ば、日本は降伏できたのである。都市名抜きで正確に言い直すと、ソ連参戦 の前でなく後に原爆を一発落とされただけで、日本はスムーズに降伏できた のだ。アメリカがソ連参戦を待ちさえすれば、参戦前の殺戮は起こらすにす んだのだ。むろん第 18 問で見たように、ソ連参戦を防ぐことがアメリカひ いては中国や日本の利益にも直結していたという事情を考えれば、ソ連参戦 前の原爆投下を非難し去ることはできない。結果論的に理想を言うならば、 原爆投下より先にソ連参戦がなされ、ついで一発だけ原爆が投下されて、日 本の抗戦派が譲歩する口実が与えられ、終戦、というシナリオが最善であっ たろう。 原爆投下とソ連参戦とはともに、手遅れにならぬうちに日本が降伏できる ための必要条件だったが、どちらかというとソ連参戦のほうが決定的なファ クターであったことは間違いない。とはいえ、どちらが欠けても本土決戦に 雪崩れ込んで地獄を見た可能性が高い。ソ連参戦は陸軍の強気を挫いた。し かし面子がそれを認めることを許さなかった。原爆は、陸軍が面子を失わす に強気を放棄する口実を与えた。原爆投下を肯定するにはそのことだけで十 分である。 ちなみに、 10 日のポッダム宣言受諾の暫定回答の後、通常の無差別爆撃 も一部停止されたものの、日本政府の反応が鈍いのですぐにペースが戻さ れた。終戦の詔勅が作られていた 8 月 14 日以降にも、 B ー 29 約 150 機に よる大阪空襲をはじめ各地の都市爆撃で多くの犠牲者が出ている ( 14 日以 降に初空襲を受けた熊谷、伊勢崎、小田原の 3 都市だけでも死者約 300 人、 被災者 25 , 000 人以上 ) 。これらの被害は、戦争の趨勢になんの影響も及ば していない。市民は意味のない損害を被ったことになる。長崎原爆よりもこ れらの空襲のほうがはるかに理不尽だったわけだが、問題視されることはほ とんどない。象徴的インパクトに富み効果的だった事件が追及され特権化さ れ、象徴性がないため真に理不尽だった事件が無視されるという逆説がこ * 「 P ならば Q 」が正しいとき、 マ必要十分条件 に仄見えている。 0 9 2 P は Q の十分条件、 Q は P の必要条 戦争論理学 あの原爆投下を考える 62 問
1 8 アメリカの国益追求って敵国日本にとっては・・ 牽制することこそ日本その他の国々の利益になっていた可能性はないか、と いうことである。国家の利益は互いに連動しているので、アメリカの利己的 戦略が、日本その他の国々をも利する、ということは大いにありうるからで ある。 実際、ソ連がアメリカを侮って、北海道分割を主張し続けたらどうだった だろう。満州の権益を余計に主張したらどうだったろう。朝鮮半島すべてを 占領していたら。ソ連がヤルタ会談の取り決めを破っていたら、日本、中国、 その他のアジア諸国に災いが降りかかっていただろう。とくに日本が、米ソ による分割の憂き目を見すにすんだのは、アメリカがしつかりと威信を確保 しておいたおかげであるかもしれない。東欧と違って東アジアではソ連が約 束をいちおう守ったのは、原爆の威圧が効いていたせいかもしれないのだ。 威圧だけでなく、信用の問題もある。もし原爆の連続投下がなかったら、 ソ連参戦と日本降伏との直接の因果関係が世界中にノヾレてしまい、ソ連に対 日勝利への貢献度の自覚を与え、東アジア権益での強気な主張を西側へ突き つける姿勢をもたらした可能性もある。ソ連参戦と長崎原爆の前後関係は偶 然の産物だったが、まがりなりにも長崎原爆がソ連参戦の後にきたことで、 実質的にはるかに重大要因だったソ連参戦の意義がカムフラージュされた。 原爆のほうが決定的要因だったかのような印象を国際世論に、そしてソ連そ のものにすら与えることに成功したのである。 占守島の戦い ( 8 月 17 日 ~ 21 日 ) でソ連軍が日本軍の守備を突破でき す実質的に敗れていたことからもわかるように、ソ連軍は上陸作戦の準備は できていなかった。しかしもし原爆投下がなく、たとえー週間の戦いであれ ソ連参戦が日本降伏を実現したという印象が広まりでもしていたら、ソ連は 自力で占領できすとも北海道を得られた可能性がある。早期終戦の手柄が国 際世論に明らかになれば、米英としても千島列島を超えた領土割譲をソ連に 認めねばならなかっただろうからだ。とりわけ東欧問題でソ連に少しでも譲 歩させる代償として、日本領土が生贄にされた可能性はある。 ソ連参戦が日本降伏の決定打だったことは紛れもなく真実であるだけに 原爆投下は、ソ連の真の貢献度を掻き消してソ連の正当な権利主張を削減す るのに大いに役立った。それはアメリカのみならす東アジア諸国の、とりわ け日本の国益に叶っていた。
