146 強化してしまう人もたくさんいる。これは、なかなかの難問題だと思います。 プラユキうーん、そこはチャルーン・サティで対応できるんじゃないかなあ。 魚川チャルーン・サティで、過度の集中による現象のデフォルメを避け、「いま・ここ空 間」を開いていくことで、「私ー対象」構造には自然と囚われなくなると ? プラユキ私は、そう考えて指導をしていますけどね。 あらゆる現象を落ち着いて受け止める、受容力としての「定」 、呼吸 ーナ・サティとい , フ たた、これも前章で言われていたとおり、先生はアーナー に集中して微細な感覚を観察する瞑想も、現在は指導されていますよね。すると、やはり 「戒・定・慧」という仏教の基本的な枠組みに表現されているとおり、集中は仏教の智慧を育 てるためには必要だということも、ある程度は承認されているんですよね。 プラユキもちろん、集中力の育成にしてもラベリングにしても、それで効果を上げる人がい 。こご、それらによって、身、いともに健康 ( る限り、私としても否定するつもりはありません なるためにはじめた瞑想が、むしろ身心のバランスを崩す要因になってしまっているとしたら、 その問題は指摘しなければなりません。 定ということについて言えば、たしかにそれは智慧の前提だけれども、私としては、これを
61 第一章智慧の章 たいと思います 海外の「瞑想センター」の基礎知識 魚川そんなわけで、コーンフィールドさんの文章を参照しつつ、智慧や「悟り」の実際上の 多様性と、そこに実践的に関わる上での「目的地」の明確化の重要性について、ここまでお話 をしてきました。 それに因んで、ここで様々にある瞑想センターの選び方についても、話をしておきたいと思 います。ちょっと余談にはなりますが、やはりこういう 実際的な情報も、瞑想を志す方にとっ ては有益でしよう。それに、経験者にとっては常識的なことでも、未経験者にとっては、ちょ っと見当のつきにくい世界でもあると思いますので。 プラユキそれはそうかもしれない。 そもそも普通の人には「瞑想センター」というのが何な のか、とい , フところからわからないだろうし。 魚川そうですね。タイやミャンマーには、地元の人が数日から、場合によっては年単位で滞 在して、現地語で指導を受けながら瞑想を実践できる施設が国中にありますが、英語で meditation cen 窄 r と言う場合には、英語などの外国語で指導できる先生がいて、外国人の受 け人れ体制も整っている瞑想実践の施設のことを指すことが多いですね。「センター」とは言
魚川そ - つですね。例 - んば "Buddhanet" (http://www.buddhanet.net/) とい , フウエプサイトがあり まして、そこから英文の仏教書を無料でダウンロードすることが可能ですから、そうい うものを一冊読んでおくと、仏教の英語表現が理解できて便利だと思います。「煩悩」は ま def 一一 emen 二・と訳されるとか、そういう特徴的な表現はいくつかありますから。 それと、他の注意事項としては、やはり行った先のセンターの指示には必ず従う、というこ とですね。滞在する際に「仏教徒であること」を要求するセンターは滅多にないと思いますが、 それでもセンター内で瞑想修行をする際には、仏教の戒を遵守することが求められます。例え ば、先ほど申し上げたような午後に食事をとらないこととか、立日楽を聴かないこととか、ある いは女性の化粧も禁止事項になりますね。ノースリープやショートパンツなど、肌を過度に露 出する服装も、禁止されていることが多いでしよう。 また、スカトー寺はそうでもないですが、瞑想センター内では無一言行を指示するセンターも 多くあります。会話などの瞑想者同士のコミュニケーションを基本的には禁止して、瞑想に専 念してもらうということですね。言うまでもないことですが、瞑想センターに人る目的はレジ ャーではなくて修行ですから、センター内で指示されたことには、きちんと従っていただきた いと思います。 プラユキたしかに、瞑想を指導する先生方や、真剣 に修行している他の瞑想者の方々に、迷
