というこの神話を復活させ、ジョゼフ・ド・メストル〔一七五四ー一八二一、サヴォワ公国 出身の公爵、思想家で反革命の理論家〕に雄弁な言葉を供給した。この種の復古的傾向は、 この時期に生した宗教的復興の多くを説明している。今日カトリシズムがひどく脅かさ れている理由の大半は、戦闘的教会の神話が消減しようとしていることに由来するもの だ。教会系の文学は、この種の神話をお笑いぐさにすることにおおいに貢献したので、 一八七二年には、あるべルギーの作家が悪魔祓いの復権を推奨したほどだった。彼にと ( 2 ) って、悪魔祓いは革命派と闘うための有効な手段と思われたのである。教養あるカトリ ック教徒の多くは、ジョゼフ・ド・メストルの思想が、呪われた知識に精通することを 回避してきた聖職者層の無知を助長するのに力を貸したと知って、うろたえたものたっ た。サタンの神話は、教養ある信者にとっては危険なものと思えるので、彼らはそのこ つけいな側面を強調するが、しつは、そのような神話の歴史的射程を必すしもよく理解 してはいない。現在の世代の温和で、懐疑的で、とりわけ平和的な習慣もまた、サタン 神話の維持に有利なものではないし、カトリック教会の敵対者たちも、かっての迫害的 な体制にもどりたくはないと声高に宣言している。そうなれば、昔の迫害的な力を戦争 のイメージに結びつけることになりかねないからだ。 神話という言葉を用いることで、私は都合のよい掘り出し物を見つけたと思った。な
あれほどの人気をかち得た英雄的神話の哀退から生じている。栄光への信念が減びると、 視野の狭い歴史観が優勢になり、それと同時に、この種の神話が消え去ってゆく。 大衆によって受け人れられた神話が存在しないかぎり、反乱について際限なく語った ところで、どんな革命的運動もひきおこすことはない。 このことはゼネストにきわめて 大きな重要性をもたらすものであり、だからこそ、革命を恐れる社会主義者にとって、 ゼネストはあれほどおそましいものなのた。 , 彼らは、労働者が革命の準備に寄せる信頼 を揺るがせるために全力をあげている。この目的に到達するために、彼らはゼネストの 紙観念を嘲笑しようと努めるが、ゼネストの思想たけが革命の原動力としての価値をもっ ート。ヒアとし ののである。社会主義者たちが用いる主要な手段のひとつは、ゼネストをユ て提示することだが、それは彼らにとってかなり容易なことである。というのも、どん レ ートビア的な要素も含まない、まったく純粋な神話など、これまでめったに存在し たためしがないからた。 工 ートピア思想をほとんど含まない。 ダ 現在の革命的神話は、ユ これらの神話は、決定的 論な闘争に参加する用意のある人民大衆の活動と感情と思想を含むことができるから、事 態の描写ではなくて、自発的意思の表現となる。ところが、ユ ートビアは知的働きの産 物であり、理論家たちの産物である。彼らは、事実を観察し論したあとで、現存する諸
ともできる。 自由主義経済は、思いつくかぎり最良の、ユ ート。ヒアの実例である。これまで、人びと が想像していたのは、もっとも複雑な競争の法則のもとで、すべてが商業的類型に還元さ れるような社会たった。今日では、このような理想社会は、プラトンの社会と同じように 実現困難たということが知られている。それなのに、当代の大物大臣たちは、産業立法 のうちにこの種の商業的自由をいくらかでも導人する努力をしたことを称えられている。 それは、一切の神話から解放されたユ ートビア思想のようなものたが、民主国家フラ ンスの歴史は、ユ 紙 ートビアと神話とのしつに注目すべき組み合わせをわれわれに提供し のている。われわれの最初の憲法〔フランス革命期の一七九一、九三年憲法〕起草者たちに霊感 をあたえた諸理論は、今日ではまったく幻想的なものとみなされている。多くの場合、 ア人びとは長いこと認められてきた価値を、もはやそうした理論にあたえようとは思わな いのたが、その価値とは、立法、司法、行政に関わる者たちが、人民に多少の正義を保 工 障するためには直視しなくてはならない理想の価値である。こうしたもろもろのユー 論ビアに、アンシアン・レジームに対する闘争を代表する神話が混ざり合うことになった。 これらの神話が維持されているかぎり、自由主義的ュ ートビアへの反駁は何の結果も生 ますに、ただその数を増すたけだった。神話がユ ートビア ートビアと混ざり合って、ユ
