筆のコンディションと手入れ 筆をどれくらい「おろす」か 運筆に不安を伴うのは当然のことです。毛筆は柔らかく屈伸し、かっ開き閉じして固 定されない筆記用具ですから、これを思うがままに使いこなそうという方が、そもそも 欲張りなのです。一方の硬筆は鉛筆にしろペンにしろ、紙上に接触すれば直ちに固定さ れ、あとは縦や横にすべらせればいいだけです。ほとんど使いこなしなど、考える必要 がありません。言いかえれば、筆の毛先だけ少しおろして書く方法は、運筆としては安 心ですが、筆記用具としての観念が、まだ硬筆から抜け出すことができていないといえ るのでしよう。筆はなるべくたっふりとおろした方がいし ゝというのは、筆の機能を十分 に生かして書こうということが第一義にありますが、硬筆からの訣別を促したいという ねらいもあるのです。 しかし、実は必ずしもたっふりとおろすことがいし ゝと限ったことではありません。筆
えたものと考えて差し支えなく、篆隷の縦画と 縦筆 2 の 図画 ただし、何よりも重要なことは、長い縦画は 難しいという不安を払拭することにあります。 いくらわかっていても、また力量があっ ても、不安がよぎると手が縮こまり、自由に筆を動かすことができません。これはプレ ッシャーによって精神が圧迫され、運動野が萎縮している状態ですが、ここでも振り子 運動がものをいいます。 たとえば縦画⑧であれば、まずから起筆のポイント o に向かって真下から筆先を運 びます。二、三度筆管を上下に、振り子運動をするのもいいでしよう。その筆運びの流 れで細くすっと下方から上方に線を人れてゆき、横画同様の筆先の折り返しをの流 れで行います。起筆の手続きが済んだら、今度は上方から下方にあらかじめ引いた糸い 線の上を、縦画本来の太い線で書きあげます。下から上にー 弓いた細い線が運筆の基準に 縦筆なって、自信をもって運ぶことができ、かっ起 の筆の折り返しで得た筆毛の弾力が、運筆を軽や 図画 かにすることでしよう。下方から上方への線は
使い込んで、筆先がすり切れがちの筆のほうが、起筆、収筆の形を作りやすいことと思 われます。かって、この起筆、収筆の形の作りかたを考えあぐねて、筆先を切ったり焦 がしたりした人があったことを思い出してくたさい この横画は篆書、隷書に用いられますが、水平であるとともに、直線的に引くことが きわめて重要です。振り子運動によってこれを繰り返す際に、水平感覚を念頭から離さ ず、大脳運動野にこのプログラムをしつかり組み込むつもりで徹底してください。組み 込まれたプログラムは、後のちの筆致にも明瞭に表れます。篆隷 ( 篆書・隷書の略称 ) の感覚ができているいないが問われるにあたっては、この運筆の是非が大きな決め手と なっていきます。 6 ②の横画の練習 ②の長い横画は、隷書だけに現われる特殊なものです。まずから -a を目ざして筆を 打ち込み、で度ほど筆管を右回りに回転させ、筆先を起すようにして O に運びます。 o においては、①で行ったようにさらに筆管を囲度回し、筆先をねじるようにして開き ます。次の送筆も、①と要領を同じくしてを目ざします。そして、に至る直前に三
筆力のためが重要になります。振り子状に動かして起筆に人り、筆毛をしならせ弓が返 この場合、あまり筆毛が柔らかすぎるとうまく返 るように弾力を発揮させてください りませんし、強すぎる場合は鋭く返りすぎることがあります。少し強めで柔らか味も備 えた筆、つまり茶系の強い毛を芯にし、これをやわらかい羊毫で包んだ兼毫からはじめ るのが適当ではないかと思われます。 5 ①の横画の練習 残りは①と②になりましたが、これらは筆法の枠組みとして、③ 5 ⑦とはまったく異 質なものです。①では筆先の方向性をいっさい見せず、方向は水平が厳守され、直線か っ平坦です。しかし、この異質性も振り子運動で書くことで、とても平易に理想にかな った運筆が可能になります。 まずから起筆のポイントであるに人り、そこで一気に囲度ほど筆管を回転させま す。すると筆先は遠心力がついたように、ねじれが生じて広がります。筆先が広がった ら直ちに送筆に人り、筆毛の張りをそのまま持続しながら右方に運びます。まさしくこ れは平行移動ですが、この筆毛の状態を維持するために重要になるのが親指の働きです。 けん・こう
帖」の風格を髣髴とさせます。 まず部首の「匚 , は上下の横画の間隔を極力あけ、しかも起筆を縦画から離してゆと りを持たせています。また二つの短い縦画も、中央よりかなり右に寄せることによって、 左側に空間を広くとります。さらに中央の「コ、も横画の起筆を左の縦画から離し、右 側の転折からの縦部を丸みをつけてふくらませています。これによって字中に空間が大 きく表れ、あたかも丸い玉を抱いているかのように見えます。 図物ー 4 の「過」はその丸みを抱く働きが、三回繰り返されたものです。旁の「咼」 では同じような運筆を二つ重ねますが、常識の形と異な る 上部のかまえを大きくして見る者に驚きを与えます。と 囲みの中の点画を比較的小さくしていることが、空間を広 基広く残すために効果的であり、二つの転折からの縦が、 何丸い玉を囲み込むようにして内側に人っています。さら 4- にこの旁全体をシンニューが大きく包み込みます。これ第 図 によって、字形全体はもとよりのこと、すみすみまで空 間的な張りを明瞭にし、字形の大きさを打ち出している
