0 9 7 2 3 なぜ「国家」に無条件降伏を要求したのか ? 吉田一彦「無条件降伏は戦争をどう変えたか」 PHP 新書 2 3 / 62 なせ「国家」に無条件降伏を要求したのか ? 答え ててみよう。 分割の誤謬 前問末尾で提示された二つの主張に即して、具体的に議論を組み立 わす結束するようなことは起こらなかっただろう。戦局の悪化に伴って急速 はすだ。そうすれば、無条件降伏要求によってドイツ国民がナチ・反ナチ問 象を制限して、「ナチス政権」の無条件降伏を要求するという方法もあった イツ」に対して、つまり国家に対して要求する必要があったのだろうか。対 しかし、ナチスの蛮行が許しがたいものだったとしても、無条件降伏を「ド る人々の観点からすれば、正しかったということにもなるだろう。 を遅らせはしたが、長い目で見れば、とくに枢軸国の占領地で虐げられてい ない。無条件降伏の要求は、枢軸国の死に物狂いの抵抗を誘って当面の戦争 コーストは、戦争努力とは何の関係もない超大量殺人であり、容認の余地は なる侵略戦争を企てないともかぎらないからである。とくにナチスのホロ 和で済ませてしまうと、ナチもファシストも日本軍閥もそのまま残って、次 という決意を連合国が固めたとしても責めることはできまい。単なる条件講 解体できるほど完璧な敗北に追い込まないかぎり、世界平和は実現できない ていることも知られていた。勝者によって枢軸国の軍および政府そのものを すうすではあるが察知されていた。中国で日本軍が毒ガスと細菌兵器を使っ ることはよく知られており、強制収容所でのホロコーストのありさまも、う あながち不可能でもない。たとえば、当時ナチスがユダヤ人を迫害してい ます第一に、無条件降伏の要求は正しかった、と論することは可能だろう
的戦略が許されるかもしれないからだ。 第二点の典型例は、ソ連を牽制・威嚇するためという不純な目的を 含んでいたとしても、それはただちに、原爆投下という手段を批判す るための理由になるとはかぎらない、ということである。ソ連牽制は 付随的目的であり、主目的はもっと望ましいものだったかもしれない からである。 第一点を補強する要因としては、ポッダム宣言の文言が日本にとっ て受け容れがたいものになったのは、大統領交代直後という当時のア メリカ国内政治事情に照らすとやむをえなかったということが考えら れる。第二点を補強する要因としては、戦争の早期終結という主目的 に加えて、ソ連牽制という副目的ですら、アメリカのみならす日本に とっても望ましい目的であることは否めなかった。 さてしかし、否定派はまだ反論することができる。戦争の早期終結 という、どう考えても好ましい主目的のために原爆は使われたと一般 に考えられている。しかし、「原爆投下は却って戦争を引き延ばした」 という見方もあるのだ。もしそれが正しければ、原爆はそもそも悪し き目的に貢献していたことになる。 アメリカにとって原爆投下は、新兵器の実験という意味を持つがゆ えに、戦争終結前になんとしても実行したいプロジェクトだった。し たがって、もっと速やかに勝っことができたのに、意図的に原爆完成 まで戦争を引き延ばしたのではないか、という疑いである。 その特殊な例が、無条件降伏の要求である。日本に対してはとくに、 天皇制を廃止する可能性を最後までチラつかせることで、わざと日本 の降伏を遅らせ、原爆完成まで引っ張ったというわけだ。 この説については肯定派はどう答えるべきだろうか ? 答え 第二次大戦では、アメリカ参戦後は連合国がもっと速やかに勝つやり方が あったにもかかわらす、故意に勝利を遅らせたのではないか、と思われるふ しがないではない。ドイツ軍内部からの和平申し人れを西側連合国が蹴って 無条件降伏に固執したことを第 22 問で見たが、それ以前にすでに、第 8 問 戦争論理学 あの原爆投下を考える 62 問
