人間の精神は、事実の確認だけで満足することができす、事物の理由を理解しようと 望むようにつくられている。したがって、われわれがベルクソン哲学に負っている知を 活用することで、この神話理論を深めるよう努めることが妥当ではないかと、私は考え る。私があなたにゆだねる試論は、おそらく相当不完全なものたが、この問題の解明の ためにたどるべき方法にしたがって構想されていると、私には思える。 ます、モラリストたちが、われわれの個のなかに真に根源的に存在するものについて、 ほとんど一度も論してこなかったという事実に注目しておこう。彼らは通常、社会が現 代生活のもっともありふれた種類の多様な行動のためにあらかしめ定めておいた判断の 範囲内に、われわれがなしとけた行為を投影しようとする。このようにして、行為の動 機を決定するというのた。しかし、こうした動機は、法学者が刑法に関して考慮に人れ る動機とおなし性質のものであり、誰もが知っている諸事実についての社会的評価にす ぎない。多くの哲学者 ( 主として古代の哲学者 ) はすべてを効用に関連づけることが可能 たと信していた。そして、社会的評価というものが存在するとすれば、それはたしかに Ⅳ
方法を聖書に適用しただけなので、カルヴァンの聖書解釈は人文主義者による批判的読 解に場所を譲ることになった。 事実の記録たけで満足する年代記編者は、解放の思想を夢想か誤謬とみなしたがるも のたが、真の歴史家は事態を別の視点から考察する。道徳、法あるいは文学に対するカ ルヴァン主義の影響がどのようなものたったかを知ろうとすると、歴史家はつねに、昔 の。フロテスタントの思想が、解放への前進の観念の影響のもとでいかなるかたちをとっ ていたのかを検討するよう仕向けられる。あの偉大な時代の経験は、勇気ある人間がこ の解放への意思にともなう闘争的感情のうちに、彼の熱情を維持できるほどじゅうぶん な充実感を見出していることを、じつによく示している。したがって、この歴史からは、 あなた〔アレヴィ〕がかって表明した考えに合致する、みごとな例示を引き出すことがで きると私は信しているが、その考えとは、「さまよえるユダヤ人」の伝説が、休息も知 らすにいつまでも歩き続けるよう運命づけられた人類の、もっとも気高い渇望の象徴で あるというものなのた。 1 ) 「ギリシア芸術のあらゆる傑作の上に予感のように広がっている悲しみ〔が物語るの〕は、 それらの傑作に満ちあふれているように見える生命感にもかかわらす、天才的な諸個人は、この
年一一月、パリに設立された大学レベルの私立の研究教育機関で、初代院長は哲学者の レ フトルー、理事長はパストウール研究所所長の工、、 ール・デュクローで、 理事は出版者のフェリックス・アルカン、『パ ジュ・リープル』誌主催者のシャル ル・ギュイエス、それにジョルジュ・ソレルの三人たった。この自由な学校は、一八九 五年に創設された社会科学自由学院 (Collége libre des sciences sociales) を引き継いで いたが、学院が国家の補助金を受けて半官半民の機関となり、その自由さが失われつつ あったこともあって、学院の女性事務総長ディック・メーを中心とする新たな企画とし て実現したものだ。 社会高等研究院がドレフュス事件の渦中で構想され、ドレフュス擁護派の勝利直後に 開校したことが示唆するように、この学校は、人権連盟副会長でもあったデュクローや、 社会主義者ではなかったがドレフュスを支援したアルカンらを筆頭に、ドレフュス派の 知識人・運動家が結集する場となり、経済学者シャルル・ジッド、社会学者エミール・ 題デュルケームらの学者だけでなく、労働運動家たちも授業を担当した。その三人の理事 解のひとりにソレルが選ばれたことは、彼がドレフュス派の有力な一員として迎えられた 事実を裏づけている。 とはいえ、一九〇一年に『社会主義評論ミ ev ミき c ミ ( e ) 』誌に発表したドレフュ
九〇五年七月にこう述べた。「階級闘争はひとつの事実ですが、それは過酷な事実であ ります。私は、階級闘争を引き延ばすことで、間題の解決に到達するとは思いません。 解決は、階級闘争をなくし、すべての人間が自分たちを同し事業の仲間と見なすように することでなされると、私は信しるものです」。したがって、政府は、貧者の境遇を改 善する以上に大きな関心をもたないと貧者に明示することで、そして、諸階級の調和の ためには大き過ぎると判断される財産の所有者に対して必要な犠牲を強いることで、社 会の平和を立法的につくりたすことが問題たというわけである。 資本主義社会は非常に豊かであり、そこでは未来は全く楽天的な色調に彩られて見え るので、この社会は大した不満を訴えることなく、恐るべき負担に耐えることができ カる。