変わったら、直ちに o で紙面に筆先を下します。ちょうど飛行機が滑走路に降りるよう に、筆先を線の上につとめて滑らかに人れましよう。どんと重圧がかかることなく尖っ て人って、右方に動くにつれて太さを増していきます。さらに行きついたところで筆を 止め、そのまま紙面から離します。運筆の際、筆管を最終的に度程度、時計の針の方 向に、つまり右回りに回すようにしてください。それができると太さの加わりがなめら かで、の収筆が軽く、そして形よくでき上がります。振り子運動のリズムを頭から離 さず、紙が真っ黒になるまで繰り返し練習してください す 2 ⑤の横画の練習 動 ③ができたら次は⑤の横画です。③では滑走路のようにすべり込んで人筆しましたが、 子 ⑤では一たん停止し、起筆をはっきりと自覚します。自ずから起筆は③のようには尖ら 振 ず、 いくらか太さが出ることでしよう。あとの動きは③と同じです。筆先を線の上にし、 そのまま少し太さを加えていって、図 1 ー衵に示す -o と同じ収筆に至ります。③と同じ第 ように筆管を右回りに幾分回すと自然に太さが加わり、収筆も軽く形よくでき上がりま す。
「横画」のいろいろ まず横画から人ります。一口に横画といっても、形態は歴史を経るごとに多様に変化 しています。それらをひととおり列挙してみましよう。 ①は篆書における横画です。起筆、収筆ともに丸く筆先を外に表しません。これは青 銅器に鋳込まれた金文の横画の感覚に発するもので、青銅器に鋳込んたイメージが、そ のまま石に刻する文字造形に持ち込まれたということもできます。しかし、二十世紀に 人って漢代の竹簡、木簡、さらに遡って戦国・秦代の竹簡までが発見されるようになり、 これが刻することによって作られたのではなく、明確な書法意識によって書かれていた す ことが判明しています。 動 ②は隷書のうちの、とくに長い横画を強調する書きかたです。大きな波を打つように 子 書くところから、収筆の形を波磔、あるいは波勢、また簡単に波と呼んでいます。波磔 は一文字に一画だけに限るという原則があります。 ③は起筆に明確な止めをつくらず、流れるように入って収筆だけを止める筆法です。第 これは漢代 ( 紀元前二〇六ー後一三〇 ) の竹簡や木簡に書かれた草書の筆法に現われたもの で、のちに隷書をくずした行押書 ( 行書の原型になるもの。八三頁参照 ) にも見られ、さ
ヨーロッパ文化の中にも、油絵や水彩画を描くための絵筆はあります。しかし、これ らは主に豚毛を材料としていて毛質は硬く、刷毛を絵画用に変形したものといっていし でしよう。端的にいうと、ヨーロツ。ハ文化では柔らかい筆記用具は、根本的に発想外の 存在だったのです。 毛筆の素材 毛筆にはさまざまな動物の毛が用いられています。一般的に最も多く用いられている よ・つ′っ のは、白い山羊の毛です。これが羊毫 ( 「毫」は細い毛のことで、筆の毛は細いのでこ ム・つーも・つ き 1 」 - っ の語を用い、この意味から書することを揮毫といいます ) ですが、世間的には羊毛で通筆 ひつじ っています。しかし、羊毛とはもともとウールをさす語ですから、そのために羊毫を羊 の毛の筆だと勘違いしている人が多くあるようです。羊の細いちぢれた毛では筆ができ るはずがなく、まったくの誤りです。 奈良時代の東大寺写経所では、多数の写経生 ( 経師とよびました ) が職務に従事して章 - っさぎ いました。彼らが用いていた筆は兎毫であったとされます。この兎も、家で飼育するよ うな赤い目の白兎ではなく野兎です。野兎の毛は短いので小筆しか作れませんが、しな と・こ・つ
圧を残しません。あるいは、時に収筆で隷書の波磔のようなはね出しをすることもあり ます。収筆に隷書の場合と同じように、装飾的な意図が働いたものでしよう。 ⑤は③を起源とし、唐代に入って定着した筆法です。③のように起筆は尖りませんが、 筆圧を強く残した跡がない、丸みのある穏やかな書きふりであることから円筆という形 尺ルす黄す洪荒日月 長耒暑 盈良お弓 図 1 ー 14 智永「真書千字文」 65 第 1 則振り子に動かす
た。当初は僻地に人知られず残存していた碑碣や造像記 ( 仏像を作ったことのいわれを 刻したもの ) 探しだったものが、ついには大規模な墳墓の発掘まで行われるようになり、 とくに洛陽を中心として、北魏時代に刻された墓誌の発見は、やがて碑学派という気風 を生み出します。 石刻文字から運筆の解明へ しかし、 いかに優れた拓本であっても、 しよせんは石に刻した文字の輪郭を写しと 書ったものですから、外形があるだけで中身 のはありません。楷書やら行書、草書はまだ んし自 しも、隷書、篆書、さらに金文というと、 匕匕 ー ( し力に筆を機ム月 昜 . ~ その外形を書するため。ま、、 図させたらいいのか、その解明は決してたや すいものではありませんでした。 とくに篆書の丸い起筆と収筆には、誰も