国家 - みる会図書館


検索対象: 暴力論 上
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1. 暴力論 上

202 フランスでは、サンディカリズムは反軍国主義的政治宣伝に関わっているが、そのこ とは、国家という問題に対する、彼らと議会主義的社会主義との大きなへだたりを明示 している。多くの新聞は、そこでは、エルヴェの論説が引き起こしたらしい誇張された 人道主義的運動しか間題ではないと思っているようたが、それは大きな過ちである。反 軍宣伝でサンディカリストが反対しているのは、軍規の厳しさや兵役の長さ、あるいは、 現状の諸制度に敵意をもっ将校たちが上位の階級を占めていることなどたと信してはな らない。そうした理由は、多くのプルジョワたちを、ドレフュス事件に際して反軍的な 美辞麗句に拍手喝采させる方向に導いたが、それはサンディカリストの理由ではない。 軍隊は、人びとが国家に対して抱くことができる、もっとも明確で、もっともわかり やすく、その起源にもっとも強固に結びついた表現である。サンディカリストは、一八 世紀人が提案したようなやり方で国家を改革するつもりはない。彼らはできれば国家を ( 2 ) 破壊しようと望むが、それは彼らが、社会主義革命は支配的少数派を別の少数派で置き 換える結果に到達すべきではない、 というマルクスの思想の実現を望んでいるからで Ⅳ

2. 暴力論 上

198 敗、そしてテロリストたちの狂った空想を育んだあらゆる夢想を忘れているとして、デ ムーランを非難する。彼は「自由フランス ! 」を口にする皮肉な態度さえ取って、ジョ ゼフ・。フリュードム〔一九世紀フランスの作家アンリ・ モニエが創造した人物で、善良だが愚鈍 なプルジョワの代表〕のジャコバン派の弟子にふさわしい、つぎの言葉を発する。「デムー ランのナイフは比類のない技術で刻まれていたが、彼はそれを革命の心臓に突き立てた ( 8 ) のだ」。ロベス。ヒエールがもはや国民公会の多数派を操れなくなると、彼は、当時の議 会制度の法律にのっとった作用によって、ごく当然のように、他のテロリストたちに殺 されるたろう。けれども、政府の指導者たちに逆らって、たた世論たけに訴えたこと、 それこそがデムーランの「犯罪」たった。彼の犯罪はまた、軍と政府の大指導者たちに 逆らってドレフュスを擁護したジョレスの犯罪でもあった。ジョレスは、国防を危険に さらしているとして、いったい何度非難されたことたろうか ? たが、そのような時代 は、すでにはるか彼方に遠ざかってしまった。その頃は、わが雄弁家は権力の特典をま た味わってはおらす、彼が今日抱いているような残忍な国家理論をもたなかったのであ る。 以上見てきたところで、仮にわが議会主義的社会主義者がたまたま政権に到達すると

3. 暴力論 上

ぜなら、われわれはゼネストの概念の歴史的射程を確認すれば、それでよいのである。 サンディカ 新しい文化が、革命的な組合が経営者と国家に対して仕掛けた闘争から出現するだろ うことを示すために、われわれは努力してきたのだ。もっとも強烈なわれわれの独自性 は、。フロレタリアートが、知性のプルジョワ的専門家の教えに頼ることを必要とせすに、 自己解放をとけることができると主張した点にある。われわれは、こうして、現代的な 現象のうちで、以前は付随的と見なされていたものを本質的なものと見なすようになっ た。これは、闘争のなかで訓練を積む革命的。フロレタリアートにとって、真に教育的な ことである。この種の教育の働きに関して、われわれたけで直接的な影響を及ぼすこと はできそうにない。 われわれが、敵対する階級の思想や習慣の侵人に対して。フロレタリアートに警戒を促 し、プルジョワ思想を否定することに専念しさえすれば、われわれの役割は有効なもの となり得る。 初等教育を受けた人間は、概して、書物に迷信めいた執着心を抱いており、活字の世 界で大いに注目を集めている人びとは優秀だと、容易に信しこんでしまう。その名が新 聞各紙に賞賛とともに引用されている作家からは、たくさん学ぶべきことがあるだろう と、彼らは思いこむ。各種のコンクールの受賞者が彼らにもたらすコメントに、奇妙な

4. 暴力論 上

クヴィルは書いている。「彼らは中央権力の手を借りて、すべてを破壊し、彼ら自身 が考案した新たな計画にしたがってすべてをつくりなおすために、この権力を用いるこ とを望む。中央権力たけがこのような任務をなし遂けられるように、彼らには思えるの た。国家の権力は、国法同様限界のないものでなくてはならない、と彼らは言う。問題 ( 8 ) は、その権力を適切に行使するよう国家を説得することだけである」。重農主義者は、 一般的利益のために個人を犠牲にする傾向があるように見えた。彼らは、自由にはほと んど執着せす、権力の均衡という観念をばかけたものと見なしていた。彼らは国家を改 宗させることを望んでいた。彼らの制度は、トクヴィルによって「民主的専制政治」と 定義されている。国家は、理論上は、開明的な公衆の世論に統制される、すべての人び ( 9 ) との代理人たったはすだが、実際には、絶対的な主人だった。アンシアン・レジームを 研究していたトクヴィルをもっとも驚かせたことのひとつは、重農主義者が中国に対し て抱いていた賞賛の念である。重農主義者にとって中国は良い政府の典型に見えたが、 それは、中国には、念人りに分類され、競争試験〔科挙〕で選抜された従僕と番頭しか存 在しないからである。 フランス革命以来、思想の領域では非常に大きな混乱があったので、われわれの父祖 たちの考え方を理解するのは、大変骨の折れること。資本主義経済は、諸個人の並は ブツォワール