る。アメリカ合衆国大統領、中華民国政府主席、グレートプリテン首相の三 者が署名者となっており、ソ連のスターリンは人っていない。ポッダム会談 に出席していたのはトルーマン、チャーチル、スターリンだが、ソ連はこの とき日本と交戦状態になかったので、降伏を要求する立場ではなく、署名 者に人っていないのは当然といえば当然である。しかし、ポッダム宣言で日 本政府と軍が真っ先に注目したのが、署名者にスターリンが人っているかど うかだった。日本の外務省は連合国との停戦調停をソ連に依頼していた最中 だったので、ポッダム宣言にスターリンが署名していないということは、ソ 連への停戦仲介依頼にまだまだ希望が持てるという意味に受け取った。 日ソ中立条約は 1946 年 4 月 13 日まで有効だったため、日本は、ソ連の 仲介で少しでも日本に有利な、米英に得をさせない条件での講和ができるの ではないかと望みを繋いでいた。米英とソ連との間の潜在的対立を利用でき ると踏んでいたのだ。しかし当然のことながら、まだ中国と東南アジアの広 大な面積を占領したままの日本は、米英にとってだけでなくソ連にとっても、 第一の敵だったのである。米英に対してスターリンが「ドイツ降伏後 3 ヶ月 以内に対日参戦する」と約束していたという事実を、日本の諜報網はキャッ チしていなかった。駐ソ大使佐藤尚武は現地の感触にもとづき「ソ連に期待 しても一切無駄」と本国に再三説いていたが、希望的観測にすがる外務省を 説得することはできなかった。 もしスターリンがポッダム宣言の署名に名を連ねていたら、日本は悟った ことだろう、これでソ連による仲介の希望が消えただけでなく、ポッダム宣 言を拒否すればソ連の早期参戦すらありうると。ソ連参戦は日本が最も恐れ ていた事態だった。こう考えると、ポッダム宣言へのスターリンの署名を見 るやいなや日本は降伏したかもしれない、という説には一理ある。 ( ただし 逆の可能性もある。それについては第 46 問で見る ) 。 さて第三に、最も重要な事柄がある。そのためにこそ日本が絶望的な抗戦 を続けていた事柄だ。そう、国体の護持。具体的には、天皇の地位・大権の 維持である。ポッダム宣言の第 12 項には次のような文言がある。「 ( 第 11 項までの ) 諸目的が達成され、日本国民が自由に表明する意思に従って平和 的傾向を有する責任ある政府が樹立されるやいなや、連合国の占領軍は、日 本より撤収する」。ここには始めは、「右のく平和的傾向を有する責任ある政 戦争論理学 あの原爆投下を考える 62 問
1 0 優れた将軍たちが反対したではないか ? パットンの機甲軍団が加われば日本本土上陸作戦も心強かったろうし、マッ カーサーの部下の犠牲も軽減されたことは必定だが、マッカーサーは効率よ りも自分の縄張りでの名誉を重んじたのである。マッカーサーは、比較的近 い戦域である中国戦線を司っていたジョセフ・スティルウェルが太平洋戦域 に加わることにすら難色を示したのだ。 ( 名誉を重んじたといえば、パット ンは「太平洋で戦えるなら降格になってもかまわない」と言ったという。 流の軍人は、母国が勝つだけでは満足できす、他ならぬ自分が戦い続けたい のである ! ) 。 週間前だった。陸軍司令官マッカーサーは、何としても自分が指揮するダウ もそもマッカーサーが原爆なるものの存在を知らされたのは、原爆投下の一 で見たように、原爆および B ー 29 が自分の権限下になかったからである。そ マッカーサーが原爆に否定的だったのはなせかというと、第 4 問・第 7 問 成功させたノルマンディー上陸作戦を上回る大上陸作戦を敢行して英雄にな かっての部下で今やライノヾルであるアイゼンハワーがヨーロッパで華々しく 着をつけたがっていた。