164 魚川『苦しまなくて、 ししんたよ』に、そういう事例も出てきましたね プラユキ O 美さんのケースね。あれもそうだけど、他にもこんなことがありました。ある女 性、仮にさんとしておきましよう。日本に一時帰国中、さんのみ相談を受けることにな った。まずますいい対話ができて、ちゃんと共感を築いた上で、そこからフラスアルフアとい う形で変化を促していった。その経験がとてもよかったということで、さんはその日のうち に、同じように悩みを抱える友人のさんを紹介してくれたんですよ。 それで、そのさんの相談を受けた時に、彼女が自分の問題を話してくれるのですが、そこ で私はさんとの関係があったものだからちょっと油断して、いきなり色々とアドバイスをし くというプロセスを端折ってしまったんですね。 てしまったんです。「まず共感を築」 いわゆるラボール ( 二人の人間のあいだに形成される相互信頼の関係 ) を築く過程を飛 ばしてしまったと。 プラユキそうそう。それでその場は納得してさんは帰ったように見えたんだけど、あとで さんから、「ちゃん、プラユキさんと話してすごく落ち込んだみたいですよ」という連絡 が来て、その時はたまたま年末年始の時期だったから、「ああ、お正月をつらい気持ちで過ご させてしまったな」と、本当に申し訳ない気持ちになりました。 魚川先生にも、そういう失敗の経験はあるんですね。
156 らぎが起こっていますね。 プラユキまあそういうことは、意識されないだけで、誰でもが日常的に行うコミュニケーシ ョンにおいても、並日通に起こっていることだと思うけどね たたこういうことを療法的に、意識的に行う際に注意しなくてはいけないのは、そこで 「私がやってやったんだ」という感じを出さないことですね。別のところにも書いたことがあ るけれども、カリスマというのは逆をやるんです。「私が教えている。私があなたをよくして あげている」というアプローチをして、相談者のポジテイプな部分は自分に投影させて、自分 のネガテイプな部分を相談者に逆投影する。そうすることで、相手をどんどん自分に依存させ てしまうんですよ。これはもちろん、よろしくない。 だから私としては、自分がそこできちんと引いて、話をする中で相談者の方に薫習していっ たポジテイプな要素を、いかに本人自身のものとして感じてもらえるかが、勝負になるという ところはあります。ちょっと欲が出ると、「自分がやってやった」的なことも一言いそうになり ますからね。そこで我を出さない、 ということです。そもそも、「私のもの」なんて何もない んだから。 魚川なるほど。ただ、そうは言ってもプラユキ先生の考え方や振る舞いが相談者の方に影響 を与えるということは起こるわけで、そうすると責任重大ではありますよね。
「正論」を言って失敗する 魚川プラユキ先生が、かなり症状の重い人であってもスカトー寺に受け人れることができる のは、やはり瞑想で培われた、そのような己のキャパシティに自信があるからですか ? プラユキそうですね。私がどうということよりも、ますはブッダの教えに対する信頼ですね 世の中には様々な心の問題への対処法があって、それぞれに効果を上げていますけれども、中 には前章で触れた < 子さんの例のように、カウンセリングも薬も効果がなくて、本当に人生に 絶望しきっているような方もいるわけです。そういう人に対しても、ブッダの示した方法であ れば、という、私なりの確信はあります あとは、これまで自分がやってきたこと、スカトー寺で色々な方の相談をずっと受けてきて、 基本的には皆さんいい結果を出してこられた。そのような場数を重ねることで、私自身の器も 徐々に広がってきて、「まあこのくらいならいけるかな」という、見極めもできるようになり 章ました。そういう意味での自信はありますね 慈 たしかに、もう一一十五年くらいスカトー寺を中心として、そして現在は日本の各地でも 様々な方の相談を受けてこられて、大きな問題はいまのところないんですよね。 第 プラユキうん。まあブッダの教えはパ ーフェクトだけど、私自身は未熟なところもあるので、 相談者の方に泣かれちゃったりすることもかってはありましたけれども。
