「天皇制の廃止」と明記していた共産党は、 g 年 1 月に改定した現在の綱領で《天皇の制 度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって 解決されるべきものである》と規定し、柔軟路線に転換した。 それでも綱領の別の項には《形を変えて天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義の 徹底に逆行する弱点を残したものだった》とも記されており、改定時に「天皇制を容認し た」と報道されたことには反論している。党ホームページには「目標としては天皇制をな くす立場に立つ」と堂々と記載しているところをみても、皇室制度に反対であることは何 ら変わっていない 今回の出席は共産党にとっては大きな方針転換だったが、党として開会式出席を決めた 1 年月幻日の常任幹部会では「議論も行ったが、全員の賛成を得てこういう決定をし た」 ( 志位 ) とあっさりしたものだった。 日常的な対応を決定する常任幹部会は、不破や志位、書記局長ら幻人で構成する。党の 根幹にかかわるような大きな方針転換に対しても、何一つ異論が出なかった時点で、とて もまともな議論が行われている政党とは言えないだろう。 218
ここに、国会が、当面する内外の諸問題に対処するに当たり、国権の最高機関として、そ の使命を十分に果たし、国民の信託に応えることを切に希望します」 一覧して分かるように、お一一一口葉の内容はほとんど変わっていない。前年の開会式に出席 せずに年には出席した志位の理屈は、この一点でも崩壊している。 共産党との共闘に意欲を示し、年夏以降、志位とも複数回にわたって非公式会談を重 ねている生活の党と山本太郎となかまたち代表、小沢一郎は年—月日に出演した 日テレの番組で、こんな種明かしをした。 「憲法を守るというなら憲法の第 1 章は天皇陛下だ。天皇陛下が開会式に来るんだから出 席すべきだと言った。そしたら出ると言って、現実的に出てきた」 「天皇陛下が来る」という小沢の物言いはともかく、事前に志位に開会式出席を助言して いたわけだ。共産党の開会式出席は、他党の「共産党アレルギ 1 」を払拭し、安全保障関 連法の廃止を目指す国民連合政府構想実現に向けて柔軟路線をアピ 1 ルするための方便に 過、きないことが、このことからもへカかる そもそも志位は「わが党が天皇制に反対するという立場で欠席しているとのいらぬ誤 解」と述べているが、果たして「いらぬ誤解」だろうか。繰り返すが、共産党はホーム ページに「目標としては天皇制をなくす立場に立つ」と堂々と記載している。苦しい言い 222
が吉田と国会で論戦を行った翌日の鄲年 6 月四日に発表した「日本人民共和国憲法草案」 である。 前文が《天皇制支配体制によってもたらされたものは、無謀な帝国主義侵略戦争、人類 の生命と財産の大規模な破壊、人民大衆の悲惨にみちた窮乏と飢餓とであった》との書き 出しで始まる草案は、その後も徹底した「天皇制」への批判を展開する。 《われらは苦難の現実を通じて、このやうな汚辱と苦痛にみちた専制政治を廃棄し、人民 に主権をおく民主主義的制度を建設することが急務であると確信する》とし、《人民の間 から選ばれた代表を通じて人民のための政治が行はれるところの人民共和政体の採択を宣 言し、この憲法を決定するものである》と宣一一一一口。《天皇制はそれがどんな形をとらうと も、人民の民主主義体制とは絶対に相容れない》として「天皇制の廃止」を明言してい る。 当時すでに現行の憲法改正案は国会に提出され、審議も始まっていたことを考えれば、 いわば現行憲法の対案であり、共産党は間違いなく改憲政党だったことになる。 憲法 9 条に該当する対案部分としては、《第 5 条》で《日本人民共和国はすべての平和 愛好諸国と緊密に協力し、民主主義的国際平和機構に参加し、どんな侵略戦争をも支持せ ず、またこれに参加しない》とした。 200
