207 第三章自由の章 ハス上で表現するような「瞑想絵画」です。禅の修行をすることで、幻想的な世界をデモーニ ッシュな衝動に基づいて描くような芸術制作の仕方は、もう維持できなくなったということで すね ( 横尾龍彦氏についてより詳しくは、春秋社から刊行されている鎌田東一一『世直しの思想』 pp. 224 ・ 229 を参照のこと ) 。 一」のしょ , フに、 制作する芸術作品の性質によっては、瞑想と相性がよくないというか、両立す ることか難しいという事態は、たしかにあるかもしれないと、個人的には思います。例えば小 説家などで、とくにファンタジーのような物語を書かれる方の場合は、瞑想と両立することが 実際に、ウイバッサナー瞑想をやってみたのだけど、どうにも創作との 難しいかもしれない。 相性が悪くて、実践をやめることにした作家の方の話も聞いています。 このこと自体は、是非の間題ではなく、観察瞑想の性質から考えれば自然なことだと思うん ですね。「心に生じてくる想念を、価値判断を差し挟まずに観察して、それにはまり込まな し」ということは、浮かんでくる創作上のイメージに関しても、それを追いかけて没人すると いう行為をいったん停止するということです。そういうマインドフルな心のあり方が常態化す れば、創作に際して対象のイメージに人格の全てを集中して、それを展開させるという、ある ′、 / 、宀なるでー ) よ , フ 種の芸術制作には必須の精神的なモードは、起動させに プラユキうーん、そこはもうちょっと自由に、融通無礙に二つのモードを行き来することは 可能だと思います。自由に「物語の世界」と「ただあるがままの世界」を往還すること、横尾
著者略歴 フラユキ・ナラテポー 一九六一一年、埼玉県生まれ。タイ・スカトー寺副住職。上智大学卒業後、タイのチュラロンコン大学大学院に留学し、農村開発におけるタイ 僧侶の役割を研究。八八年、瞑想指導者として有名なルアンボー・カムキアン師の下で出家。以後、開発僧、瞑想指導者として活動。著書に 「「気づきの瞑想」を生きる」 ( 佼成出版社 ) 、「苦しまなくて、いいんだよ。」 ( 電子書籍版 Evolving / オンデマンド版研究所 ) 、「脳と瞑 想」〈篠浦伸禎氏との共著〉、「自由に生きる」 ( ともにサンガ ) 、『仕事に効く ! 仏教マネジメント」 ( 電子書籍 E く olving ) 等がある。 魚川祐司 うおかわゆうじ 一九七九年、千葉県生まれ。著述・翻訳家。東京大学文学部思想文化学科卒業 ( 西洋哲学専攻 ) 、同大学院人文社会系研究科博士課程満期退学 ( インド哲学・仏教学専攻 ) 。一一〇〇九年末よりミャンマーに渡航し、テーラワーダ仏教の教理と実践を学びつつ、仏教・価値・自由等をテー マとした研究を進めている。著書に『仏教思想のゼロポイント」 ( 新潮社 ) 、「講義ライプだから仏教は面白い ! 」 ( 講談社 + 夜文庫 ) 、翻訳書 に一ゆるす」「自由への旅』 ( ともにウ・ジョーティカ著新潮社 ) がある。
190 でしょ , フ 魚川それは、もちろんよくわかります。だから私も『仏教思想のゼロポイント』において、 仏教における戒律の意義と重要性を強調していますしね。私が「仏教が教える解脱のための瞑 想を修することは、世俗的な意味で人格を『よく』することと、直接的には繋がらない」と言 怒り出す人がいるのですが、私はだからといって瞑想実践者の倫理を否定しているわけ ではありません。「戒律を守る限り、瞑想実践者は社会的にも『悪い人』にはならない」とい うのは、私が各所で同時に強調していることです。 ーリ仏典において、 実際、これは日本の仏教の文脈ではあまり強調されないことですが、パ ブッダの法と律というのは、多くセットで言及されるんですね。真理を宣べ伝える法というの は、社会的な振る舞いの規範である律とともに学ばれるべきものである、というのは、ゴータ マ・ブッダの頃からの仏教の基本方針であったということです。 「戒」を守るとなぜ自由になるのか プラユキそこは、本当に大切なところだと思いますね。この戒・定・慧と、智慧と慈悲の関 係については、私はこれを真・善・美と関連させつつ、次の図 ( 図Ⅳ ) のように考えているんで す。