よって、最良の批判の規則にしたがって打ち立てられた科学的構築とは一致しないこと を明らかにしようと試みたが、その試みは無駄に終わったようた。この種の哲学は彼ら を説得できなかったらしい。どのような論証をつうしても、教会でなされた約東に向け られる信者たちの信仰を揺るがすことはできなかったたろう。そして、この確信が持続 するかぎり、彼らから見れば、神話に疑いを差し挟む余地はあり得なかった。同様に、 哲学者が革命の神話に差し向ける反論も、「一切の積極的な役割 , を放棄し、口先たけ の革命派に甘んじる口実を見つけてはよろこぶ者にしか、感銘をあたえることはできな 紙いたろう。 のゼネストの神話が、その無限性ゆえに多くの賢明な者たちの感情を害していることを、 私は理解している。現在の世界は、昔の人びとの見解に立ち戻って、道徳を公共的な事 ア業の円滑な進行に従属させる傾向が非常に強くなっているが、その結果、徳性がまさし く中庸の位置に置かれることになる。社会主義が、まったく言葉たけで述べられた教義 工 であり続けるかぎり、社会主義を中庸のほうに方向転換させることはきわめて容易であ ダ 論る。けれども、絶対的な革命をともなうゼネストの神話を導人するとき、このような方 向転換は明らかに不可能となる。あなた〔アレヴィ〕は、近代的意識のなかで最良のもの が、無限についての苦悩であることを、私と同しくらいよく知っている。あなたはけっ
〔一八二〇ー一九〇三、イギリスの思想家。ダーウインとは別個に進化論的哲学体系を提案。主著 『総合哲学体系』全一〇巻一八六二ー九六〕は自然界に適用し、そこから諸結果の増加に関す る彼の理論を引き出したのたった。 神話は、現実に働きかける手段として評価されなくてはならない。神話を歴史の過程 に具体的に適用する方法に関する議論はすべて、意味をもたない。重要な意味をもつの は神話の全体性たけである。神話の諸部分は、全体の構成に含まれる観念をくつきりと 浮き彫りにする効果によってたけ、興味深いものとなる。たから、社会戦争の過程で生 キし得る偶発的な出来事や、プロレタリアートに勝利をもたらし得る決定的な闘争に関し イ て論しることは有益ではない。革命家たちが、ゼネストに関して空想的なイメージを思 のい描き、何から何までまちがっていたとしても、それらのイメージが、社会主義のあら ア ゆる願望を完璧に認めたものだとすれば、そして、革命的な思想全体に、それ以外には タ ロもたらし得なかった正確さと厳密さをあたえたとすれば、それらは革命を準備する過程 。フ で、第一級の力強い要素となることができるたろう。 駟ゼネストの観念の射程を理解するためには、したがって、政治屋や社会学者や実用的 学問に通じていると自称する人びとの間に流通しているあらゆる討論方法を放棄しなく てはならない。論敵たちに譲歩して、彼らが立証しようと努めるすべてを認めたとして
スの政治家・エコノミスト、反社会主義の戦闘的論者〕の主張は、したがって、新しい心理学 に関する不完全な認識を根拠としていると、私には思われる。 ルナンは、社会主義者たちがけっしてへこたれないことを知って、ひどく驚かされた。 「挫折した体験のあとから、彼らはいつも努力を再開する。解決策は見つからなかった が、これから見つければよいのだ。解決策が存在しないという思いは、けっして彼らに ( 9 ) はとどかない。それが、彼らの力なのた」。ルナンの説明は表面的である。彼は社会主 義をユー トビア、つまり観察された諸現実と比較し得るものと見なしているから、信頼 が、多くの挫折体験を超えて、いかにして持続するかを少しも理解できない。もっとも、 ュ ート。ヒアの側にも、労働者を革命に導くことができる神話がつねに存在してきた。長 いこと、こうした神話はフランス大革命の伝説に依存してきたが、これらの伝説が揺る がないかぎり、神話もその価値をしゅうぶんに維持するだろう。今日では、ゼネストの 神話が真に労働者のものである運動全体を支配するようになったので、社会主義者たち の信頼は以前よりはるかに大きくなっている。社会主義が準備段階の作業となった以上、 闘争の不成功は社会主義に対する反証とはまったくなり得ない。失敗しても、それは訓 練不足の証拠なのだから。以前より多くの勇気と、辛抱強さと、信頼をもって、ふたた び仕事にとりかかればよいのた。労働の実践が労働者に教えるのは、忍耐強い訓練をつ
して、それを用いれば言葉で読者を欺くことができるような手法を、幸運な掘り出し物 とみなすような連中のひとりではない。だからこそ、あれほど気高い道徳的価値とあれ ほど大きな公正さを社会主義にもたらす神話に、私があれほど大きな評価をあたえたか らといって、あなたはけっして私を非難したりはしないだろう。もし神話があれほど見 事な結果を生まなかったとしたら、多くの人びとが神話の理論をめぐって論争すること もなかったたろう。 ( 1 ) 『近代経済人門』 (). Sorel. 、ミ rod ~ 、ミ ~ 0 洋å c ミ m ミ。 d ミ・ミ ) で、私は神話という語に もっと広い意味をあたえたが、それはここで用いられた狭い意味と密接に結びついている。 ( 2 ) Ⅱ・ビュロー『新時代の精神的危機』 (). Bureau. ト 0 Crise ミ ora 、 e des 、 e ミで s 洋 0 ~ 、・ vea にを一一 ハリ・カトリック学院〔私立大学、現存〕教授である著者は、こうつけ加 えている。「この勧告は、今日では哄笑を引き起こすことしかできない。自称改宗以後のレオ・ タクシルの著作の驚くべき成功を想起するとき、著者の奇妙な定式が、当時は、彼と同宗派の多 くの人びとに受け人れられていたと信しないわけこよ、 冫。し力ない」。 ( 3 ) こうした夢想は、ルナンが彼岸に関して抱いていた不安をしすめることを主要な目的とし ていたと、私には思える ( 『コレスポンダン』一八九二年一〇月一一五日号二一〇、一三四ー一三五 べージのユルスト倪下の論文参照 ) 。 ( 4 ) ルナン『イスラエル民族史』 ( Renan. Histoi1 ・ e d ~ 、ミ一 e d'lsra ミ ) 第四巻、一九一ページ。
