されたのが七二〇年のことだから、その編纂期間はおよそ四十年の長期におよんだことに なる。当然のことながら、三十巻のすべてが同一人物、あるいは同じスタッフの手て書き 日本書紀はいったい誰の手て、どのようなプロセスをたどっ 下ろされたとは考えがたい。 て編纂されたのだろうか。 まよわのおおきみ その一端を伝えるのが、日本書紀巻十四、雄略天皇紀冒頭に見える眉輪王という少年 による安康天皇殺害というショッキングな事件の記述だ ( 第 3 章参照 ) 。巻十三、安康紀の 末尾てもこの事件のことが触れられているが、安康死去をあっさりと記すだけて、「詳し ( ことは隹略紀にあ ) る」と主「している。コしいことは隹・各紀にあ一る」し」の主は、日本 書紀編纂が巻数の順になされたのてはないことを物語っている。安康紀↓雄略紀の順番て 編纂が進められたならば、安康殺害の詳細な記述は安康紀に収められるべきてあって、 「詳しいことは隹略紀にある」との主は不要だろう。 日本書紀の編纂上、安康紀と雄略紀の間に切れ目があることは明らかてあり、雄略紀以 下の諸巻が編纂された後に、安康紀以前の諸巻が書かれたことが想定される。日本書紀編 纂はかならすしも天皇が即位した順に、巻数順に行なわれたのてはなかったのてある。 この点に着目して、日本書紀の叙述や文体・語句などに精密な検討を加え、共通する特 徴をもっ巻ごとにグルービングを試みる研究 ( これを区分論とよぶ ) が行なわれた。これは日 日本書紀をつくったのは誰か 261
履中系王統と允恭系王統 ては彼はいかなる歴史的状況のもとて、どのような行動を取って勝利を収めることがて きたのだろうか。その経緯を解明するためには、兄の安康天皇即位の時点まてさかのばっ て検討してみる必要がある。 ひつぎのみこきなしかる いんぎよう 日本書紀の安康即位前紀によれば、允恭天皇の死後、太子の木梨軽皇子は、同母弟の もののべのおおまえのすくね あなほ 穴穂皇子 ( 安康 ) と王位を争ったが、人心が離反したたため、物部大前宿禰の家て自殺 して果てた。一説に皇子は伊予国に流されたとする。古事記は軽皇子が捕らえられ、伊予 かるのおおいらつめそとおりのいらつめ に流されたのち、同母妹て恋人の軽大郎女 ( 衣通郎女 ) とともに自殺したと記すが、近 きんき 親婚禁忌をモチーフとする悲恋物語は、木梨軽皇子と穴穂皇子が王位を争う話とは本来別 個に成立したものて、一一次的に混入した疑いが持たれる。安康との抗争に敗れた軽皇子は 大和の地て殺害されたか、自尽したとみてよいてあろう。 すると安康は木梨軽皇子と、眉輪王の父てある大草香皇子の二人を滅ばしたことになる が、大草香皇子の死は、実際には安康の即位前に起こった事件と推察される。なぜなら、 安康や雄略が争った王族は、大草香以外はいずれも彼らと同世代 ( 仁徳天皇の孫の世代 ) の はんぜい 人物てあるが、仁徳天皇の子の大草香は履中・反正・允恭の異母兄弟とされ、安康や雄略 よりは一つ前の世代に属するからだ。 「歴史の出発点」としての雄略朝一一一ワカタケル大王と豪族たち 107
