日本共産党の歩み 西暦元号月日 1922 正Ⅱ 7 ・燔堺利彦や山川均らが非合法組織として日本共産党を結成 月共産主義政党の国際組織「コミンテルン」第 4 回大会でコミンテルン日本支部として承認 1 ワ〕っ 0 ワ」 4 ・ 5 日本民主青年同盟 ( 民青 ) の前身の日本共産青年同盟設立 19 、ワ】 4 っ 0 3 月幹部の大量逮捕などを受け自主的に解党を決議 1926 月有志が再結党 1928 和 3 非合法の地下新聞として「赤旗 ( せつき ) 」創刊 3 月治安維持法違反などで党員が大量に検挙 ( 三・一五事件 ) 4 月党員らが大量検挙 ( 四・一六事件 ) 1932 8 2 月党員のプロレタリア作家、小林多喜一一が特高警察により拷問死 5 月コミンテルンが「絶対主義的天皇制打倒のためのプルジョア民主主義革命」という一一段階革命 論を明記した「年テーゼ」を決定。以降、終戦まで党内でスパイの査問、暴力などの抗争が激 化。幹部らも大量に逮捕、投獄される 1945 8 信終戦。共産党が合法組織に 川月連合国軍総司令部 ( ) の指令により共産党員ら政治犯釈放 に月合法化後初となる第 4 回党大会。徳田球一が初代書記長に就任 1 4 1 2 4 ・ 2 戦後初の衆院選で徳田や野坂参三ら 5 人が当選し、共産党初の国会議員が誕生 6 ・四共産党独自の憲法改正案である「日本人民共和国憲法草案」を発表 8 ・四憲法改正案 ( 現行憲法 ) を採決した衆院本会議で共産党議員が反対。反対討論で野坂が改憲 案を批判
主主義革命の内容をなすものだというように、問題の発展的な整理をおこないました》 《この政府が安保条約をなくし、経済改革を実現していけば、それがまさにわれわれがめ ざしている民主主義革命を実行することになるんだ、そういう関係を、新しい綱領改定案 でははっきりさせたわけです》としている。 そもそも共産党の祖であるマルクスとエンゲルスは— 8 4 8 年の「共産党宣言」で、革 命とは、プルジョア ( 中産階級の資本家 ) が最初に封建的な秩序や政治体制を壊し、プロ レタリア ( 労働者階級 ) とともに新たなプルジョア民主主義を立ち上げた後、次の段階 で、プロレタリア自らが組織して資本主義を転覆し、社会主義の建設に向かうと定義して 日本共産党も戦前は、「絶対主義的天皇制を打倒し、大地主や財閥の支配を解体する」 プルジョア民主主義革命を起こした後、社会主義革命に転化するという「二段階革命論」 を主張しており、戦後も、前段が「アメリカ帝国主義と日本独占資本の打破」に変わった だけで、その後社会主義革命に至るという考え方は大きく変わっていなかった。 しかし東西冷戦が終結することになった 1989 年新春の「赤旗」で当時の議長、宮本 顕治が「資本主義の枠内での改革」を明一一一口。以降、「人民の民主主義革命」と「社会主義 革命」の連続性はあまり強調しなくなってはいるが、最新の党綱領にも《社会主義・共産 140
第六章マ憲法 9 条に反対した唯一の政党 第七章マ皇室戦略転換の狙い 歳で除名された野坂 9 条は空文に過ぎない 日本人民共和国憲法草案 歴史的文書だから今の政策ではない 平和外交があれば自衛隊はいらない 自衛隊はダメだが、共産党軍ならよい 本音は改憲による新国家樹立 あっさりと全員が賛成 苦しい言い訳の数々 マスコミが報じなかった眞子さまとの同席 皇族の前でも君が代は歌わず 190 204 201 207 223
