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検索対象: 暴力論 上
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1. 暴力論 上

244 私が今指摘したばかりのマルクス主義とゼネストとの関連は、さらに拡大され、理解 を深められるだろう。両者の関連がこれまで無視されてきたのは、われわれが、事象の 本質より形態にいっそう強く印象づけられていたからである。多くの人びとにとっては、 ヘーゲル主義から生まれたマルクス主義哲学と、高い教養を少しももたない人びとによ って作られたゼネストの構図との間に存在する一致を、しゅうぶんに把握することがき わめて困難に思えたのたった。マルクスは、ドイツで、非常に集約的な表現方式の好み を身につけていたが、この種の表現は、彼が論文を書いていた当時の状況にあまりにも 冫。しかなかったのである。プロレ びったりたったので、それを大いに活用しないわけこよ、 タリアートが革命に備えるために用いることのできる手段の詳細を教えてくれる多数の 偉大な経験を、彼はその目で見とどけたわけではなかった。マルクスの思想にはこうし た経験的知識の欠如が重くのしかかっていたので、彼は、自分には取るに足らないと思 える現存諸制度に承認をあたえるかもしれないような、あまりにも具体的な表現を用い ることを避けたのである。したがって、マルクスが、ドイツ学派がその慣用表現として 抽象的一 = ロ語を使う癖があると気づくことができたのは幸運なことであり、こうした抽象 的一言語のおかけで、彼は、細部にわたるあらゆる論争を避けることができた。

2. 暴力論 上

164 ) トクヴィル『アンシアン・レジームとフランス革命』 ( Tocqueville, ト洋 ci ミ ~ Réをミ e ミ き ~ ミ D ( 『全集』版 ) 第二巻、第一、三、四章、八九、九一、九四、二八八。ヘージ。 メランジュ ( 3 ) トクヴィル『雑録』 (Tocqueville, Mélanges) 一五五ー一五六ページ。 ( 4 ) トクヴィル『アンシアン・レジームとフランス革命』三五ー三七。ヘージ。 ( 5 ) ・マドランが『デ。ハ』誌一九〇七年七月六日号の、ナポレオン一世時代の地方長官につ いての論文で到達したのも、この結論である。 6 ) トクヴィル『アンシアン・レジームとフランス革命』二五四ー二六 二ページおよび 『雑録』六二。ヘージ。私の研究『進歩の幻想』 ( G. sorel, s き ~ 之 sd ミ r 第 ) 第四章、第 四節参照のこと。 ( 7 ) カウッキー〔一八五四ー一九三八、ドイツの政治家、思想家、第二インターナショナルを 代表するドイツ社会民主党の指導者。レーニンから「背教者ーと非難された〕は、フランス革命 軍が奪った財貨が果たした役割を大いに強調した ( 『一七八九年のフランスにおける階級闘争』 (KautskY. ト 0 ト ~ 、、 ( e des classes en France en 7789 ) フランス訳、一〇四ー一〇六ページ ) 。 ( 8 ) ガストン・ボワシェ『異教の終焉』 (Gaston Boissier. ト 0 、 ~ du でミ ~ ミ e ) 第四巻、第 ( 9 ) フ、ステル・ド・クーランジ『封建制の起源』 ( Fuste 一 de Coulanges, Les Origines 、 régime & ミ ) 五六六ー五六七ページ。私はフュステル・ド・クーランジュの主張に大きな誇張 があることを否定しない。だが、この保守性は否定できないものであった。

3. 暴力論 上

カ と 社会主義に関する論争が概してひどくあいまいなものであることを、誰もが嘆いてい 闘る。このあいまいさは、多くの場合、現在の社会主義の著述家たちがいまでは全面的に 彼らの思想と一致しなくなった用語を使っていることに由来している。改良主義者を自 一称する人びとのうちでもっとも著名な人物たちでさえ、社会主義文献であることを強調 するものとして非常に長い間役立ってきたいくつかの文章を放棄する様子をすこしも見 せようとはしないのた。ベルンシュタイン〔一八五〇ー一九三二、ドイツの社会主義者。社会 第一章階級闘争と暴力 富裕な集団に対する貧しい集団の闘争ーー階級分裂に対する民主政治の 敵対ーー社会平和を買い取る手段ーー団結心 Ⅱ暴力の消減に関する幻想ーー協調のメカニズム、協調がストライキ参加 者にもたらす励ましーー社会立法に恐怖が及ぼす影響とその重要性