それだけのことなのである。とくにマッカーサーは、 つまるところ、陸軍、海軍、航空軍の司令官がそれぞれ、自分の領分で決 点で原爆投下は最悪だった、と戦後に述べた。 カーティス・ルメイは、通常爆撃の成果をアメリカ国民の目から覆い隠した 績作りのためである。日本への無差別爆撃を推進した第 21 爆撃集団司令官 けることで日本は降伏すると主張した。陸軍から独立した空軍を創設する実 ヘンリー・アーノルド陸軍航空隊総司令官は、 B - 29 による通常爆撃を続 すると。 と主張した。これまでの延長で、海上封鎖を続ければ日本は干からびて降伏 令長官チェスター ーミツツ元帥は、ダウンフォール作戦も原爆も必要ない 他方、これまで太平洋の戦いの主流を担ってきたアメリカ太平洋艦隊の司 牲を極小に抑える自信があると主張した。 陸軍と共有していた。マッカーサーは、ダウンフォール作戦での連合軍の犠 いだったので、戦争はこれからが本番だという認識を、マッカーサーは日本 たかったのだ。戦争の決着はやはり陸戦である。今までは基本的に海軍の戦 コロネット作戦 [ 46 年 3 月 1 日予定の関東平野上陸作戦 ] ) で決着をつけ ンフォール作戦 ( オリンピック作戦 [ 11 月 1 日予定の南九州上陸作戦 ] 十
1 29 ドイツ降伏は絶好のチャンスだったか ? 不講和協定に対する日本のイニシアテイプが誇張されることになろう。現実 には、相互依存戦略のイニシアテイプはむしろヒトラーが握っており、対米 開戦に踏み切るための「保障」として日本に提案したのが単独不講和協定だっ た。日本は、ドイツの対米参戦の有無にかかわらす、そして単独不講和協定 の有無にかかわらす、独自に対米開戦に踏み切っていたはすである。実際、 真珠湾攻撃前には日本側によって単独不講和協定は想定されていなかった。 以上の経緯にもかかわらす、ドイツ降伏の直後に日本が降伏していたら、 アジアの戦争がヨーロッパの戦争に寄生していたことの公言になる。 1945 年 5 月当時の日本の戦況は、降伏直前のドイツに比べればかなり余裕があっ たので、その時点で日本が降伏するとなれば、ドイツ降伏以外の理由がない ことが明らかだからである。実際には米英も蒋介石も、対日戦争の勝利は 1 年半先のことだと考えていた。その見通しが中国国民党軍の北上を遅らせ、 共産党軍に東北の要地へ先着される原因となったほどである。日本の戦争が ドイツ降伏によって無意味化するような戦争だというのは、ヨーロッパ戦よ り 2 年も前に始まっていた日中戦争の延長に他ならない大東亜戦争の本質に 反しているだろう。 単独不講和協定の失効により、日本の抗戦は完全に自由意思でなされうる ことになった。拘束がなくなったことで降伏しやすくなったことは確かだが、 だからといって即時降伏するとなると、大東亜戦争独自の意味カ嘸化されて しまう。ドイツ降伏の時点で、日本はまだ広大なアジア地域を占領統治した ままの状態である。占領地のアジア人民への政治宣伝の手前、欧州戦終結な どという疎遠な理由によって日本軍が降伏することは許されまい。欧州戦終 結は、日本の徹底抗戦の義務を解除したと同時に、逆に早期降伏への牽制に もなった。「大東亜共栄圏」の真摯度、すなわち大東亜戦争の政治的真価が 試されることになったのだ。 ちなみに、大東亜共栄圏の理念がまやかしであったことは多くの証拠に よって裏付けられる ( ただし第 9 問で触れたように現地政権にとって独立は 真剣だったが ) 。最も明白な例は、日本のインドシナ政策に見られよう。日 本軍は緒戦において英米蘭勢力を東南アジアから駆逐した反面、仏領インド シナ進駐以降すっと現地フランス植民地政府と共存しており、戦線拡大後も インドシナでのフランスの主権を認めているのである。フランス本国のヴィ