5. 暴力論 上

( 5 ) つの力をあたえている。 以上のことから、われわれはこう結論することができる。国家の転覆を望む。フロレタ リアたちによって、ストライキの最中に行使されるサンディカリスト的暴力を、一七九 三年の革命家たちの野蛮な行為と一緒にすることはできないだろう。後者の革命家たち の行為は、彼らが権力を掌握しーー教会と王権から受け取った原則にもとづいてーー敗 者を弾圧できた時期に、国家に関する迷信から暗示を得たのである。われわれは、純粋 なサンディカリストによって追求される社会主義革命が、プルジョワ革命を汚してきた 嫌悪すべき諸行為によって少しも汚されないことを願う権利をもっているのである。 る ( 1 ) ジョゼフ・レーナックによれば、〔普仏〕戦争後、軍隊の学校〔陸軍十官学校 ( サン・シー ル ) 、理工科学校 ( ポリテクニク ) など〕の生徒たちに過大な地位をあたえたのは間違いたった。 カ 暴 の調子だと、旧貴族やカトリック党が指令権を奪取するようになったことだろう ( 前掲書〔『ドレ 章 フュス事件の歴史』 ( 導 s ( 0 ぎ de ぎ 0r0 洋 s ) 〕、五五五ー五五六ページ ) 。 第 ( 2 ) 「生産者の自由で平等な連合を基盤として生産を組織する社会は、国家の全機構をそれが 今後置かれるべき場所に移動するたろう。つまり、古代博物館の紡ぎ車や青銅の斧の横に置くた 加ろう、 ( エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』 ( Enge 一 s. Les 9 ・ミ s de ぶき c 、 6 ) フラン

6. 暴力論 上

272 うに、われわれの精神生活の大部分は、偶然の出会いに依存している。ルソーを理解 するためには、彼の〔女性との〕結びつきに思いをはせる必要がある : : : 。伴侶の選択 は、男性の奥深い心理がもっともよく表れる行為のひとつなのた」。 彼女の死後、私は田舎〔。フーローニュ日シュル日セーヌ〕に引越し、結婚して父親とな った彼女の甥〔一家〕と暮らしました。 一八九五ー九七年に、私は、ラファルグ、ドウ、ウイル、アルフレッド・ポネととも に創刊した『社会生成 ( Dev ミ斗・き c ミ I) 』誌に大いに執筆しました。この雑誌の三分 の一におよぶ論考や書評を書いたのです。私は、デュクロー〔パストウール研究所所長〕 が主催して〔一九〇〇年に〕創立された社会高等研究院〔 Ec 三 e des hautes études sociales 〕 の理事を一九〇六年に辞任しましたが、それは、理事が『暴力論』を出版するような ことは、この学院にとって危険だと、思えたからです。学院は、事実、国家の補助を 受けていました。ラガルデルが一八九九年に『社会主義運動 ( ミ。ミミ、ミミき c ミ ミ e ) 』誌を創刊した時、私は、同誌に寄稿することで彼を援助しましたが、その後 まもなく、そこにいるのがただ目立ちたいために大騒ぎをする若者だと気づいたので、 この雑誌から離れました。そこからは、長いこと遠ざかっていましたが、ラガルデル が真面目な行動方針を採用したがっているように見えたので、一九〇六年に『運動』

7. 暴力論 上

が時に過大な成功を収めることもある。彼らはゼネストを嫌悪するが、それは、この領 フィラントロープ 域に関するあらゆる政治宣伝が、友愛主義者の気に人るには社会主義的すぎるからた。 。フロレタリアートのこうした自称代表者のロにの。ほれば、社会主義のあらゆる言説は その現実的な意味を失ってしまう。階級闘争は今なお偉大な原則ではあるが、それは国 民的連帯に従属しなくてはならない。国際主義は、もっとも穏健な人びとでさえ、その ためにはもっとも荘厳な誓いを述べる用意があると明言するひとつの信条だが、愛国主 ( 2 ) 義もまた、聖なる義務を課すものである。労働者の解放は、毎日そのことが新聞に印刷 されているように、労働者自身の仕事でなくてはならないが、真の解放は、職業的政治 家に選挙で投票し、よい地位を得る手段を彼に保証してやり、彼を主人とすることだと いうわけである。いっか国家は消減すべきであり、この点に関しては、エンゲルスが書 いたことに異議をとなえないようにしなくてはならないが、国家の消減は、はるか遠い 未来にしか起こらないので、さしあたっては、政治屋たちにご馳走をふるまうために国 家を利用しながら、消減に備えなくてはならない。そして、国家を消減させる最良の政 策とは、とりあえす、政府機関を強化することなのである。雨に濡れないために水中に とびこんたあのグリブイユ〔間の抜けた考えをする架空の人物で、難を避けるためにかえって難 儀するタイプのキャラクター〕が考えたのも、これと同しことたっただろう。

