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検索対象: 暴力論 上
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1. 暴力論 上

現われる。この暴力は、文明のもっとも重要な利害に奉仕する。それは、おそらく、直 接的で物質的な利益を得るために最適な方法ではないだろうが、世界を野蛮から救い出 すことができるのた。 サンディカリストを愚鈍で粗野な連中と非難する者たちに対して、経済的頽廃に関す る釈明を求める権利がある。その頽廃を彼らが助長しているからである。ギリシア人た ちは、テルモ。ヒレーを守ろうとして、古代社会に文明の光を維持することに貢献したス カ 暴パルタの英雄たちに敬意を表した〔テルモ。ヒレーは古代ギリシアの第三回ベルシア戦争の激戦 地。紀元前四八〇年、スパルタ軍は内通者により全滅し他のギリシア軍は退却した〕。われわれ 一もまた、現代の革命家たちに敬意を表することにしよう。 1 ) 「シスモンディのように、社会の現状の基盤を維持しながら、生産の適正な均衡に回帰す プ ることを望む人びとは反動的である。な・せなら、主張の一貫性を保っために、彼らは過去の時代 章 の産業の、それ以外のあらゆる条件をも復活させようと望ますにはいられないからである。 第〔 : : : 〔現代社会では、産業は個人間の交換を基盤として構築され、そこでは生産の無政府的性格 が多くの貧困と悲惨 ( ミゼール ) の源泉であると同時に、あらゆる進歩の源泉でもある」 ( マルクス 『哲学の貧困』 (Marx. e de でこ s ミ e ) 九〇ー九一ページ ) 。

2. 暴力論 上

解放に関しては、原始キリスト教によってあたえられた形態とはかなり異なる形態をと って構想されていた。つまり、。フロテスタントは、可能なかぎりあらゆる場所で自分た ちを軍事組織化し、カトリック諸国に遠征し、僧侶たちを追放して改革派の信仰を導人 ビスト し、教皇主義者〔カトリック教徒の蔑称〕に対して公告粛清法〔本来は裁判なしで敵を追放でき る古代ローマの法律〕を発布した。その結果、キリストの戦友たちがサタンの攻撃と長期 間戦ったあとで、単なる見物人にすぎなくなるという最後の大破局の発想を、彼らは黙 示録からもはや借用することはなくなった。プロテスタントは旧約聖書の読解をつうし 紙て成長したので、古代の聖地征服者の武勲を模倣しようとした。それゆえ、彼らは攻勢 のに転じて、カによって神の国を打ち立てることを望んた。征服したどの地方でも、カル 、ウアン派はすべてを徹底的に変革して、真に破局的な革命を実現したのである。 アカル、ウアン主義は結局ルネサンスによって打ち負かされたが、そこには中世の伝統か ら借りてきた神学的先人観が充満していた。また、ある時期には、カル、ウアン主義はあ 工 まりにも時代遅れのままたと思われることを恐れたこともあり、同時代の文化に肩を並 論べようとも望んたのたったが、最終的には、単に弛緩したキリスト教になってしまった。 ープル・エグザマン 今日では、一六世紀の宗教改革者たちが自山検証の概念にあたえていた意味に気づく 者はほとんどいない。。 フロテスタントは文献学者たちがあらゆる世俗の文書に適用する カタストロフ

3. 暴力論 上

て実践されるべき労働を先取りしたものだと述べておいた。この主張は、ある種の批評 家たちにひどく誤解されてしまったようだ。彼らは、私が社会主義のための解決策とし て、プロレタリアートの美学教育を提案したと信じて、。フロレタリアートが現代芸術家 の教えを乞うようになるたろうと思いこんだのたった。このことは、私からすれば、奇 妙な逆説というほかはない。なぜなら、今日われわれが持っている芸術は、貴族社会が われわれに残した残滓にすぎす、この残滓は。フルジョワジーによってさらにひどく腐敗 させられてしまったのである。最良の精神の持ち主にしたがうなら、現代芸術が職人 とのいっそう密接な接触をつうして革新されることが、大いに期待されるという。アカ デミック〔官展的〕な芸術は、もっともすぐれた才能たちを食い尽くしたが、職人たちが 数世代をつうしてわれわれに残したものを生み出すことはできなかった。先取りと言っ たとき、私はそのような模倣とはまったく別のものを意図していた。芸術 ( その最良の 代表者が、最良の時代に実践した芸術 ) のなかに、未来の労働者の特性がどのようなも のであるかが察せられる類似をいかにして見出し得るか、そのことを私は示したかった のである。そのうえ、美術の諸流派にプロレタリアートに適した教育を要請することな ど、すこしも考えなかった。たからこそ私は、生産者のモラルを、。フルジョワジーから 伝えられた美学教育ではなくて、労働者が彼らの主人に対して挑む闘いによって発展さ アルテイザン