がなくなった時点で、単独不講和協定は失効した。ならば、その時点 でなら、日本はただちに降伏してもよかっただろう。南原繁ら「東大 法学部七教授の和平構想」でも、終戦の最善のタイミングはドイツ降 伏のときだとしている ( その他にも、アメリカと直接交渉すべきであ りソ連を仲介に頼んではならない、終戦後は天皇は退位すべきである 等の卓見が列挙されている ) 。 たしかに、単独不講和協定失効と同時に降伏すれば、沖縄での流血 は半減され、満州の悲劇も原爆投下もなかった。なせそれができなかっ たのだろうか。 答え ドイツ降伏は、原爆投下やソ連参戦とは違って、何ら日本に精神的打撃を もたらした形跡がない。その理由は、何ヶ月も前からドイツ降伏が時間の問 題であることがわかっており、正式に降伏調印された 5 月 8 日が特別な日と して認識されなかったことが大きいだろう。当のドイツ人にとっても同様で、 国内が順々に米英軍とソ連軍に占領されていったため、占領地の人々にとっ てはその時に戦争は終わったのであり、日本人にとっての 8 月 15 日に相当 するような「国民共通の劇的な日」はドイツには存在しなかったのである。 前問で見た単独不講和協定の経緯を考えると、単独不講和協定を守る義務 が最も大きかったのは、その協定で最も利益を得た日本だったことがわかる はすだ。連合国のヨーロッパ優先戦略のおかげで、結果的に枢軸国の中で日 本の降伏が最後になったのは、日本の信望・名誉にとって幸運なことだった。 ドイツ降伏が何ら劇的な突発的出来事ではなく虱潰し通常戦争の果てだっ たことに加え、ヨーロッパの戦争とアジアの戦争は利害の連動もなく ( とく に枢軸国側にとっては ) ほば完全に分離していたので、ドイツ降伏が日本に とって降伏のきっかけとなることはなかった。それでも、ドイツ降伏を「口実」 として日本はただちに降伏することはできたのではないか。ちょうど、原爆 投下を実質的な衝撃以上に誇張して「口実」に使えたように もしそうしていたら、日本の戦争は、全面的にドイツに依存した戦争だっ たと表明することになる。ひいては、対米開戦時に必すドイツを対米参戦さ せることが日本の決意だったことになり、枢軸国の相互依存を旨とする単独 1 戦争論理学 あの原爆投下を考える 62 問
1 0 9 2 7 面子と面子の衝突は腹芸で妥協 ? 身の手で」「連合国による日本占領はなし、または最小限」「日本の戦争犯罪 人の処罰は日本自身の手で」という計 4 項目に固執していた。これは、連合 国がとうてい呑める条件ではなく、徹底抗戦すると言っているに等しい。 日本の軍が無条件降伏を拒絶している以上、そして陸軍大臣の辞職によっ て内閣を自由に倒し、軍の意に添わぬ政策はことことくつぶす権限を陸軍が 握っている以上、かりにトルーマンが捨て身で無条件降伏要求を引っ込め「弱 腰提案」をしたとしても、日本政府はそれを受け容れられなかっただろう。 弱腰提案をするだけでも冒険なのに、それを拒絶されたとあっては、アメリ 力の立つ瀬がない。完璧な勝ち戦なのに、そのようなリスクを冒さねばなら ない必然性はアメリカにはさらさらなかったのである。 無条件降伏要求を引っ込めて国体維持を認めれば、確かに日本国内の和平 派を元気づけることはできただろうが、継戦派を抑えさせることはきわめて 難しかった。トルーマンが無条件降伏要求を貫徹したのは、無理なかったの である。 さらにもうーっ、アメリカ政府と日本政府との駆け引きでは済まないとい うべき要因がある。アメリカ以外の連合国の意思である。