ルンについては《前むき》だったからよかったのか、《誤りや弱点》があって悪かったの かが、不明である。なぜこのような奥歯に物がはさまったような評価になってしまうの 1 刀 それは、後に詳しく触れるが、日本共産党が、「共産主義」そのものを正面から総括し ようとはせず、「レーニンの時代の共産主義はよいが、その後のスターリンの時代は悪 い」という枠でしかものを見ていないからである。 ( 喜 ) はさらにこう続ける。 《コミンテルンは、日本共産党の加人から年代前半までは、健全さをまだもっていまし た。しかし、年から年には、スターリンの専制と弾圧がコミンテルンにもおよび、コ ミンテルンなどで活動していた外国の共産党の幹部、活動家への弾圧がつよまります。こ れ以後、コミンテルンは、スターリンの外交路線への追従と覇権主義的支配の舞台となる など、各国の運動の前進をさまたげる反対物に変質をとげてゆきました》 では、なぜ当時の日本共産党は、スターリンと決裂しなかったのか。 ( 喜 ) は、まるで 他人事のようにこう答えている。 《当時、日本共産党中央は、天皇制政府の弾圧で獄中にあり、コミンテルンの変質の進行 を知ることはできませんでした》 162
エリート中のエリート インターネット上で「志位るず」などと揶揄されながらも、との連携を深 める共産党。委員長の志位和夫は、共産党では珍しい「二世議員」だ。 1954 ( 昭和四 ) 年、千葉県四街道町 ( 現四街道市 ) 生まれの引歳。両親ともに共産 党員で、かつ小学校の教員だった。父は船橋市の教職員組合書記長の後、共産党の船橋市 議も務めた。 志位のホームページによれば、初めての「政治体験」は幼稚園児だった年にかけ ての日米安保条約改定反対運動だという。父の肩車の上で、千葉市で行われた安保反対の デモ行進に「参加」した。 趣味の音楽については「人生の一部といってもいし。 ゝまどのかけがえのない世界」という ほどで、高校生のころは本気で作曲家になりたいと勉強していた時期もあった。だが、東 大 1 年生のときに共産党に人党。当時は田中角栄内閣で、衆院小選挙区制の導人が政治の 争点となり、志位も東大のある東京・駒場から国会へのデモ行進に参加した。
いを読者拡大運動につなげられなかったというのだ。 党幹部は、参院選の結果について「自民党の暴走を食い止めようと訴える日本共産党の 主張に無党派層、とくに若い層の共感を得た」と強調したが、その無党派層を赤旗購読ま でつなげるのはやはり一筋縄でいかないということだ。 党員の減少傾向も止まっていない。年 1 月公表の党員数は万 5 千人で、過去最多 だった 1987 年の万 4 千人からに万 9 千人 ( % ) 減った。焦る党指導部は凵年 1 月 の第回党大会で「党勢倍加」と「世代的継承 ( 党員の若返り ) 」の 2 大目標を打ち出し た。年 6 月 9 日には「戦争法案阻止」と同時に「党勢拡大大運動」の大号令もかけてい 党創立記念月の年 7 月の実績は人党— 6 8 2 人、赤旗日刊紙 9 8 7 部増、日曜版 5315 部増だった。この成果を党指導部は評価したが、古参党員によれば、安保関連法 案への国民の批判という追い風があったのに党勢拡大のペ 1 スは鈍かったという。党幹部 が漏らす。 「選挙で躍進したと言っても、土砂降りの中で『自民も民主も維新もダメ』という人々が 共産党の軒先で雨宿りしているだけ。家の中には人ってもらえない」 107 第三章党財政を直撃する赤旗部数
民青は自らを《社会進歩を目指す自主的な青年組織》と定義している。その主張を見る と、就職難などの雇用問題の改善、核兵器廃絶、自衛隊の海外派遣反対、原発反対、日米 安保条約反対、大企業優先の経済政策批判などを列挙している点は、共産党と全く同じ 共産党との関係は《相談相手とし、援助を受けて、科学的社会主義と日本共産党綱領を 学び、自然や社会、文化について広く学んで人間性を育み、社会の担い手として成長する ことを目指します》としている。 一定の距離を置いたようなイメージだが、規約には堂々と共産党の「援助を受けて活動 する」と明記している。 