4. 暴力論 上

は、彼の全学識を用いて、この王朝に備わっていた保守的性格に光を当てた。彼に。 その保守性が非常に強く見えたので、この時期には真の革命が存在しなかったとあえて 書き記し、中世初期の全歴史をローマ帝国の運動を少しばかり加速して継続したものと ( 9 ) 見なした。「メロヴィング朝の統治は、その四分の三以上が、ローマ帝国がガリアにお こなった統治の継続である」と、彼は述べている。 経済的頽廃は、これらの蛮族の王たちのもとで深刻化した。復興が起こったのはすっ と後になってからで、世界が長い一連の試練から抜け出したときのことである。進歩の カ 暴運動が姿を現すためには、蛮族に支配された四世紀の時間が必要たったのである。その 間、社会はその起源に非常に近い状態に下降せざるを得なかったから、ヴィーコ〔一六 の 六八ー一七四四、イタリアの哲学者。主著『新しい学』 ( 一七二五 ) で、人間の感覚的、表象的、理 ワ 性的認識の三周期に対応して人類の歴史を神話の時代、英雄の時代、人間の時代の三時代に分け、 ジ 文明の反復循環を説いた〕はこの現象のうちに、彼の反復説の例証を見出したはすである。 このように、経済的頽廃期に起こった革命は、世界がほとんど原始的な文明の時期を通 過することを強要し、数世紀にわたってあらゆる進歩を停止させてしまうのである。 こうした恐るべき経験は、社会主義の敵対者によって何度も引き合いに出されており、 161

5. 暴力論 上

時代の流れにつれて法が受けてきた変化は、パスカルを激しく驚かせ、いまなお哲学 者たちをひどく困惑させている。というのも、みごとに調整された社会体制が革命によ って破壊され別の体制に取って代わられると、人びとはその体制を以前と同しように完 璧に理にかなったものとみなすので、かっての正義は不正となってしまった。革命の最 フォルス 中には、強制力が正義に奉仕することを立証しようとして、人びとはふんたんに詭弁を 弄したものた。この種の議論が不合理であることは何度も実証されているのに、公衆は それを見捨てる気になれない。それほどまで、公衆は自然法を信しるよう習慣づけられ ているのた , 戦争も含めて、人びとが自然法の領域に持ちこもうと望まなかったものはない。その 結果、戦争とは、悪意の隣人によって無視された権利の回復をある国民が要求する訴訟 であるとみなされてきた。私たちの祖先は、神が戦闘の過程で道理ある側に好意を示す ことで、紛争を解決すると心から認めていた。したがって、敗者は邪悪な訴訟人として 扱われざるを得す、戦争の費用を支払い、勝者が回復された諸権利を平和に享受できる 保障をあたえなくてはならなかったのた。今日では、国際紛争を仲裁裁判所に付託する ことを提案する人びとにこと欠かないが、それは古代の神話の世俗化というべきたろう。 自然法の信奉者たちは、市民間の戦闘に頑固に敵対しているわけはないし、とりわけ、

6. 暴力論 上

( 5 ) 同上書、二六七ページ。 ( 6 ) 同上書、一九九ー二〇〇ページ。 ( 7 ) 同上書、第三巻、四五八ー四五九ページ。 ( 8 ) 同上書、第四巻、二六七ページ。 ( 9 ) 同上書、第五巻、一〇五ー一〇六。ヘージ。 ) ルナン『宗教史の新研究』 (Renan. ~ミ、 velles ミ s d'his 、 oire religiet 、 (e) 〔序文〕七ペー ジ。それ以前に、彼は迫害についてこう述べていた。「人が死ぬのは意見のためであり、確実さ 。信仰に関 のためではない、人が信しることのためであり、知っていることのためではない : するかぎり、その最大のしるしともっと有効な証明は、信仰のために死ぬことである」 ( 『キリ 紙 ォルダ 手 スト教会』三一七ページ ) 。この説は、殉教がある種の神明裁判〔熱湯に手を浸して火傷を負わな の へければ無罪となるような、古代・中世の非合理的裁き〕であることを前提にしている。それはロ ーマ時代の特殊な状況下では、ある程度正しかった ( ・ソレル『ルナンの歴史体系』 ( G. Sore 一 . レ ア S ミ e こ s き r ミミ de R ミミ己三三五ページ ) 。 Ⅱ ) ルナン『イスラエル民族史』第三巻、四九七ページ。 工 ダ 論

7. 暴力論 上

154 マルクスは、歴史的な時代の変化を、民法上の相続にたとえた。新時代は、それ以前 の時代の獲得物を遺産として相続する。経済的頽廃期に革命が起こったとしたら、相続 すべき遣産は、ひどく危険な状態に置かれはしないだろうか ? そして、人びとは経済 発展の再現を目にすることを、はたして期待できるだろうか ? 当代のイデオローグた ちは、この間題にほとんど気を配らない。彼らは、自分たちが国庫の財産を自由に使え るようになれば、哀退が止まるだろうと断一言する。彼らは、自分たちがほしいままに略 奪しうる途方もない富の蓄えに目がくらんでいるのた。そうなれば、どれほど多くの宴 会、娼婦たちを持てることか ! どれほど多くのうぬぼれが満たされることか ! 彼ら とは違いわれわれは、この点に関して、歴史がなんらかの教訓を示すことができないの か、哀退期に実現される革命が何をもたらすのかを推測させることができないたろうか と、歴史自体に間いかけなくてはならない。 トクヴィル〔一八〇五ー五九、フランスの政治思想家、歴史家、作家。アメリカの監獄制度視 察のため一八三一年に現地に派遣され、当時のアメリカ社会を観察して主著『アメリカのデモクラ シー』一八三五ー四〇を執筆した〕の考察は、われわれがこの視点からフランス革命を考察 することを可能にしてくれる。半世紀前に、彼は、大革命がそれまで言われてきたより