アメリカは、戦後 戦略を睨んで天皇制を認める用意ができていたが、東京裁判でオーストラリ アのウェップ裁判長が天皇の訴追を主張したことからわかるように、アメリ カ以外の連合国が 1945 年 7 月の時点で天皇制容認に同意できたかどうか は怪しい。日本と交戦中のすべての連合国を代表する宣言であるためには、 意見の相違がありうる事項については沈黙せねばならないのは当然のことだ ろう。ポッダム宣言に天皇条項は書かれてはいけなかったのだ。 ちなみに、 8 月 IO 日に日本政府が「天皇の国家統治の大権を変更するの 要求を包含し居らざることの了解の下に」ポッダム宣言を受諾すると回答し たのに対する「バーンズ回答」 ( 11 日 ) は、「降伏の瞬間から、天皇および 日本政府の国家統治権は連合国最高司令官に従属することになる (shall be subject (o) 」と述べ、「日本政府の最終形態は、ポッダム宣言に従い、日本 国民の自由に表明された意思によって確立されるものとする」と、「国民の 自由意思」を繰り返している。天皇の大権がどうなるかについては直接答え ていないが、この煮え切らぬ答え方には、アメリカの苦慮が滲み出ていると 言えよう。国内の強硬派や中国、オーストラリアをはじめとする連合国の不
4 5 日ソ中立条約破棄はいくらなんでも酷すぎる ? 連憲章を批准しておらす ( 批准は IO 月 ) 、国連憲章はまだ発効していなかっ た。アメリカからソ連への対日参戦理由付けの提供は、国際法上の裏付けの ない便宜的方便だったのである。 結局、国際社会の旧体制における契約と、来るべき新秩序における義務と でいすれが優先するかは、法や倫理の問題というより、功利の問題となるだ ろう。少なくとも旧体制の外交関係では、ソ連と日本の間には、未解決の問 題は何一つなかった ( 日本がソ連に託していた和平調停要請に対する回答が ソ連からなされていなかったことを除けば ) 。ただし、東京裁判の判決では、 45 年 8 月当時には日ソ中立条約は日本の行動によりすでに無効も同然だっ たとされ、逆にソ連に対する日本の戦争責任カ墹われて有罪となった。独ソ 戦勃発時に日本が満州に大軍を送り ( 関東軍特種演習 ) 、極東ソ連軍を釘付 けにして西送を妨げることによってドイツを支援するとともに、ドイツ優勢 が明自になった時点で対ソ参戦する計画 ( 熟柿戦略 ) を抱いていた、という 事実により、日本がすでに日ソ中立条約を侵犯していたというわけである。 日本が対ソ参戦の機を見る熟柿戦略を採っていたことは事実だが、結局は 未遂に終わった。日本の条約侵犯未遂を根拠に、実際になされたソ連の条約 侵犯を正当化することはできないだろう。もちろん、関東軍特種演習や一部 の海上封鎖、艦船拿捕などによってソ連の対独戦遂行を妨害し、間接的に被 害を与えたことについては日本側に責任はあると言わねばならない。が、ソ 連の過剰な機雷敷設による日本海での日本船舶の触雷遭難や、日中戦争への 義勇兵参戦許可、アメリカや中国との兵站・諜報協力、等々によってソ連が 日本に損害をもたらしたことも事実であり、日ソ中立条約侵犯の度合は双方 同程度であったと言える。それらの「小侵犯」の蓄積によって、宣戦布告・ 軍事侵攻という根本的な侵犯が正当化されるほどに中立条約が無効化してい たとは言えまい。事実、日ソ戦の直前まで、日本とソ連の外交官は、互いに 日ソ中立条約の意義と重要性を定期的に口頭や文書で確認しあっていたので ある。 しかも、ヤルタ密約には、対日参戦に人るにあたって中国との合意を得る こと、という条件が付いていた。ソ連の満州侵攻前に、中ソ条約の締結が必 そうしぶん 要とされたのである。スターリンと宋子文の間の交渉は難航し、外モンゴル の地位、旅順港、大連港、満州鉄道の利権などをめぐって中ソの間で合意が