2 8 1 単独不講和を協定しておいて降伏などできない ? ヒトラーが返した要求が、単独不講和だったのである。これで日本に対する 疑念を晴らして、ドイツは対米宣戦に踏み切ることができた ( ヒトラー自身 は条約や協定を破る常習犯でありながら、他国の条約遵守の意思は信用する というーーー - しかもこのときの相手は対米交渉中背信行為を犯したばかりの 日本一一一ヒトラーとはつくづく不思議な人格である ) 。 こうして日本が自らの利益のために、単独不講和の義務と引き替えに独伊 を対米戦に引き込んだという構図が成り立つ。ヒトラーとムッソリーニは個 人的に日米開戦を歓迎し狂喜していたが、彼らの周囲の政治家や軍人ははと んど全員が対米宣戦は自殺行為だと認識しており、この意味で、枢軸同盟に おける日本の責任は重いと言える。ドイツ・イタリアの惨敗の責任の一端は、 日本にあるのである。 そのような論理に束縛された日本が、ドイツより先に降伏することは信義 上、ありえなかった。山本五十六は、緒戦の勝利の後、「これまでの占領地 を放棄することを条件に、ただちに対米英講和を結ぶべきだ」と言ったとい う。それが最も賢い「日露戦争パターン」だったに違いなく、中国問題も日 本に有利に解決するよう米英を促すことも可能だったかもしれない。が、単 独不講和協定の存在は、同盟国へのそのような背信・抜け駆けは許さなかっ たのである。かりに政府が天皇を擁して軍を抑えようとしても、徳義に聡い 助言者を多数有する天皇自身が首を縦に振ることはなかっただろう。 結局のところ、ヒトラーの対日疑念とは裏腹に、皮肉にもドイツが先に単 独不講和協定を破る羽目になってしまった。ドイツが日本との協議なしで無 条件降伏したとき、日本政府は東京のドイツ大使館に正式抗議している ( た だし抗議は的外れである。ドイツは政府としては降伏しておらす、というよ り本国政府が消滅状態だったために降伏すらできす、国防軍代表が降伏文書 に調印しただけだからである ) 。単独不講和協定は、連合国の無条件降伏要 求のネガだったと言えよう。枢軸国を心理的に後戻りできなくしたのが無条 件降伏要求だったとすれば、枢軸国を論理的に拘束したのが単独不講和協定 だったのである。その視点で見ると、連合国の無条件降伏要求が正当化でき るかどうかという前問までの考察に対しては、「枢軸側が単独不講和協定な どという結束をしているかぎり、容易な休戦は望めす、個別の講和も望めす、 よって日独伊の徹底抗戦を前提した無条件降伏要求は正しかった」と論する
0 8 9 20 天佑が戦争モードをリセットしてくれた ? 当時の海軍大臣米内光政は、原爆投下とソ連参戦を「天佑」と呼んだ。近衛 さこみずひさつわ 文麿、本戸幸一、迫水久常ら多くの要人が同様のことを述べている。政府高 官はこのとき、ソ連参戦のような実質的な要因だけでは降伏できないことを 知っていた。原爆投下のような、傍目に派手でアピール度の高いシンポリッ クな「口実」の存在は、確かに日本首脳部にとって歓迎すべき「天佑」だっ たのである。徹底抗戦派の面子を立てるパラダイム変換をもたらすとともに 戦争が長引いて共産革命が起こるのではないかという ( とくに近衛のいくぶ ん誇大な ) 危惧をも一掃する見込みが立ったのだ。 天皇の玉音放送として流れた「終戦の詔勅」が、原爆のこの効果を証明し ている。 「・・・・・・世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シ テ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルへカラサルニ至ル・・ 「世界の大勢我に利あらす」のところは日ソ中立条約破棄とソ連参戦を意 味していると考えられるが、明言はされていない。「敵は新たに残虐なる爆 こが国民に降伏を説明するさいのポイントであった。 弾を使用して」 惨害と慈悲のコントラスト効果なしでは降伏は困難だったことがわかる。 九割九分の国民が、玉音放送と聞いて、「陛下がいっそうの奮励努力を促 されるのだ」と思っていたという。大本営のウソの戦勝報道を信じていた国 民はもはや多くなかっただろうとはいえ、国民の継戦心理と現実とは甚だし く乖離していたのだ。本 - 上決戦もせす突如降伏というのは、原爆の報があっ ても大半の人にとって寝耳に水だったという。