ろう。その彼が安康の暗殺者として、その後もなお生存したかのような扱いを受けたの いんべい は、記紀に安康暗殺の真の下手人を隠蔽しようとする意図があったからとも受け取れる し、あるいは王権が分裂し、内乱に近い状況に至った事実を糊塗するために、すべてが安 康の暗殺から偶発的に起こった出来事のように説明する必要があったからと考えることも てきる。 市辺押磐皇子を王位継承者としたことを雄略が恨んだとある 前者の視点にもとづくと、 から、すてに指摘されているように、安康の暗殺者は雄略その人とみるのが妥当となる。 天皇中心史観に立つ日本書紀のような史書ては、天皇を前天皇の殺害者と明記することは そのため眉輪王が代役にされたと理解てきるのてある。 絶対に避けなければならない 間にいったん成立した王位継承 こだ、このような見方に対しては、安康と市辺押磐との の約束が破綻し、新たな抗争の過程て、安康が履中系の王族や葛城氏の手にかかって殺害 されたと解することも、一方て可能てある。 どちらともとれるが、前・後者いすれの場合も、安康の死後、葛城氏を巻き込むかたち しれつ て、允恭系の雄略と履中系王族との間に最後の熾烈な戦いが繰り広げられたことは、事実 とみて間違いないぞあろう。 こと 「歴史の出発点」としての雄略朝一一一ワカタケル大王と豪族たち 1 11
雄略の即位はいつだったか ? 日本書紀によれば、安康死後の抗争はわすか三カ月て収束したかのように記している。 しかし実際には数年間に及ぶ、長い抗争期間があったようてある。 えと こ、つ′」 日本書紀の干支ては、安康元年は甲午年て、西暦四五四年にあたる。一方、中国の正史 に見える倭の五王のうち、済とその子の興を、通説に従って記紀の允恭・安康両天皇にあ そうじよ たいめい てると、興は『宋書』本紀や倭国伝に「世子興」とあり、大明六年 ( 四六一 I) に宋に遣使 あんとう し、安東将軍・倭国王に叙せられている。「世子」とは中国王朝の冊封を受けた国の太子 を指す言葉てあるが、『宋書』本紀によれば、大明四年 ( 四六〇 ) にも倭国が遣使してお り、この時の倭王は済とみられる。つまり済の死後、後継者てある興がただちに宋に朝貢 し、倭国王の地位を承認されたとみることがてきる。 安康元年 ( 四五四 ) と興の即位年 ( 四六二頃 ) には八年ほどの開きがあり、しかも後者の 年次は、日本書紀ては雄略の治世期 ( 四五七ー四七九年 ) に入ってしまう。この齟齬をどの ように整合的に理解するかが問題となるが、筆者は日本書紀の安康・雄略の治世期の記述 に誤りがあるのてはないかと考えている。『宋書』倭国伝が、興に限って「世子興」と記 したのは、済の死後、興の新王としての地位がかなり不安定てあった事実を暗示し、あた かもそれは允恭死後の安康の境遇と類似するのてある。 、′、ほ、つ 112
を並べるほどの実力を有していた。 葛城氏は婚姻関係を通して履中や市辺押磐皇子と密接 に結びついていたから、履中・允恭の両王統のうち、履中系王統ととくに親しい関係にあ ったらしい。安康は即位に際して、王権の分裂、葛城氏との衝突を回避するために、履中 系の市辺押磐皇子を、次の王位継承者として承認せざるをえなかったのてあろう。しかし かかる措置は、一方て大泊瀬皇子 ( 雄略 ) など、允恭系王族の反発を招くことになる。 安康天皇暗殺の真犯人は ? ここて安康を暗殺したとされる眉輪王の存在に注目しよう。はたして彼は本当に安康の 殺害者てあったのだろうか。眉輪王に関する記紀の記述は、波瀾に富み、悲劇的な様相す ら呈する。しかし幼い ( 古事記によると七歳 ) 彼が安康と母の中蒂姫の居る楼の下ぞ、二人 の話を聞き、父の仇を討っという筋立ては、史実とみなすにはあまりに物語的てある。彼 ちゅうめつ が円大臣の家に逃げ込んだとすることも、大泊瀬皇子による円大臣誅滅の事実を導き出す ための伏線的な話として付け加えられた疑いが濃い。要するに記紀の眉輪王は、終始、芝 居の狂言回し的な役がらとして描かれており、それだけ虚構性が強いとみるべきなのてあ おそらく眉輪王は、父の大草香皇子が滅ばされた時点て、父とともに殺害されたのてあ たかどの 110
