理解しやすい。視覚情報によって剌激されたその人の神経系がホルモンノヾラ ンスに作用して、一般的な戦争努力の評価を優先する立場から、具体的な個々 の人命を尊重する立場へと変わった、それだけのことである。問題は、生理 学的にでなく論理的に何が起こっているのかだ。 写真を見る前であっても、たいていの人は、焼夷弾で殺された 9 万人もの 人々がみな綺麗な身体で眠るように穏やかに亡くなった、と思ってなどいな かっただろう。つまり、空襲下の都市には母子の黒焦げ死体のようなものが 多数存在したであろうことは、誰もが頭ではわかっていたはすである。つま り、「死者 9 万人以上」という数字を学んだとたんに、その人は東京大空襲 の本質についてほとんどすべてを学んでしまっている。母子の黒焦げ死体の 写真がもたらすインパクトは、単なる死傷者統計の学習の時点ですでにその 人の心に誘発されていなければならない。したがって、情報価値のない黒焦 げ死体写真を見たことによって倫理的判断を変えた人は、どこかで論理的誤 りを犯しているのである。 その誤りは、三通りのうちどれかである。 1 . 写真を見る前の古い判断が間違っていた。 2 . 写真を見た後の新しい判断が間違っている。 3 . 新旧どちらの判断が間違いであるにせよ、扇情的な写真によって判断 を変えたこと自体が間違っている。 1 の場合は、抽象的情報だけでは正しい倫理的判断ができなかった自分の 想像力の不足を責めるべきである。 2 の場合は、感覚的剌激によって惑わさ れてしまう自分の意志力の欠如を責めるべきである。 さて、 3 の場合は、 1 、 2 の場合とは違って、写真によって判断を変える 前と後のいすれが間違っていたのかが特定できない場合も含む。さらには、 1 または 2 のようなく判断そのものの過誤〉よりも、判断の変更そのものに 間違いが求められる。情緒的感覚的情報の不在または付加という、実質的情 報には寄与しない要因によって判断を変えるという態度形成のあり方は、論 理的に誤っているということだ。 次のような反論がなされるかもしれない。 戦争論理学 あの原爆投下を考える 62 問
しそれら自体が作戦全体にとっては偶発的である。撃墜した敵戦闘機のパイ ロットが生きていようが死んでいようが、敵の戦闘能力が減殺されれば同じ ことだ。戦争における諸作戦は、確率的に殺傷を必すや伴うであろうとはい え、論理的には殺傷を含意していない。 原爆投下は、唯一の例外である。多数の死傷をもたらして戦争そのものを 解決する作戦が、原爆投下だった。この意味で、原爆投下は、成功の必要条 件として対象市民の大量死を要請するという、まことに理不尽な作戦なので ある。第 54 問で見たように、原爆投下といえども特定の人々の殺傷を含意 していないのではあるが、一定数以上の殺傷を不可欠の要件として含んでい ることは間違いないのだ。 ( 注釈しておくと、日本軍の重慶爆撃も、一般市 民を殺傷することを実質的な目的とした無差別爆撃だった。武漢占領後、そ れ以上奥地へ進撃できないことを正式に認めた日本軍は、陸戦は駐屯地から 出張しては戻る討伐戦スタイルを主とするようになり、戦争そのものの解決 は空爆の心理効果に頼ろうとしたのである。その点において原爆投下と酷似 している * ) 。 原爆投下の理不尽さは、さしあたり原爆投下だけを注視した場合の理不尽 さである。戦争を終結させるという全体構想のなかに位置づければ「緊急避 難」によるやむをえない犠牲と言うこともできよう。ただし倫理的には、緊 急避難とはいえ人命を奪うことは許されない。たとえば 10 人の不治の患者 を助けるために 1 人を殺して臓器を分配するという「緊急避難」の移植手術 を行なった医師 A は、結果的に多くの命を救ったとしても、殺人罪で罰せら れる。