1 29 ドイツ降伏は絶好のチャンスだったか ? 不講和協定に対する日本のイニシアテイプが誇張されることになろう。現実 には、相互依存戦略のイニシアテイプはむしろヒトラーが握っており、対米 開戦に踏み切るための「保障」として日本に提案したのが単独不講和協定だっ た。日本は、ドイツの対米参戦の有無にかかわらす、そして単独不講和協定 の有無にかかわらす、独自に対米開戦に踏み切っていたはすである。実際、 真珠湾攻撃前には日本側によって単独不講和協定は想定されていなかった。 以上の経緯にもかかわらす、ドイツ降伏の直後に日本が降伏していたら、 アジアの戦争がヨーロッパの戦争に寄生していたことの公言になる。 1945 年 5 月当時の日本の戦況は、降伏直前のドイツに比べればかなり余裕があっ たので、その時点で日本が降伏するとなれば、ドイツ降伏以外の理由がない ことが明らかだからである。実際には米英も蒋介石も、対日戦争の勝利は 1 年半先のことだと考えていた。その見通しが中国国民党軍の北上を遅らせ、 共産党軍に東北の要地へ先着される原因となったほどである。日本の戦争が ドイツ降伏によって無意味化するような戦争だというのは、ヨーロッパ戦よ り 2 年も前に始まっていた日中戦争の延長に他ならない大東亜戦争の本質に 反しているだろう。 単独不講和協定の失効により、日本の抗戦は完全に自由意思でなされうる ことになった。拘束がなくなったことで降伏しやすくなったことは確かだが、 だからといって即時降伏するとなると、大東亜戦争独自の意味カ嘸化されて しまう。ドイツ降伏の時点で、日本はまだ広大なアジア地域を占領統治した ままの状態である。占領地のアジア人民への政治宣伝の手前、欧州戦終結な どという疎遠な理由によって日本軍が降伏することは許されまい。欧州戦終 結は、日本の徹底抗戦の義務を解除したと同時に、逆に早期降伏への牽制に もなった。「大東亜共栄圏」の真摯度、すなわち大東亜戦争の政治的真価が 試されることになったのだ。 ちなみに、大東亜共栄圏の理念がまやかしであったことは多くの証拠に よって裏付けられる ( ただし第 9 問で触れたように現地政権にとって独立は 真剣だったが ) 。最も明白な例は、日本のインドシナ政策に見られよう。日 本軍は緒戦において英米蘭勢力を東南アジアから駆逐した反面、仏領インド シナ進駐以降すっと現地フランス植民地政府と共存しており、戦線拡大後も インドシナでのフランスの主権を認めているのである。フランス本国のヴィ
付録 2 カイロ宣言 1943 年 12 月 1 日発表 ルーズベルト大統領、蒋介石大元帥およびチャーチル総理大臣は、各々の軍事顧問・外交顧問 とともに北アフリカで会議を終了し、次の一般声明を発した。 各軍事使節は、日本に対する将来の軍事行動を協定した。三大連合国は、海、陸、空から、そ 協調し、日本の無条件降伏をもたらすに必要な真剣かっ持続的な作戦を断固として続けるであろ これらの諸目的を視野に、三大連合国は、ワシントン宣言署名国のうち日本と交戦中の諸国と 期に朝鮮を解放し独立させることを決意している。 ら日本は駆逐されるであろう。前記三大国は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意しており、適当な時 これが連合国の目的である。さらに、日本が暴力または貪欲によって奪取した他の一切の地域か 台湾、澎湖島のような日本が清国人から奪い取ったすべての地域が中華民国に返還されること。 大戦開始以後に日本が奪取または占領した太平洋の島々すべてを日本は剥奪されること、満洲、 のために利得を欲することはなく、領土拡張の意図があるわけでもない。 1914 年の第一次世界 三大連合国は日本の侵略を阻止し罰するためにこの戦争を戦いつつある。三大連合国は、自国 の野蛮なる敵国に対し容赦ない圧力を加える決意を表明した。この圧力はすでに増大しつつある。 つ。 戦争論理学 あの原爆投下を考える 62 問