後付けの納得理由である原爆 投下がなかったらなおさらである ( 第 14 問で触れたが、単なるデモンスト レーションで原爆の威力を見せられた場合、「敵は新たに残虐なる爆弾を使 用して」という、敵の非道に責任転嫁するアピールが不可能になり、惨害と しようちよく 慈悲のコントラスト効果が得られす詔勅の神通力は弱まっただろう ) 。 翌 16 日に天皇が軍に対して発した停戦命令では、ソ連参戦に言及し、原 爆への言及はない。軍隊に対しては実質的に戦闘不能になった理由を説明し ながら、国民に対しては本音の降伏理由を隠して象徴的な建前を強調し、軍 の面子を守ったのである。ちなみに、当日の新聞報道の見出しも、「新爆弾 の惨害に大御心」 ( 朝日 ) 、「新爆弾・惨害測るべからす」 ( 毎日 ) などと、もっ ばら原爆の被害と「新しさ」を強調した表現になっている。翌日の中国新聞
と東アジア戦略での優位が確保された。このアメリカ側の利害を強調するこ と。これが、肯定派が長崎原爆を正当化できる最大の根拠だろう。陸戦の主 戦場だった中国戦線が膠着しているときに日本を一挙降伏に追い込めた功績 は、太平洋戦線の負担の大部分を引き受けたアメリカのものであることは確 かであって、ソ連軍が満州方面から日本軍を追い落としたとしても軍事的に はダメ押しにすぎないだろうから、アメリカの東アジアでの権利主張は正当 だと言えるだろう。 さらに言えば、長崎に第二の原爆を落とされたことで、アメリカが複数の 原爆を有していることが確実になった。 8 月 9 日の最高戦争指導会議で、陸 相、参謀総長、軍令部総長は、アメリカが持っている原爆は 1 個だけ、と主 張していたが、会議の最中に長崎原爆の報が人ったのだった。一発と二発の 違いは大きい。原爆連続攻撃の脅威はいよいよ真実味を増した。皇族は宮中 の防空壕の不備についてたえす陸軍省に苦情を訴えていたが、原爆の報で皇 室の志気は完全喪失していた。広島の報を聞いた時点で「このような新兵器 が使われるようになっては・・・・・・」と観念していたヒロヒトはいよいよ政治介 人を決意し、聖断で日本は降伏に踏み切れた。 以上のような長崎原爆の効果は、もはや「相乗効果」を超えたものと言い うるのではなかろうか。ソ連の軍事行動の脅威その他の事情により、原爆の 限界効用を極度に押し上げられていたので、広島原爆だけでは限界効用に近 づくことはなく、長崎原爆が独自の意味を付け加えるスペースが生じていた のである。広島効果に対して、長崎効果は単なるトッピングではなく、原爆 投下の効果を 2 倍以上に増幅させた。 マンハッタン計画の責任者クローブズ将軍は、当初から「確実な成功を得 るには第一撃のあとにすかさす第二撃」というワンツーパンチ論を主張して いた。逐次投人でショックを薄れさせてしまい、所期の目的が達せられな かったら第一撃が無駄になる。確実な量の衝撃を得て万全を期す戦術である。 広大な戦線に兵力を分散させ、ガダルカナル戦などにみられる「逐次投人戦 術」で人命を浪費した日本軍には耳の痛い正諭に響くだろう。 朗ジョージ・ウェラー著、アンソニ ・ウェラー編「ナガサキ昭和 20 年夏」毎日新聞社 戦争論理学 蚣レネ・シェーファー「オランダ兵士長崎被爆記」草土文化 あの原爆投下を考える 62 問
太平洋の制海権と制空権がアメリカのものなのだから、日本軍が対外侵攻す る可能性はなく、被害はほとんどない、と考えたくなる。しかし、中国、ビ ルマ、フィリピン、ニューギニアではまだ戦闘が続いていたことを思い出し てほしい。日本軍のまだ安泰な占領地であるマレー・インドネシアのうちポ ルネオへの米豪蘭軍侵攻も 5 月から始まっていた。組織的戦闘の終わった沖 縄、硫黄島をはじめ、グアム島など太平洋の島々にすらケリラ化した日本兵 が潜んでいたことも忘れてはなるまい。驚いたことに、原爆搭載機が発進す ることになるテニアン島にもまだ無線機を持った日本兵が潜んでいて、原爆 投下作戦のために到着した第 509 混成部隊の尾翼マークなどの情報を、近 くのロタ島にいる日本軍部隊 ( 約 3,00() 人 ) を中継して日本本土に送って いた。日本国内からアメリカ軍に向けて発せられた戦意喪失を狙う謀略ラジ オ放送 ( 「東京ローズ」の放送など ) は、尾翼マークについての日本側の知識 を誇示した。