実践なんですが、このチ これは座った状態で目を開けて、手をパタバタと動かしていくという ャルーン・サティは、たぶん一般に考えられている「仏教の瞑想」のイメージとは、少々乖離 しているかもしれません。 プラユキたしかに一般には、仏教の瞑想と言えば「座って目を閉じグッと集中して、そうし たら何か変性意識状態に入って。ハーンと悟る」みたいなイメージがあるよね。 魚川そうですね。このチャルーン・サティに関しては、第一章で詳しくご説明いただきます そして二点目ですが、先生はスカトー寺に、心に悩みや病を抱えた人々を多く受け人れて、 彼・彼女らの苦しみを軽快させるという慈悲の実践を長く行われてきていますね。 では、そこで何が行われているのか。スカトー寺は仏教の寺院なのだから、仏教の実践であ フラユキ先生は、瞑想と る瞑想のみによって相談者を癒すのかと思えば、そんなことはない。。 同じか場合によってはそれ以上のレベルで相談者との長時間の対話、カウンセリングを重視し ています。実際、『苦しまなくて、 いいんだよ』でも、挙げられた例のほとんどにおいて、相 談者の方々は瞑想というよりも、プラユキ先生との対話の中で、「苦しみに対処するためのヒ ント」を掴んでいますね。 プラユキもちろん、来ていただいている方には皆さん瞑想をしてもらっているし、そこで開 発される智慧が全ての基本になってはいるんです。ただ、それを個々の相談のケースに合わせ
162 しながらも明晰な意識を維持していくというのは、智慧を獲得するためにも極めて重要である と同時に、苦しんでいる人の抜苦与楽を実現する共感力や慈悲心を培う上でも欠かせないとい うことです 例えば、み苦しんでいる人というのは、感情の川に溺れてアップアップしている状態とみ なせます。そうした状態にある人を助けるためには、相手の感情の渦や奔流の中に自ら主体的 に飛び込む必要がある。客観的な高みの見物では救えません。一方で、飛び込んでみたはいい が、荒れ狂う川を泳ぎきれる泳力を持ち合わせていなかったり、あるいは溺れてパニック状態 にある人を上手に岸にまで導けなかったりしたらどうだろう。一緒に溺れて、ともに日底にプ ク、フクと ' んでしま , フことになるでしょ , フ には、それ そんな意味で、「慈悲行」という悩み苦しみに溺れている人の手助けをしてい なりのリスクもあるということを知ってそのリスクを負う覚悟と、また、相手の感情に巻き込 まれないだけの受容力や明晰な意識、心についての深い洞察を日頃から培っておくことが必要 になります。また、感情に溺れてパニック状態にある人を上手に導くためには、じっくりと相 手の気持ちを聞かせてもらう傾聴力や、相手の気持ちやペースに合わせて柔軟に対応できる方 便力といったものも必要になってくるでしようね。
ているということであるから、「目」であり、「べクトルなし」なのです。 そんな意味で、私の定義するところの智慧というのは、物語から完全に detach した ( 離れ た ) ものではないんですね。そうではなくて、あくまで智慧は物語に巻き込まれない視点を確 保するものではあるけれども、同時にそれは物語に対して touch 一 ng な ( ふれている ) もので あり、明晰に理解もしているのです。 煩悩とイメージの形成する物語の流れに巻き込まれて、そのべクトルに引きずり回されるこ とで私たちは苦しんでいるわけです。でも、そこで「イメージはただのイメージなんだな」 「一一一一口葉はただの言葉なんだな」ということを、「いま・ここ空間」で落ち着いて観察できる智慧 いんわん の視点が開かれれば、そういうイメージや言葉が形成された原因や条件 ( 因縁 ) 、そしてさら 、物語に巻き込まれない場合と巻き込まれた場合のそれぞれの結果のコントラストやその 各々の結果がもたらす影響などについても、徐々にクリアに見えてくる。 そのように、物語が形成される縁がわかれば、もはやそこから離れる必要はありません。物 の 語は、もうわけのわからない苦しみの流れではなくて、巻き込まれずにそれにふれていること 一で、自身と周囲を抜苦与楽に導く可能性を持った「よき縁」となせる可能性が開かれる。私に とって智慧というのは、そういう「よき縁にふれる」ということなんですよ たいへんよくわかりました。チャルーン・サティは、まさにそのような、「現実」の物