1 9 一億玉砕を撤回させる決め手は ? 念日前日にスターリンが「日本は侵略国」と明言した演説は、日本の各新聞 がはば全文を掲載していたのである。こうして事実上、敵国に等しいと国民 に認識されていたソ連が攻めてきたからといって今さら、「一億玉砕」の音 頭をとった大本営があっさり「ポッダム宣言受諾します」と国民に言えただ ろうか ? 本土決戦の時間稼ぎのため沖縄で 20 万以上の尊い犠牲を払わせ た直後に ? 房総沖のアメリカ機動艦隊に向かって、日の丸のハチマキをし た若者たちが帰らぬ攻撃に次々飛び立っている最中に ? ソ連参戦のような、あくまで通常戦争の継続としての打撃をいくら受けて も、戦争終結に踏み切る素地が当時の日本にはできていなかった。絶望的と わかっていながら、ドイツと同じように国上が征服され尽くすまで徹底抗戦 せねばならないシステムで動いていた。ところが、原爆となると話は別であ る。通常戦争の延長上にあるのではなく、核戦争へのバラダイム変換を示す パラダイム 出来事だった。原爆は戦争の「枠組み」を変えてしまったのだ。「一億玉砕」「総 特攻」も、原爆が相手では敵に出血を強いるという目的が達せられす、無意 味になった。 原爆が実質的威力より心理的効果 ( パラダイム変換のアピール ) を与える 兵器として目論まれていた証拠は多い。空襲被害を受けていない無傷の都 市が投下目標として選定されたのは、原爆そのものの威力を印象づけるため だった。同じ理由で、原爆投下のあと通常の焼夷弾絨毯爆撃を行なって完全 破壊を目指すという案も却下された。原爆そのものの威力を掻き消すような 真似は避けられたのである。 ただ一発で空前の被害を生するという心理効果、戦争の新段階を痛感させ る革命性のアピールがとにかく重要だった。実際に「一億玉砕」戦術で戦い 続ければ敵に相応の出血を強いる結果になっただろうが、事実よりも心理こ そが現実に影響をもたらすことが多い。切羽詰まった段階ではとくにそうで ある。原爆は、実際上のインパクトはソ連参戦にはるかに及ばないとはいえ、 象徴的な意義はソ連参戦よりはるかに大きかった。政治、経済、心理、軍事 の四つの要素から戦争は構成されると言われるが、く政治〉とく心理〉とい う二つの要素において、原爆はソ連参戦を凌ぐ威力を発揮したのだ。 思えば、カサプランカ会談で「無条件降伏」が宣言され、次に特攻開始に より日本の「降伏よりは死」という徹底抗戦姿勢の具体化がなされたことに
5 8 2 3 3 原爆開発は確かに科学的快挙だったが・・ 悪感や汚辱ははとんど付随していなかったというのが事実なのだ。兵器開発 の途方もない努力や、苛烈な訓練をはじめとする現場の苦労などによって、 巨大な虐殺に対する実感をすっかり揮発させるのが戦争であるという、すで に確認してきた洞察に私たちは立ち戻ることになろう。 努力は一般に美徳である。たとえ戦争という殺し合いであっても、その土 俵内では、厳しい訓練に耐え、任務を果たし続けることは美徳なのだ。それ は文明社会の公理である。戦争中だけ努力の美徳性を解除するという好都合 な融通性は文明に備わっていない。努力は美徳だという原則を大筋で守り続 けるところに、文明の自己展開が保証される ( 規則功利主義 * ) 。そして努 力の美徳性は、その目的の悪徳性の弁明になりうる。機械的な任務遂行シス テムの中での、無差別爆撃を含む作戦行動の連続において、日常的な判断を 麻痺させるのが軍民一体戦争マシーンの本質なのである。