原爆投下も、たとえ 1 千万人を救うためであったとしても、故意の 大量殺人に訴えたという意味では、許されない「緊急避難」なのである。 れに対し、ダウンフォール作戦を発動して日本本上で決戦を行ない、双方で 1 千万人の死者が出た場合は、その 1 千万人は作戦の本質上必須ではない死 傷なので、理論的には偶発的な事故と見なせる。「未必の故意」による損害 なのであり、理不尽度は小さい。爆弾や銃弾を避けられなかった個々の兵士 や住民が不運だっただけなのである。 原爆による被災者は、不運も何も、必然的に戦争終結の生贄にされてしまっ た人々である。功利的には原爆投下よりも . ダウンフォール作戦のほうがはる かに悲惨で有害だったろうが、倫理的には、原爆投下はダウンフォール作戦 2 3 8 戦争論理学 あの原爆投下を考える 62 問
この人は将来の核兵器使用を本当に肯定しているのだ。ふーん。将来の核兵 器使用肯定の熱意がこれほど表明されるとは、その立場に一理あるんだろう こうして、個人としては誰も信じていないし良いと思っていない事柄や態 度が、忖度の結果として肯定され採用されてしまうという事態になる。戦前 の軍国主義や国家神道、天皇神聖の信仰もこの「忖度のパラドクス」に類し た架空の同調圧力として成立していたものだろう ( 私は信じていないけどみ んな信じているから合わせなきゃ・・・・・・ ) 。 * すると、肯定派と否定派の対立はこうなる。「広島・長崎へのあの原爆投 下」を是認すると「将来の核兵器使用」の是認という望ましくない影響をも たらしがちだ、それは避けがたいことだ、だから「広島・長崎へのあの原爆 投下」はあくまで非難されねばならないーーそういう戦略を否定派はとり、 肯定派はそれに抗う。 肯定派の言い分はこうだ。世間の人々が啓発されておらす、「あの原爆投下」 への態度と「今後の核兵器使用」への態度の区別が十分できていないだけの ことだ。人々を啓発して広島論・長崎論が核戦略論にただちに結びつかない ことを教育し、合理的な議論ができるよう導くのが先決であって、蒙昧状態 での思い込みに立脚した拒絶反応を尊重することは、ますます蒙昧主義を助 長し、正常な議論を不可能にするだけだ。 対して、否定派の言い分はこうだ。世間の人々が啓発されていないという のはその通りで、「あの原爆投下」と「今後の核兵器使用」との区別を理解 してもらうのが論理的にはなるはど望ましい。しかし論理よりも実利を優先 せねばならない場合は多いものだ。あいにく人間の標準というものは、望ま しい知的レベルをクリアしているとはかぎらない。どれほど教育したとこ ろで、核兵器という共通項があるかぎり、「あの原爆投下」と「今後の核兵 器使用」に対する賛否が連動している印象を人々の意識や無意識から拭い去 ることは至難である。必す影響が生する。人々の愚かさに迎合するのはもち ろん褒められたことではないが、核使用容認論を促すような深刻な影響をも たらしかねない以上、「あの原爆投下」を是認する言辞は控えるべきである。 これは論理的な議論以前の問題だ。平均的人間の知性がもっと改善された時 代になったら、おおっぴらに「あの原爆投下」の是非を議論しようではない 戦争論理学 あの原爆投下を考える 62 問
