192 〔終身流刑〕をごく当然と見なしていることである。このこと自体は、われわれを驚かせ はしないはすた。なぜなら、これら二種類の人間は、これまで一度も生産と直接関係を もったことがないので、法のことは何も理解できないのだから。啓発された公衆の間で は、陸軍省の措置に対して非常に大きな反抗が起こったので、国家的理由は ( これら二 種類の人間を別にすれば ) もはや『プチ・ジュルナル』紙の読者しか認めなくなるたろ うと、人びとはしばらくの間、信しることができた。ここから、同紙の読者の精神状態 は、一世紀前に存在していた精神状態によって特徴づけられ、この状態に近いことが見 て取れるたろう。われわれは、残念ながら ( ! ) 国家がドレフュス擁護派の間にも大ポス や熱烈な支持者を持っことを、残酷な体験をつうして見てきたのた。 ドレフュス事件が終結して間もない頃から、共和制擁護政府〔一八九九年、ワルデック Ⅱルソー首相が社会主義者ミルランを人閣 ( 商務相 ) させて組織した政府、反ドレフュス派を統制し 事件の収拾を図った〕は、国家的理由の名において、別の政治的事件に手を染め、ドレフ ュス裁判で参謀本部が積み重ねたのに匹敵するほど嘘の山を築いた。たしかに、今日で は、信頼できる人なら、デルレード、ビュッフェ、リュル日サリュースを有罪判決に陥 わゆるシャプロ れた一大陰謀が警察のでっちあげたったことを疑わない者はいない。い ル要塞の包囲〔一八九九年夏、ドレフュス再審開始の混乱を恐れた政府が極右派の陰謀を捏造し、
248 ゼネストの観念が、ストライキの実践にとりたてて支配されてはいない人びとの間に 取り人れられるには、まだまだ長い時間と多くの苦労が必要たろう。そこで、サンディ カリストの視点の新しさに動揺している、知的で誠実な人びとの間に見られるゼネスト への嫌悪感を説明する理由が何なのかをここで探究することが非常に重要だと、私には 思われる。新学派のすべての支持者たちは、彼らが受けた教育の偏見と闘い、自分たち の思惟に自動的に浮かんでくる観念連想を退け、彼らが教えこまれた方法とは少しも一 致しない方法で議論するには、真剣な努力が必要だったことを知っている。 展過程と。フルジョワ勢力のそれとの間の相違を明確にしたかったというものである。マルクスは、 労働者階級は資本主義的生産の機構そのものによって訓練され、統一され、組織されると述べて オートマティスム いる。そこではおそらく、 C フルジョワ勢力に関してもっと後の箇所で指摘される ) 自動運動〔精 神医学用語では理性の統御が弱まって起こる「自動症、を指す。ジャネ『心理的自動症』参照〕 への歩みとは対立する、自由への歩みが示唆されているのだ ( ・ソレル『マルクス主義批判論』 (). SoreI. Sa を critica del m ミ s ミ 0 ) 四六ー四七。ヘージ ) 。 Ⅲ
しく発揮される。大臣、委員会の委員長や報告者、専門委員たちは、誰がいちばん愚鈍 であるかを競い合っている。 それというのも、商法や社会政策という分野こそが、 経済と結びついているからであり、人びとの精神は、もはや単純な統制手段によっては 指導されないからである。これらの問題に関して真面目な見解を述べるためには、間題 を実践的に体験しておく必要があるが、わが名士たちの場合、まったくそんなことはし ない。通俗科学の代表者は山ほどいるのだ。一九〇五年七月五日、ある著名な梅毒治療 の専門医は、彼が経済学にまったく関心がないのは「憶測にもとづくこの科学へのいく キらかの不信」のせいたと公言した。彼は、おそらく、梅毒性〔硬性〕下疳の診断より、生 産について論しるほうが困難たと言いたかったのだろう。 ス の ア 通俗科学は、途方もない数の詭弁を生み出したが、これらの詭弁は、われわれの周囲 にたえす見つかるものであり、大学が広めている凡庸で愚直な教養をもつ人びとの間で 。フ 驚くべき成功を収めている。この種の詭弁は、形式論理を愛好するあまり、それそれの 駟体系内ですべてを平等化してしまう。その結果、性道徳は契約者間の公正な関係に、家 族法は債権法に、生産は交換に還元されるのである。 ほとんどすべての国であらゆる時代をつうして、国家が貨幣または紙幣の流通を調整