は非常に有名なセンターですね。そこで、ある先生について瞑想を学ぶのですが、この人は瞑 想の教師としては非常に優れた方で、とても丁寧に、細かい指導をやってくれた。おかげで、 コーンフィールドさんはテクストに書かれているような瞑想上の様々な境地を、実際に経験す ることができたそうです 瞑想を教える技術に優れ、心を訓練する方法については本当によく知っていたのに、 その先生には人格的な問題があった。コーンフィールドさんは「西洋人だったので」、先生の 住処に近い「よい」小屋をもらっていたのですが、その先生ときたら足をテープルの上に載せ ながら新聞を読み、下手な庭師を怒鳴りつけたり、 庭に人ってきた犬に石を投げたりしている。 それを見ながらコーンフィールドさんは、「オーマイゴッド、 先生には感謝しているけれど、 僕はこんな人にはなりたくないよ」と独りごちたそうです プラユキそういえば、私のスカトー寺にも、以前「ミャンマーのセンターで瞑想していたん いじめられたんです」という人が来たことは、事実としてありましたね。「みんな瞑 怦想している人たちのはずなのに」と嘆いていたよ。魚川さんも、ミャンマーの瞑想センターで 日本人の僧侶から、「ここで瞑想しても人格はよくなりませんよ」と言われたエビソードを、 第 「ゼロポイント」で書いていたね。 4 魚川そうですね。誤解がないように付け加えておけば、ミャンマーの瞑想センターにも人格
第三章自由の章阜 世間的な意味での「自由」とは ? 仏教的な「自由」は世間的な「自由」とどう違うのか 「思いどおりに振る舞うこと」が自由ではない哂 「空気を読むこと」が無我ではない 「瞑想すると上手くいく」のではない 仏教の一部だけを取り出した「マインドフルネス」への懸念 「戒」を守るとなぜ自由になるのか 智慧へと上って慈悲に下る、大切なのはこの循環 「状態と意味に対する微細な囚われ」が瞑想の罠 真と善を、美しく表現する個性こそが自由である 理想は「観音吾薩パフォーマンス」 物語と融合する「フュージョン」がもたらすもの 様々な状態に心をチュー一一ングする訓練 「瞑想する」とは「選択する」こと 「唯一の正しくて完璧な瞑想法」を想定してはいけない 瞑想に関する「誇大広告」の問題点
4 4 て流行している「マインドフルネス」の運動の、源流をつくった一人でもあるでしよう。瞑想 やマインドフルネスに関心のある人々の中では、世界的な知名度のある方です。 それで、このコーンフィールドさんはアメリカで瞑想指導をはじめる以前に、タイとミャン マーで修行しているんですが、今回の資料にはその時の経験と感想が書いてあります。それが、 私自身が両国のテーラワーダを見てきた上での実感と、全く同じなんですよ。 プラユキほう。 魚川もう本当に、「あるある ! わかる ! 」と、何度も膝を叩きましてね ( 笑 ) 。 プラユキそれはすごい ( 笑 ) 。どんな内容ですか ? 魚日よ、。 まずコーンフィールドさんは、タイのアーチャン・チャー ( チャー師 ) という、 有名な僧侶の下で修行したんです。最初は在家の状態からはじめて、一時は僧侶にもなったみ たいですね。ところが、チャー師というのはコーンフィールドさんに一「ロわせると、素晴らしい ダルマ ( 仏法 ) の教師ではあったが、瞑想についてはあまり細かく教えてくれなかった。なぜ か。「その理由は単純で、彼は瞑想上の経験に、そこまで興味がなかったのである」 プラユキなるほど ( 笑 ) 。 魚川それで、もっと体系的に「より深い」瞑想を教えてくれるところを求めて、コーンフィ ルドさんはミャンマーのマ シ・瞑想センターに行きました。ここも、瞑想者のあいだで
ただ、私が中し上げているのは、そこには「選択の余地」があり、またその必要もあるとい うことです。ウ・ジョーティカ師がもう一つよく一一口われることに、 「誰も完璧ではない。私も 完璧ではないし、あなたも完璧ではありません。完璧なのは、伝説上のブッダだけです」とい うことがあるんですが、この意識は、非常に重要なものだと思います。 いまの日本はちょっとした瞑想プームで、それに関する言説の中には、瞑想があたかも「万 くし、病気も治るし、 能の処方箋」であって、それを実践すれば「仕事も人間関係も上手く 人格もよくなって、何もかもが成功します」といったような、「誇大広告」をするものもある。 しかし、瞑想というのは、もちろんそんなものではありません。 実際、「私が言うとおりに実践すれば、全て上手くできますよ」といったことを、瞑想指導 者が言葉の上では主張しているのだけれども、ご本人の現実の振る舞いにおいては、その理想 といった事例を、私はたくさん見てきました。 が言葉のとおりにはまるで実現できていない、 「瞑想の先生を選ぶ際には、その先生の『発言』だけではなく、その人の『為人』、つまり本人 の現実の振る舞いを、よく観察して判断してください」と私が強調するのには、そういった背 景もあるわけです。 たしかに、「伝説上のブッダ」は完璧ですし、そのパーフェクトなブッダのヴィジョンを胸 に抱いて、修行に励むことも大切です。たた 、現実には「正しくて完璧な瞑想法」が一つに定