オフィスや労働者の家や交通機関が大規模に破壊されれば目的が達せられる のであり、かりに絨毯爆撃の結果奇跡的に市民が 1 人も死傷しなかったとし ても、戦略爆撃の目的は達せられたと言える。 「ニ重効果」にもとづく戦略爆撃擁護論は、第 1 問ですでに見た。戦争遂 行能力破壊 ( 都市機能破壊 ) という主目的と、市民殺傷のような副作用とが、 互いに他方を必要としない並行的な「二重効果」を形成している場合、意図 されない副作用は、たまたま付随した不運にすぎす、「未必の故意」の結果 として殺人とは論理的に区別される。 つまり厳密には、戦略爆撃による市民の死傷は、二重効果による「未必の 故意」の結果なのである。無差別爆撃の立案者・命令者・実行者がたとえ敵 への憎しみに満ちていたとしても、無差別爆撃それ自体の主目的は戦争遂行 能力の破壊であり、市民の殺傷は確率的に当然起きても仕方のない随伴結果 にすぎないのだ。 随伴効果といえば、早期終戦を主目的とする原爆投下がソ連への威嚇とい う副産物を持っことを第 17 問で見た。あのような場合も広義の「二重効果」 ではあるが、通常「二重効果」と呼ばれるのは、副産物が望ましくない結果 ( 副 作用 ) である場合にかぎられる。第 1 7 問では、ソ連威嚇は悪というより日 米の国益にかなっていたことを見た。無差別爆撃における一般市民殺傷とい う随伴効果は、建前上望ましくないものと考えられるため、望ましい主目的 と嘆かわしい随伴効果との間に二重効果のジレンマが生するのである。 それでは、原爆投下の主目的が早期終戦をもたらすことであるとして、 般市民殺傷というのは二重効果による「未必の故意」の結果と認められるだ ろうか。 どうも認められないようである。原爆投下による市民殺傷が「未 必の故意」でなく「故殺もしくは謀殺 ( 意図的な殺傷 ) 」であることは、 つの意味で言える。物理的理由と、論理的理由である。 第一の物理的理由とは、原爆の性質からして、爆心地においては個々の市 民の避難努力が無意味になり、必すや多数の人命が失われるだろうというこ とである。通常爆撃の爆弾や焼夷弾の攻撃は、離散的な爆発や炎上の総計な ので、確率的に低いとはいえ個々の市民がうまくかわしたり、防空壕に避難 したりして、無傷ですむことが少なくとも理論的には期待できる ( 固定され た建物や設備は間違いなく被害を受けるが、それは戦略爆撃の目的である ) 。 2 3 6 戦争論理学 あの原爆投下を考える 62 問
てしまってはますい。これは序章で見た「完璧主義の誤謬」である。将来の 見込みのために、災禍を伴う投資を現在行なう。この戦争の論理は不問のま ま前提した上で、原爆投下にとりわけあてはまる悪を摘出しないことには、 原爆投下批判にはならないのである ( 第 8 問「条件付き判断」、第 24 問「演 繹定理」 ) 。 出演・奥崎謙三、監督・原ー男「ゆきゅきて、神軍」 GENEON ENTERTAINMENT,INC [DVD] 3 監督・手塚正巳「軍艦武蔵」角川へラルド映画 [DVD] / 62 20 億ドルかけたからには何が何でも成果出せ ? コンコルドの誤謬誤った前提への依存虚構の同調圧力 前問での肯定派の言い分は大筋では認められるにしても、部分的に 見た場合、批判の余地がある。たとえば、第 33 問で見た「 20 億ドル」 がくせものだ。「 20 億ドルもの大金をつぎ込んだ新兵器を温存したま ま戦争を終えることは許されない」という発想は、論理学や経済学で「コ ンコルドの誤謬」と呼ばれる。 英仏共同で超音速旅客機コンコルドが開発されたとき、採算が合わ ないという予測が語られ、開発を中止しようという声が上がった。し かし、すでにつぎ込んだ開発費が無駄になるとの理由で開発は進めら れ、 1976 年に就航した。しかし案の定商業的に失敗し、 2003 年に 後継機のないまま運航中止となった。このように、すでに投資したコ ストに囚われるあまり最善の合理的決断ができなくなる症状が「コン コルドの誤謬」だ。 過去の経緯に囚われて、最善の行動ができない自縄自縛の状態は、日 常の多くの戦略、たとえば将棋や囲碁でもよく見られる。テレビ棋戦 を見ていると、一流プロ棋士が「いちばん頑張れるのは銀を引く手で すが、そうすると先ほど 3 手もかけて飛車を転回した手間が無意味に 戦争論理学 あの原爆投下を考える 62 問