8. 暴力論 上

の関心だというわけではない。利害への関心は、自己愛と平板な哲学の幻想によって大 しに助長される。オプテイミズムは、きわめて容易に、革命家的な怒りからもっとも笑 うべき社会平和主義へと移行するのである。 オプテイミストが激昂しやすい気質で、不幸にも、自分が思い描いた理想を実現でき るほどの大きな権力を備えている場合には、この種の人間は自国を最悪の破局へと導き かねない。事実、彼はやがて、社会改革が期待どおりの容易さで実現されはしないこと を認識するたろう。彼は、ことの成り行きを歴史の必然によって説明するかわりに、自 紙分の失敗を同時代の人びとのせいにして、万人の幸福にとって危険な悪意を抱くと彼に のは思える人びとを消してしまいたいという誘惑に駆られる。フランス革命の恐怖時代 〔一七九三年六月のジロンド派排除から翌九四年七月のロベスビエール逮捕までの時期〕に、もっ アとも多くの血を流したのは、自分たちが夢見た黄金時代を同胞に享受させたいというも っとも強烈な願望をもち、人間のさまざまな悲惨に対してもっとも大きな同情心をもっ 工 人びとたった。オプテイミストで、理想主義者で、多感な連中は、普遍的幸福へのより 大きな渇望を抱いていたたけに、い っそう過酷な態度を取ることになった。 ペシミズムは、通常描き出される戯画的表現とはまったく別のもので、世界観という

9. 暴力論 上

160 マ的生活の腐敗になじんでいなかっただけに、なおさら理にかなったものだった。経済 的に見れば、再生には期待がもてた。というのも、当時の世界は、都市による搾取の重 圧のもとで減びようとしていたからである。新たな主人たちは、祖野な農村的習俗の持 ち主たったので、大貴族としてではなくて大領地の地主として生活することになるだろ う。そうすれば、おそらく、土地は以前よりよく耕されるだろう。蛮族の侵人と同時代 のキリスト教著述家たちが抱いたこの種の幻想は、多くの空想社会主義者たちの幻想と 比較することができる。彼らは、自分たちが中流の人びとに付与したもろもろの徳性に よって、近代世界が再生することを期待していたのたった。非常に富裕な階級が新たな 社会層に取って代わることは、道徳と幸福と普遍的繁栄をもたらすはすたった。 蛮族たちは、進歩する社会を創造することが少しもできなかった。彼らは少数者だっ たし、ほとんどどこでも、単にかっての大貴族に取って代わっただけで、貴族と同じ生 活を送り、都市文明に食いつくされてしまった。フランスでは、メロヴィング王朝〔フ ランク王国前半期の支配王朝 ( 五ー八世紀 ) 。クローヴィス一世 ( 四八一即位 ) はキリスト教に改宗し て領十を拡大 ( 四八六 ) 、宮宰シャルル・マルテルがイスラム勢力を破り ( 七三一 l) 、息子の小ペパン がカロリング朝を開いた〕が、とくに深く研究されてきた。フュステル・ド・クーランジ ュ〔一八三〇ー八九、フランスの歴史家、ストラスプール大学教授。主著『古代都市』一八六四〕

10. 暴力論 上

274 この文章は、ソレル自身による唯一の自伝的叙述であるとともに、本書執筆当時、つ まり二〇世紀初頭のフランスでソレルを巻きこんでいた思想的状況をなまなましく描き 出している。本稿では、この手紙でソレルが述べていることがらの事実関係を可能なか ぎり検証しながら、『暴力論』出版にいたる事情に接近してみよう。 生い立ちと技師時代 ンヨルジュ・ソレルの生涯は、二つの時期にはっきりと分けられる。一八四七年の誕 生から四五歳で土木局を辞職する一八九二年までの前半生と、それ以降、技師のキャリ アとは無縁な分野で特異な社会思想家として活動して、七四歳で没する一九二二年まで の後半生である。人びとの記憶にとどめられているのは、もちろん本書『暴力論』をは しめ十数冊の著作をつぎつぎと発表し、フランス国内ばかりか世界の思想界 ( 日本も例 外ではない ) に波紋を投けかけた後半生のほうたが、知られることの少ない前半生がな ければ、その後の人生もなかったのだから、ひとます彼の生い立ちから技師時代に焦占 をあわせてみよう。 1 亠