中 す。 では中国ではどんな紙で書を習うのかということになりますが、 図 9 ー 1 の米字格や九宮格と呼ばれる、朱色で枠を印刷した練習 用紙があり、その中に一字一字を収めて書くという学習方法が今 格 字 日まで引き継がれています。米字格と九宮格は共に正方形に区切 りを人れたもので、米字格には中心、九宮格には中宮があり、字 宮 と形を中心部とその周りによって構成するという考えかたは、本質 字的に異なるものではありません。 米 この米字格と九宮格に、試みにそれぞれ「光」字を人れてみる ことにします。米字格では中心から放射する各線に乗せるように 格図 書くと、どこにも片よりなく均衡のとれた点画の配置ができ、九 九 宮格でも中宮の集まりをしつかりし、さらにそれそれの画を周囲 の宮格に欠くところなく配置することによって、均衡のとれた字 形ができ上がります。このように、中国人は平素から四角い枠内 に中心を定め、左右上下に片寄りのない字形を書くことを訓練し 182
名ですが、仮名作品には変体仮名が多用されるわけで、その総字数は少く見積もっても 二百字ほどはあり、なおくずしの度合いによって、字形はさらに変化します。 これに比べて、英語はアルファベット二十六文字を組合わせるだけです。しかも、英 米人はこれらを美しく書くことより正確さと書記の効率化に向かい、印刷活字やタイプ ライターを早くから開発し、その観念が今日の。ハソコン印字に繋がっています。中国大 陸では簡体字が普及して漢字がずいぶん簡便になりましたが、伝統的な漢字 ( 繁体字 ) 風 作 を抹消してしまったのではありません。近年は国際的な販路を予測する書籍は繁体字で 印刷しており、中国大陸でも学者は分野によっては、簡体字と繁体字の両方を身につけ個 筆 なくてはならなくなっています。 運 この漢字文化圏の識字力は、欧米人には魔術のように目に映るようです。とくに欧米 脳 人が驚くのは、二十画もあるような漢字を、中国人にしても日本人にしても、すらすら筆 毛 と書ける人が珍しくないことです。この識字力に結びつく言語野は、読み書きにかかわ る言語野と呼ばれています。漢字の総字数約五万字のうち、中国で通常使用されている序 のが約五千字、日本でも常用漢字だけで一九四五字です。いかに漢字文化圏で生きる人 が、欧米人に比べてこの一一一一口語野を活発に働かせているかが納得されるでしよう。
に出ています。 がんきんれい いま欧陽詢の「九成宮醴泉銘」と顔真卿の「顔勤礼 銘 泉 碑」から「清」字をとり出し、同じスペースに収めてみま 醴 宮 す。どちらが大きく見えるかは一目瞭然のことで、これに 成 九 よっていかに顔真卿の書が同じスペースを用いて、字を大 較きく見せているかが納得されるでしよう。欧陽詢の書は払 欧のいや伸びの長さを美しく見せるために、さらに字間と行間 黼を必要としていよいよ字粒が小さくなり、顔真卿は字中の る し J を広くして払いはあまり長くないので、字間と行間がい 広 を 図りません。 勤 この同しスペースを用いながら、圧倒的に文字を大きく 見せるという、顔真卿書法の効能を百。ハーセント生かした のが明朝活字です。活字を機械的なものとばかり解するの第 は誤りです。とめ、はね、払いなど点画の随所に顔真卿の 蚕頭燕尾は生きています。
日本は国風文化の形成に大きく転じました。それまでひたすらに中国化することによっ て国家形成をしていたものから、中国への気遣いなく、自分たちの好みをためらいなく 前面に表現できるようになったのです。 その伝統は続きました。鎌倉、室町、桃山、江戸と時代が推移していく中で、八百年 にわたって楷書が正式な字体とみなされることが一度もありませんでした。楷書はわず かに中国から伝来された書籍、即ち漢籍のみにおいて見るものでした。 江戸時代に人って寺子屋が普及し、庶民の文字教育が世界的に見ても稀なほどに盛ん になりました。ここでも幕府の公文書書体が、御家流という行草書に少し仮名が混じる くずし字であったことから、初歩的な御家流が教えられました。幕府が掲げる高札のほ か、浄瑠璃の手本 ( 教本 ) や瓦版、看板、歌舞伎字の勘亭流や浮世絵中の文字など身の 周りのあらゆる文字がくずし字で著されました。世の人々にとってはくずし字が普通の 字で、楷書の方が特殊なものだったのです。 行書は書きやすく、入りやすい 明治維新が成った明治五年に学制が制定され、欧米の学校制度を参考にして義務教育
綿している箇所がありません。しかし、各字の上下の連結がしつかりし字間の隙間を感 じさせず、あたかも兵士が整然と行進するかのように連なっています。そしてその結果、 行間がたいへん鮮明に表れています。 こうした各行の文字の連なりについて、文字の中心を揃え垂直に書き連ねれば、自ず から行はまっすぐにでき、流れが出るはずだと考えられがちです。もちろんそれは重要 なことを指していますが、流れという場合は垂直にまっすぐな流れがあれば、曲線によ る流れもあります。つまり、行がまっすぐであることと流れの有無とは、次元を異とす る内容を多く含んでいるのです。この「張翰帖」はその中の、まっすぐな縦の流れを形 成するための、欧陽詢ならではの工夫と、徹底した姿勢を読み取ることができるもので す。 まず、一行目の「張」字を見ますと、偏の最終画は本来斜めに書くべき画です。しか し、運筆の方向をつとめて他の縦画の方向に合わせ、最終の収筆に至るところでやや左 に曲げています。それは「字」「季、の「子」部分の最終画においてもいうことができ、 とくに「鷹」字のマダレの三角目の斜画は、その意図が顕著に現れています。これは二 行目の「属」においても同様のことがいえます。 190