160 苦しみを抱えた人と対話する時に大切なのは、まず受容し、共感するということです。仏教 力いド ) 「一にゆ : フ 用語に「開示悟入」という言葉があって、これは一般に「仏の智見を開示し、悟らせ、仏道に 人らせること」と解釈されていますが、私自身はこれを、「 ( 相手の心を ) 開かしめ、 ( 教え を ) 示し、悟らせ、仏道に入らしむ」と理解し、苦しみの解決サポートの際の順序の指針とし て、活用させてもらっています。 というのは、私自身は苦しみからの解放を得るための最高の方法は仏道だと思っていますけ れども、その価値を人々に理解してもらうためには、まず相手に心を開いてもらわないといけ ないんですね。苦しみの物語の中に巻き込まれて、それが「現実」になってしまっている人に、 そこから全く de ( ach したところから「これが正しい道だよ」なんて話をしても、なかなか理 解してはもらえません。 そうではなくて、相手の苦しみの物語の中に、私も自ら身を投じて、それを受容し共感する。 ただし、それに巻き込まれるのではもちろんなくて、苦しみの物語にミ uch 一 ng でありながら、 その流れの中で「ビカーツ」と灯台のように、気づきの光を灯し続けておくんです。 魚川仏法の教えを示す前段階として、まず相手に心を開いてもらわなければならないし、そ のためには苦しみの物語を受容し共感する必要がある。ただ、 流れに身を人れはしてもそこに 巻き込まれてはいけなくて、自分自身はあくまで相手が落ち着いて我が身を振り返るための目
ムいたいよー」という願いですね。ところがそういった願いが満たされないと心には「切な 2 さ」や「悲しみ」といった気持ちが生じてくる。そしてそれを受け止められず、その苦しみを 自分の問題すなわち一 wan : 0 の問題ではなくして、 Youhaveto つまり相手の責任に転嫁し 現象に転じていく機序です。 てーし土小 , フこ . れが「欲」し」い , フのが「奴り・」し J い , フ ところで、欲も怒りも仏教ではどちらも煩悩とみなされていて、根本原因である「欲」がそ もそもなければ、切ない気持ちも怒りも起こらず心は平穏なわけだよね。ところがこうした人 間関係においては、時間に遅れてきた時に「ぜーんぜん平気」といった感じで平然としていら れるよりも、遅れてきた相手が姿を現した時に、開口一番、「早く会いたかったわ。あなたに 会えない時間が切なくて切なくて : : : 」と素直に一 wan ( 5 を表明したほうが相手に喜ばれて、 ハッビーなムードでその日のデートをスタートできたりするんです。 即ち、一 want ( 0 としての欲が生じてきたとしても、それはそれでしつかりと気づいていれ ば、そこから怒りに発展させて、お互、 しにいがみ合う「修羅世界」を現出させることなく、お 互いが喜び合える「天界」を生きるという 選択ができるということですね。 またとくに男性はプライド重視傾向があるので、 Y ( ) uhaveto 言動を女生にされると、「プ ライド傷ついた」となって拒絶されやすく、一 want ミで求められると、頼りにされた感じが して、「一肌脱ぐか」という気になりやすいので、女性の皆さんには、自らの一 wantto を見
プラユキ例えば、これは『自由に生きる』でも触れた事例ですけれども、スカトー寺にいら した < 子さんという三十代の女性がいました。 / 彼女は心に悩みを抱えて、カウンセリングに通 ったり精神科で薬をもらったりしてみたのですが、それもいっこうに効き目がなくて、ほとほ と参っていたんですね。 そこで彼女が出会ったのが、あるお坊さんの書籍です。そこには、著者自身もかっては自身 の心に翻弄されて、人間関係も暗礁に乗り上げ、奈落の底に沈んでいたのだけれども、そこか ら熱心な瞑想修行に取り組むことで、苦しみからの解放を得た、と書かれていた。それで彼女 は「これだ ! 」と思って、「彼のように思考を微細に観察する力をつけて思考を止めさえすれ ば、この苦しみから逃れられる」ということで、本に説明されていた、 考えないようにする練 習を実践してみたそうです。 ところが、これが上手くいかない。 何度もやってみるものの、気がつくとまた考え込んでし こよ↓まっ まっていて、それで「ダメだ」「できない」と自分を責めるという、負のスパイラル ( ー の てしまった。その後、縁あってスカトー寺にいらしたのですが、その時の彼女は「もうこの先 一の人生のことなんて考えたくありません」と言っていて、憔悴しきった状態でした。 魚川なるほど。 < 子さんがスカトー寺でその苦しみから脱した経緯については、『自由に生 きる』に詳細な記述がありますね。他にも、何か関連する事例はございますか ?