3 4 推測上の利益と現実の犠牲を天秤にかけると ? いかけているように、「実際に原爆投下がアメリカや日本に益をもたら したか」という結果主義的な問題よりも、「どういう誠意を見せたか」 が倫理的には重要である ( 意図主義 ) 。国内世論、議会への義理、大統 領としての面目、諸国の国益、といったさまざまに「良い結果」を並 べてみても、それらは「推測」のレベルにしかない。原爆を落とせば 確実に数万人が即死することはわかっていた。推測上の利益を追い求 めて確実な惨害をもたらすことに、倫理的な善はあるだろうか。どの みち推測上の利益であれば、現実の何十万もの市民の犠牲によって勝 ち取るのではなく、別の穏健な方法で勝ち取ろうと努める姿勢を見せ ることが道理ではないだろうか。 答え もちろん、時間があれば、推定上の利益と現実の惨害とを考慮して、少し でも良い結果となるほうを誠意をもって選ぶこともできただろう。しかし、 第 13 問で触れたように、アジア太平洋戦争では毎月平均 2() 万人が死亡し ていたという見積もりが正しいならば、あと 1 ヶ月終戦が遅れるだけで原 爆を上回る犠牲者が出かねなかった。単に戦争が続いているというだけのこ とに伴うメンテナンス効果 ( 第 12 問 ) も馬鹿にならない。フィリピンや ニューギニアには人肉を喰らって命をつないでいる敗残兵たちも大勢残って いる。引き延ばされる悲惨に終止符を打ち、一刻も早く戦争を終える確実な 手段は、やはり、荒つばい一撃によって日本軍部と政府にすっきり降伏の名 目を与えてやることではなかっただろうか。 ついでに言えば、「推測上の利益」を求めて「現実の惨禍」を引き起こす、 というのは、戦争の論理そのものに他ならない。く戦争に勝っこと・国を守 ること〉から期待される利益 ( または損失の防止 ) のために、当面、多くの 若者を戦場に送る。戦争のこの論理が正しいにせよ間違っているにせよ、原 爆投下の論理はこの戦争の論理の一例であるにすぎない。原爆投下に固有で ない問題を論じるというならば、わざわざ原爆投下論議と銘打たす、一般の 戦争論を議論すべきであろう。 原爆投下を論じるだけでは収まらす、戦争全般を論じて初めて全体像を擱 めるのだと潔癖に考えすぎるあまり、原爆投下に特有の問題が見えなくなっ
じなければならなくなったのはプーメラン効果の好例である。単に相 手の矛盾を指摘するより、矛盾の一方に乗って論敵の自己否定を強調 するプーメラン論法のほうが有効であることが多い。「諭拠逆用タイプ」 の論法は、ハンディキャップ原理 ( 第 28 問の注 ) や法の遡及と意味 の遡及の関係 ( 第 38 問の注 ) など、ここまでさまざまな形で登場し てきた。 CreaTVty 「ムービー・ジャンル戦争映画」クリエイティプアクザ [DVD] スティーヴン・オカザキ「ヒロシマナガサキ」マクザム [DVD] 蚣ジョー・オダネル、ジェニファー・オルドリッチ「トランクの中の日本一一一米従軍カメラマンの非公式記録」 小学館 7 / 62 実感を重んすると論理はどうなる ? 美的情報と論理構造 「感情に訴える議論」の欠陥は、実感や経験を偏重する「体験重視教育」 の弊害に通するところがある。本来、対象の構造の認識と論理的推論 によって導き出した結論が優先されるべきであり、構造にかかわらな い肌理を五感で体感することによる実感は、結論をさらに確信するた めの支柱としてのみ使えるはすだ。それなのに、体験的実感が論理的 推諭プロセスや結論を覆してしまう可能性に対してむやみに敬意が払 われる傾向があるのである。 ユタと呼ばれる沖縄の巫女は、沖縄戦で亡くなった兵士や住民の霊 を呼び出してその思いを告げ、遺族に対して強い感情的反応を引き起 こす。だからといって「守備隊長が住民に自決命令を出したかどうか」 をユタの言葉によって決めることはできまい。沖縄戦を体験した老人 のナマの言葉を聞く機会を小学校などの教育現場に導人することは大 切だろうが、情緒的体験の強さを真実の確認と取り違えると、戦前・ 戦時中の洗脳教育と同じ危険を醸し出すこととなろう。 2 2 6 あの原爆投下を考える 62 問 戦争論理学