はじめに てんめい力いこ 仏教は「転迷開悟 ( 迷いを転じて悟りを開く ) 」の宗教であると言われており、その目的を 実現するための実践 ( の一つ ) が瞑想なのだから、それを自ら継続的に行うということは、そ れぞれの宗派・指導者が理想とする「悟り」 ( と、明示的に言われる場合と、そうでない場合 があるが ) の方向へと、己の人格を形成していくことに他ならない。 このことは、「宗教色」 を除いた瞑想技法であるとされるアメリカ発の「マインドフルネス」実践にも、それが内容的 にはテーラワーダ仏教のウイバッサナー瞑想とほぼ変わらないものである以上、ある程度は当 てはまることである このような事情をよく理解した上で、それぞれの宗派・指導者が説く「悟り」を実現するた めに、瞑想を実践されている方々は日本にも多くいるだろう。 だが、同時に現在のプチ・瞑想 、フームからこの実践に興味を持たれた方の中には、とくに「悟り」を目指しているわけではな 「仏教徒」でもないけれども、もし身心ともに健康な生活がそれで実現できるのであれば、 瞑想をやってみても、 しいかなと、考えている人も多いものと推察する。 本書の目的は、そのように「悟り」を目指しているわけではない「普通の人」が、それでも 瞑想などの仏教由来の実践に関わろうとする際に、事前に知っておいたほうがよいことを、対 談形式でわかりやすくお伝えすることである。 対談のお相手は、テーラワーダ僧侶として三十年近く出家生活を送られてきた、プラユキ・
0 るわけだ ( 笑 ) 魚川そうですね ( 笑 ) 。まあ「目的地」が本人の理解とは異なる場合、普通であれば、明ら かに自分が行きたいところとは違う方向に進んでいるわけですから、「これはちょっとおかし しんじゃよ、 ) オし力」とか、「どうも自分が思っていたのとは少し違うぞ」とか、そういう違和感 を、実践のプロセスにおいて瞑想者は抱えることになります。しかし、日本の人は真面目です から、そこで「先生が正しいと一言っているんだから、おかしいと感じる自分のほうがおかしい のだ」と、仔細に検討もしないまま違和感を打ち消して、そのまま同じことを続けてしまう例 も多いんですね。 もちろん、自分の狭い固定観念を打破していくことも瞑想の大切な機能ですから、それがよ 中には明らかなノイローゼや、抑うつ状 い結果をもたらすこともないとは言えません。 態に陥っているのに、それでも根性で向かない瞑想法を続けてしまって、ドッポにはまる人も プラユキ日本でも瞑想が一般に広まるにつれて、最近はそういう人が増えてきたかもしれま せん。 魚川実はプラユキ先生は、その種の「瞑想難民」の相談をたくさん受けている、言わば「瞑 想難民間題」のスペシャリストでもあるのですが、その話は後ほど改めて詳しく伺うことにし
の身の振る舞いなども学んでいけますからね。とても大事なことだと思っています。スカトー 寺の現住職で、私の兄弟子に当たるパイサーン師も、「お寺で瞑想して、色々な境地を得ると いうのは練習なんだよ」ということをよく言います。例えば、僧侶であっても静かな森の中か ら出て、様々な五感に対する刺激のある町中に出ることはありますが、そういう時でもきちん と気づきを保っていられるか。「本番はそっちだよ」というニュアンスの話をされますね。 またタイの森林派では、「おまえの身心が瞑想のテキストだぞ」とはよく一言われるところで、 とりわけ私の師匠のカムキアン師からは、これこれこういった段階を経て涅槃に至れというよ , フなゴール ・オリエンテッドな指導ではなく、 いま・ここのライプでの気づきを重視して、瞑 想段階や涅槃の境地とかについてはほとんど一言及されないオープン・エンドな指導を受けてき ました。 大量の蚊に刺されても動じない、ハードコアな瞑想の価値 の 慧 智 魚川なるほど。「いま・ここのライ、フでの気づきを重視する」というところは、ミャンマ の瞑想センターでも変わりませんが、「瞑想段階や涅槃の境地とかについてはほとんど一言及さ 第 れない」というあたりには、たしかに基本的な指導方針の差を感じますね。 4 個人的には、タイの森林派僧院での指導のあり方には共感をおぼえますし、「本番は森を出