170 慈悲は現実の他者との関係性の中で鍛えられるもの 魚川この場合、「意」は実践ですけれども、「情」と「知」に関しては、やはり瞑想で訓練す ることになるんですか ? プラユキはい、「」と「日 矢」ともに瞑想で訓練していけます。でもとりわけ「情」のほう は、現実の他者との関係の中で、実際に受容的な対応を繰り返していくことが瞑想訓練以上に 慈悲心を育む大きな力になっていきます。先ほど言ったように瞑想が基礎にはなるけど、実際 にそれができるようになるためには、実地で訓練を重ねないといけないからね。 魚川なるほど。慈悲というのは物語の世界における実践である以上、それはまず何よりも、実 際の他者との関係性の中において、実現され鍛え上げられなくてはならない、ということですね。 プラユキそういうこと。部屋の中で慈悲の思いに満たされるのも、それはそれで無意味だ は言わないけど、やはり一切衆生に対する現実の行為として実践されることこそが、慈悲の本 懐ではありますから。「自由」というのも、実はそこにあるものなんですよ。 魚川ちょ , フど、 しい締めくくりをいただき、ありがとうございます ( 笑 ) 。それでは慈悲の章 はこのくらいにして、次の自由の章に人りましよう。「べクトルのない」智慧の風光と「べク トルのある」慈悲の実践が統合された「自由」の境地と、その可能性が、次章のテーマになり ます。
体系ですから、たいていの間題には公式の回答がいちおうあるし、訊けばそれを繰り返してく れる僧侶の方もいらっしゃいます。ただ、そういうテクストに聿日いてあるようなことであれば、 大学で調べることも可能ですね。そうではなくて、私としては、「べクトルのある世界 / ない 世界」の性質を実践的によく知った上で、その両者の総合を自らの身をもって現実に示してい るような方の話を聞きたかったわけです。 プラユキたしかに、本人自身がそこに身を置いていない間題について、「こう書いてあるん たから、こうに決まっているでしよう」みたいなことを一言われても、とくこ ( 実践的・実存的な ( / 、いか、ら , ね 間題に関しては、なかなか納得はしこ テ 魚日よ、。 そんなわけで、スカトー寺を訪ねた私はプラユキ先生に質問したんです。「仏教 。へ 。一の智慧が開く如実知見の風光というのは、その原理として物語から解放された性質のものであ の る以上、それが『物語の世界における適切な振る舞い方』を、直接的に示してくれることはな 教 るさそうだ。ところで私は、この後どうしたらいいんでしようか ? 」って ( 笑 ) 蠍プラユキそんなこと、あったつけ ? ( 笑 ) ばっくよらく 章 魚川あったんです。そうしたらプラユキ先生は一一「ロ、「それは抜苦与楽だよ ! 」と、直ちに お答えになった。あれはよかったですね。互いに十分に理解している、テーラワーダの「公式 見解」を繰り返すようなことは全くされずに、現に私が悩んでいる当の問題を解くために必要
そして、そのように出家し、そのように彦行し、そのように「悟った」、フッダの衄ったこと を、ごまかさすに伝えたならば、それは一部の人にとっては「知的な興味関心」どころではな 実存の最深部に突き刺さる。仏教の教説と言えば、単に耳に心地よく快適なことだけを 「ありがたく」語るものだと思っていて、全く関心を持てなかった人たちが、「これなら私の実 存を何ほどか賭ける価値がある」と、本当に感じることがあるのです。 もちろん、「サバイ」で「ありがたい」説法を聞くことで救われたり、仏教に好感を持たれ ただ同時に、その種の説法を聞いても何も感じないけれど る方々もいらっしやると思います。 も、人々が当然のものと考えている「現実」を所与の前提とせずに、それが解体された深層に あるものを「ヤバく」ても直接に提示する教説に対しては、実存が震える人たちもいるのです。 というのも、彼らのみ苦しみの根源が、実際にそこにあるからです。 この世には「そういう種類」の人々が存在するということも、ご理解いただければと思いま の 第 4 悟らなくたって、いいじゃないか 魚川話を戻しましよう。慈悲の実践が話題でしたが、その自由な表現のされ方には、当然の ことながら多様性があります。
