の 者としての私の意図は、全く真逆のことでしたから。実際、テーラワーダ原理主義者の方々か 教 るらは、「なぜ大乗仏教などを擁護するのか」と叩かれましたしね。 プラユキどっちからも叩かれたと ( 笑 ) 。 実 章 魚川そうなんです。とはいえ、叩きたい人が誤読するのは、そういうものだから仕方ありま せん。気になるのは、「ゼロポイント」を好意的に読んでくれた人までが、「あれは大乗仏教批 判でしよう」と一言っていたことですね
のゴータマ・ブッダの仏教」の内容を確認して、その上で大乗を含めた豊饒な仏教思想の多様 げだつねはん 性が、ゴータマ・ブッダの解脱・涅槃という「ゼロポイント」から生じてくる構造を提示した、 」い , フ一」」で亠 9 一 つまり、「違いがあるから間違っている」と主張したのではなくて、「違いがあっても、それ が『仏教』であり続ける構造」を明らかにしたのが「ゼロポイント」だったということですね もちろん、仏教思想の全体は膨大で多様ですから、完備・完結したものでは決してなくて、あ くまで一つの可能なパースペクテイプを提示したものに過ぎませんが プラユキ「ゼロポイント」の最後には、多様な仏教思想のうちの特定の立場だけを「正しい ) 仏教」であるとし、それ以外は「間違った仏教」であると断定することの不毛性も、きちんと 一指摘されていたからね。 の 魚川ええ。しかし、そのような明示的な記述すら「スルー」させてしまうほど、「本当で正 教 るしい仏教がたた 一種類だけ存在し、それはゴータマ・ブッダの説いた仏教と完全に同一であ 践 フ前提は、一部の人々のあいだで根強い。 この理解に留まるかぎり、普通の人々が 様々な形で関わり得る「実践する仏教」に関しても、その各々の性質や「目的地」の相違を 「正しい / 間違っている」という文脈から離れた仕方で精査して、相互の関係を一望できるよ うに位置づける「地図 ( 。ハースペクティ、フ ) 」は、つくりようがないわけです
ますから、思想的にはもちろん大問題であるにしても、少なくとも実践者にとって、輪廻に関 する議論はとりあえず「スルー」しておいても大きな問題はない。こだ、仏教について論じる 上では、そこは避けて通ることのできない問題ではあるし、一般レベルでの誤解が非常に多い トビックでもあるので、多少は丁寧に言及した、ということですね。 しかし、「ゼロポイント」の出版の後で、日本の大乗仏教の僧侶の方々を含めた、様々な読 者とお話しする中で、「どうも輪廻というのは、あんがい大した間題らしい」と感じるように なったんです。具体的に言うと、例えば「渇愛 ( タン、 ー ) 」に対する現代日本と上座部圏で の扱い方の違いに、輪廻思想が関わっているように思われる。 プラユキ渇愛というのは、喉が渇いた人が水を求めるような、欲望の対象を希求する根源的 な煩悩のことだよね。その扱いが、現代日本の仏教とテーラワーダ仏教ではどう違うの ? 魚川まずテーラワーダ仏教では、渇愛というのは基本的に滅尽、つまり尽く消滅させるべき ものですよね。 慈プラユキテーラワーダ仏教の目指す究極的な境地では、そうなるべきだろうね。 しょてんぽ・フりん 魚川そうですよね。これは当然のことで、ゴータマ・ブッダは最初の説法 ( 初転法輪 ) から、 「苦から解脱したければ渇愛を滅尽させろ」と言っているわけです。テーラワーダの人たちは、 これを基本的には文字通りに受け取るから、そうであれば少なくとも理想的には、「渇愛は滅
