斑鳩寺と同じように、宮とワンセットて寺が造営されたことがわかる。しかし、詔には 仏教興隆のことは何ら盛り込まれていなかったようてある。すなわち、天皇は寺を造営し けて、対仏教政策の主導権を蘇我大臣家から回収するまてには至っていなかったこと を右の詔は暗々裏に物語っているのてはなかろうか。舒明が百済大寺の造営に踏み切るこ とがてきた根拠は、先ほど指摘した厩戸皇子の遺言と推古天皇の詔にあると考えられる。 にもかかわらず、寺の造営の開始がおよそ十三年にわたる治世の終わり頃まて遅延してい るのは、大臣蝦夷の陰に陽にわたる妨害エ作によるものてはないだろうか 百済大寺の造営については、蘇我氏の飛鳥寺に対抗しようとする天皇の自主性がすこぶ る強調される傾向にある。百済大寺は飛鳥時代ては最大級の金堂と九重の塔を備えた堂々 たる巨大な寺院てあることが判明している。そこに舒明天皇の蘇我氏への対抗意識を読み 無関係てあっ 取ろうとするものてある。しかし、蘇我大臣家が百済大寺の建立にまったく たと想定てきるだろうか。右の造営の詔ては蘇我大臣家の関与は記されていないが、むし ろ蘇我氏は百済大寺の造営に関係したと推測したほうがよいと思われる。 六、七世紀の政治史の基調を敏達系王統と蘇我系王統との対抗関係を軸に展開するとみ る説がある ( 薗田香融『日本古代財政史の研究』塙書房 / 平林章仁『七世紀の古代史』白水社 ) 。敏達 「飛鳥仏教史」を読み直す 18 う
大臣家への臣下の礼とそのお墨付きが必要とされた可能性さえ想定されるのてはないだろ うか。その根源は、蘇我大臣家のみが仏教興隆を王権から委託され、積極的に保障されて きた歴史があったからだろう。すなわち舒明朝も、王権が仏教興隆策を天下に公言しうる 立場にはなかったといわざるをえま 女帝蘇我氏ーーー皇極王権と仏教 舒明のあと、皇后てあり姪てあった皇極天皇が即位する。女帝は従来通り蘇我蝦夷を大 臣としたが、仏教についてもなお蘇我大臣家が主導していた。それを示す記事が書紀には ある。その一つは、皇極元年 ( 六四一 I) 九月条にみえる百済大寺及び飛鳥板蓋宮造営の詔 てあるが、百済大寺について書紀は次のように記している。 おうみ 天皇は大臣にお命しになり、「私は大寺を造営しようど思っています。近江ど北陸の よほろ 丁を徴発しなさい」どおっしやった。大寺どは百済大寺のこどてある。 夫舒明が発意して完成てきなかった百済大寺の造営を皇后てあった皇極が受け継いだこ / す言たが、女帝は大臣すなわち蘇我蝦夷に自分の意向を述べ、支援を得ようとし 「飛島仏教史」を読み直す 187
は蘇我大臣家との姻戚関係を形成することを意図的に拒み、近江の息長氏や伊勢の土豪大 かのおびと 鹿首氏との縁組を積極的に推進して、当時の王都のあった磐余から泊瀬川・寺川水系に沿 かっげぐん って広瀬・葛下郡方面への開発政策を積極的に推し進めた。それに対し、蘇我氏は本拠地 へぐり のある飛鳥地方を大規模に開発し、さらに厩戸皇子の一族を平群郡方面に進出させて敏達 ぬかたべのひめみこ 王統の動きを牽制した、というのてある。蘇我腹の額田部皇女 ( 推古 ) が異母兄てある敏 達天皇の後添えの皇后になったのは両王統の政治的妥協の産物としての色合いが濃いか そのことが推古女帝の誕生につながっていることは見逃しがたい事実てあろう。このよう 右の学説はこれまてあまり注意されていなかったさまざまな未解明の間題を照射して きた実績を持っている。 やまとのあや ところて、右の詔ては倭漢氏の一族てある書直県が「大匠」として造営の中心を担っ ている。