ゼネスト - みる会図書館


検索対象: 暴力論 上
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1. 暴力論 上

彼らのおかけで、ゼネストとは、まさに私が言ったとおりのものであることがわかる。 ゼネストとは、社会主義全体を包みこむ神話、つまり、現代社会に対して社会主義が仕 掛ける戦争の多様な表れに対応するあらゆる感情を、本能的に呼び起こすことが可能な イメージの組織化である。ストライキは、。フロレタリアートの内部に、この階級が有す るもっとも高貴で、もっとも深遠で、もっともカ動的な感情を生み出してきた。ゼネス トは、こうした感情をすべてひとつづきのイメージの中に結集し、個々の感情の接近を つうして、それそれの感情に最大限の強度をもたらす。個々の闘争のじつに傷ましい記 キ憶に訴えることで、ゼネストは、意識に浮かんでくるイメージの組み合わせのあらゆる 細部を強烈な生命力で彩るのである。われわれはこうして、言葉では完全にはっきりと のは伝えられないあの社会主義の直観を獲得するーー・しかも、この直観を、瞬時に知覚さ れるその全体性において獲得するのた。 レ われわれはまた、ゼネストの観念の力強さを示すために、別の証言を拠りどころとす 第ることができる。仮にこの観念が、あれほどしばしば言われるように純粋な幻想である とすれば、議会主義的社会主義者たちがこの観念と闘うことにあれほど熱中するはすが ないだろう。彼らが、空想的社会主義者たちが人民の幻惑された目の前にちらっかせ続

2. 暴力論 上

下巻 第五章政治的ゼネスト 政治屋による組合の利用ーー議会への圧力ーーベルギーとロシアのゼ ネスト Ⅱゼネストの二つの概念に対応する二つの思想の潮流の差異、階級闘争、 国家、思想的エリト Ⅲ政治屋によって助長される嫉妬ーーヒロイズムの源泉および略奪とし ての戦争ーーー。フロレタリア独裁とその歴史上の先例 Ⅳ強制力と暴力ーー強制力に関するマルクスの思想ーー。フロレタリア の暴力のための新しい理論の必要性 第六章暴力の道徳性 ・ビュローと・ルジェの観察ーー殉教者の時代ーー破局神話によ ってほとんど暴力なしに分裂を維持する可能性 学校や仕事場に見られる残忍さの古い慣習ーー危険な階級ーーー策略的 犯罪に対する寛大な態度ーー密告者 Ⅲ保守派を威嚇するためにつくられた一八八四年の法律ーーワルデック フォルスヴィオランス

3. 暴力論 上

映る。組合員について語るために労働貴族という用語を考案したのは、イギリスたった ( 6 ) トレード・ユニオニズム し、実際、労働組合主義は法律上の恩恵の獲得を追求している。たから、イギリスがゼ ネストに対して抱く嫌悪は、階級闘争を社会主義の本質と見なすあらゆる人びとにとっ ては、むしろゼネストが可能たという強力な推定の根拠と見なされるべきだと言うこと ができるだろう。 それに、シドニー・ウェッ。フの能力についてはひどく誇張されている。彼には、労働 組合主義の歴史に関して、たいして面白くない書類を調査する功績があり、もっとも読 キみづらい資料を編纂する忍耐力もあった。思考する習慣に乏しい人びとしか幻惑できな かった、もっと狭量な精神の持ち主である。フランスに彼の栄光をちこんだ人びと ( 8 ) のは、社会主義をひと言も理解していなかった。仮に、翻訳者が保証するとおり、ウェッ ア プが経済史に関する当代一流の著述家たとしたら、経済史家たちの知的水準は相当低い ロということになる。そのうえ、多くの実例がわれわれに示すところでは、著名な歴史の 専門家が凡庸以下の精神の持ち主でもあり得るのである。 駟私はまた、実践的な次元の考察に依拠して、ゼネストに対してなされる反論には、重 きを置かない。未来の闘争と資本主義を廃絶する手段に関する仮説を、歴史という物語 ートピアに戻るようなものである。 をモデルにしてでっちあけようと望むのは、昔のユ

