呉昌碩 呉昌碩 ( 一八四四ー一九二七 ) は清代の末期に生まれ、中華民国の初めに八十四歳で人 生の幕を閉じた人で、中国にはもとよりのこと、現代日本の書法活動にも最も大きな影 響を与えている書人の一人です。呉昌碩は篆書でも戦国時代の末に作られたと目される、 則の振り子運動が抵抗なくできるか腕の動きの方向をよく確かめて、練習に打ち込むよ , つにしてく、たさい 欧陽詢の書法は、字形を縦長に作り、縦方向の運筆に徹底したことにおいて、中国書 法の歴史の中でもとくに特徴のあるものです。もっとも、この「史事帖」が欧陽詢の書 であるとされるのは宋代になってからのことで、署名があるわけではなく、欧陽詢の書 としての確証はありません。しかし、世の人はこの明確な特徴を欧陽詢の存在に託し、 書法の典型として概念化していったものなのでしよう。 2 呉昌碩行草書の縦の流れ 192
行立て、流れ、律動感 図ー 2 は呉昌碩が自詠の詩を詩箋に書したものです。とくに書作品としての表現の 意図はなく、筆の動きにまかせて淡々と書き上げられたものですが、大脳運動野や文字 造形にかかわる言語野に内蔵された文字造形能力が随所に発揮されています。この呉昌 碩の書跡と先の欧陽詢「張翰帖」との違いの一つに、呉昌碩があまり行間をとっていな ネル多方確す 図 10 ー 2 呉昌碩「詩稿」 194
石鼓文と称される古い篆書体 ( 小篆に対する大篆 ) を生涯をかけて追求し、また漢代に さかんであった印璽 ( 印は官印と私印。璽は天子の御璽 ) の造形をも究明して篆書、篆 刻の基盤を獲得し、さらにそれらの造形の儀式性から脱却して文人の自由世界を切り開 いた、中国近世書法史上における巨人中の巨人になる人です。 ゆえっ しかも、呉昌碩の芸術はそこに留まるものではありません。呉昌碩は若い時代に兪 こけいせいしゃ が主講を勤める杭州の詁経精舎に学んだ、優れた文人詩人でした。その文人的感性をも って南画に独自の世界を展開し、さらに絵心で書し、また書心で描くことを可能にして、 詩書画の芸術世界の中を存分に生きた人でした。 呉昌碩とて、日常的に書く字は普通の行草書でした。しかし、その書風は伝統的な王中 羲之書風とは異なる、いわば我流の自在奔放なものでした。そして、その筆法には石鼓 画 縦 文によって学び取られた篆書の用法がさかんに生かされていました。生かしたというよ りも、自然に生きてきたといった方が適言なのかもしれません。これは前述したように、 第 くしくも王鐸がめざした書法表現との一致性が多く含まれるものでした。
た際の執筆、下は一九八六年に私が上海のお宅を訪問したときに示された執筆です。当 時はすでに九十歳になっておられましたが、執筆がまったく変っていないことがわかり ます。 ・こちょうぎよう 呉長邦は呉昌碩の孫になる人です。これは一九八七年に杭州の西冷印社での交流の際 に撮った写真で、王个簓の執筆と一致するものです。これによって呉昌碩の執筆も、筆 る 管の中ほどを執り、潘天寿ほどには人差指を立てない柔らかいものであったことが想定 を されます。 置 なお、概して言えば中国人の執筆は作品表現のいかんにかかわらず、誰においてもほ位 ぼ一定のもので、筆管の最頭部を執る人はほとんどありません。 執 の 筆 3 表現に応じて執筆を変える 第 場の条件、作品表現に順じて 執筆が各書家の表現のありかたにいかに結びつくものであるか、さまざまな事例によ