されて仮名ができ、日本語の音の流れに準じて連綿体で記すことが常体化してゆきまし 「高野切第一種」は墨を含んだ潤筆と墨がなくなった渇筆の変化が鮮明であり、潤筆 は太く渇筆は細くなって、墨つぎがはっきりしています。また、連綿といってもそう無 秩序に字を続け書きするのではなく、多くとも四文字程度を限界として、一字一字の大 図 10 ー 3 高野切第一種 197 第 10 則縦画に集中
らんていじよ 「至」は「蘭亭序」の中にあるもので、終画のはね上げは運筆の連続性としては必要の ない箇所です。この癖は王羲之書法に傾倒する人たちにとっては、たまらなくかっこい しよくそじよう いものたったのでしよう。米董の「蜀素帖 ( 蜀の地方で織られた絹に書いていること から付けられた名称 ) 中の「穂」「尽」にも、その運筆が認められます。 字形の最後の収筆をはね上げるのは、運筆にまだまだ余力があって、その筆力のほと 風信帖 集字聖教序 集字聖教序 レを 蜀素帖 集字聖教序 図 5 ー 1 収筆のはね上げ 129 第 5 則紙離れをすばやく
図 9 ー 2 米字格と九宮格の「光」 そ : 失 宮果 も 屋 な っ し ン ム 米 格 っ 根 ら た ン れ 日 の しゝ っ しゝ 字 字 を本原 は、 な を 上 リ を た て や る 各 り 収柱 、形や が使印 こ因 い た イ を偏 が大 、平 い刷は め め メ る な . 血 き 作 を九面 し 米 る 大 大宮的題 と 自 字 る り 理 き な た シ き 各 も 格 で 分 ま と く た や カ し で が イ乍 や す め く ゆ を の り て し ン の で ム こ書 っ枠 ょ 聿 が 九 で ら く 角 宮 押 た 内 き と い あ れ リ っ り 格 枠 り か て し る は に 込逆 と 全 も 利 の と 屋 も ら ま し に 体 離 す練 、根役 む た た し 用 に を 書 た小 さ そ す し 習 あ っ り て、 M. ず な片 相 、用 れ る め さ と あ ち と の 白紙 が寄 を収 り ま の い り 表 も 地 、す そ な ゆ と 人 り が め が窮 れ大 現 の あ る の し、 基 思下 み屈 も き と く り で 盤 し識敷 れ配 ま を の な ま き と を偏 せ 生 は 置 て を な り が き る に は 建四す わ に ん じ っ ゆ 回 で め 朱カ 同物角 け き る て 米 ノ、 占 っ 方 る 色 、た い で 手 字 り 柱 ぼ法す フ 画 か た の 下 た 本 格 が 余 サ敷 と く で め ン つ 片 く 裕 を ス ん安 に イ き カ 寄 見九効 定 っ を ン に ー画と二画の間をゆったりと 第 9 則 183
空海と収筆のはね上げ 図 5 ー 1 の「恵」は、空海が最澄に宛てた書状である「風信帖 ( 書き出しの「風信雲 書」の語から付けられた名称 ) の中の一字です。運筆にスピード感が溢れ、あざやかな 切れ味を感じさせます。これは最後の点を右側に大きく離し、しかも収筆を上方にはね 上げた効果が生み出したものです。 しかし、もしこの最後の点を隠してしまうとどうなるでしようか。すべての点画が、 とり立てて筆勢として特徴のあるものではないことがわかると思います。つまり私たち の目はこの最後の点の筆勢によって、字形全体に筆勢がみちみちていると錯覚している ことになります 王羲之の紙離れ 空海のこのテクニックは偶発的なものではなく、王羲之の書法が巧みに踏まえられて います。その下の「徳」「思」「憑」は王羲之の書作から字を集めて、唐の太宗皇帝の文 しゅ - つじしょ - っキ、よ・つじよ を組み立てた「集字聖教序 , から選出したもので、王羲之には「心」を書くとき、最 後の点を勢いよく打ち、さらに左上方に筆先をはね上げる癖があったことを示します。 128
仮名の連綿 しし収蔵 平安時代から鎌倉時代に至る古い時代に写された歌集や文学作品を古筆とゝ きれ しいます。「高野切」は古来、古筆の王様 や鑑賞の目的で断簡に切ったものを「切」と ) として高い位置づけにある古今和歌集二十巻の写本で、伝承では古今和歌集の撰者であ より 4 のいが、 る紀貫之の筆とされますが、内容は明らかに三人の手になる寄合書であり、その書風に より第一種、第二種、第三種に分類されます。 仮名の美を表す言葉に「し文字長」というものがあります。これは「し」の字を長く 伸ばして書跡を雅に美しく見せるもので、まさしくこれは行の流れの強調以外の何もの でもありません。もともと仮名は漢字の音を用いて日本語を表記するために考案され、 一字一音の原則はありますが、楷書、行書、草書のどれで書いてもよく、各字を離して 表記するものでした。それが速記性と利便性がもつばら優先されて、草書がさらに簡略 3 「高野切第一種」の縦の流れ 196