昭和天皇崩御で赤旗は何を書いたか 年 1 月に改定された綱領で、共産党は皇室制度について《党は、一人の個人が 世襲で「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両 立するものではなく》との表現でも反対姿勢を堅持しているが、「君主制を廃止」との表 現は削除し、皇室制度との共存を事実上容認した。 当時、不破が議長として主導したソフトイメ 1 ジ路線の象徴であり、それが g 年Ⅱ月の デンマ 1 ク女王主催の晩餐会で不破と天皇皇后両陛下が同席することにもつながった。 計算ずくで、皇室にじわじわと近寄りながら、一方で「天皇統治体制が永久に続くこと はまかりならぬ」と「君が代」をかたくなに拒否する。この「二重基準」は何なのか。 小池は 2 回目の拝礼式出席の約半年前の年元日、天皇陛下が宮内庁を通じて発表され た「新年にあたってのご感想」を自身のツィッターで取り上げ、朝日新聞のデジタル版記 事を引用して全文を掲載した。 小池によれば、陛下のご感想の「本年は終戦から年という節目の年に当たります。多 228
り込み、日本をアメリカの戦争にまきこむ対米従属 一「現在の日本社会の特質 的な軍事同盟条約に改悪・強化したものであった。 ( 四 ) 第二次世界大戦後の日本では、 いくつかの大第二は、日本の政治制度における、天皇絶対の専 きな変化が起こった。 制政治から、主権在民を原則とする民主政治への変 第一は、日本が、独立国としての地位を失い、ア化である。この変化を代表したのは、一九四七年に メリカへの事実上の従属国の立場になったことであ施行された日本国憲法である。この憲法は、主権在 る。 民、戦争の放棄、国民の基本的人権、国権の最高機 敗戦後の日本は、反ファッショ連合国を代表する関としての国会の地位、地方自治など、民主政治の という名目で、アメリカ軍の占領下におかれた。ア柱となる一連の民主的平和的な条項を定めた。形を メリカは、その占領支配をやがて自分の単独支配に変えて天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義 変え、さらに一九五一年に締結されたサンフランシの徹底に逆行する弱点を残したものだったが、そこ スコ平和条約と日米安保条約では、沖縄の占領支配でも、天皇は「国政に関する権能を有しない」こと を継続するとともに、日本本土においても、占領下などの制限条項が明記された。 に各地につくった米軍基地の主要部分を存続させ、 この変化によって、日本の政治史上はじめて、国 アメリカの世界戦略の半永久的な前線基地という役民の多数の意思にもとづき、国会を通じて、社会の 割を日本に押しつけた。日米安保条約は、一九六〇進歩と変革を進めるという道すじが、制度面で準備 年に改定されたが、それは、日本の従属的な地位をされることになった。 改善するどころか、基地貸与条約という性格にくわ第三は、戦前、天皇制の専制政治とともに、日本 え、有事のさいに米軍と共同して戦う日米共同作戦社会の半封建的な性格の根深い根源となっていた半 条項や日米経済協力の条項などを新しい柱として盛封建的な地主制度が、農地改革によって、基本的に 262
くの人々が亡くなった戦争でした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分 に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っていま す」という個所を素晴らしいと受け止め、紹介したのだという。 しかし内容はともあれ、永田町では「天皇陛下のお言葉を共産党幹部が丸ごとネットを 通じて披露するのは異例中の異例だ」 ( 自民党幹部 ) と受け止められた。 振り返れば、年 9 月に秋篠宮妃紀子さまが第 3 子となる悠仁さまを出産されたことに ついても、共産党は赤旗の囲み記事で「元気な赤ちゃんが誕生したことは喜ばしい」とす る志位のコメントを掲載した。 さらに、郷土人形の収集家として知られる不破は、軍服姿の明治天皇の土人形を秘蔵し ており、「深い意味はない。土人形の歴史のひとこまだ」と著書で説明しているが、皇室 への生理的なアレルギーを感じさせない自然な発言ともいえる。 また、かっては、「国民の祝日」でありながら「天皇制肯定の性格が濃い」 ( 党関係者 ) として、党職員の勤務規定により体日にしてこなかった「建国記念の日」 ( 2 月Ⅱ日 ) と 「みどりの日」 ( 4 月四日。現在は「昭和の日」 ) 、「天皇誕生日」 ( 月日 ) を綱領改定後 の年から「体日扱い」に改めるようになった。 ただ、共産党が社会主義の実現を目指す「革命政党」である限り、皇室制度と本質的な 229 第七章皇室戦略転換の狙い