4. 暴力論 上

トという壮大な構図を想起しその助けを借りて社会主義の命題を解釈するや否や、それ らの命題すべてに従来欠けていた明晰さが伴われるようになると認めた。新学派が気づ いたのは、プロレタリア思想の現代的な変革に正確に従おうとするなら、マルクスの学 説を説明するためにドイツで構築された、重苦しく、それでいて脆弱な仕掛けを捨て去 セネストの概念によって、社会主義を牛耳ると自 るべきということだった。新学派は、、 称する大立者たちにはこれまでほとんど知られていなかったマルクス主義の広大な全領 域を、効果的に探索できるようになることを発見した。このように、マルクス主義の根 キ本概念は、ゼネストという見取り図の助けを借りなければ完全に理解可能なものにはな らないたろうし、他方、この見取り図は、マルクスの学説によって育まれた者にしかそ ののすべての意味作用を受け取られることはない、と考えられるのである。 ア < ーー手はしめに、私は階級闘争について語ることにしよう。というのも、階級闘争 。フ こそはあらゆる社会主義的考察の出発点であり、詭弁家たちがそれに誤った観念を植え 第つけようと努めるようになって以来、それを解明する必要が大いに生しているからであ る。 田マルクスは、社会について、それが本質的に対立する二つの集団に切断されてい

5. 暴力論 上

とつの深遠な思想を、有効に引用することができる。「人びとは、現実の表面的な表出 との長い友達付き合いをつうじて現実の信頼を得なかったとしたら、現実から直観、つ まり、もっとも内的な現実との知的な共感を獲得することはできない。そして、たた単 に、特徴的な事実だけを受け人れることが問題なのではない。そのような事実のじつに この塊は非常に大き 膨大な塊を蓄積し、溶解してひとつの全体にしなくてはならない。 なものなので、溶解をつうじて、観察者が知らないうちにその観察の根底に位置づけた かもしれないあらゆる先人観や早まった考えを、たがいに中和することが保証されなく てはならない。既知の事実に含まれる未加工の物質性は、このような場合たけに引き出 される」。こうしてついに、われわれはベルクソンが全面的な体験と名づけるものに到 達するのである。 この新しい原則のおかげで、人びとは、社会主義をその輪の中に包みこめると称する あらゆる主張が嘆かわしいほど不十分だったり、あるいは、しばしば有益というよりも 危険であることを、すぐさま認めるようになった。ドイツで、マルクス主義を完成させ るために試みられたあらゆる努力が不毛のものとなったのは、社会民主主義がマルクス の学説のスコラ哲学化に迷信的な敬意を払ったからたった。 新学派がゼネストを十全に理解し労働運動の深い直観に達したとき、彼らは、ゼネス

6. 暴力論 上

を強要するにいたるが、この種の和解は暴力の煽動者への激励となる。 直接的、革命的方法と呼ばれるものを承認するとしても否認するとしても、この方法 が近いうちに消減しそうにないことは明らかだ。フランス同様好戦的な国では、多くの 実例がその驚異的な効力を証明するわけではないとしても、この方法が確実な人気を得 るたけの奥深い理由が存在している。このことは現代という時代の大いなる社会的事実 であり、その重要性を理解するよう努めなくてはならない。 ここで私は、わが国とドイツとの関係についてクレマンソーがおこなった考察を引用 この考察は、社会紛争が暴力的様相を呈するようになる場合 しないわけこよ、 力にも ( こうした傾向は、臆病なプルジョワジーが社会平和という幻想をさらに追い求め るにつれて、ますます一般化せざるを得ないと思われる ) 、まったく同様にあてはまる 級ものである。彼はこう述べた。「「永続的な譲歩政策以上に「敵側がつねにより多くのも のを要求することを助長する方法は存在しない。どんな人物もどんな強国も、ただ譲歩 第しかできない場合には、みすから生存を断念する結果にたどりつくほかはない。生存す る者、それは抵抗する者である。抵抗しないものは、ばらばらに切り取られるのた」 ( 『オーロール』一九〇五年八月一五日 ) 。 119

7. 暴力論 上

次 Ⅱルソー内閣におけるミルランの役割ーー調停裁判に関する現在のさま ざまの思想の言い分 ュニオ Ⅳ道徳のなかに崇高を求めることーーープルードンーートレード・ ドイツにおける崇高、破局の観 ニズムのなかでは道徳は生まれない 念 第七章生産者の道徳 道徳と宗教ーー民主主義諸国家による道徳の軽視ーー・新学派の道徳的 関心 Ⅱ世界の未来に関するルナンの不安ーールナンの予測ーー崇高の必要性 Ⅲニーチェの道徳ーー道徳の生成における家族の役割、。フルードンの理 論ーーアリストテレスの道徳 Ⅳカウッキーの仮説ーーゼネストの精神と自由のための闘争の精神との 類似ーーーゼネストの精神が議会主義者にひきおこす恐怖 > 高度な生産工場の労働者、芸術家、自由のための戦十。節度を超え出 る欲望ーー厳格な比例的等価の配慮ーー厳格な等価報酬という考えの放 付論—統一性と多様性 統一性の観念を育む生物学的メージとその起源