( 7 ) 近代の著述家たちは、教皇庁のある種の指令を文字どおりに受け取って、宗教裁判所が、 当時の習俗に照らして、比較的寛大だったと主張することができた。 ( 8 ) トクヴィル『アンシアン・レジームとフランス革命』 ( Tocqueville. ト、 ~ c 洋 Réをミ e ミ Réき、ミぎ、 ~ ) 一〇〇ページ。 ( 9 ) 同上書、二三五ー二四〇ページ。 ( 間 ) 同上書、二四一ページ。 1 ) フランスの法思想史においては、十地所有権の細分化を大いに考慮に人れる必要がある。 この事実は、独立した生産単位の長を増加させることで、もっと立派な哲学論が知識層の間に 法思想をひろめた以上に、この思想を大衆の間にひろめることに貢献した。 肥 ) サムナー メーン『民衆政府論』 (Sumner Maine. Essais 、 r got 、 vernement で 0 で〒 見 laire) フランス語訳、二〇。ヘージ。 る す カ 暴 」旧来の諸思想が完全に死に絶えたとしたら、奇妙なことになるたろう。ドレフ、ス事 件がわれわれに示したのは、将校や僧侶の圧倒的多数が司法をつねにアンシアン・レジ ームの流儀で考えており、国家的理由〔国法より国益を優先する国策〕にもとづく刑の宣告 191 Ⅲ
り者として非難されている。エルヴェ〔ギュスターヴ、一八七一ー一九四四、フランスの政治 家。反軍国主義を唱える社会主義者から国家主義者、ファシストになった〕の思想と闘うために クレマンソーが発表したあらゆる論説は、もっとも純粋なフランス革命の伝統から着想 を得ており、彼自身がそのことを明言している。「私は大革命のわが父祖たちの、昔な がらの愛国主義にこたわっているし、これからもこたわるたろう」。そして、彼は「内 乱の快感に平然と身をゆたねるために、諸国間の戦争をなくそう」と望む人びとを嘲笑 している ( 『オーロール』一九〇五年五月一二日号 ) 。 かなり長い間、共和派の人びとは、フランスでは階級闘争を否定していた。共和派は 反乱をひどく恐れたので、その事実を直視しようとしなかったのである。彼らは「人権 宣言」の抽象的な視点から、あらゆるものごとを判断し、一七八九年の立法は、法律上 カ とのあらゆる階級的差別を消減させるためにつくられたと述べた。この理由から、共和派 闘は、社会立法の法案には反対していたが、それはその法案がほとんどっねに、階級の概 念を再導人し、自由を行使できない集団を市民の間から区別するからたった。ジョゼ 一フ・レーナック〔一八五六ー一九二一、フランスの作家・政治家、ドレフュス派だった〕は、『マ タン』一八九五年四月一九日号で憂鬱そうにこう書いた。「大革命は階級をなくしたと 四信じていたが、階級はわれわれが一歩あゆむたびに足元から復活しつつある「 : : : 〕。過
290 ス事件の決算に関する論文「教会と国家 (L ・ EgIiseetI ・ Etat) 」で、ソレルは事件の事 実関係にはふれすに、ドレフュスへの支持が彼の無罪を勝ち取るためというよりは、む しろ教権主義、軍国主義と戦うためたったことを強調して、次のように述べた。市民的 フォルス 権利の擁護よりこれら二つの強制力との闘いを重視する彼の態度は、すでに『暴力論』 の思想を予告している。 「現代の社会主義の諸原則をよく知らない数人の著者たちは、ドレフュスが金持ちで あり、金持ちの不幸などに貧者が関心をもつはすがないというご立派な議論を見出した。 : ・〕このような議論は、軍法会議の犠牲者たちがどの程度の同情に値するかを知るこ とが間題たったのなら、いくらか価値があったかもしれないが、間題はそんなことでは なく、軍事的階級の支配との闘いをめざして十分な力を結集するためには、どのような 状況がもっとも有利であるかを知ることたったのである」。 革命的サンディカリズムから『暴力論』へ そろそろ本題に人ろう。本書『暴力論』を、ソレルはどのような状況のもとで執筆し、 出版するにいたったのたろうか。この問題に接近するために、一九世紀末フランスの労
しかし、先ほどの手紙でソレルは彼女を「私の妻 ()a femme) 」と呼んでいるとは いえ、二人は生涯正式の結婚をすることはなかった。その主な理山は、彼らの社会的階 層の格差が大きすぎて、ソレルの両親が結婚による「恐るべき階級離脱 ( horr 三 e dé・ classement) 」 ( アンドルー ) を認めなかったためといわれる。たしかに、無学で貧しい女 性とともに任地に到着したエリート技師は地方のスキャンダルの的となっただろうし、 アンドルーは、ソレルの受けた教育が彼に家族の決定に逆らうことを禁じていたと述べ ている。もっとも、かなり長い間、組合運動家たちの間では、マリーは既婚者で、夫が 離婚を拒否し続けたのでソレルと再婚できなかったと思われていたようだが、アンドル ーがマリ ーの生地トウネー ( ローヌⅡアルプ地方アン県の、スイス・イタリア国境に近 ( 6 ) 小都市 ) で調査した結果、彼女は法的には独身を通していたという。ソレルはトウネ ーに埋葬されたが、二人の墓は離れた場所にある。 2 マルクス主義との出会いからドレフュス事件へ 解 彼の生涯の 生い立ちから技師時代までのソレルの人生は、およそ以上のとおりたが、 , 幻細部に立ち人ることは避けて、思想家への変貌の過程に焦点をあてることにしよう。