4. 暴力論 上

トという壮大な構図を想起しその助けを借りて社会主義の命題を解釈するや否や、それ らの命題すべてに従来欠けていた明晰さが伴われるようになると認めた。新学派が気づ いたのは、プロレタリア思想の現代的な変革に正確に従おうとするなら、マルクスの学 説を説明するためにドイツで構築された、重苦しく、それでいて脆弱な仕掛けを捨て去 セネストの概念によって、社会主義を牛耳ると自 るべきということだった。新学派は、、 称する大立者たちにはこれまでほとんど知られていなかったマルクス主義の広大な全領 域を、効果的に探索できるようになることを発見した。このように、マルクス主義の根 キ本概念は、ゼネストという見取り図の助けを借りなければ完全に理解可能なものにはな らないたろうし、他方、この見取り図は、マルクスの学説によって育まれた者にしかそ ののすべての意味作用を受け取られることはない、と考えられるのである。 ア < ーー手はしめに、私は階級闘争について語ることにしよう。というのも、階級闘争 。フ こそはあらゆる社会主義的考察の出発点であり、詭弁家たちがそれに誤った観念を植え 第つけようと努めるようになって以来、それを解明する必要が大いに生しているからであ る。 田マルクスは、社会について、それが本質的に対立する二つの集団に切断されてい

5. 暴力論 上

とつの深遠な思想を、有効に引用することができる。「人びとは、現実の表面的な表出 との長い友達付き合いをつうじて現実の信頼を得なかったとしたら、現実から直観、つ まり、もっとも内的な現実との知的な共感を獲得することはできない。そして、たた単 に、特徴的な事実だけを受け人れることが問題なのではない。そのような事実のじつに この塊は非常に大き 膨大な塊を蓄積し、溶解してひとつの全体にしなくてはならない。 なものなので、溶解をつうじて、観察者が知らないうちにその観察の根底に位置づけた かもしれないあらゆる先人観や早まった考えを、たがいに中和することが保証されなく てはならない。既知の事実に含まれる未加工の物質性は、このような場合たけに引き出 される」。こうしてついに、われわれはベルクソンが全面的な体験と名づけるものに到 達するのである。 この新しい原則のおかげで、人びとは、社会主義をその輪の中に包みこめると称する あらゆる主張が嘆かわしいほど不十分だったり、あるいは、しばしば有益というよりも 危険であることを、すぐさま認めるようになった。ドイツで、マルクス主義を完成させ るために試みられたあらゆる努力が不毛のものとなったのは、社会民主主義がマルクス の学説のスコラ哲学化に迷信的な敬意を払ったからたった。 新学派がゼネストを十全に理解し労働運動の深い直観に達したとき、彼らは、ゼネス

6. 暴力論 上

囲も主人も祖国ももたない人間である、と断言していたが、この思想は当時のソレルに色 濃く反映されているので、谷川稔氏も指摘するように「彼のサンディカリズム理解は大 半ベルーティエに負って」いると言うこともできるたろう。一八九五年一一月に、ベル ーティエとアンリ・ジラール ( アルマニストの労働運動指導者 ) の共著で発行された労働 者のための小冊子『ゼネストとは何か』 ( 主要な部分はベルーティエが執筆したと言われ る ) は、五人の労働者が「給料支給後の土曜日の夜に」一時間あたり五サンチームの賃 金引き下けについて議論を戦わせるという対話形式で、ゼネストの意義を論じたテクス トたが、そこには次のように書かれていた。 「第四の労働者ーーそれじゃあ、ゼネストとは何のことた ? もし平和的な運動たと したら、何も生み出さないだろう。〔・ : 第二の労働者ーーゼネストは平和的な運動ではない。な・せなら、平和的なゼネストは、 そんなものが可能だと仮定しても、何の成果にもたどりつかないからだ。あきらかなの は、資金を武器とする闘争は金持ち連中に有利になるたろうし、カだけが、資金に勝 利することができるだろうということだ。〔 : : : 〕はっきり言うが、ゼネストはひとつの 革命なのたよ」。 もっとも、ここで「フォルス」と明記されているゼネストの「カ」を、ソレルは『暴 フォルス

7. 暴力論 上

したが、この点に関しては、すべてのマルクス主義者がマルクスの思想をしゅうぶんに 理解したとはいえない。マルクスは、大破局に先立って大規模な経済恐慌が生じると信 していた。けれども、マルクスが関心を抱いている恐慌を衰退と混同してはならない。 マルクスにとって恐慌とは、その時代の資本主義が自動的に作動させる調整手段との均 衡を破るような生産力を創造した生産自体の、あまりにも危険な冒険の結果だと思われ たのである。このような冒険は、未来がもっとも強力な企業に対して開かれていると思 われていたこと、そして、経済的進歩の概念が当時はきわめて支配的だったことを前提 キとしている。資本主義体制下でもほどほどの生活状態を見出すことのできる中間諸階級 トがプロレタリアートに合流することが可能となるためには、彼らにとって未来の生産が、 のかって、旧きヨーロッパを離れて冒険の生活にとびこんたイギリスの農民たちにアメリ ア 力の征服がそう見えたように、輝いて見えることが可能となる必要がある。 レ ゼネストは、これと同しような考察をもたらす。労働者たちは、資本主義が押しつけ 。フ た規制への反抗が、好況期には成功するのを見慣れている。したがって、たた革命とゼ 第ネストを同一視すれば、それだけで世界の本質的な変革が経済的頽廃の結果として生し るとするあらゆる思想を遠ざけられるのである。労働者たちはまた、産業が生産者の境 遇たけでなくすべての人びとの境遇を改善できるようになるほど、未来が美しく見えな