本質的にあるわけです。 つまり、 ーソナリティという実体的なものの存在を前提とした上で、そこに手を加えて変 容させる、ということにとどまらず、「無我」を洞察することを通じて、そのパーソナリティ というもの自体を解体し超越するところにまで、仏教的実践のヴィジョンは及んでいる。ここ は、一般的な心理療法と仏教的な心の問題への対処法との、相違点であるかもしれません。 私自身は、カウンセリング的なこともしますけれども、あくまで仏教者として相談に来られ る方々に対応していますから、やはりこの「無我性」の直観というところまで相談者の方を導 いていきたいし、またそうしてこそ、人のあり方が短期間で大変容するということも、生じ得 ると確〕信しています。 魚川プラユキ・チャートで言うところの非人称的な三二として、自身の「人格」すら実体的 なものではない、 無常なる現象の一つとして観察する智慧の「目」を養う、ということですよ ね。やはり仏教である以上、根底にはそのヴィジョンがなければならない、 というのは、全く そのとおりだと私も思います。 章 プラユキそうですね。比喩的に言えば、私たちはふだん xy 平面の座標の中だけで生きてい 第 るわけです。それだけを「現実」だと思っていて、そこで右に行くのか左に行くのか、そのた めには「自分」をどうしたらいいのか、そういうことだけを考えて生きている。つまり、今回
ど ) を探すことができるでしよう。そこで教えられている実践はまことに多種多様であって、 指導する先生方のバックグラウンドも様々です。 プラユキでも、それらは全て「仏教の実践」もしくは「仏教の瞑想」として教えられている 、わけでしょ , っワ・ 魚川そうです。多種多様な実践が、全て「仏教」という一つの名前によって、同じカテゴリ ーの下に包摂されて捉えられている。 プラユキなるほど、そうした多種多様な実践を俯瞰的に眺めて、互いの性質や関係を一望し つつ理解できるようなパースペクティ、フがないということか 魚川そうです。それぞれの仏教的実践のメソッドがどこに位置していて、その道を辿ってい けばどこに行き着くのか、ということを示してくれる、「地図」がないと一一口ってもいし 「正しい / 本当の仏教。にこだわるのは不毛 プラユキそれはどうしてそうなるんだろう ? やつばり仏教の実践なんだから、出発点は凡 夫 ( 悟っていない衆生 ) であり、終着地は仏 ( 悟った存在 ) に決まっていると、みんな無意識 のうちに前提しているからかな ? 魚川それは大きいと思います。見かけ上は異なっていても、みんな同じ「仏教」の実践なん
様な瞑想技法が実践者に示す「目的地」はそれぞれに異なるので、自分が目指すものとは違っ た「目的地」へと導くタイプの瞑想を実践してしまうと、本人にとっては必ずしも望ましくな い結果か、瞑想によってもたらされることもあり得るからである。このように、自身にとって 幸福と感じられる生を求めて瞑想を実践したのに、そうすることで、ますます不幸になってし まう人々のことを、本書では「瞑想難民」と呼んでいる。 こうした「瞑想難民」の存在は、この種の実践に自ら関わってきた人々には、経験的に知ら れている。瞑想それ自体は悪いものではないにせよ、関わり方によっては、それで不幸になる 人か現実にいるということだ。そのようなリスクについてはふれないままに、あたかも瞑想を 実践すれば、「全て」がよくなるかのような言説も世上には散見されるが、そうした「誇大広 告」を目にすると、やはり現在のプチ・瞑想プームには、多少の懸念も抱かざるを得ない。 瞑想自体が問題であるというよりも、必要な知識と理解を欠いたままその実践を続けてしま うことが問題なのだから、瞑想に関心を持つ人々にとって大切なのは、自分が行おうとしてい る実践の性質がいかなるもので、それがどこに己を導くのかということについて、事前に一定 の把握をしておくことだ。そして、そのために必要なのは、現代日本で注目されている多くの 瞑想が、本来は仏教に由来しており、その宗教的な枠組みの中で、「悟り」を実現するために デサインされている技法であることを、きちんと意識しておくことである。
そして、私の見るところでは、このような fo ( ) dfor 一一窄としての仏教を学び実践してみたい という潜在的な需要は、現代日本にも大いに存在すると思うのです。つまり、学者や特定の宗 教的な立場を保持する信徒としてではなく、したがって、「正しい / 本当の仏教」を一つに確 定することが主たる関心事になるのではなくて、自身にとっての food for life となるような 「仏教」があるならば、それは学び実践してみたい、 という人たちですね。 そうした方々の求めに応じるためには、現実には性質や「目的地」が様々に異なる複数の 「実践する仏教」について、それらの相違点と互いの関係性を、「どれが本当で正しい仏教なの 力」要」い , フ 文脈には属さない仕方で提示する「地図」が、やはり必要になると思います。本書 ) では、プラユキ先生が実践される仏教の性質についてお話を伺いながら明らかにすることで、 この「実践する仏教のパースペクテイプ」の一端も、見えるようにしてみたいんですね。 の プラユキなるほど。プラユキの仏教の「位置」がわかれば、そこから他の様々な「実践する 教 仏教」の相対的な位置関係も、多少なりとも見えてくることになるということだね す 践 実 プラユキ仏教のポイント、手動瞑想とカウンセリング プラユキ先生の実践の中で、その「位置」が一般に見えにくい要素には三点ある と考えていまして、その一点目は、先生が指導されているチャルーン・サティという瞑想です。