プラユキなるほどね。まあそのチャー師の指導はタイの森林派のお寺では普通のものですよ。 タイ語ではタム・チット ( 心的実践 ) とタム・キット ( 作業的実践 ) と言うんだけど、これを 両方バランスよく育てていく。禅寺の坐禅と作務の関係に近いんじゃないかな。 例えばチャー師のエビソードで思い出したんだけど、彼の弟子が粗末な小屋で瞑想をしてい て、すごく雨漏りがしているわけ。で、弟子自身は瞑想に耽ってるからそれに動じていないん だけど、チャー師がたまたまそこに通りかかって、「おまえ、どうして雨漏りしているのに、 それを直さないんだ ? 」と言うわけです。弟子はそれに対して、「いや、僕はそんなことには 囚われていないんで」と返すんだけど、そしたらチャー師は、「おまえ、それは牛のサマーデ ( 定・集中 ) だよ」と言ったわけ。 魚川ああ、それはいい言葉ですね。 プラユキうん。牛はね、たとえ雨漏りがしていようと、全く動じることなしに、そこで生き 章続けるわけだけど、 人間であれば雨漏りは直すことができるわけです。そういう人間の任務と してやるべきことをしないままで、ただ牛のように瞑想の集中の境地に偏ってしまっている。 そういうことの問題を指摘したエビソードですね。 第 魚川よくわかります。そういうタム・キットの領域への目配りは、タイの森林派僧院のほう 4 が手厚いでしようね。 ただ、そのぶんコーンフィールドさんも指摘しているように、瞑想上の さむ
69 第一・章智慧の章 為人になっているわけです。つまり、自分がこれからその先生の指導の下に瞑想をやってい のであれば、その先生が現在そうなっているような為人へと、方向性としては、向かって行く 可能性が高いということ。たから、瞑想を教えている先生を見て、「自分はこういうふうにな りたいのか」と考えてみることは、実践を選択する上で、とても大切なことです。 瞑想をすれば人格が「よく」なるとは限らない プラユキなるほどね。しかし、そうだとすると、やはり瞑想と人格には関係があるというこ とじゃないの ? 魚川もちろんです。瞑想というのは全人格的な実践ですから、瞑想と人格には当然「関係」 はある。ただ、これも智慧と慈悲の場合と同じことで、瞑想と人格のあいだには「関係」はあ るけれども、それは「瞑想をやれば必ず人格が世俗的な意味で『よく』なる」といったような、 単純でシームレスなものではない、 というのが私の指摘していることです。 そのよ , フに、 「瞑想をやれば必ず人格は『よく』なるはすだ」といったようなマインドセッ トで実践を考えてしまうと、例えばコーンフィールドさんがマハ シ・センターでやったよう な瞑想は、先生の人格が必ずしも「よく」なかった以上、「間違った」瞑想だということにな ってしまう。しかし、コーンフィールドさんの設立した—かマハ ーシ式の瞑想を基礎とし
の身の振る舞いなども学んでいけますからね。とても大事なことだと思っています。スカトー 寺の現住職で、私の兄弟子に当たるパイサーン師も、「お寺で瞑想して、色々な境地を得ると いうのは練習なんだよ」ということをよく言います。例えば、僧侶であっても静かな森の中か ら出て、様々な五感に対する刺激のある町中に出ることはありますが、そういう時でもきちん と気づきを保っていられるか。「本番はそっちだよ」というニュアンスの話をされますね。 またタイの森林派では、「おまえの身心が瞑想のテキストだぞ」とはよく一言われるところで、 とりわけ私の師匠のカムキアン師からは、これこれこういった段階を経て涅槃に至れというよ , フなゴール ・オリエンテッドな指導ではなく、 いま・ここのライプでの気づきを重視して、瞑 想段階や涅槃の境地とかについてはほとんど一言及されないオープン・エンドな指導を受けてき ました。 大量の蚊に刺されても動じない、ハードコアな瞑想の価値 の 慧 智 魚川なるほど。「いま・ここのライ、フでの気づきを重視する」というところは、ミャンマ の瞑想センターでも変わりませんが、「瞑想段階や涅槃の境地とかについてはほとんど一言及さ 第 れない」というあたりには、たしかに基本的な指導方針の差を感じますね。 4 個人的には、タイの森林派僧院での指導のあり方には共感をおぼえますし、「本番は森を出
された痒みが全く平気になるようなトランス状態に人ったのに、 にもかかわらず村の騒音にど んどん過敏になっていったように、現実に生じている事態からどんどん遊離していって、その 平安な状態を乱すものに対して、嫌悪の感情を抱くようになるんですね。 実際、私がお話しした「瞑想難民」の方にも、集中の境地にとっては邪魔になる思考や想念 を悪者に見立てて、そこから離れようとしてしまい、結果として感情が乏しくなってしまった り、さらには人間関係も上手く結べなくなってしまったりする方が何人もいらっしゃいました。 ほとんど病的な解離症状に陥っているわけですけれども、瞑想の場合に厄介なのは、指導者に あかし よっては、そういう状態を「瞑想が進んでいる証」として、肯定してしまったりするわけです。 それでますます、困難な自分の現状から逃げるために回避行動としての瞑想に没頭し、さらに 状況を悪化させていくというスパイラルに落ちてい 感覚に言葉でラベルを貼る、「ラベリング技法」の問題点 魚川なるほど。「現実をありのままに見る ( 如実知見する ) 」はずの瞑想が、過度の集中によ って、むしろ日常的な現実の否認に繋がってしまうわけですね。この「解離」や「回避」の症 状については、ウイバッサナー瞑想においてしばしば推奨される、「言語によるラベリング」 という技法の間題点も、プラユキ先生は指摘されていましたね。