プラユキインドの古い一「ロ葉である、 ーリ語で書かれた聖典を保持していて、そこに伝えら れるゴータマ・ブッダの教えを、基本的にはそのまま受け継いでいる宗派だと言われています 魚川そうして出家されてから、基本的にはタイのスカトー寺で修行しつつ、時々は日本にも いらっしやる、という生活を、プラユキ先生は続けてこられた。その「エンジェル・マン」と 私が出会ったのは、『苦しまなくて、 いいんだよ。』 ( 研究所 ) という、先生のこの著作がき つかけです。 プラユキこのオレンジ色の本ね。 「のヤすらかド生きるた第 ? ブッタ。の粤 、苦しなくて、 仏教のやさしさに つつれる本 タ内・バから北東 0 0 拠洋い食のて物家した日木人第もとを なをか、れる日事人が第えてい ブッノの敵賢とをを心ま受勢ぐ による・災代わ対歳 魚日よ、。 ーし私は大学院で仏教学を勉強してから、二〇 〇九年の末にミャンマーに渡航し、それからしばらくは 瞑想センターにこもって、ずっと瞑想をやっていました。 そして、それが自分なりに一段落したので、日本に一時 帰国していたんですね。それでたまたま書店に行って仏 教書の棚を見ていたら、この派手な色の本が目に人った。 プラユキほー 魚川帯にはドーンと、謎のお坊さんの写真が出ていま
246 「安心感」は全くないですね。あるのはまさに、その場で自身が自身の発言に全責任を負う、 一期一会の緊張感です。 また、仏教に関する私の言説や実践が、「知的な興味関心」を満たすためだけのもので、そ れが実存的なみや苦しみとは関わりがないというのも、私自身はそのようには考えておりま せん。というのも、私がずっと申し上げていることは、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダの った「世の流れに逆らう」言説は、現代においてごまかさすにそのまま伝えても、きちんと 人の心に届くものだ、ということだからです。「世の流れに逆らう」ゴータマ・ブッダの言説 をごまかさずに語ることが、単に人々の「知的な興味関心」のみにしかアビールしない行為で あるとは、私は考えておりません。 このことは、実際のゴータマ・ブッダの生を振り返ってみてもわかります。よく知られてい るように、在家の頃のゴータマ・ブッダ ( ゴータマ・シッダッタ ) は王子であって、容姿にも 能力にも恵まれた人であったと伝えられている。つまり、プラユキ先生が言われるような「現 実」の悩みのみを解決するためであれば、彼は出家する必要などなかったわけです。 しかし、にもかかわらずゴータマ・シッダッタは出家して、「世の流れに逆らう」智慧を証 得しプッダとなった。そこまでしなければならなかったのは、彼の悩みや苦しみが、「現実」 における処世術の操作で何とかなるような種類のものではなかったからです。
プラユキ知・情・意のそれぞれにはたらきかける、三つの方法があります。表にすると、こ んな感じ ( 図Ⅲ ) 。 まず「意」に当たるのが抜苦与楽の具体的な実践。目の前の他者を、手段は何でもよいけれ ども、とりあえず実際に助けましよう、ということです。何事でもそうですが、「やる気」と いうのは、やりはじめないと出てこないものですから、一人で部屋にこもって一切衆生の幸せ いく。この方 を祈るよりも、実際に他者を助ける行動を、現実に行って 方 法の効果は非常に高くて、慈悲を本当の意味で育ててくれます。 る 次の「情」は受容的な対応だけど、これはいままでずっと話してきた 践 実 ことだね。他者の物語に対する受容的で共感的な態度が育まれて、はじ 的 体 の めて抜苦与楽の行為も実を上げることになりますから、これも慈悲の実 たテ対の まスな楽践の基本になります。 シ的与 の容苦 そして最後に「知」ですね。人々が苦しみに巻き込まれる、その心の 意 心受抜 システムを理解すること。苦しみの生ずる構造がわかっていれば、私た 情 ちかそこに対処する方法もさらに適切なものとなる。つまり、人々の 知知情一思 「よき縁となる」ことができるわけです。 6 Ⅲ 図
110 説き尽くされた「智慧」、いまだ完結していない「慈悲」 魚川第二章のテーマは慈悲です。プラユキ・チャートに即して一言えば、「べクトルのある」 世界の中で行われる「善」の実践であり、「 we ( 私たち ) 」のコミュニティの中で、他者を受 容し共感する「ハ ート」であり、それが実践されるモデルは僧侶の共同体である「僧 ( サン ガ ) 」であり、実践の基礎になるのは受容するパワーである「定」である。そして、物語の世 界の中で実践される慈悲行においては、言葉の力も「されど言葉」として適切に評価され、ま たそうした言葉のカのような巧みな手段 ( 方便 ) を行使することで人々の「よき縁となり」 いく。プラユキ先生の慈悲に関する基本的な捉え方は、こ 抜苦与楽のプロセスを日々に生きて , フいったところでしょ , フか プラユキそうですね。私としては、苦しみを滅する仏教の智慧については、二千五百年前 ゴータマ・ブッダによって既に発見され説き尽くされていて、いわば「完結」したものだと思 しまだ「完結」には至っていません。一切衆生の っているんですね。他方、慈悲については、、 苦しみからの解放に至るまで、物語の世界における抜苦与楽の実践は、営々と続いていくから です。 私にとって、「生きる」というのは、この慈悲の物語の主人公、もしくは紡ぎ手の一人とし