218 ころは、意見の異なった先生方にはそれぞれに支持者がいて、各々の教えによって「私の抜苦 与楽が果たされた」と感じている人たちもいるわけです。そのように多様な仕方で人々の救済 に役立っている複数化された「仏教」を、「正しい教えはどれなのか」という視点だけで見て しまうのは、あまりにも「もったいない」と思うんですね そうではなくて、「この宗派、この先生が教える実践は、こういう『目的地』に向かうこと を選択している」という、それぞれの瞑想法や教授法ごとの性質を、優劣や是非の問題はひと まず措いて正確に理解し、それを「実践する仏教のパースペクテイプ」の中に位置づけること ができれば、そこから瞑想者は、己の関心と責任において、自らの実践を選択することができ るようになる。それができれば、瞑想の実践によってむしろ苦しんでしまう人というのも、ず いぶん減らせると思うんです。 プラユキそれは大賛成。瞑想の実践によってむしろ苦しんでしまっている人は私もたくさん し J 田 5 , フキに↓に 魚川さんのそうした発 見てきました。一人でもそういった人は減らせるといし 言に対しては、「お前はブッダのパーフェクトな教えとしての仏教に対する信頼感を損なって いる ! 」と批判してくる人もいるんじゃないかな ? 魚川そのように言う人もいますけれども、私はその感覚が本当に理解できないんですよ。 し′、、宀ない」要」い , フ一」」は十の、り」ま 「唯一の正しくて完璧な瞑想法を実践すれば何もかもが上手く
は、特定の宗派的な立場を持たない人が仏教の実践に関わろうとする際に、意識されておいて よいことです。自分が仏教の実践に何を求めているのかという、その「目的地」を明確にして、 そこに至るための適切な方法を教えてくれる場所や先生を選ぶことが、実践的に仏教に関わる ための第一歩なのですが、多様な選択肢があることを知らなければ、そもそも選ぶ動機がはた らきませんから。 プラユキいまは本当に、世界はもちろん、日本にも多くの瞑想教室があるし、そこで教えら れているメソッドも種々さまざまだから、「目的地」も多様になる。宗派的な立場を離れて仏 教を実践する場合には、そこをまず理解しておかなければならない、 し」い , フ一」し J , れ 魚川はい。私はミャンマーの著名な僧侶・瞑想指導者であるウ・ジョーティカ師の『自由へ の旅』というウイバッサナー瞑想の解説書を翻訳していて ( 新潮社より二〇一六年十一月刊行 ) 、たい へんな名著なんですが、これの原題が "AMap 0 コ heJourney 当なんですね。直訳すれば『旅 の地図』ですが、瞑想実践をする際には、これが本当に大切です。ある特定の先生の指導によ って、ある特定の瞑想法を実践することが、自分をどこへ連れて行くのか。仏教の瞑想は全て 章 「同じ一つの目的」を目指しているのだとナイーヴに考えてしまうと、気がついたら自分が望 第 んでいた目的地とは、全く異なる場所に辿り着いているかもしれない。 プラユキニューヨークに行きたかったのに、気がついたら上海にいるようなことも起こり得
214 と言っています。これ が必要です。つまり、私たちは価値判断する勇気をもたねばならない」 は、本当に大切なことだと思うんですね。私たちは瞑想を実践するに際して、人生に関するあ る態度を選択する。そして、それは裏返せば、別の態度は選択せずに放棄するということです。 実践の内容それ自体は「価値判断を差し挟まない観察」でも、それを続けた結果として実践者 が示す人生の態度には、一定の方向性が当然ある。ゴータマ・ブッダが「世の流れに逆らうも の」と表現した、その方向性を目指す実践に自分が関わろうとしているということは、やはり 瞑想をはじめる前に、意識されておいてよいことだと思います。 プラユキうん、それはわかるよ。ただ、 瞑想と言っても色々と種類があるし、指導の方法も 様々でしよう 。だから、そこで「世の流れ」や「現実」との関係をどのように考えて、どうい う人生の態度を選択することになるのかについては、「瞑想したら必すこうなる」という、一 定の結論があるわけではないよね。 「唯一の正しくて完璧な瞑想法」を想定してはいけない 魚川それはもちろんおっしやるとおりです。これまでにご説明いただいた、プラユキ先生の チャルーン・サテイやカウンセリング的な相談者への対応などは、物語の「現実」に、より即 した生き方を実践者に教えるものだと思いますからね。