皇とその時代が特別な位置を占め、日本書紀の紀年構成の基礎となる暦日も、雄略紀から げんかれき かしようてん 元嘉暦 ( 百済を経て日本に最初に伝えられた中国暦。南朝宋の何承天の編。日本ては七世紀初頭より使 用 ) によっていることを指摘して、古代人が雄略朝を歴史的な画期として認識していた事 実を明らかにされている ( 岸俊男「画期としての雄略朝」『日本政治社会史研究』上、塙書房 ) 。 じんしん さらに日本書紀安康天皇三年八月壬辰条には、天皇の暗殺について、「天皇、眉輪王の し ことつぶさ 為に殺せまつられたまひぬ」と簡略に述べ、その後に、分注として「辞、具に大泊瀬天皇 みまき の紀に在り」 ( この話の次第は、つぶさに雄略天皇の紀にある ) と記している。この分注は , フつか りすると見落としてしまいそうてあるが、実は重要な意味がそこに隠されている。 安康天皇暗殺の顛末は、分注の一一一口うとおり、雄略即位前紀に詳述されている。しかし本 来それは、安康天皇紀に載せるべきものて、前後が逆てあり、叙述の法としてはきわめて 不自然てある。日本書紀の編修は、巻々によって文字や語法に異なる特徴がみられ、編修 者が分担して別の巻々 ( グループ ) を述作したことが指摘されているが ( 第 6 章 5 「日本書紀 の区分論」参照 ) 、巻十四の雄略紀以降と巻十三の允恭・安康紀以前の間には、文字や語法 などの点て、明確な相違が認められる。森博達氏は書紀区分論の立場から、巻十三の分注 の間題に触れ、これは巻十四が巻十三に先行して書かれたことの証してあるとされた ( 森 博達『日本書紀の謎を解く』中公新書 ) 。 140
允恭治世の末期ともなると、仁徳の孫の世代の王族たちの多くは成人し、その中には王 位を狙うことのてきる有力者も現れるようになった。 一方、允恭と同世代の大草香皇子 も、なお王位を継承し得る立場にあった。大草香が滅ばされたのは、己紀に記すような、 根使主の讒言のせいてはなく、王位をめぐる安康ら次世代の王族との争いに敗北したため てあろう。安康は大草香を滅ばし、次いて兄の木梨軽皇子を排除して、強引に即位する。 しかしその結果、政情は悪化し、昏迷の度合を深めることになるのてある。 当時、王室内部には、履中系と允恭系の一一つの有力な王統が存在した。履中系王統を代 表する王族は、葦田宿禰 ( 葛城氏 ) のむすめ黒媛を母とする市辺押磐皇子とみられる。日 本書紀は安康 ( 允恭系 ) が市辺押磐に王位を伝える意思を持っていたと記すが ( 前述 ) 、こ れは安康の意思というよりも、むしろ政治的混乱を収拾する目的て両王統が結んだ妥協策 けんぞう かばねついでのふみ と解すべきてあろう。市辺押磐皇子の妻は、顕宗即位前紀の分注所引の「譜第」 ( 王室の ありのおみ はえひめ 系譜を記した帝紀の異本の一つか ? ) に蟻臣のむすめと記す英媛 ( 顕宗・仁賢両天皇の母 ) て、蟻 あるふみ 臣は同じく分注にー 一本に葦田宿禰の子とあるから、彼の母と妻はともに葛城氏出身の 女性てある。 葛城氏の性格については後述するが、その実体は葛城地方の在地土豪たちより成る政治 的な連合体てあり、大和政権を構成する首長グループの中ては傑出した存在ぞ、王室と肩 108