112 る技量をもっているかどうかにかかっている。多くの場合、こうした問題に関わる著述 家たちは、ストライキ参加者たちが、自分たちの要求すべきことがらを完全に決定する までにいく日もかかること、そして、闘争の終わりになって、以前の交渉の過程では一 度も問題にならなかった諸要求があらわれることに、驚いている。このことは、当事者 間の論争がなされる際の奇妙な状況について考えれば、たやすく説明される。 私が驚かされるのは、労働者の要求書の作成を引き受けるような、ストライキの職業 的専門家がいないことである。もし専門家がいれば、労働者の代表たちほどたやすく美 辞麗句に惑わされることがないだろうから、それたけいっそう、調停委員会で成功を得 ( 6 ) られるだろう。 すべてが終わったとき、労働者たちは、当初はいかなる譲歩もあり得ないと雇用者が 断言していたことを思い出さすにはいられない。 こうして彼らは、雇用者が無知か嘘っ きだと口々に言い合うようになる。これは、社会平和を大いに発展させられるような結 果ではない , 労働者たちが、雇用者の要求を抵抗なしに受け人れていた間は、彼らは自分たちの主 人の意思が経済的必然によって完全に支配されていると信じていた。ストライキの後で、 労働者たちは、この種の必然が厳密なかたちではまったく存在しないこと、主人の意思
それに、彼はデイドロを俗物と呼んでいる。 ( 間 ) 印哽派は、こうしたニュアンスを絵画で表現できることを示すという大きな功績をあげた が、そのうちの幾人かはまた、結局、すぐに流派の手法によって描くようになったので、彼らの 作品と、彼らがまだめざしていると称する目的との間に破廉恥な対比が生した。 ) トク、ウイル『アメリカのデモクラシー』 (Tocqueville. De ぶミミ ocra e en A ミ 6 ュミ、 e ) 第 ・プレー『フランスの社会改良』第一七章、第四節。 一巻第三章。ル ( 肥 ) 『近代経済学人門』で、私は、これまできわめて混乱していた多くの問題を解明するため に、また、とりわけ。フルードンの非常に重要な学説を正確に評価するために、人びとがいかにこ キ の区別を利用し得るかを示しておいた。 イ ) オーガニュール博士〔一八五五ー一九三一、フランスの医者、政治家。リョン市長、下院 ス議員 ( 急進社会党 ) 、マダガスカル総督、教育相などを歴任〕は、社会主義をドレフュス主義の一 ア変種とみなすような知識人であり、その名声は長く続いた。司法権擁護のための彼の偉大な抗議 タ 行動は、彼をマダガスカル総督就任へと導いた。このことは、美徳が時には報われることを立証 レ ロ している。 四 267
130 れたアジテーションは、議会主義的社会主義者にとってもきわめて役に立つ。彼らは政 府と金持ちのプルジョワジーに対して、自分たちが革命を鎮める術を心得ていると誇る。 こうして、彼らは、自分たちの利害がからむ財政問題を有利に運んで、多くの有力な選 挙民にささやかな恩恵を獲得させることができるし、これらの社会主義者を法制の偉大 な改革者たと思いこんでいる愚か者たちの世論の目に彼らを大きく見せるために、社会 関係の法案を通過させることもできるのだ。こんなことが成功するためには、いっす こしばかり〔社会〕運動が存在して、プルジョワジーに恐怖を抱かせられることが必要で ある。 労働者と資本家との間に経済的紛争が起こるたびに、社会主義政党と国家との間に通 常の外交的駆け引きが成立し得ることはたしかた。二つの権力は、それそれに固有のも めごとを片づけるたろう。ドイツでは、聖職者側が行政側を妨害するたびに、政府は教 会と交渉に人る。ところで、社会主義者たちはしばしば、自分の意思をたいていイギリ スに押しつけることができたあのパーネル〔一八四六ー九一、アイルランドの政治家、アイル ランドの自治実現に尽力した〕を見習うよう勧められてきた。社会主義者とパーネルとの類 ーネルの権威が、彼が動かした選挙の票数ばかりでなく、主として、すべての