書法 - みる会図書館


検索対象: 書の十二則
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1. 書の十二則

王羲之の断筆・ 2 仮名への応用・ 第七則筆管を回すと線が伸びるーーー筆管を回すことによって筆毛の働きを助ける 左右の払いにおける筆管の回し 2 転折とはねにおける筆管の回し わよう 3 中国書法と和様の相違・ 第八則「点」の打ちかたで書法がわかる 北朝書法系統の点法・ 2 南朝書法系統の点法・ 顔真卿書法系統の点法・ 第九則一画とニ画の間をゆったりと 米字格と九宮格 2 大きく動き、あとは余力で っ 4 一画と二画を気宇大きく書けると、 あとは余力で筆がスムーズ 「点」は書法の歴史認識と個性の凝縮・ 184 180 149 146 165 177

2. 書の十二則

を派遣することによって、漢字文化の水準を中国と同等のものにまで一気に高めていき ました。日本の国家建設が、漢字文化の水準の向上とともにあったといっても過言では ありません。 さらに日本人は漢字の音を用いて日本語を表記することを工夫し、仮名を発明しまし た。漢字から学んだ漢語と仮名表記による和語を交え、日本語のもっ滑らかさと、漢語 の豊富な語彙量を相互に生かすことによって、日本語の言語としての美しさと表現力を 幅広いものにしていきました。 とくに重要なことは、漢字は日本に伝えられた時点から、これを機能させるだけでな いかに書するかという書法理念を伴っていたことです。『古事記』に、王仁が来朝 したとき『論語』と「千字文」を献上したとあります。『論語』とは経書、つまり学問 のための教科書であり、「千字文」とは書法の手本であると解され、記述の信憑性はと もかくとして、漢字が機能と書法とに両立されるべきものであるとの考え方がここに表 れています。 日本人は漢字に対し、この書法の面にも大変熱心にとりくみました。しかも、外国の 文字を自国の文字にみごとに転化させた応用力は、書法においても発揮されました。中 226

3. 書の十二則

向に運筆して、はねの位置に至ります。さらに断筆し、今度は右回りに起筆を人れ直し てはね出します。この起筆は縦画の左輪郭上に乗せるのがよく、運筆は左払いのとき同 様に、腹から押し上げるようにしてそのまま離します。 以上のように、運筆には常に筆管の右回り、左回りの回転が微妙にかかわっています。 これをなめらかにするためには、これまで述べてきたように筆管を指先で浅く執ること が不可欠の条件になりますから、いま一度自己の執筆の形を詳細にチェックしてくださ 3 中国書法と和様の相違 平安時代中期、仮名書法が形成されていくに伴い、それまで専ら中国書法でも、とく に王羲之書法に準拠することにつとめられていた漢字書法も、柔らかな日本独特の書風 わよう に改められていきました。これを和様と呼んでいます。ただし、当時からそのような名 称があったわけではなく、江戸時代に人って儒者の間で中国風の書法がさかんになり、 わよう もつは 162

4. 書の十二則

から手の甲、さらに腕を結ぶ線上にあり 執ます。このように中国書法と和様との執 様筆法が異なるため、漢字書家は仮名を草 和 書のつもりで何とかこなしますが、仮名 書家は中国書法を書けないという現象を 図 生じています。 中国書法と和様の最も大きな違いは、中国書法は手首を回し ( 回腕 ) 、筆管も回しま すが指は固定して屈伸させないのに対し、和様は指の動きを自由に用いることです。こ しようれんいん えんれい れによって和様独特の円やかで婉麗な運筆が完成度を高め、さらに青蓮院流、御家流な どの書流の展開を繰り広げていくのです。 いを・ー・直第 164

5. 書の十二則

あるが書法の基盤は隷書にあり、さらに北魏時代に盛んであっ た楷書の書法もさかんに応用されています。 筆 起趙之謙の書法は起筆に重点があり、収筆は軽く右下に抜く場 合が多く、隷書の波磔においても運筆の動きを止めず、勢いよ く伸びやかに抜き出します。図 5 ー 4 は北魏の代表的な楷書作 ちょ - つも - つりようひ である「張猛龍碑」からとったものです。起筆を大きく作り、 収筆にはほとんど力を残しません。これによって趙之謙の書法 が、北魏の楷書に強く感化されたものであることがよく理解で きることと田います。 す を れ 離 紙 第 図 5 ー 5 趙之謙「邵芥山憶 西湖詩」四屏の一幅 ( 観峰館蔵 )