218 一八世紀に社会的ュ ートビアを構想した人びとが夢見た変革より、はるかに意義ある変 革たったとは一言えないかもしれないと考えることができる。ーー・現代にごく近いところ では、マツツィーニは、彼の時代の賢人たちが狂った妄想と名づけたものを追い求めて いた。たが、今日では、マツツィーニがいなければ、イタリアはけっして大国にならな かったこと、彼がイタリア統一のために、カヴール〔一八一〇ー六一、イタリアの政治家。 立憲君主制によるイタリア統一運動を進め、共和派のマツツィーニと対立〕や、その一派のあら ゆる政治家たちよりはるかに多くのことをなしたことは、もはや疑いようもない。 したがって、神話が、将来の歴史の地平で現実に出現するよう定められている細かい 事象を含んでいるかどうかを知ることは、あまり重要ではない。神話は占星術の予想で はないのだ。神話に含まれていることが、何ひとっ起こらない事態さえあり得るのであ るーー初期キリスト教徒が待ち望んでいたあの破局の場合のように。日常生活でもわれ われは、現実が、われわれが行動する前にそれについて作り上けていた観念と大きく異 なっていることを確認するのが、通例ではないだろうか ? だからといって、われわれ がさまざまな決定を下しつづけられないわけではない。、 心理学者は、実現された目的と あたえられた目的とは異質なものであると述べている。生活上のもっともささやかな体 験でさえ、われわれにこの法則の存在をきわだたせているが、この法則を、スペンサー
初期キリスト教徒は、キリストの復活を待ち望み、最初の世代が終わって諸聖人の王 国が始まり、異教の世界が全面的に破減することを期待していた。そのような破局は起 こらなかったが、キリスト教思想は黙示録の神話を大いに活用したので、現代のある種 の学者たちは、イエスのあらゆる布教は、ただこの点だけに狙いを定めていたと主張し ルターとカルヴァンがヨーロッパ世界の宗教的高揚に関して抱 たがるほどである。 いた希望は、まったく実現されなかった。ごく短期間で、この宗教改革の教父たちは別 世界の人間として見られることになった。現在の。フロテスタントにとって、教父たちは キ近代よりはむしろ中世に属しており、彼らがもっとも気にかけていた諸間題は、現代の プロテスタンティズムにおいては、ごくわすかな関心しかもたれていない。 この点に関 のして、キリスト教の革新という教父たちの夢から生じた巨大な結果に、異議をとなえる ア フランス革命の発展の真の結果が、その最初の信奉者たちを熱 べきなのだろうか ? ロ狂させた魅惑的な見取り図とは似て似つかないことは容易に確認できる。しかし、こ のような見取り図なしで、革命は勝利することができただろうか ? 神話にはユー 第ア思想が強く混ざり合っているが、それは神話が、想像豊かな文学に胸を焦がし、生活 の知恵を信しきって、過去の経済史にはほとんど通していなかった社会によって形成さ ート。ヒアは実体のないのたったが、フランス革命もまた、 れたからである。こうしたユ
による新たな神話の創造をめざすソレルの思想の中心概念〕と呼ぶことを提案したのたが、そ の実態を知ることは歴史家にとってたいへん重要である。サンディカリストのゼネスト ( 総罷業 ) やマルクスの破局的な革命は、。 とちら神話たが、このような神話の顕著な実 例として、私は原始キリスト教や、宗教改革や、フランス革命や、マツツィーニ派〔イ タリアの革命家でリソルジメント ( イタリア独立統一運動 ) の指導者マツツィーニ ( 一八〇五ー七一 I) の一派〕をあけておいた。イメージが織り成すこの種の体系を、事物を諸要素に分解す るように分析するのではなく、歴史的な力として一体のものとみなすべきであり、とり 紙わけ、成し遂げられた事実を、行動を起こす以前に受け人れられていた見取り図と対比 のするようなことは避ける必要があると、私は主張したかったのた。 おそらくもっときわ立った別の例をあけることもできただろう。カトリック教徒たち レ ア は、もっとも過酷な試練のさなかでもけっして落胆することはなかったが、それは彼ら ヒエラルキ が、教会の歴史を、キリストによって支えられた聖職位階秩序とサタンとのあいだに起 工 こる一連の闘いとして、思い描いていたからである。したがって、どのような新たな困 論難が出現して、それはこの闘いのひとつのエビソードであり、最終的にはカトリシズ ムの勝利に到達すべきものとなる。 一九世紀初頭には、革命派による迫害〔フランス革命による宗教弾圧〕がサタンとの闘争