プラユキあれは相談をしに来る人ではなくて、相談を受ける側の人だったからね。 魚川そうですね。スカトー寺でプラユキ先生を見ていてすごいと思うのは、先生は「ちょっ と日常で心の悩みを抱えている」というレベルの人だけではなくて、完全に病気の水準の人ま で、スカトー寺に来られる限りは、受け人れているでしよう。最近オ ごと、日本のお寺でもみ 相談を聴いてくださる僧侶の方が増えてきましたけど、それでも完全に病気の人までは、なか なか受け人れられないと思います。事故が起きたら大変ですし、責任をとることも難しいです からね。 プラユキそれはそうでしようね 魚川そこで受け人れられるのは、どうしてですか ? プラユキそれはやつばり、一つは先ほども触れた「絶対値記号」の観点だよね。「通常」や 「普通」の意識状態から逸脱して、マイナスの価値を持っとされる「病気」の状態になった人 でも、それに絶対値記号を付ければプラスでもマイナスでもない、ただの状態になる。腐敗と 発酵というのが、単 ( 人 こ間にとって価値があるかないかという基準で意味合いも変わっている のと同じで、現象はただの現象だから、そこをとりあえず正しく見る。 その上で、私としては、「ー一 00 」で出ちゃってるものも、ちゃんと変えれば「十一 00 」にな
実践なんですが、このチ これは座った状態で目を開けて、手をパタバタと動かしていくという ャルーン・サティは、たぶん一般に考えられている「仏教の瞑想」のイメージとは、少々乖離 しているかもしれません。 プラユキたしかに一般には、仏教の瞑想と言えば「座って目を閉じグッと集中して、そうし たら何か変性意識状態に入って。ハーンと悟る」みたいなイメージがあるよね。 魚川そうですね。このチャルーン・サティに関しては、第一章で詳しくご説明いただきます そして二点目ですが、先生はスカトー寺に、心に悩みや病を抱えた人々を多く受け人れて、 彼・彼女らの苦しみを軽快させるという慈悲の実践を長く行われてきていますね。 では、そこで何が行われているのか。スカトー寺は仏教の寺院なのだから、仏教の実践であ フラユキ先生は、瞑想と る瞑想のみによって相談者を癒すのかと思えば、そんなことはない。。 同じか場合によってはそれ以上のレベルで相談者との長時間の対話、カウンセリングを重視し ています。実際、『苦しまなくて、 いいんだよ』でも、挙げられた例のほとんどにおいて、相 談者の方々は瞑想というよりも、プラユキ先生との対話の中で、「苦しみに対処するためのヒ ント」を掴んでいますね。 プラユキもちろん、来ていただいている方には皆さん瞑想をしてもらっているし、そこで開 発される智慧が全ての基本になってはいるんです。ただ、それを個々の相談のケースに合わせ
にはむしろ無意識に行ってしまっていることが、本人の深層におけるどういうトレンドに根ざ しているのかがわかってくるから、そこが腑に落ちると、すごく心が楽になると同時に希望も 見えてくるんですよ。 自我の壁を揺らがせ、場の布置を変容させる仏教カウンセリング プラユキあと、自我の境界ということに関連して一言えば、そうやって夢について話し合って いくと、私であるとか、あるいは直接にプラユキ自身ではなくても、私のような登場人物であ るとか、そういったものが相手の夢に登場することがあるんです。相談者の方にプラユキが浸 くんじゅう 透するというか、仏教用語で言えば薫習 ( 香の薫りが衣に移るように影響が及ぶこと ) するん ですね。私の考えや私の視点、私の振る舞い方が、無意識裡に薫習して、相手の夢に登場する。 そうすると、もうそれは本人の一部になってしまっているんです。 魚川その話はすごく面白いですね。「私ー対象」関係を前提として、プラユキ先生というカ 慈ウンセラーが、解釈を通じて対象としての相談者を変容させるのではなくて、夢を題材に話を 二することを通じて、プラユキ先生と相談者という現象によって形成されている全体的な場のコ ンステレーション ( 布置 ) を変容させてしまう。その場においては、単に固定的・実体的な 「人格」同士が自我の壁を守ったままコミュニケーションをするのではなくて、その境界に揺
プラユキそうなんです。そこは仏教者としての私のあり方が問われるところですよね。僧侶 として戒律を守り、ブッダにはなれなくても、可能な限りプッダに近い振る舞いを日々に心が けることで、相談者の方にネガテイプな影響を与えず、ポジテイプな面を薫習できるように、 私自身が常に気を引き締めていないといけないとは思っています。 魚川西洋の心理療法的な、カウンセリングや夢分析のような技法を使ってはいるけれども、 その場を設定するプラユキ先生の「背骨」をつくっているのは、やはり仏道であるということ ですね。 プラユキそうです。私はカウンセラーではなくて仏教者ですからね。心を病んだ方々の手助 けをするのも、あくまで仏道の一環としてやっていることなんですよ。 「あなたの力量次第だよ」 章 魚川それに関連して思い出したのですが、以前に先生が、同じように心に悩みを抱えている の 慈方々の相談を受けている僧侶の方と、話をされているのを聞いたことがあります。その際に、 「自分は専門のカウンセラーではないから、どこまで相手に踏み込んでよいものかと逡巡す 第 る」と悩まれる僧侶の方に対して、プラユキ先生は「そこは、あなたの力量次第だよ」と、は つきり言われていましたね。あの時は、「プラユキ先生も厳しいことを言うんだな」と驚きま