6. 書の十二則

虞世南の書法も、左収右放の唐代書法を反映するものである 過ことは、欧陽詢とよく共通しています。しかし、その作風にお いては角ばった欧陽詢に対して虞世南には丸みがあり、これを の・つ 46 - っ 過筆欧 ( 欧陽詢の書法 ) の背勢にたいする虞法 ( 虞世南の書法 ) の 向勢、あるいは欧法の方勢に対する虞法の円勢などの表現で対必 昭 ~ します % 一見したところ同じように三角形の形状に書かれた虞世南の法 「点」ですが、筆法は欧陽詢とは大変異なります。それは筆先が画の下部を通ることで す。このためには通常よりも肘の位置をやや高くし、手首の起しを幾分なだらかにして、ち 筆管が垂直よりもさらに頂部が前方に傾くような角度が必要になります。これは第一 則・横画⑤ ( 六〇頁参照 ) に準ずる筆法と連関し、魏の鍾緜から始まり東晋の王羲之に通 ずる、南朝において形成されたものです。以後、南朝系統の書法はことごとくこれによ則 り、とくに王羲之書法に系統を置く人の書はこの「点」の運筆で通じていて、点の運筆第 を見るだけで王羲之系統の書であるかどうかを識別できるほどです。

7. 書の十二則

きているように、北朝に偏って存在してきたもので、南朝 のの地にはほとんど存しません。隷書の筆癖が北魏の書法に 二一一口 像残存し、北朝出身の楊氏が隋朝を打ち立てることによって、 汗北朝書法に南朝書法が融合されかっ洗練が加わり、さらに 賀それを欧陽詢が受け継いだことになります。欧陽詢は湖南 省長沙の出身で本来的には南朝の血を引く人でしたが、書 図 法においては北朝の風を好み、これによって左収右放 ( 字 形の左側の伸びを抑え、右側を十分に伸ばす ) の唐代書法を確立していったものです。 ぼうげんけんひ 欧陽詢には隷書の筆法を明瞭にした「房玄謙碑」があり、欧陽通の「道因法師碑」が楷 書でありながらさかんに波磔で飾られているのも、それを表しています。 2 南朝書法系統の点法 虞世南の「点」 170

8. 書の十二則

第八則「点」の打ちかたで書法がわかる 「点」は書法の歴史認識と個性の凝縮第 狼 ( イタチ ) 筆 ( 柳葉筆 ) 超長蜂羊 ( 山羊 ) 毛筆

9. 書の十二則

ひね りにすばやく捻ることによって表現されます。筆先が 過左上に来るように筆毛を垂直に落下し、それと同時に 、の筆管を捻って、一瞬のうちにこの形を作るのです。欧 、↓筆法や虞法のように丹精に筆を使わず、ずいぶんと大胆 の一 〇身で大まかな筆使いであるともいえるでしよう。 先一 さんとうえんび 筆管の捻り図顔真卿の書法は、「蚕頭燕尾」の形容で最もよく知ら れます。横画の起筆、収筆が丸く、それがあたかも蚕 のようであること、また右払いやはねが燕の尾羽根のように二つに裂けているかに見え ることからこの形容があります。とくに蚕頭の形による横画は、第一則には挙げていな い顔真卿独得のものです。 古法復帰精神 この顔法 ( 顔真卿の書法 ) の横画は、篆書書法への復帰をめざした結果とするのが、 ごく標準的な解釈です。唐代は楷書にさまざまな風格が生まれ完成されましたが、この 中で欧陽詢は隷書書法を基盤とすることに理想を掲げ、虞世南は王羲之をひたすらに思 174

10. 書の十二則

を再現することに腐心し、かっそれに強い自負を抱いた人ですが、その王羲之書法の精 彩の大きな要因として、このパネの放ち出しの連動があります。 こん′」 - つはんにやきょ - つかいだ 図 4 ー 5 の空海書「金剛般若経解題」は空海 ( 七七八ー八三五 ) の般若経講義の下書き であったと考えられているもので、練達の行草書はまばゆいばかりの精彩を放っていま すが、この精彩も米董において見た、パネの放ち出しのあざやかな連動によって生み出 されています。空海もまた王羲之書法を中国の一流の書人に勝るとも劣らぬ程に身につ けていました。唐朝に留学してその書法を存分に修 得したばかりでなく、かって東大寺正倉院には厖大 と - つもばん 捌な量の王羲之書法の搨模本 ( 精巧な透かし写し ) が収 基蔵されており、それが嵯峨天皇の弘仁年間に出蔵さ れて、嵯峨天皇から篤い信任を受けていた空海は、 それらを目にする機会に恵まれていたことでしよう。 4 図 いま一つ、図 4 ー 6 は清代後期の何紹基 ( 一七九九 ー一八七三 ) の書作からとり出したものです。何紹基 は王羲之系統の書にはあまり関心を示さず、篆書や 122