暗殺と謀殺のすえに てんまっ 日本書紀の雄略即位前糸 ( 」己こは、隹略即位に至るまての血なまぐさい顛末がドラマチック に描かれている。ただそれをそのまま史実として受け取ることは、控えなければならな い。朝廷や豪族たちの間に伝えられたさまざまな伝承・家記類に依拠し、さらに編纂者の 手が加わるかたちて最終的に日本書紀の記述が成ったのてあり、当時の実情がそこに描。 れた通りのものてあったかどうかは、必ずしも明らかてない。 以下、日本書紀を読み解き、雄略朝前後の時代の史実の復元を試みることにしたい、、 : それはあくまて筆者の推察する「史実」にすぎなし 、。読み手の歴史認識の違いによって解 釈もおのずと異なり、 別の「史実」の復元もまた可能てある。しかしこのような試みは決 して無意味てはなく、互いの解釈を比較検討することによって、初めて一歩、史実に近づ くことがてきるのてある。 まよわ 安康天皇の三年八月、天皇は眉輪王に暗殺された。 おおくさか 眉輪王は仁徳天皇の子の大草香皇子と妃の中蒂姫の間に生まれた王族てある。父の大草 さかもと ねのおみざんげん 香皇子が坂本臣の祖の根使主の讒言によって安康天皇に殺害され、母は天皇に奪われ、そ なかし 104
「葛城」氏雄略 そ 葛城氏の始祖とされる人物は葛城襲 次に葛城氏の性格について、簡単に見ておきたい。 たけし つひこ 津彦 ( 葛城長江曾都毘古 ) て、景行天皇から仁徳天皇まての歴朝に仕えた伝説上の廷臣、武 うち いわのひめのみこと 内 ( 建内 ) 宿禰の七男の一人とされる。襲津彦のむすめの磐之媛命 ( 石之日売命 ) は、記紀 せいねい によれば、仁徳天皇の皇后て、履中・反正・允恭三天皇の母てあり、清寧天皇および顕 宗・仁賢両天皇の母も葛城氏の女性てある。仁徳から仁賢まての九人の天皇のうち、実に 安康を除く八人の天皇の生母もしくは后妃が葛城氏の出身なのてある。葛城氏所出の后妃 記事の多くは、記紀の原資料てある帝紀箭述 ) に記されていたものて、五世紀の葛城氏 が実際に王室と密接な婚姻関係て結ばれていたことは確かと思われる。 たまた さらに日本書紀によれば、允恭五年に玉田宿禰 ( 允恭紀には襲津彦の孫、雄略紀には襲津彦の 子とする ) が天皇に誅殺され、すてに述べたごとく、安康死後には、円大臣が大泊瀬皇子 ( 雄略 ) に滅ばされている。王室と幾重にも婚姻を重ね、一方てこれと封立して滅亡したと の伝承を持っ葛城氏は、五世紀の大和の最有力の在地土豪て、王室と拮抗する勢力を保持 してい 4 にし」みるこし J が′し、さる じんぐう 葛城氏の始祖とされる襲津彦は、日本書紀の神功皇后摂政五年三月条から仁徳四十一年 ながえのそっひこ 0 「歴史の出発点」としての雄略朝一一ワカタケル大王と豪族たち 115
小島憲之↑ー↓ 西宮一民个ー↓ 菊沢季生 図 太田善麿 取 見永田吉太郎 の 鴻巣隼雄 論 分和田英松↑ー↓↑ーーーーーー 紀岡田正之 書 本 日 巻 1 ネ軒し E 2 神代 - 下 3 神武 4 綏靖 ~ 開化 7 景行・成務 8 仲哀 9 神功 10 応神 12 履中・反正 13 允恭・安康 14 雄略 15 清寧 ~ 仁賢 16 武烈 17 継体 18 安閑・宣化 19 欽明 20 物土 21 用明・唆 22 推占 23 舒明 24 皇極 25 孝徳 26 斉明 29 天武下 30 持統 日本書紀をつくったのは誰か 26 ろ