倭漢氏は蘇我氏に最も密着した渡来氏族てあるから、天皇の主体的な命令だけて さらに百済大寺は飛鳥寺を意識していた 百済大寺の建立が可能になったとは考えにくい というよりも、新羅の王立寺院てある皇龍寺に対抗する意図があったといわれる。そうて あれば、蘇我氏はむしろ積極的に天皇の構想を後押してきたてあろう。 蘇我氏はすてに稲目・馬子・蝦夷の三代にわたって日本仏教の唯一の庇護者としての立 場を確立していたと考えられる。渡来系を始めとする諸氏族の寺院造営という行為には、 おきなが おお 186
しるし は蘇我の一族が緊栄するよい瑞てあるど勝手に解釈し、黄金を交ぜた墨てそれを描か せ、飛鳥大仏に献上した。 うねび おそらく造作された小さな事件てはあるが、畝傍山東南麓の剣の池に祥瑞の蓮が出現し みだ たことを、蘇我一族の繁栄する兆してあると大臣蝦夷が「妄りに」 ( 勝手に ) 解釈して満足 している様子を記している。剣の池を中心とした飛鳥西方の一帯は蘇我氏のもともとの本 拠地ぞあるとみられ、そうした土地に仏教ていうめてたい蓮華が咲いたことを称揚してい るのは、豊浦大臣すなわち蝦夷にとって仏教の本質とは自己の権力を支え飾るものてあっ た事情を物語っている。 女帝はこれを苦々しい想いて傍観していたのてはあるまいか。その皇極天皇は、実は中 国の神仙思想や道教に傾倒した天皇として著名てある。隋・唐からの帰朝者の影響による ものともいえるが、天皇が仏教から排除されているという宮廷内てのあり方が大いに関係 しているのてはないだろうか 孝徳が蘇我大臣家から奪取したもの ほとけのみのり 皇極女帝から譲位された弟孝徳天皇は、その即位前紀に記すように「仏法を尊び、神 しようずい かみの 190
天皇は「お前たちの良いようにせよ」どおっしやった。そこて仏像は難波の堀江に棄 て、寺には火をかけてすっかり焼き払った。するど、雨風もないのに宮殿が火災に見 舞われた。 仏教の最初の危機が訪れた。このとき天皇は疫病や火災などの変異について自らは何ら の処断も下さず、あくまても臣下の意見と判断に従おうとしただけてあり、さらには自ら ただ旁観して 非仏の行動を起こすこともなかった。宮殿に変異があったにもかかわらず、 しるたけなのてある。 「汝独り行ふべし」・ーー敏達王権の対仏教政策 欽明天皇は仏教に関して崇仏・排仏いすれの立場にも加担しなかったこと、天皇は蘇我 稲目個人に崇仏を試みるように指示し、稲目の実修に対しては干渉を加えないという立場 さいし を選択したことが明らかになった。すなわち仏教Ⅱ「蕃神」の祭祀権は蘇我稲目に委託す るという一種の契約関係が王権の基本方針として欽明朝に結ばれたと考えられる。換言す れば、今後は蘇我大臣家が単独て仏教の興隆を図るという事態を意味する。より積極的な 見方をすれば、仏教興隆の主導権が蘇我大臣家の手に握られたことを示すのてある。 「飛鳥仏教史」を読み直す 16 ろ
川弘文館 ) 。舒明天皇は蘇我氏とは血縁関係にない天皇てあったが、推古天皇没後の王位継 承をめぐる紛争の中て大臣蘇我蝦夷らの推戴を得て即位した人物てある。蘇我氏が田村を 推戴した理由は、馬子の娘が政略結婚により田村の妃に入っていたからだ。それゆえに、 せいちゅう 天皇は大臣蝦夷から強い権力的掣肘を受ける立場にあったと考えられるが、治世の終わり いわれ 頃に飛鳥を脱して磐余に近い百済の地に百済大寺と大宮とを造営したと書紀にはある。 くだらのおおいのみや おしさかひこひとのおおえのみ この地域は祖父敏達天皇の百済大井宮の故地にあたる所と推定され、父押坂彦人大兄皇 子を経て舒明天皇に伝領された王室の土地てあったと考えてよかろう。