アメリカでは、政治屋たちが、大変な額の税金を恥知らすに浪費している。ヨーロ ( 9 ) とツ。、では、軍備が毎日ますます大きくなる金額をのみこんでしまう。社会平和にしても、 級いくらかの付随的な出費をすれば、立派に買い取ることができるのた。経験の示すとこ ろでは、プルジョワジーは、すこしばかり彼らを圧迫したり、革命で怖がらせたりすれ スペクトル 第ば、収奪されることを容易に受け人れるものである。革命という妖怪〔マルクス、エンゲ ルス『共産党宣言』フランス語版、冒頭の語〕をもっとも大胆に操ることができる政党は、 未来をわがものとするだろう。急進党はこのことを理解しはしめたが、党の道化師がど
を辞した二年後にすでにこのような確信にいたっていることは、彼が技師時代からマル クスに接近していた可能性を暗示するものであり、先にふれたとおり、彼の後半生の、 思想家としての活動は、 ( 遅くとも ) 技師時代の末期にその起源を求めることができるだ ろう。逆に一一一口えば、彼が官職を退いたのは、マルクスの科学的社会主義への彼の思想的 傾斜が、しつは主要な動機たったのではないかとも思えるほどである。 したがって、一八九四年は、ソレルがマルクスについて公然と論した最初の年とみな すことができる。この年はドレフュス事件が起こった年でもあった。 この事件は、「知識人ーの起源となった歴史的事件なので、事実関係をごく大づかみ にふりかえっておこう。一八九四年一一月、フランス陸軍砲兵大尉のユダヤ人、アルフ レッド・ドレフュス ( 一八五九ー一九三五 ) がドイツに軍事機密を洩らしたスパイ容疑で逮 捕されて、一二月に軍法会議にかけられ、反逆罪により終身流刑の有罪判決を受けて、 翌九五年四月に南米ギアナ沖の悪魔島の監獄に収監されたのが、事件の発端である。当 題時の世論はユダヤ人将校の有罪を受け人れて、ドレフュスを「裏切り者」とみなす方向 解に傾いたが、ドレフュス大尉の無実を確信していた彼の家族は、兄のマチウやドレフ、 ス夫人を中心に上院議員シュレール日ケストレルら有力者に働きかけ、粘り強い再審請 求運動を続けた。その結果、参謀本部情報部 ( ) 部長のビカール中佐の協力を得て、
一八九六年には、事件はフランス陸軍将校でハンガリー出身のエステラジーと在仏ドイ ツ大使館付武官フォン・シュヴァルッコッペンの共犯であることが判明し、エステラジ ーはマチウによって告発される。ところが、真実の発覚を恐れた参謀本部は、ビカール の副官たったアンリ少佐にドレフュス有罪を補強する偽文書を書かせて、一八九八年一 月一〇日、軍法会議はエステラジーを無罪放免としたのだった。 すでにこの頃から、ドレフュス事件の再審を求める政治家、ジャーナリスト、作家 レーナック、。 フルーストら ) の運動が広がり、フランス人権連盟が結成 されていたが、エステラジーの釈放に憤った作家エミール・ゾラ ( 一八四〇ー一九〇一 l) は 一八九八年一月一三日『オーロール』紙に大統領フェリックス・フォールへの公開書簡 「私は弾劾する : : : ( ト。ミ、 se : し」を発表して、再審派の運動は頂点に達した ( このとき ドレフュス擁護派が lnte 一一 ectue 一 ( 知識人 ) と呼ばれて、この語の起源となったことはよ く知られているとおりた ) 。同紙の発行部数は通常三万部ほどだったが、この日は二〇 万部を超えたという。この論説によってゾラは訴追され、有罪判決を受けてロンドンに 亡命するが、九八年八月にはアンリ少佐の文書が偽物だったことを参謀本部が事実上認 めて、アンリは自殺に追いこまれる。こうして、ドレフュス有罪の根拠が崩れ、翌九九 年六月、新大統領エミ ール・ルーベ ( フォールは同年一一月に病死 ) は、首相ワルデックⅡ ( クレマンソー
274 この文章は、ソレル自身による唯一の自伝的叙述であるとともに、本書執筆当時、つ まり二〇世紀初頭のフランスでソレルを巻きこんでいた思想的状況をなまなましく描き 出している。本稿では、この手紙でソレルが述べていることがらの事実関係を可能なか ぎり検証しながら、『暴力論』出版にいたる事情に接近してみよう。 生い立ちと技師時代 ンヨルジュ・ソレルの生涯は、二つの時期にはっきりと分けられる。一八四七年の誕 生から四五歳で土木局を辞職する一八九二年までの前半生と、それ以降、技師のキャリ アとは無縁な分野で特異な社会思想家として活動して、七四歳で没する一九二二年まで の後半生である。人びとの記憶にとどめられているのは、もちろん本書『暴力論』をは しめ十数冊の著作をつぎつぎと発表し、フランス国内ばかりか世界の思想界 ( 日本も例 外ではない ) に波紋を投けかけた後半生のほうたが、知られることの少ない前半生がな ければ、その後の人生もなかったのだから、ひとます彼の生い立ちから技師時代に焦占 をあわせてみよう。 1 亠