テニアン島の日本兵らはときどき米軍基地に忍び込んで食料を 盗み出す程度で、戦闘と言えるほどのものはなされていなかったが、「交戦状 態」が終わっていないという意識は、戦闘以外での無用な消耗を生する。戦 争継続のメンテナンスにはコストがかかる。わすかな油断も許されないのだ。 重巡洋艦インディアナポリスがいい例である。太平洋で水上に攻撃目標が ほとんどなくなり、アメリカの空母も潜水艦も暇に任せて日本列島の港に近 づいて商船を沈めたりしていた余裕の 7 月末、重巡インディアナポリスが、 伊号第 58 潜水艦に魚雷で撃沈されたのである ( 30 日 0 時 14 分 ) 。 1 , 196 人中 880 名が死亡。インディアナポリス撃沈事件が劇的なのは、救助の遅 れから無用の犠牲者を増やした人災だったことに加え、この巡洋艦が、テニ アン島に原爆の本体を運び込んだ直後だったことだ。テニアン島に原爆を下 ろしてからグアム経由でレイテ島に向かう途上に撃沈されたのである。広島 原爆リトルポーイには、「インディアナポリス乗組員の霊に捧ぐ」「ヒロヒト を葬れ」などと落書きされていたという。 インディアナポリス撃沈事件は、日本降伏後にアメリカ国内で報じられ、 海軍史上最大の惨事として大問題になった。救助された艦長は軍法会議で有 罪判決を受け、遺族に責められ、自殺している。インディアナポリス撃沈事 件は原爆投下準備中の出来事だったが、もしも原爆が完成しておりながら使 わすにいる状態が何ヶ月も続いたら、あとでそれを知ったアメリカ世論がど 0 5 8 戦争論理学 あの原爆投下を考える 62 問
になると考えるのは、「ポストホックの誤謬」の一種である。 「ポストホックの誤謬」は第 6 問ですでに見たとおり、隣接した出来事に むやみに意味連関を読み込む錯覚である。通常は、 A の後に B が起きたとき に「 A は B の原因である」と即断してしまう誤謬 ( たとえば、毎朝、朝日が 昇ると目覚ましが鳴ることから、日光が目覚まし時計作動の原因であると考 えるなど ) をポストホックの誤謬と呼ぶ。原爆投下の「人体実験」説は、 A の後に B が起きたことを「 B は A の目的だった」と考えるものなので、「逆 ポストホックの誤謬」とでも呼ぶのが適当かもしれない。 「人体実験」説は「逆ポストホックの誤謬」であるとともに、典型的な「わ ら人形論法」でもある。「わら人形論法」とは、対象の本質を脇に置いて、 ことさらに批判しやすい側面を提示し、それが対象の本質であるかのように 偽りつつ批判して、本当の本質を批判できたかのように装う詭弁のことだ。 たとえば、満州国、中国南京政府、ベトナム、ビルマ、フィリピン、自由イ ンド仮政府、インドネシアなど、太平洋戦争で日本に協力したアジア諸国の 政権を一括して「傀儡政権」と呼んで批判したり嘲笑したりするのは、わら 人形論法である。なせなら、それらの政権の指導者たちの中には、独自の真 面目な意図を持って対日協力していた者も確かにいたからだ。少なくとも満 州国皇帝溥儀は清朝再興を真剣に夢見て関東軍を利用しようとしていたし、 インドのチャンドラ・ポースとインドネシアのスカルノ、ビルマのノヾー・モ ウの祖国独立の思いも熱烈かっ誠実だった。結果的に日本に裏切られつづけ たとはいえ、汪兆銘も独自の理想を抱いていた。にもかかわらす、軍事的に 日本に従属していたという面だけを本質へ昇格させて傀儡と貶めるのは、矮 小化のわら人形論法と言える。 むろん、逆のわら人形論法にとさらに高く評価するための ) もある。太 平洋戦争が結果としてアジア諸国の独立をもたらしたことをもって、大東亜 共栄圏という理念が本物であったと賛美するとしたら、戦争の侵略的な側面 を覆い隠したわら人形論法にあたるだろう。 原爆投下についても同じことがあてはまる。あれはどの規模のプロジェク トだから、さまざまな側面を持つ。しかし、 20 億ドルの経費と膨大な労力を、 単なる「真珠湾の報復」「人体実験」「カの誇示」を主目的として使うなどと いうことはありえない。もっと実質的な、コストに引き合う動機があったは 0 4 8 戦争論理学 あの原爆投下を考える 62 問