8. 暴力論 上

ここで、われわれはさらに先に進んで、ゼネストが提供する見取り図が本当に完全な ものかどうか、つまり、それが近代社会主義によって確認された闘争のあらゆる要素を キ含んでいるかどうかを問わなくてはならない。ますはじめに、問題自体をしゅうぶんに ラはっきりさせておく必要があるが、それは、このゼネストの構築の性質について先ほど のおこなった説明から出発すればたやすいことたろう。すでに見たように、ゼネストは不 ア 可分の全体として考察されなくてはならない。したがって、ゼネストを実行する際のど ロの細部であろうと、社会主義の理解に何の利益ももたらしはしない。その全体を部分に 分解しようと試みるなら、それを理解するときに何ものかを失う危険がつねに存在する これからわれわれは、マルクス主義の主要 第とさえ、つけ加えておかなくてはならない。 な諸命題とゼネストの見取り図が提供する全体像との間に根本的な一致が存在すること を、立証してみよう。 ( 絽 ) 私がすでに引用した論文で、クレマンソーは、ジョレスがベジェ〔フランス南部地中海付 近の小都市〕でおこなった大演説で、この競り上けを実行したことを想起している。

9. 暴力論 上

けいっそう、驚異的なことを約東する候補者に投票してみたくなる。選挙戦では、たえ す公約の競り上けがおこなわれる。社会主義者の候補者が急進派を打倒し得るためには、 選挙民はあらゆる期待を受け人れることができなくてはならない。 こうして、わが社会 主義者の政治屋たちは、安易な幸福というュ ートビアに、効果的なやり方で闘いを挑む ことを避けているのだ。 彼らがゼネストと闘うのは、選挙遊説中に、ゼネストの観念は労働者の魂にじつにび ったりくるので、この観念が労働者を絶対的なやり方でとらえて、議会派を満足させる キ願望のつけいる余地をまったく残さないことができると悟るからである。彼らが気づい ているのは、この観念は非常にカ動的で、一度精神に人りこんでしまうと、その精神は の主人のいかなる統制にも従わす、その結果、代議圭たちの権力が無に帰してしまうだろ ア うということだ。結局、彼らは、全社会主義がゼネストに吸収されかねないと、漠然と ロ感しているのだが、そうなれば、そのために議会制度がつくり出された、諸政治集団間 のあらゆる妥協はまったく無用なものとなる。 四 公認社会主義者たちによるゼネストへの反対は、したがって、ゼネストの射程に関す 第 るわれわれの最初の研究を裏づけるものとなる。 223

10. 暴力論 上

あれほどの人気をかち得た英雄的神話の哀退から生じている。栄光への信念が減びると、 視野の狭い歴史観が優勢になり、それと同時に、この種の神話が消え去ってゆく。 大衆によって受け人れられた神話が存在しないかぎり、反乱について際限なく語った ところで、どんな革命的運動もひきおこすことはない。 このことはゼネストにきわめて 大きな重要性をもたらすものであり、だからこそ、革命を恐れる社会主義者にとって、 ゼネストはあれほどおそましいものなのた。 , 彼らは、労働者が革命の準備に寄せる信頼 を揺るがせるために全力をあげている。この目的に到達するために、彼らはゼネストの 紙観念を嘲笑しようと努めるが、ゼネストの思想たけが革命の原動力としての価値をもっ ート。ヒアとし ののである。社会主義者たちが用いる主要な手段のひとつは、ゼネストをユ て提示することだが、それは彼らにとってかなり容易なことである。というのも、どん レ ートビア的な要素も含まない、まったく純粋な神話など、これまでめったに存在し たためしがないからた。 工 ートピア思想をほとんど含まない。 ダ 現在の革命的神話は、ユ これらの神話は、決定的 論な闘争に参加する用意のある人民大衆の活動と感情と思想を含むことができるから、事 態の描写ではなくて、自発的意思の表現となる。ところが、ユ ートビアは知的働きの産 物であり、理論家たちの産物である。彼らは、事実を観察し論したあとで、現存する諸