ことを可能にしてくれる。この情熱にまったく捕らえられなかった偉大な歴史家など一 人も存在しないし、この情熱を間近で観察してみれば、それが、じつに多くのすぐれた 直観を可能にしたことがわかるのである。 私はここで、暴力に関して語るべきすべてのことを提示するつもりではなかったし、 まして、暴力に関する体系的な理論をつくりあげるつりでもなかった。私はただ、民 衆の信しやすさにつけこんで利益を得る者たちを相手にアルプスの向こう側で勇敢に闘 っているイタリアの雑誌『社会変革』ミ Div きぎき c ミをに掲載された一連の論考を集 めて、修正したにすぎない。 これらの論考は全体の計画なしに書かれたが、今回書き直 すことはしなかった。このような内容の論文に教育的な体裁を整えるためにはどうした らよいのか、わからなかったからである。未整理の書き方を残しておくほうがよいとさ え思われたほどだ。そのような文章のほうが、さまざまな思念を呼び起こすには適して いるだろうからである。よく知られていない主題を取り上げるときには、あまりにも厳 密に枠組みを限定しないよう配慮しなくてはならない。限定しすぎると、不測の事態に よってたえす生しる多くの新たな事実に、門戸を閉ざす危険を冒すことになるたろう。 、ったい何度、社会主義の理論家たちは、現代史によって道を迷わされたことだろうか。
( 3 ) ジョレス『国民公会』 (). Jaurés, ト。 C 。ミミミこ一七三一一ページ。 ( 4 ) それは、一八九八年三月二五日、ドレフュス事件がとくに危機的な状況を迎えた時期〔ゾ ラが「私は弾劾する : : : 」の発表で有罪判決を受けた直後〕のことで、その頃国家主義者たちは 社会の混乱者と軍の敵を一掃することを要求していた。・レーナックは、ド・。ウォギュエが軍 に対して一八五一年の行為〔クーデタ〕を再開することを公然と要請したと述べている ( 『ドレフュ ス事件の歴史』 ( J. Reinach, 導 s き洋ミき D 、・洋 s ) 第三巻、五四五。ヘージ ) 。 ド・ヴォギュエは論争の際に、相手が彼をたいへん楽しませてくれたと感謝する習慣があ るので、彼の著作はむしろ眠気を誘うのではあるのたが、私も彼のことをあえて「愉快な」と 呼ぶことにする。 6 ) ・ジョレス、前掲書、一四三四ページ。 偏 ( 7 ) 同上書、七七ページ。 る け ( 8 ) 同上書、一七三一ページ。 ( 9 ) ここで、おそらくあまりよく知られていないひとつの事実を指摘しておく。ナ。ホレオン時 カ 暴代のスペイン戦争〔一八〇八ー一四〕は無数の残虐な行為の機会となったが、ラファイユ大佐は、 章 カタルーニヤでは殺人や残虐な行為は、数年前から連隊に編人され、戦争に固有の作法を身につ 第けていたスペイン人兵十のしわざではなかったと述べた ( 『一八〇八ー一四年のカタルーニヤ遠征 の回想』 (LaffailIe. 6 ミ 0 マ es s ミ・ les 3 ミで。 g ミ s C ミミ og ミ de 7808 å 7874 ) 一六四ー一六 201 ( 5 )
132 大変な緻密さと手腕と冷静さが必要た。つまり、労働者には、革命の旗を担っていると 信しさせ、プルジョワジーには、彼らを脅かす危険を阻止していると思いこませ、国 ( 国民 ) に対しては、抵抗し難い世論を代表していると思わせるのである。選挙民大衆は、 政界で起こっていることを何も理解していないし、経済史について何も知らない。大衆 は、実力を秘めているように見える側に着くのであり、政府を屈服させられるほど強い ことを見せつけた者は、大衆から望みどおりのものを得ることができる。しかし、そう は言っても、やりすぎてはならない。プルジョワジーが目覚めることもあり得るし、国 民が断固たる保守派の政治家に心酔することもあり得るからである。あらゆる見積もり と対策と機会から免れているプロレタリア暴力は、すべてを問い直して、社会主義者の 駆け引きを破減させることができる。 この駆け引きは、政府、議会内党派のポス、有力な選挙民などを相手にして、あらゆ る段階において演しられる。政治屋たちは、政治の舞台に登場する統一を欠いた諸勢力 を最大限に利用しようとやっきになっている。 議会主義的社会主義は、社会主義が元来絶対的な諸原理によって確立され、長いド もっとも進歩的な共和派と同し反逆の感情に訴えてきたという事実に関して、いくらか の当惑を感している。こうした二つの事情が、シャルル・ポニエ〔一八六三ー一九二六、