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検索対象: 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門
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1. 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門

魚川瞑想というと、「定 ( サマーディ ) 」という一言葉が concen ( ra ニ on と訳されるように、 「集中」とは切り離せないものだというイメージがありますが、そこを敢えて避けるのはどう してなんでしよう ? プラユキそれはやはり、時々刻々と変化する現実に「追いついていく」ためですね。気づき のことを漢語で「念」と訳していますが、この念と定と慧 ( 智慧 ) を、私はスポーツにおける スヒード・ ワー・テクニックに対応させて説明しています。 魚川念がスビードで、定がパワーで、慧がテクニックということですか ? プラユキそうです。定というのは現実を落ち着いて受容できる基礎となるパワーであり、そ の上で変化する事象に追いついて気づいていけるスビードが念に当たる。そのように育まれた 念と定に基づいて、何がどうなっているのかを素早く判断し、適切な対応を選択することがで きるテクニックが智慧ですね。 誰でも経験しているように、私たちの目の前にある現実は、常に流動し変化しているわけで の す。そこに適切な対応をとろうと思ったら、瞬間ごとに変わっていく事態に対して「パッ 「パッ」と気づきを間に合わせていくスビードが大切になります。ところが、対象を一つに限 定した集中を過度に高めてしまうと、そのように変化に追いつく機動性が失われてしまう。私 たちが教えている瞑想で、過集中を戒めるのはそれゆえです。

2. 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門

す。「手を挙げる」「降ろす」といったような一「ロ葉による「ラベリング」は要りませんし、 皮膚の接触など細かい身体感覚に注意を研ぎ澄ます必要もありません。あくまで手を気 づきのマークとみなして、手の「位置確認」だけをしていきましよう。 三「雑念」を否定しない。 瞑想をしていると様々な思念、言わば「心のおしゃべり」か 必ず生じてきます。しかし、それも「こんなことを考えてはいけない」と否定するので はなくて、何が起こってきても「オッケー」という態度で、受け止めてあげてください それから、また淡々と手の動きへと気づきを戻していけばよいのです。 魚川なるほど。写真では椅子に座られていますが、坐禅のように床に座ってやってもいいん ですよね ? けつかふざ はんかふざ プラユキもちろん構いません。結跏趺坐でも半跏趺坐でも、あるいは安座でも、自分がリラ 慧 智 ックスできて座りやすい姿勢であれば結構です。ただ、背筋はなるべく伸ばすようにしましょ 章 第 かゆ 瞑想中に身体に痛みや痒みを感じたら、それを少し感じ取っていただいた上で、足を組み替 えたり身体を掻くなりして、不快感の軽減をはかっていただいて構いません。その際、痛みや

3. 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門

144 対象」関係を思惟する (thinking) マインドで瞑想をやっても駄目で、ウイバッサナーという のは、その枠組みを離れた破線の矢印 ( ② ) から見ることだ、という指摘でしようね。 気づきも一つの現象である プラユキそうだね。 「枠組みから離れる」とは言うけれども、それを観察する「気づ きの目」というのも、プロセスから離れた (detach した ) ものではなくて、それにふれてい る (touching な ) ものである、というのは重要なポイントだと思います。つまり、「私ー対 象」関係から離れたところに「本当の私」があって、だから「正しい観察」ができるのだ、と いう話ではないということ。ブッダは『大念処経』の中では、それを「カーヤ ( 身体 ) に於い てカーヤを観察する : : : すると『ただカーヤのみあり』との知見が生ずる」というように表現 され、さらに続けて、「ウェーダナー ( 受 ) 」「チッタ ( 心 ) 」「ダンマ ( 法 ) 」についても同様に 観察していくことによって、「無我性」が看破されるとされていますね。 前章でも申し上げたように、ブッダの瞑想の本質的な機能は、「無我性」を知らしめる、と いうことです。したがって、「気づきの目」というのも、それが固定的な観察主体として、プ ロセスから離れて存在する、というわけではないんですね。「観察する気づき」も、あくまで フロセスの中に生ずる現象であり、それは起こってくることに巻き込まれはしないけど、そこ