百済の地への遷居 は天皇が政治的に大臣蝦夷の抑制力から自立しようとする思惑を含んての行動てあったと もみなされ、百済大寺の規模・様式は蘇我大臣家の飛鳥寺に対抗しようとする意図を顕在 化したものと評されている。百済大寺は歴史的には初発の王室寺院てあり、欽明天皇以来 の歴代天皇が踏み切れなかった寺院造営を舒明天皇が初めて敢行したのてある。その造営 の詔は書紀舒明十一年七月条にこう記されている。 天皇は「今年、大宮ど大寺を造営する」どお命しになった。都は百済川のほどりに設 たくみ けられた。そこて西の民は宮殿を、東の民は寺院を造った。匠の長官 ( 大匠 ) には ふみのあたいあがた 書直県が任ぜられた。 184
おほみたからふたりあるじ 「国に二の君非す。民に両の主無し」ともある。もし仮に大臣馬子がこれらの憲法条文 あな を読んていたならば太子はどうなっていたてあろうか。太子の叔父にあたる崇崚天皇や穴 ほべのみこ 穂部皇子の運命 ( いずれも蘇我馬子の放った刺客によって殺害された ) を知り尽くしていた太子 がこのような文章を公にしたとは考えられまい。憲法は公表されなかったという論によっ てこの矛盾を解決しようとする場合がまま見受けられるが、憲法をあくまても推古朝のも のと固執するからそうした苦肉の想定を弄さざるをえなくなるのだ。そうてはなく、憲法 の述作が孝徳朝の新政 ( 大化の改新 ) と関連して行われた事業てあると解することによっ て、「篤敬三宝」の条文と孝徳天皇の仏教興隆の詔とが自然に符合することになる。 王権が自ら仏教興隆に乗り出した最初の天皇は、述べてきたように推古天皇てはなく孝 徳天皇てあったと判定せざるをえまい。孝徳が大王位に就くまて飛鳥仏教すなわち「蕃 神」の祭祀権を一貫して掌握していたのは、間違いなく蘇我大臣家てあった。孝徳天皇は 「乙巳の変」というクーデターによって蘇我大臣家を滅ばし、仏教の祭祀権を王権の手に 回収したのてある。 【文献案内】 ふたり 遠山美都男「大化改新」中公新書、一九九三 192
こうし 欽明天皇の後嗣となった敏達天皇は、仏教にはきわめて冷淡な天皇てあった。日本書紀 すめらみことほとけのみのりう しるしふみこの の即位前紀に「天皇、仏法を信けたまはすして、文史を愛みたまふ」とあるように、 崇仏の事績はまったく伝えられていない そのうえ、天皇は稲目の子馬子とも折り合いが みわのきみさかう ちょうしん 悪かったようてある。排仏派の三輪君逆が天皇の寵臣となったのも、蘇我氏と距離を置こ うとする天皇の意図をよく示している。 他方、書紀は敏達天皇の世に蘇我馬子が崇仏を一層推し進めた様子を記している。敏達 ことし かふかのおみさえきのむらじ 紀十三年是歳条には、鹿深臣・佐伯連が百済から持ち帰ってきた石仏像一一驅を馬子が貰い いえのひむがしのかたいしかわ 受け、修行者三人 ( すべて尼僧 ) を探し出して仏を供養し、仏殿を二カ所 ( 宅東方・石川 くらっくりのすぐりしばたっと いけへのあたいひた 一に設けて仏法を深信したとする。この場合馬子には鞍部村主司馬達等と池辺直水田 ひとほとけのみのりよ 父 という一一人の協力者があったらしいが、「子独り仏法に依りて」とも記すように、 稲目以来の崇仏のあり方を受け継いている点に注意される。すなわち、「蕃神」の祭祀の 実権は蘇我馬子一人の掌中に握られており、それが父子間て世襲され、すてに一つの特権 と化していたのてある。 だいえ おがみ 同紀十四年二月条には、馬子が大野丘の北に塔を建てて大会の設斎を実施し、舍利を塔 はじめこれ の柱頭に納めたとある。書紀はこうした馬子の崇仏を「仏法の初、茲より作れり」と公言 らんしよう しており、日本仏教の濫觴が蘇我大臣馬子にあったことを明記するのだ。 おおののおか うまこ おこ 164