さらに顔真卿は篆書のもつ高い格式を傾注することに 意を注いだわけです。これらを総合して古法復帰精神とす 黼るならば、顔真卿が最も古い書法精神に挑戦したというこ 王とになります。 こま、・後代る 顔真卿の篆書を基盤とする書法精神のありかオ ( 図に大きな影響を与えました。図 8 ー 8 は王鐸の前掲「寄張 法 抱一自詠詩巻」 ( 一三三頁参照 ) 中の一字です。サンズイの 書 で 各点がまさしく直下に打ち込まれ、筆先が画中に封じられ たあと、はね出されています。次の図 8 ー 9 は呉昌碩の行 打 法 の 書に見る筆使いで、ここにも筆先を画中に収める点法が認 占 ~ 点 碩められます。王鐸は清末明初の動乱の中にあって二朝に使 昌 えた高級官僚であり、一方の呉昌碩は清末民初の混沌に巻 呉 き込まれた市井の芸術家という生きかたの違いがありまし第 たが、行草書を書きながらそこに巧みに篆書書法を応用し乃 ていく表現力には共有性が多く認められ、さらにそれが今
第十則縦画に集中ーーー縦画がしつかりしていると、一行に柱が立ち、行間の美が生まれる 欧陽詢の行書に見る縦の流れ 2 呉昌碩行草書の縦の流れ・ 3 「高野切第一種」の縦の流れ : 4 「寸松庵色紙」の縦の流れ・ : ふところ 第十一則懐を広くとるーーーー ~ 子形の雄大さは懐の広さから生まれる : 「大きさがある」とはーー対比と懐のふかさ : 「大きさ」を出すための原則 : 第十一一則姿勢づくりを意図するーーー・平衡感覚を保ち、体を自由に働かせる・ 紙を真下に見る・ 2 左手を効果的に用いる・ す 3 墨を磨る 亠め A 」、が」 っ ~ 208 204 203 225
いことがあります。しかもそれでいて、各行の行立てがしつかりし、狭いながらも行間 が明るく鮮明に表れています。 この呉昌碩のしつかりした行立ても、縦画の方向の安定と貫通力がものをいっていま す。まず一行目では、初めの「金山亭子」の中心がよく通っています。次いで「崘低昻 高」では、左側の縦画が一線上に貫かれています。二行目では中心線のない「躡 . 「礼」 を飛ばして、「春雲」の縦画と「上」の縦画、「方」の点が線上にあり、「佛」の中央の 縦画と「坐」の縦画が一線上にあります。三行目でも「朝觀水月。の左側の縦が一線上 に貫かれ ( 「水」は中心の縦画をあえて左側に移している ) 、さらに「當」の二つの縦画 中 に連なっています。 集 かくして、ただ気儘に筆を動かしたたけのような書跡が、行立てのしつかりしたもの 画 となり、縦の流れ、さらに律動感を生み出しているのです。決して文字の中心を揃える というばかりではなく、縦画をやや左傾きにすることで統一し、中心線のあるときは中 心で、偏旁による文字は偏の左側の縦を、また時には右側の縦を貫くことのよって、縦第 の流れを作り出していることがわかります。
とげたことは中日両国における先駆的な偉業であり、篆書、隷書の書法にも目覚しい表 現活動がありました。運筆はスピード感に溢れ、手首の回転 ( 中国では回腕と、 す ) を滑らかにして、極めて歯切れのいし 鋭くありながら厚みのある線表現を展開し ました。 もりたちくか おかやまこういん 森田竹華は熊谷直子と岡山光陰門の同門の仮名の書家で、小さな文字を書くときも、 筆を執る位置を下げることをしませんでした。これは岡山光陰の厳しい指導でもあった ようです。彼女はまた、必ず肘を上げて書きました。彼女には書は筆に書かせるものと いう強い信念があって、肘を上げると筆をどの方向からも働かせることができ、そのた めの非常に有効な方法になりました。それによって独特の張りと厚みを伴った線質を生 み出し、さらに線の張りから生まれる自由な文字造形を創出しました。 はんてんじゅ 潘天寿は浙江省杭州にあった杭州美術学院 ( 現在の中国美術学院 ) 院長を勤めた中国 画壇の巨匠で、奇逸な画風とともに、独特の書風においても知られました。人差指を高 く突き上げた執筆は、中国人としても非常に厳しいものです。 お - っ力い ・こしょ - っせき また王个簷は上海を拠点として活躍した書画家であり篆刻家で、若い頃から呉昌碩に 人室の弟子として仕えたことで知られます。上は一九六三年、五十七歳のときに来日し かいわん 110