4. 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門

にミ uch 一 ng なものではあり続ける、ということです 魚川「気づきも一つの現象である」というのは、『自由への旅』でウ・ジョーティカ師も強調 されていましたね。「この気づきさえも無常・苦・無我であることがわかったら、そこに瞑想 する『私』は存在しない。 これを理解した時はじめて、瞑想者は無我に関する本当の洞察を得 るのです」と、ウ・ジョーティカ師は一一一口っています あるいは、瞑想によって得られる認知は、「頭だけを出した状態て , に流されていく」よ うなものだとも言われています。つまり、川の外に出て流れを眺めている状態 ( Ⅱプロセスか ら完全に detach した状態 ) ではないけれども、瞑想をしない状態だと頭まで水に浸かってい るのが、瞑想をすると頭だけは出して周囲を見渡せるので、障害物を避けたりなど、ある程度 のコントロールは利かせられる、ということです プラユキわかりやすい、よい喩えだね。気づきでさえも、生成消滅する現象のプロセスとい 章 う「川」と切り離されたものではなくて、あくまで「流れの中」にあるものだということだよ の 章 魚Ⅱよ、。 ( したた、これも「言うは易く、行うは難し」の典型例で、先ほども申し上げたとお 第 り、仏教の瞑想を実践する際に、「我を強化しよう」と思ってやる人は滅多にいないわけです。 にもかかわらず、結果としては「私ー対象」構造に巻き込まれて、むしろ瞑想によってそれを

5. 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門

これはたしかに、キャパシ 印となるような、「気づきの灯台」であり続けなければならない ティが間われますね。 プラユキはい。 、いに間題を抱えた方を助けたいという場合に、最も大切なのは、「自分が巻 ということです。でも、だからといって距離をとるだけでは、相手が心を開い き込まれない」 」 . い , っ . てこちらの話を聞いてくれることもありません。そこで「共感しても巻き込まれない」 態度をどれだけ維持できるかということは、本当にその人のキャパシティというか、力量次第 の話になります。 たた、そのキャ。ハシティを広げるというか、相手の話を受容する基本的な態度をつくる上で、 瞑想が非常に役立っというところはあると思います。「巻き込まれない」というのは、「どんな に激しい感情の流れの中においても、明晰な気づきを保っておく」ということですが、これは まさに、瞑想で養われる態度そのものですからね。先ほどの喩えに即して言えば、五十の怒り 章を持った人に対して、こちらの安らぎが四十でも、話をしながら気づきを明晰に保てていれば、 茲 ( そこに二十のプラスアルフアの力が加わって六十対五十になり、何とか呑み込まれずにいられ 二る、といったことは実感としてあります 先ほどの魚川さんの話の中に、ウ・ジョーティカ師の「川」の喩えが出てきましたけど、そ こで指摘されていたように心という「川」の流れから身を乖離させすに、しつかりとコミット

6. 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門

の身の振る舞いなども学んでいけますからね。とても大事なことだと思っています。スカトー 寺の現住職で、私の兄弟子に当たるパイサーン師も、「お寺で瞑想して、色々な境地を得ると いうのは練習なんだよ」ということをよく言います。例えば、僧侶であっても静かな森の中か ら出て、様々な五感に対する刺激のある町中に出ることはありますが、そういう時でもきちん と気づきを保っていられるか。「本番はそっちだよ」というニュアンスの話をされますね。 またタイの森林派では、「おまえの身心が瞑想のテキストだぞ」とはよく一言われるところで、 とりわけ私の師匠のカムキアン師からは、これこれこういった段階を経て涅槃に至れというよ , フなゴール ・オリエンテッドな指導ではなく、 いま・ここのライプでの気づきを重視して、瞑 想段階や涅槃の境地とかについてはほとんど一言及されないオープン・エンドな指導を受けてき ました。 大量の蚊に刺されても動じない、ハードコアな瞑想の価値 の 慧 智 魚川なるほど。「いま・ここのライ、フでの気づきを重視する」というところは、ミャンマ の瞑想センターでも変わりませんが、「瞑想段階や涅槃の境地とかについてはほとんど一言及さ 第 れない」というあたりには、たしかに基本的な指導方針の差を感じますね。 4 個人的には、タイの森林派僧院での指導のあり方には共感をおぼえますし、「本番は森を出