魚川「私ー対象」関係をフレームワークとして、自我の統制の利いた通常の意識から、その 統制の緩んだ夢の意識へと移行するプロセスを分析することで、「境界」において生起する、 様々な神秘体験や病理現象の性質も知ることができたということですね。そのように私的に行 われていた夢の研究を、カウンセリングにも応用されるようになったのはいっからですか ? プラユキかなり最初のほうからやっていましたよ。出家して三、四年目くらいから。 魚川本当に初期ですね。その頃から、ずっと夢を使い続けられていると。 プラユキうん。最初の本の『「気づきの瞑想」を生きる』に、 さんという女性の事例を書 いたけれども、彼女が色々と夢を見て、そこから面白い展開が起こるということもあったので、 そのあたりから夢の世界を相談の場でも積極的に使うようになったかな。 実際に、夢について話をしてみると、単に瞑想をしたり相談を受けているだけよりも、実際 に結果が出やすいという現実があったんですよ。役に立っというか、本人にとって苦しみが少 章なくなり、自由になるという結果が出やすかったということですね 慈 章 「夢と仲良くなる」と心が楽になる 第 魚川それは、その人がいまどういう物語を生きているかという、現状認識のために夢が役立 ったということですか ?
ということですね こは注意していただきたい、 魚川なるほど。プラユキ先生の言われる「定」の性質がたいへんよくわかりました。 人格の解体・超越までも視野に入れたカウンセリング 魚川次に慈悲の間題に関連して気になるのは、これまで述べてきたような瞑想の性質と、プ ラユキ先生がやっておられる相談者へのカウンセリング的な行為との関係ですね。瞑想によっ て得られる智慧の風光は、いま話に出た「私ー対象」関係のような主観と客観の物語を離れた、 「べクトルのない」現象の世界です。他方、先生のところに相談に来る人が悩んでいるのは、 「べクトルのある」物語の世界における、「私ー対象」関係が前提となった悩みですね。 この二つの世界の接続、即ち、「べクトルのない」智慧の風光を「べクトルのある」慈悲の 実践へと繋ぐための一種の TIPS として、プラユキ先生はカウンセリングや夢分析といった、 心理療法的な技法を採用されているのだと、私としては理解しているのですがいかがでしよう カワ・ プラユキそんなふうに言ってもいいでしようね。ただ、私としては智慧と慈悲の場合と同じで、 自分のやっていることを、「ここまではべクトルのない智慧の世界を知るための瞑想」「ここか らはべクトルのある慈悲の世界で実践するための心理療法」といった形で、明確に切り分けて
本質的にあるわけです。 つまり、 ーソナリティという実体的なものの存在を前提とした上で、そこに手を加えて変 容させる、ということにとどまらず、「無我」を洞察することを通じて、そのパーソナリティ というもの自体を解体し超越するところにまで、仏教的実践のヴィジョンは及んでいる。ここ は、一般的な心理療法と仏教的な心の問題への対処法との、相違点であるかもしれません。 私自身は、カウンセリング的なこともしますけれども、あくまで仏教者として相談に来られ る方々に対応していますから、やはりこの「無我性」の直観というところまで相談者の方を導 いていきたいし、またそうしてこそ、人のあり方が短期間で大変容するということも、生じ得 ると確〕信しています。 魚川プラユキ・チャートで言うところの非人称的な三二として、自身の「人格」すら実体的 なものではない、 無常なる現象の一つとして観察する智慧の「目」を養う、ということですよ ね。やはり仏教である以上、根底にはそのヴィジョンがなければならない、 というのは、全く そのとおりだと私も思います。 章 プラユキそうですね。比喩的に言えば、私たちはふだん xy 平面の座標の中だけで生きてい 第 るわけです。それだけを「現実」だと思っていて、そこで右に行くのか左に行くのか、そのた めには「自分」をどうしたらいいのか、そういうことだけを考えて生きている。つまり、今回