0 もちろん、「正しい仏教」や「本当の仏教」が、学問的な関心や宗教的な要請から、主題的 な間題となるような文脈は存在するでしよう。そこは、必要だと考える方々が、徹底的に議論 してくださったらよいオオ 、学者でも宗教者でもない普通の人々が、何かしらの実存的な関 、いを持って仏教に関わろうとする場合、「正しい本当の仏教」といった議論にこだわり過ぎ ることは、二千五百年の仏教史が育んできた豊饒な思想的多様性の果実を十全に受け取りにく くなるという意味において、必すしも得策とは言えないのではないかと、個人的には考えます。 food fo 「 life ( 人生の糧 ) としての仏教 と言っているんだよね。 プラユキ魚川さんは、自分を「仏教徒」ではない、 魚川そうですね。私は学者でも僧侶でもありませんし、仏教との関わりも、大学の学部時代 に西洋哲学を専攻していたことからの流れですから、いわゆる「仏教徒」としてのものではな いということは、いつも申し上けています。英語に foodforthought ( 思索の糧 ) という表現 がありますが、私にとって仏教は言わば foodfor 一一 fe ( 人生の糧 ) ですね。仏教から人生に せんさく って必要なものを学ばせていただくことが私の意図ですから、文献学的な穿鑿をそれ自体とし て目的にすることはないし、ゴータマ・、フッダが言った ( とされる ) ことであれば全て正しい 最初から前提するようなこともありません。
的にはたいへんシンプルです。最初の苦諦で「生きることは苦です」と凡夫の現状を指摘し、 二番目の集諦で「その苦には原因があります。それは渇愛です」と原因を究明する。そして三 番目の滅諦で「原因である渇愛を滅尽させれば、苦もなくなります」と解決策を宣言し、四番 目の道諦で「苦を滅尽させるには方法があります。それは八正道です」と方法を明らかにする。 プラユキうん、実にシンプルでわかりやすいよね。 魚日よ、。 これをゴータマ・ブッダの一「ロ葉通りに実現することがテーラワーダ仏教の本懐で すから、滅諦の部分にあるとおり、渇愛は「残りなく離れ滅尽」させるのが、当然だというこ とになるわけです ところが、現代日本の大乗仏教の僧侶の方々の場合は、渇愛をそのように滅尽させるべき対 象として考えることは、少ないように思います。これも例によって優劣や是非の間題としては 私は考えておりませんが、「渇愛はなくせないだろう」「煩はあるものだろう」「その上で、 章それとどう付き合うかが仏教の肝じゃよ、 オし力」ということを一「ロわれる方が多いようです 茲 ( プラユキたしかにそういう話を日本のお坊さんからは聞くね。テーラワーダの図式だと、智 一一慧や「悟り」を得ることイコール苦の減少や滅尽、といった公式があると思うんだけど、日 本の仏教では、「悟る」ということと渇愛や苦の減少や滅尽ということがそんなに繋げて語 ぽんのうそくぼ られていない感じがするね。いわゆる「煩悩即菩提」ということなのかな。
257 第三章自由の章 けで完結していて、それが現実存在する一定の対象を否認しないと成り立たないような場合に、 それを他者にも押しつけようとしたならば、そうした信仰が抑圧的に機能することはあり得る かもしれません。 プラユキなるほど。宗教が日本で評判が悪いのも、まさにそうした抑圧的に機能する「信 仰」のあり方が、人々に忌避されているということに起因しているんだろうね。 「方角がなければ迷いもない」というのが智慧の核心 魚川そう思います。それで、再び「悟り」に話を戻しますが、私としては、仏教がもたらす 智慧の核心は、この「②のパースペクテイプを開くこと」だと考えているんですね。「私ー対 象」関係の物語を離れて、それを俯瞰する「 N 軸」を立てることです。このことは、『仏教思 想のゼロポイント』の、最も根本的な主張でもあります。 私の大好きな『大乗起信論』の言葉に、「迷人は方に依るが故に迷うも、若し方より離るる ときは、則ち迷うこと有ること無し」というものがあります。「迷う人は、行かなければなら 、′っノしし ない方角があると思うから迷うのだけれども、もしその方角というものから離れれば、迷 いうこと自体がなくなってしまう」ということ。「超理論」のようにも聞こえますが、仏教の 最根源的なヴィジョンを表現するものとして、これは非常に適切な言葉だと私は考えます。