とは道教て神仙に化した人のことてあり、飢者が屍を遺さずに姿を消したとするいわゆる 「尸解仙」の話とともに神仙思想による潤色が施されている。 つまり、太子は凡人を超越した聖人てあるとする人物像がます先にあり、それをベース にして太子の執政者・仏教者としての像が重ねられているのてある。このような多面的て 超絶的な太子像こそが、厩戸皇子が憲法十七条の作者に擬せられた理由と考えられる。 このように見てくると、仏教をめぐる推古の立場は欽明王権の場合と本質的に変わりが ないといえるのてはなかろうか。すなわち天皇はこの時期においても欽明以来の伝統的な 立場を踏襲しており、王権自体が全面的に仏教興隆を推進するという姿勢を表明してはい なかった。推古は蘇我馬子とは叔父・姪の関係にあり、また厩戸皇子とも叔母・甥の関係 とゆらのみや とゆらでら にあった人物てある。即位当初の豊浦宮はのちに建興寺 ( 豊浦寺 ) になったとする所伝も あって、彼女自身も仏教に一定の理解を持っていた人物てあるとはいえようが、それはあ くまても女帝自身の心情的なものにとどまり、王権自体が天下に仏教興隆を宣言するとい うことはなかったといわざるをえない。 推古朝の仏教興隆策は大臣蘇我馬子を中心として、それに受動的に協力する厩戸皇子が 一枚噛んて推進されたものだった。仏神の祭祀権はなお蘇我大臣家が掌握していたと考え ひつぎのみこみづかはじ いつくしきのりとをあまりななをち られるからてある。てあれば、「皇太子、親ら肇めて憲法十七条作りたまふ」 ( 推古 しかい 182
いわれかわかみにいなめ 用明二年のこと、磐余の河上に新嘗を行った天皇はその直後に体調を崩してしまい、群 よ いましたちはか 臣に「朕、三宝に帰らむと思ふ。卯等議れ」 ( 私は三宝に帰依したいと思っている。お前たちて 協議してほしい ) と詔した。例によって物部大連らは反対し、馬子は天皇の意向を尊重する と述べた。物部・蘇我の対立は一触即発の情況になっ , 驀、 オカ天皇は重篤の危機に陥ったの くらっくりのたすな やっかれ おほみため いへで おこな ほとけのみかた て、鞍部多須奈が「臣、天皇の奉為に、出家して修道はむ。又丈六の仏像及び寺 まっ いまみなぶちさかたでら を造り奉らむ」と述べ た。こうして多須奈が天皇のために造ったのが、「今南淵の坂田寺 ぼさち の木の丈六の仏像・挟侍の菩薩、是なり」と伝えるのてある。 右の話からわかるのは、第一に、虚偽か事実かは別にして、書紀が用明天皇を仏教の理 解者てあったと見なしていることてある。死没の直前というきわめて切迫した情況の下 て、天皇はたしかに仏教にすがろうとしたことが明記されている。 第二に、それてもなお王権自体は崇仏を天下に公言したわけてはない。 用明は特殊な事 情と個人的な想いに よって三宝に依存しようとしたのてあり、欽明天皇以来の傍観主義的 立場には何らの変更も加えられていない。物部・蘇我の執政官同士の対立がなお続いたの は、王権が前代からの基本方針をまったく変えていないことの表れてあろう。 第三に、書紀の右の伝記はおそらく坂田寺縁起にもとづいて構成されたものて、この寺 だんおっ の檀越てある鞍部多須奈一族が蘇我氏に協力する有力な崇仏集団てあったことから、用明 われ けふじ 168