7. 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門

142 図Ⅱ「私ー対象」関係と「気づきの目」 ・ノ気づき (sati) 象 対 0 ① 我を強化するために瞑想をしているつもりはな いわけです。にもかかわらず、それが結果とし て自己を疎外し我を強化して、様々な病的な症 状を呈することにすら繋がってしまうのは、瞑 想を「私ー対象」関係のフレームワークの中で、 行ってしまっているからではないでしようか。 つまり、図において実線の矢印 ( ① ) が示し ているような形で、「怒り」や「痛み」といっ た対象を観察することが、瞑想になってしまっ ているわけです。そうすると、本人にはそのつ もりがなくても、対象として「怒り」や「痛 み」などを「客観視」した副作用として、「客 観視する私」はそこから疎外され、むしろ際立 っ結果になってしまう。 しかし、仏教の瞑想が本来的に示しているヴ イジョンというのは、①ではなくて②の、破線

8. 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門

ち 4 図Ⅱ「私ー対象」関係と「気づきの目」 気づき (sati) 対象 0 魚日よ、。 それで、ここから先は若林さんの 話を私が解釈したことですけれども、その時の 彼に起こったことは、前章で触れた「『私ー対 象』関係のフレームワークを、いったん外すこ と」に、非常に近いと思うんですね。フラユキ C) 先生の言葉を借りれば、「軸」が立 0 たと表 現してもいし 即ち、前章でも示した図Ⅱに沿って説明すれ ば、「疑心を抱くのが衆生じゃないか」と「あ あだこうだ考えていた」のは、図の①の矢印の 世界で起こっていたことだった。「私」という 主体が、浄上や弥陀の本願といった「対象」を ~ 旦ちに〔信じられるものかど , つかそ , フは一一一口って も「疑心」は否定できないじゃないかと、まさ に「私ー対象」関係のフレームワークにおいて、 思考を重ねていたわけです。

9. 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門

います。 しかし、そこで気づきの力が育っていれば、そこで縁によって生じた煩の命ずるところに、 そのまま従ってしまうことはない。「あのバッグを買わないと我慢できない」とか、「あの人と 付き合えなければ死んでしまう」とか、そういう強烈な衝動の支配力にストップをかけて、 「これは本当に私を幸福にしてくれるのか」と、冷静に判断して選択する心のスペースができ るわけです。仏教的な意味での自由というのは、基本的にこの「選択できる余地」をつくるも のなんだと思いますね。 「空気を読むこと」が無我ではない たしかに仏教的な自由というのは、基本的にそういうことなのだろうと私も思います こだ、問題はその具体相ですね。瞑想の智慧によって育てられた気づきのカで、縁によって生 嶂じた思いや煩悩に、ナイーヴに従うことなく生きていける。そういう人の日常における振る舞 いが実際にはどのようなものになるのかということです 先ほどの「思いどおりに振る舞うことが自由ではない」というのと同時に、私かよく一言うの 第 は、「空気を読むことが無我ではない」ということなんです。日本語の日常会話でも、よく 「我を立てるな」なんて表現がされますけれども、これは実際には、「空気を読め」という意味

10. 悟らなくたって、いいじゃないか : 普通の人のための仏教・瞑想入門

百匹の蚊にたかられても平気な「集中ーを経験して気づいたこと 魚川それで瞑想を本格的にはじめられて、とにかくチャルーン・サティをずっと実践された んですか ? プラユキいやあ、それがですね : チャルーン・サティの手動瞑想は、カムキアン師の師 匠である、ティアン師の考案された瞑想法で、だからカムキアン師には当然それを教わったん だけど、最初はその価値がわからなくてね。 魚川ああ、それはよくわかります。若くて、やる気満々で、「さあこれから仏教の修行をや るぞ。悟るためなら、どんなにつらいことでも耐えてみせるぞ」というつもりでいる時に、手 をパタバタ動かして、「これが瞑想です」と言われても、「ちょっと何これ ? 」と思ってしまい ますよね。 章 プラユキそういうところはありましたね。手を動かす意味もわからなかったし、気づきと集 の 慈中の違いもわからなかったからね。 魚川前章で言及した、プラユキ先生のやることにいちいち文句をつけていた男の子はそうい 第 う感じだったと思いますし、あるいはチャー師が瞑想技法を丁寧に教えてくれないことに不足 を感じて、ミャンマーに渡ったコーンフィールドさんにも同様の感覚はあったでしようね。そ