魚川なるほど。現実対応能力の育成が常に念頭にあるから、その際に問題を生じやすい過度 の集中は、プラユキ先生の瞑想指導においては忌避される、ということなんでしようね。この あたりは、プラユキ先生が説く智慧の性質とも、深く関わっていそうです。 プラユキそう ? 魚川はい。例えばミャンマーの瞑想センターでは、多くの場合、集中力の育成はたいへん重 視されています。このこと自体は間違っていないというか、戒・定・慧の三学、即ち、戒を守 り、定を育てることが智慧に繋がる、という仏教の大前提からすればむしろ当然のことではあ ります ミャンマーの瞑想センターでプラユキ先生が言われるような「過度の集中がも たらす弊害」のようなことを指摘した上で、手動瞑想のような技法を評価していこうとするよ うな動きは、あまり見られないと思います。 プラユキそうなんだ。それはどうしてだろう ? 魚川やはり「目的」が違うということでしよう。チャー師がコミュニティにおける実践は重 視していたが、「瞑想上の経験には、そこまで興味がなかった」のに対して、ミャンマーの多 くのセンターでは、瞑想上の経験は非常に重視されるけれども、それと現実対応能力の関係な どについては、そこまで強い関心を持っていないように見えます もちろん、ミャンマーにもそうでないセンターはありますし、またコーンフィールドさんの
自分が何を求めているのかという「目的地ーを明確にする 魚川さて、ここまでお話ししてきたのは、仏教の実践および、それが指し示す「目的地」の、 実際上の多様性についてです。私たちが仏教に関わって、瞑想などの実践を行うのは、第一義 的には、仏教の示す智慧の開発をするためです。これは、「智慧の開発」が仏教自体の大目的 である以上、いわゆる「吾りこ ↑」 ( 近づいていく行為とも重なり合います。 この「悟り」や智慧の内容は、原理としては、もちろん一味 ( 一種類 ) であるべきはずのも のです。しかし、実際上は、定評ある高名な僧侶や瞑想指導者たちのあいだで、それに対する 見解が大きく異なるという事態が現実存在している。コーンフィールドさんが指摘していたよ ハーシ師のあいだでは、「悟りの内容やそれを得る方法に関して、 うに、例えばチャー師とマ 全く意見が相容れなかった」わけですから。 そしてまた、人々が仏教の実践に求めているものも同じく多様です。「渇愛を滅尽して解脱 たい」と考える人もいるでしようし、「ただ心安らかに暮らしたい」と願う人もいれば、「仕 事で創造性を発揮したい」と望む人もいるでしよう。ひょっとしたら、仏教の実践が方法や 「目的地」において多様であるのは、そうした人々の求めるところの多様性に応じた結果であ るのかもしれません。 いずれにせよ、智慧や「悟り」の内容について、実際上の多様性が存在しているということ かつあい
方に適すると思われる他のお寺を紹介してあげています。私自身はこういった分業的なやり方 は当然アリだと思っています 最近は日本にもテーラワーダ系のお坊さんや在家の瞑想指導者も徐々に増え、また一般の人 たちに様々な修行やワークショップの機会を提供する日本の伝統仏教のお坊さんも出てきてお 率直に言って今日の日本の仏教シーン、百花繚乱で非常に面白くなってきているように思 うんですね。しかし、こんな時代だからこそ、魚川さんが今回の対談で指摘されたパースペク テイプの混乱や「誇大広告」の間題、「本当の仏教」問題などがしつかりとクリアされ、適切 なマッビングがなされることが急務ではないかとも思います そんな意味で、今回の私たちの対談が、こうした間題を顕在化させ、仏教に縁ある人たちの 関心を喚起し、みんなでその解決策を考えていき、さらなる健全化を推し進める端緒となれば しいですね。そしてそれぞれができることを互いに補い合いながら「チーム仏教」として、幾 分華やぎはじめてきている今日の仏教シーンを一過性のプームに終わらせずに、日本人全体の 抜苦与楽を実現化する実効力のある教えとして根づいていかせることが望まれます。 章 第 「悟り」を目指す気はないが、ただ「語る」ことはしたい人々 魚川さて、この対談も終盤に差し掛かりましたし、そろそろ本書のタイトルにある、「悟