8. 暴力論 上

の再生を阻害する目的で行使できる有害な影響を破壊するために、容赦ない態度を示す 決意を固めていた。寛大さは、矯正不可能な連中の気まぐれのために多数の幸福を犠牲 にする罪深い弱さであり、そのような連中は、わけのわからない頑固さを見せつけて、 明白な事実を認めようとせす、嘘だけによって生きていたからである。 宗教裁判所から王権の政治裁判へ、後者から革命裁判所へ、たえす法規の恣意性と権 力の拡張と権威の拡大の方向へと進んでいった。教会は、非常に長い間、その異端審問 官が行った例外的な手続きの価値に関して疑念を抱いていたが、王権は、とりわけその 爛熟期に達した頃には、もはやそれほどのためらいを見せなかった。しかし、フランス 革命はその迷信深い国家崇拝の破廉恥さを白日のとにさらしたのだった。 る けある経済的次元での理山が、当時は、教会がけっして持ち得なかった力を国家にあ 川たえていた。近代の初めに、諸国の政府は外洋の探検と産業の奨励をつうじて、生産に 非常に大きな位置を占めていたが、一八世紀になると、この位置は、理論家の精神のな 第かで異常に巨大化していった。当時は、誰もが大計画で頭が一杯たった。人びとは、十 地を開拓して活用しようとする巨大企業という面から王国を構想し、これらの企業の働 きに良好な秩序を確保しようと努めた。こうして、国家は改革者たちの神となった。ト フォルス

9. 暴力論 上

り、社会党は、ある種の集団の間に激しい状態で存在する利害の対立を、選挙での成功 の基盤としており、必要があれば、この対立をもっと激烈にすることさえ引き受けるた ろう。候補者たちは、もっとも数が多く貧しい階級に、ひとつの同業者的組織を形成す るものとして自分を見なすよう要求するたろうし、彼ら候補者たちがこの組織の弁護人 となることを中し出るたろう。代表者としての資格がもたらし得る影響力のおかけで、 候補者たちは相続財産をもたない者たちの境遇を改善するために努力するたろう。こう して、われわれは、ギリシアの都市国家で起こっていた事態からそれほどかけ離れてい ないことになる。というのも、議会主義的社会主義者たちは、借金の帳消しゃ十地の分 配をたえす要求し、あらゆる公共的負担を金持ちに押しつけて、大きな財産を没収させ るために陰謀をめぐらせていた扇動政治家たちに、ひどく似かよっているからた。アリ カ とストテレス〔前三八四ー三一三、。フラトンの弟子で師ととに古代ギリシア最大の哲学者〕は言っ 闘た。「群集が主権者となって法律を制定する民主制において、デマゴーグたちは、金持 ちに対する連続的な攻撃をつうして、都市国家をつねに二つの陣営に分割する。「 : 一寡頭政治家たちは、彼らが現在行っているような誓いをやめなくてはならない。なぜな ら、彼らが今日いくつかの国家でやってきた誓いは、つぎのようなのたからた ( 2 ) 「私は人民の宿敵となって、できるかぎりの悪を彼らにもたらすだろう」」。これこそは、 ガルク デモクラシー

10. 暴力論 上

( ルションはこの地方の名称 ) や『フランス文献総合雑誌ミ ev ミを ra b = ogra ・ でこ e 洋ミミミ se ) 』に雑文や報告を掲載している。それらの多くは散逸しているようた が、著述家ソレルの誕生を準備した期間たったと考えられる。 先に見た彼自身の手紙ではまったく述べられていないが、ソレルがすでに技師時代か ら哲学的思索への関心を深めていたことは、彼が土木局在職中の一八八九年に、『聖書 の世俗的研究』と『ソクラテス裁判ーーソクラテスの思想の批判的検討』という最初の 著書をパリの書店から出版していた事実からもあきらかだ ( 本書下巻末「著作一覧」参照 ) 。 したがって、彼の前半生から後半生への移行はそれほど「断絶」的なものではなくて、 一八九一年に国家からレジオン・ドヌール勲章を授かったソレルが、翌一八九二年、第 一級上級技師 ( 現場の技師の最高位 ) に任命された直後に、二五年間奉職した土木局をあ えて退官したとき、彼は作家・思想家としての第二の人生をすでに構想していたと思わ れる。 題もっとも、思想家ソレルの最初期の関心が科学哲学に向けられていたことは、彼のキ ャリアを反映していたのかもしれない。というのも、退職の年にソレルは「原子論の科 解 学的根拠 (Fondements scientifiques de 一・ atomisme)- と「デカルトの物理学 (la Physique de Descartes) 」と題する二つの論文を『キリスト教哲学年報 ( A ミミ s de