訳としか映らない 志位は開会式での所作に関しては、こう説明した。 「衆院議長にしろ、天皇にしろ、礼をしたときに私たちも礼をした。人間として当たり前 礼をするのが当たり前ならば、公の場の発言で天皇陛下を「天皇」と呼ばないことも当 たり前だと思うが、共産党の常識ではないようだ。共産党が「厳格な順守」を訴える現行 憲法の第—条には、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地 位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。 天皇陛下を尊重しない姿勢は国民をないがしろにすることにつながり、憲法の精神にも とるのではないか マスコミが報じなかった眞子さまとの同席 開会式出席を、何か大きな出来事のようにアピールした共産党だが、皇室への対応に変 化が出たのは今回が初めてではない。伏線ともいえる動きは少し前からあった。 223 第七章皇室戦略転換の狙い
「その後、開会式での天皇の発言に変化が見られ、この三十数年来は儀礼的、形式的なも のとなっている。天皇の発言の内容には、憲法からの逸脱はみられなくなり、儀礼的、形 式的な発言が慣例として定着したと判断できる」 さらに志位は「開会式の形式が戦前をそのまま踏襲するものとなっている問題点は現在 においても変わりがないことも指摘しなければならない」として、衆院議長の大島理森に 開会式の「民主的改革」を検討してほしいと申し人れたことを強調した。大島からは 「承った」という返事があったという。 ただ、これは単なるポ 1 ズだろう。大島から具体的な改革の言質は何も取っていないの に、志位は「今後われわれとしては出席して、同時にその中で、民主的改革を引き続き主 張していきたいと考えている」と語った。 記者団から「開会式に出席した上で改革とは」と聞かれると、「欠席という態度を続け た場合には、わが党が天皇制に反対するという立場で欠席しているとのいらぬ誤解を招 き、憲法の原則と条項の厳格な順守のために改革を提起しているとの真意が伝わりにくい という問題がある。その点で、出席した場合はそうした誤解を招くことなく、まさに憲法 順守のための改革を提起しているという私たちの真意が、よりストレートに伝わることに なると考えた」と回りくどい言い方で強調した。 220
ところでは相いれない。戦前の共産党は、ソ連に本部を置くコミンテルンの日本支部とし て、当時の日本を「絶対主義的な天皇支配とその傘下で勤労者を圧迫・支配する独占資 本・軍部が結合した冒険主義的な帝国主義国家」とみなしてきた。 — 9 8 9 年 1 月 7 日の昭和天皇崩御の際の「反天皇キャンペー 戦後叩年以上を経ても、 ン」はすさまじかった。翌 8 日付の赤旗は「天皇が死去人権抑圧と侵略戦争を推進」と の見出しで、崩御を悼む内容は皆無だった。「政治的支配層の代表的人物の死」との表現 もあった。 川日付の赤旗—面に掲載された議長、宮本顕治のインタビュー記事では、昭和天皇を 「日本歴史上最大の惨禍をもたらした人物」と断じ、「徹底的に弾圧され、たくさんの人が 迫害され、殺された。時代的には対極の中で過ごした関係」と語っていた。 しかし背に腹は代えられないのだろうか。国民の広範な支持を得るために共産党指導部 は、不破が議長時代に主導してきた現実・ソフト路線への転換を一層明確にすることで、 「普通の政党」を印象付ける戦略に大きくカジを切ったかのようである。ともあれ、いか に皇室に接近して「普通の政党」を装おうとしても、衣の下に鎧をまとう革命政党の本質 が変わらない限り、効果はさほど期待できないのではないだろうか。 ある共産党関係者はこう漏らす。 230
後の「引年テーゼ」などがあるが、その「任務」を強く打ち出したのが、年にコミンテ ルンが決定した「年テ 1 ゼ」である。ここでは、武力闘争による「絶対主義的天皇制打 倒のためのプルジョア民主主義革命」を明確に指示しており、これを「綱領文書」と位置 付けていたのが戦前の日本共産党だった。 跖年に日本で成立した治安維持法も、そもそもは共産主義者を取り締まるためのもの だった。現在では「戦前の悪法」の代表格のように言われているが、「天皇制打破」と 「共産主義革命」という、まさに国家転覆とほぼ同義の言葉を綱領に掲げる組織に対し、 書国が警戒するのは当然だった。 結果的に党指導者らは厳しい弾 輯圧を受け、別の罪で死刑に処さ れるものもいた。 刈現在でも、日本共産党は「戦 球前、侵略戦争に反対した唯一の カ田 初徳 ・当た党」「獄中で弾圧されても命をか 成め 結務けて戦った唯一の党」などと常 党を 産長 共記套句のように自画自賛する。だ 159 第五章「唯一戦争に反対した党」は本当か