共産党との密接性は、共産党の綱領を《科学的社会主義を日本の現状に応じて発展さ せ、日本の社会発展の道筋をあきらかにしたもの》と絶賛していることからも明らかだ。 旧ソ連のスタ 1 リン体制を批判し、《共産主義の失敗例》と位置づけているところも、ま さに " 親譲りんといえる。 民青の前身は、共産党が非合法組織として発足した翌年の 1923 ( 大正に ) 年 4 月 5 日に創立された日本共産青年同盟 ( 共青 ) だ。以後の歴史を民青は《社会進歩をすすめて きた輝かしい歴史と伝統をもっ青年組織》と自画自賛している。 ヾ 0 53 第一章 S E A L D s と共産党
日本共産党を「シロアリ」と呼んだ民進党の前原誠司元外相が、その「シロアリ」とと もに、札幌市で街頭演説に立った。一緒に演説した共産党の小池晃書記局長は、ツィッ ターで「事件」と発信した。 ( 平成 ) 年 4 月四日、町村信孝前衆院議長の死去に伴う衆院北海道 5 区補欠 選挙。投票日前日の日、「野党統一候補」として立候補した無所属の池田真紀氏の応援 のため、 2 人は他の野党議員らとともに街宣車の上から支持を訴えた。 前原氏といえば、共産党のことを「シロアリみたいなもので、協力したら土台が崩れて ゝ ) よずだった。 いく」と批判するなど、民進党内では誰よりも「共産党アレルギー」カ弓しこ 共産党が伝統的に強い京都府選出でもあり、年間の国会議員生活で常に共産党と戦って はじめに
ていたのは間違いなく共産党だった。過 雄去の歴史を抹殺したいからこそ、火消し 志に躍起なのだろう。 ーの志賀 れ戦前の共産党草創期のメンバ 19 6 4 年に除名された。 義雄もまた、 志賀は宮本とも良好な関係だったが、当 時、ソ連が主導していた部分的核実験停 止条約の批准に際し、共産党の反対方針 に反してソ連支持を表明したことが理由だった。志賀は他の除名された仲間と「日本共産 党 ( 日本のこえ ) 」を立ち上げたが、ほどなく雲散霧消した。 戦前の非合法時代から中央委員を務めた袴田里視は副委員長時代の行年に除名された。 戦前からの同志であり、当時は委員長の宮本の右腕とも言われていたが、宮本の党拡大路 線を批判したことで党員制限処分を受けると、今度は宮本の戦前の「リンチ事件」関与を 週刊誌で攻撃。規律違反として除名処分となった。 終戦直後に政治局員を務めた伊藤律は、戦前のソ連によるスパイ事件「ゾルゲ事件」に 関与したとして年に除名。同じく中央委員を務め、戦後の共産党の武装闘争路線を主導 192
が、こうした「美談」が真実をねじ曲げていることは、コ、こンテルンと日本共産党の関係 を考えただけでも明らかである。 当時の日本共産党の具体的な目的は、スパイ活動を通じてソ連に情報を流し、中国大陸 に進出していた日本軍のソ連侵攻を阻止することに加え、中国で進行中だった共産主義革 命を支援することであり、いずれもコミンテルンが与えた任務だった。 わが国が先の戦争に至った経緯については議論が分かれるところではあるが、その時、 共産党は他国と内通し、他国の指示に従って、自国の体制を転覆させようとしていたに過 ぎなかったのである。決して「平和のため」に「戦争反対」を訴えていたわけではないの こうした見方に対して日本共産党はどう反論しているのだろうか。 2 0 6 年 9 月の 「しんぶん赤旗」で、「コミンテルンとの関係どう考える ? 」として、読者からの質問に答 える形で述べている。 「北海道の一読者」が《戦前、日本共産党はコミンテルンの日本支部として出発したと知 りました。そのこととコミンテルンがスターリンの道具になっていたこととの関係をどう 考えているのでしよう》と尋ねたのに対し、ペンネーム ( 喜 ) は、日本共産党がコミンテ ルン日本支部だったことは当然認めた上で、コミンテルンを設立したレーニンの方針につ 160