原爆投下における 当事者の反応は、戦争がもたらす感受性麻痺の一例にすぎない。そうした感 受性麻痺が、当該の行為そのものに関しては冷血非道な態度をもたらすとし ても、広い戦略的視野からすれば、功利的に望ましい結果をもたすことがあ る。ナチスの強制収容所で日々収容者を殺していった職員についてはそれは とうてい成り立たないが、マンハッタン計画を推進した人々についてはそれ が成り立っと言えるのではなかろうか。 マ行為功利主義と規則功利主義 * 「功利主義」 ( 第 15 問 ) には、大まかに分類して行為功利主義と 規則功利主義とがある。行為功利主義は、個々の行為に「最大多数の 最大幸福」をもたらすかどうかという基準をあてはめて善悪判断する 考え。規則功利主義は、多数の行為を束ねる規則に対して「最大多数 の最大幸福」をもたらすかどうかという基準をあてはめて善悪判断す る考え。行為功利主義に従って、行為するたびにそのつど利害を計算 し最善の選択ができれば理想的だが、人間の判断力には限界があるの で、もっと大まかな規則によって行為を分類し、一括して善悪を認定 してしまったほうが能率的である。そして能率的なほうが結果として 「最大多数の最大幸福」を実現しやすいので、功利主義の理念にも合っ
0 4 0 2 9 核兵器は通常兵器より悪いのか ? 的、社会的問題についての委員会報告 ) 」には、次のような一節がある。 「われわれは大量の毒ガスを蓄積しているが、使用しない。最近の世論調 査によると、たとえ毒ガス使用が極東の戦争の勝利を早めるということで あっても、国民はその使用に賛成しないであろうことが示された。爆弾と弾 丸による戦争よりも毒ガス戦のほうが「非人道的」だということは決してな いにもかかわらす、集団心理の中の不合理な要素ゆえに、毒ガス戦は爆薬で 吹き飛ばすことよりも嫌悪すべきだとされることは事実である」。 ヒロシマ以前にも原爆が毒ガスと同列と見なされていた証拠として、フラ ンク報告は否定派を支持する根拠となりうるが、同時にフランク報告は、毒 ガスを特別視するのは情緒的な偽善であるという戦争観をも表明しているの だ。実際、アメリカも日本も、ハーグ宣言、ジュネープ議定書など、第二次 大戦前の化学兵器禁止条項付きの多くの軍縮協定を、調印もしくは批准しな い状態のまま戦争に突人した。 フランク報告の時点では、原爆の威力は大したものではないと考えられて いた。毒ガスや細菌兵器にしても案外殺傷力は低い。同じ地下鉄の事件でも、 韓国の大邱地下鉄放火事件での死者が 192 人だったのに対し、オウム真理 教のサリン事件での死者は 12 人だった。中国戦線で日本軍は毒ガス弾を多 用したが、毒ガスだけで敵兵が死ぬことはさほど多くなく、煙を見せて守備 隊を退散させるとか、降伏させるとか、毒ガスで苦悶している敵兵を片端か ら刺殺・射殺するとかいった目的に使われていた。もしも毒ガスが国際的に 犯罪と見なされていなかったら、毒ガス使用を隠蔽する必要がないので戦闘 不能の敵兵を殺さすにすんでいたはすだ。銃弾と爆弾による戦闘よりも、毒 ガス戦のはうが生存率は高くなる見込みが大きい。 ではなせ、戦争法規では銃撃や砲撃や爆撃が許されて、毒ガス散布や細菌 散布が禁じられたのか。それは主として、毒ガスや細菌を使われると、伝統 的な戦術が使えなくなり、軍人の能力を発揮できなくなるからである。戦争 技術の体系が崩れ、軍事専門家の誇りが傷つけられる。「卑怯な兵器」とい うイメージがそこから生し一般民衆の「集団心理」にもそれが根付く。 核兵器も同様だ。あまりに巨大な爆発力と放射能は、前線で指揮する将軍 たちのテクニックを無価値にしてしまう。アイセンハワーやマッカーサーや ーミツツら戦域司令官レベルがこぞって原爆投下に嫌悪を示したのも、人道