8. 暴力論 上

( 8 ) クレマンソーは、すっと昔から議会のあらゆる社会主義者をしつによく知っていた。 ーグの会議〔一九〇七年の国際平和会議〕で、ドイツ代表は自国が武装平和の費用〔軍事 費〕を容易に引き受けるたろうと宣一言した。レオン・プルジョワは「フランスもまた、国防が市 民たちに課す人的財政的負担を喜んで引き受けるだろうと主張した」。・ギュイエスはこれら の演説を引用したが、ロシアはまだ資本主義の大国と同等の位置に立てるほど豊かではないので、 皇帝が軍事支出の削減を求めたのだと考えている ( 『フランスと武装平和』 ( Ch. Guieysse, France ミ pa 洋 ar ミée ) 四五ページ。 ( 間 ) たからこそ、プリアン〔一八六二ー一九三二、フランスの政治家。サンディカリストから 改良主義者となり、 一一回首相に就任。外交にも手腕をふるった〕は一九〇七年六月九日に、サ ンテチェンヌの有権者に対して、共和国は労働者退職年金に関する神聖な公約を労働者と結んだ カ 暴 と述べたのである。 と 第 近代社会に存在する敵対関係の諸原因を解消させるために試みられたさまざまな努力 肪は、疑いもなく、 いくつかの成果に到達することができた もっとも、紛争調停者た

9. 暴力論 上

民主党内でマルクス主義の修正を提案〕が、社会民主主義という言葉とその活動の実態との 間に存在する途方もない矛盾に気づいて、彼のドイツの同志たちに、自分たちの真の姿 を見せる勇気をもつよう、そして、虚偽となった教義を修正するよう求めたとき、この 大胆な男に対して、憤りの叫びがいっせいにわき起こった。しかも、修正主義者たちは、 旧来の公式をかなり熱心に擁護していたのた。フランスの著名な社会主義者たちが、べ ルンシュタインのテーゼよりミルラン〔一八五九ー一九四三、フランスの政治家。一八九九年 に人閣し、社会主義者から国家主義者に転じて一九二〇年に大統領となった〕の戦術のほうが容 易に受け人れられると思うと述べたことを、私は思い出す。 言葉のこうした偶像崇拝は、あらゆるイデオロギーの歴史において大きな役割を果た している。マルクス自身の思想とは完全に無縁になってしまった人びとがマルクス主義 の言語を保持しているという状況は、社会主義にとって大きな不幸となっている。たと えば「階級闘争、という用語は、もっとも誤って用いられているものであり、この語に 完全に正確な意味を付与するようにならないかぎり、社会主義を合理的に説明すること などあきらめなくてはならないだろう。 < ーーー大多数の人びとから見て、階級闘争は社会主義戦術の原則となっている。つま

10. 暴力論 上

250 ようにして、マルクスがブルジョワ科学の外部に位置していたことがわかるからである。 ゼネストの学説もまたこの種の科学を否定するので、学者たちは、新学派がプルジョワ 科学に否定的な考えしかもたないと非難する。学者たちは、自らを普遍的幸福を打ち立 てるという気高い目的の提案者と称する。この点、社会民主主義の指導者たちがつねに きわめてマルクス主義的たったとは思えない。数年前に、カウッキーは、ひどく滑稽な ( 4 ) ト。ヒア論に序文を寄せていたほどだ。 ートビアに彼 ベルンシュタインが旧友と訣別するにいたった動機としては、彼らのユ が嫌悪を抱いていたことをあけなくてはならないと、私は思っている。もしベルンシュ タインがフランスに住んでいて、われわれの革命的サンディカリズムを知っていたなら、 それこそが真のマルクス主義の道であることに、すぐに気づいたたろう。だが、イギリ スにもドイツにも、彼は自分を導き得る労働運動を見出さなかった。マルクスがそうし たように、現実との結びつきを失わないことを望んたベルンシュタインは、未来の人類 の幸福について唱えられる美辞麗句の響きに包まれて眠りこんでしまうより、実践的な 目的を追求して社会政策を実行するほうがましだと信したのたった。 ここで問題となっている空虚で欺瞞的な科学の崇拝者たちは、彼らの決定手段の無力 さに関して向けられたかもしれない反論など、ほとんど苦にしなかった。それはおそら