240 プラユキそうだね。その種の言葉自体が「間違っている」というわけではないけど、きちん と自ら修行して、色々なものを見る過程を経た上でそれを言っているのか、それとも単に「悟 りは日常の中にある」と「言い張っている」だけなのかは、本気で修行しようとしている人に は伝わってしまいますからね。そこは本当に、仏教者としてそれまで積み重ねてきたものが問 われると思います。 魚川そうですね。「言い張ってる系仏教」の間題点というのは、非常に大きいと思います。 なぜ「仏教はヤバい」と言うのか 魚川それともう一つ、この対談のテーマに関わって再度強調しておかなくてはならないのは、 そのように「私ー対象」関係の物語を俯瞰する「②のパースペクテイプを開く」ということは、 し」い , っ , 」し」で亠 9 一こ、れは、ほ」′ル 人間的な意味で「役に立つ」ことと直接的には繋がらない、 ど原理的に当然のことですね。私たちが普通に考える、人間的な意味で「役に立つ」というこ とは、「私ー対象」関係の物語の中で「上手くやれる」こと。先ほどの『大乗起信論』の比喩 に即して言えば、「自分の行きたい方角へと、迷うことなく最短距離で進めること」です。他 方、「②のパースペクテイプ」は、そのような「私ー対象」関係という通常の人間にとって当 たり前の枠組みを外した風光であるわけですから、それが人間的な意味で「役に立つ」ことに、
194 です。 魚川なるほど。戒を守る生活をすることで、煩悩の命ずるところに無軌道に従って、むしろ ストレスを溜めてしまうということもなくなり、仏教的な意味での「心からの自由」が達成さ れる。そして、そのような生活態度は同時に「美しい」ものでもある、ということでしようか プラユキそういうことです。戒を守るということは、悪行為を避けることを通じて、自分自 身の価値を毀損せずに保っということですから、それは健全な自尊心を育むことにも繋がりま す。そして、倫理的な生活態度を継続することは、もちろん他者からの尊敬を勝ち得ることに も繋がりますから、それが「日常生活をよくする」ための基盤にもなるわけです。まさに、私 たちは「戒を守ることによって、戒に守られる」わけですよ。 智慧へと上って慈悲に下る、大切なのはこの循環 プラユキこの、戒律からはじめて智慧に至り、再び智慧を基礎として戒律に戻るという、向 上と向下の道の循環は、大乗、テーラワーダを問わず仏教の基本です。これなしで、ただ瞑想 して智慧を得るということだけに偏ってしまうと、「べクトルのある」物語の日常において適 切に振る舞うことがないがしろにされるというか、場合によってはそれを否定的に捉えて、 「べクトルのない」世界だけを高く評価し、そこに囚われるということも起こり得る。言わば、
238 「私」という主体か「方角」という対象を立てて、そこに「行かなければならない」と思うの は、「私ー対象」関係の世界における物語ですが、それを俯瞰する視座を提供して、「あれ、 まこう考えているのか迷いじゃないか」と気がっかせてくれるのが、智慧によって開かれるパ ースペクテイプの性質ですから。 そして、この『大乗起信論』の言葉の文脈自体がそうしたものですが、「悟り」に関しても、 基本的に同様の構造はあると思うんですね。「私」が「悟り」という対象を目指すというのも、 それが通常の認知構造を前提として言われているかぎり、やはり「私ー対象」関係の物語に属 してしまうことは避けられないわけです。そこで智慧のパースペクテイプが開けてみると、そ のように「私が悟りを追い求める」という枠組みが、あまりリアルに感じられなくなるという か、「そういうふうに E ることに意味を感じなくなる」ということはあり得る。「悟り」を目指 して修行を重ねられた仏教者の方々が、結果として「悟り」を語ることに消極的になることが しばしばあるのには、そういう構造も背景として存在するのではないかと思います プラユキそれはたしかにあります。私自身、「悟り」云々とか考えることが仏教の修行だと は思っていませんから。 誤解のないように申し上げておきますが、私は「悟り」を得ることが価値のないことだと思 っているわけではありません。でもなぜ語らないかと言えば、私としては、「悟り」というの