5 4 マ対偶 被爆者のことを考えても原爆投下を肯定できるのか ? * * 背理法の論理構造は以下の通り。 体は真だとただちにわかることになる。 題である場合は、 Q にはどんな突飛な命題が来ても「 P ならば Q 」全 命題 ( 不可能命題 ) や禁止されている行為がなされたことを述べる命 容の原則」 ( 第 25 問 ) の応用だ。とりわけ、 P が必然的に偽である については何も語られていないのだからすべて認めるというのは、「寛 Q が真でも偽でも、全体は真になる。 P でない場合 ( P が偽である場合 ) いるが、正しい論理法則である ) 。「 P ならば Q 」は、 P が偽であるとき、 パラドクス」と呼ばれる法則である ( 「パラドクス」という名は付いて その条件下では何が起きても OK 、という原則は、論理学で「含意の * * * あってはならないこと、あるはすのないことが起こったら、 マ含意のバラドクス ならない。 「したがって、 S 」と書くことができる。これは、前件肯定の推論に他 でない」をそれぞれ「 R 」「 S 」と書けば、背理法は「 R ならば S 」「 R 」 「 Q でない」の二つから「 P でない」を導く諭証となる。「 Q でない」「 P を導く背理法は、対偶を用いて言い直せば「 Q でないならば P でない」 という原理である。「 P ならば Q 」「 Q でない」の二つから「 P でない」 「 P ならば Q 」と「 Q でないならば P でない」は同じことを述べている、 そこには「前件肯定」 ( 第 13 問 ) と「対偶」が使われている。対偶とは、 「 P ならば Q 」「 Q でない」の二つから「 P でない」を導く論証だが、 偽を導いてしまった P という仮定は間違いである。 ている、等々 ) 。つまり、 Q はもともと偽である。よって、 Q という虚 ことである ( Q は常識に反する、観測事実に反する、内容的に矛盾し し特別な仮定をしなかったとしたら、 Q が真だなどとはとんでもない P が真だと仮定する。 P から、 Q が真であることが導かれる。しか
今さら無条件降伏要求を責めても仕方ないだろう ? 2 4 に持ち込むことはフェアでない、と言えるだろう。当面の文脈内の問題解決 として原爆投下が正しかったかどうか、だけを論するべきである。重病の人 を治療するために大手術をする場合、病気という前提が嘆かわしい状況だか らといって、手術も否定されるべきだということにはならない。病気は今さ ら撤回できないからである。同様に、「無条件降伏要求」がもたらした悪し き状況を打開するために、原爆という荒療治しかないならば、無条件降伏要 求という今さら撤回できない状況の是非を原爆投下の倫理的評価に読み込ん でも意味がないのである。無条件降伏要求政策は原爆投下の遠い原因であり、 背景であって、行為としての原爆投下の是非に無条件降伏要求の是非はもは や ! 響しな 0 、。無条件降伏要求が与えられた上 00 0 条件付き判断 0 0 = よ て原爆投下の是非を評価せねばならない ( 「条件付き判断」の重要性は、ヨー ロッパ第一戦略の実施法の矛盾を考えた第 8 問でも確認された ) 。 いきなり「 P 」とだけ述べると疑わしいとしても、 Q という文脈下では「 P 」 が正しいと認められる場合、「 Q ならば P 」という命題を正しいと認めるべ きだ、という論法は、論理学で「演繹定理」と呼ばれる。その逆も同様。「 Q ならば P 」が正しいならば、 Q という条件下では裸の「 P 」が真と認められ ねばならない。 P を原爆投下、 Q を無条件降伏要求と読めば、本問での「条 件付き判断」推奨の議論が「演繹定理」に即したものであったことがおわか りだろう。 以上、①そもそも無条件降伏の要求は正当だったと考えるべき理由があ ること、②無条件降伏要求の文脈が設定されればそこから外れることは至 難なので、かりにその文脈が間違った前提に立っているとしても ( 無条件降 伏を要求すべきでなかったとしても ) 、原爆投下にはもはや罪を転嫁できな いこと、この二点を確認すれば、肯定派にとってはとりあえす十分だろう。 蚣ロナルド・タカキ「アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか」草思社 蚣福田和也「第ニ次大戦とは何だったのか」ちくま文庫
うか。そうとも言えない。前述のように、東京裁判が司法措置ではなく政治 的措置だったことは裁判所条例や覚え書きからはっきり読み取れる公認事項 だったので、少なくとも連合国の自己欺瞞はない。政治的には、「必す負け る戦争」を無謀にも開始して長期にわたって内外の人々を苦しめた責任は、 先制攻撃をした敗戦国の指導者だけに負わせるべきなのは当然である。戦犯 裁判は戦後処理手続きの一環なので ( 平和条約発効まで戦争状態が続いたと 見れば戦中処理手続きの一環なので ) 、戦勝側が自らを裁くのは時期尚早で ある。戦後政策を進めて国際秩序の復興を担うべき戦勝国のメンノヾーの中か ら、敗戦国への戦争犯罪によって裁かれる者を調査告発していくとなると、 戦後秩序の復興作業がはかどらなくなってしまうからだ。戦犯裁判とはかさ ねがさね、司法措置でなく行政措置としてしか成り立ちょうがなかったので ある。 戦争努力への倫理的判断の座標は「正義・罪悪」の軸ではなく「安全・危 険」の軸に据えるべきだということは第 2 問で見た。国際戦犯裁判は過去の 罪の審判ではなく、現在と未来の安全・安定を確保するための政治的実務に 権威を与える象徴的儀式なのだ。そう割り切って捉えれば、戦勝国と敗戦国 への不平等な罪状認定は不合理なものでないことがわかる。東条英機が裁か れたようにトルーマンも被告席に座り、山下奉文が裁かれたようにマッカー サーも断罪されることになったら、日本占領政策も、西側の対ソ戦略も滞っ たことだろう。見かけの「裁判」の体裁に囚われす、国際軍事裁判の意味を 考えるならば、政治的に見て、不公平性は必然かっ正当である。 むろん、勝ったからといってすべての罪がチャラになるわけではなく、勝 者の側どうしでの調整は必要だろう。重巡インディアナポリスの艦長 ( 第 12 問 ) をはじめ、味方に損害をもたらした罪で戦後に軍法会議にかけられ 有罪となった戦勝国メンノヾーは何人かいるし、日系アメリカ人の強制収容に 対するアメリカ国家からの補償もなされている。しかし、敗者に対する罪を 勝者が率先して認める必要があるだろうか。勝って図らすも損をする要素は あるだろうが、それは最小限にとどめるべきであり、勝者自ら損失を作り出 す姿勢はとらなくてよいというのが、「勝ち」「負け」のイデオロギーの本質 であろう。戦争は論理的にはゼロサムゲームでないという理屈はわきまえね ばならないが ( 第 18 問 ) 、蓋然的には、そして参戦主体の意図からすれ 戦争論理学 あの原爆投下を考える 62 問