3 収筆の技法 起筆と収筆のインパクト 起筆・収筆の書造形上の効果をさらに積極的に考えて、書表現の技法を個性の形成と して取りくむ人も現れました。もともと文字は記録と伝達のほかに精神性を伝える特質 を多分に有していましたから、碑文など人の目を引きつけるべき目的性をもった文字に や は、日常的とは違う奇異な作風を創作して刻することがありました。 す てんはっしんしん 4 一 その中でもとりわけ奇異として知られるのが、三国時代の呉で刻された「天発神讖れ 碑、 ( 三九頁、図 0 ー参照 ) です。これは前述のとおり清代に人って碑学派に属する書人紙 たちに大きな影響を与えましたが、その技法を詳しく見ていくと、奇異さの理由が書体 第 は篆書でありながら、筆法が隷書によっている、書法の混用にあることがわかってきま す。つまり篆書は丸い起筆で始まり丸い収筆で終る平坦なものですが、これに隷書の起 筆と収筆を、しかもたいへん大げさに加えているのです。人の目は、篆書には篆書のイ
でも、このように堅実でゆるぎない執筆をもってする態度には、ひたすらに頭が下がり ます。 高い位置 やすだこうぞう ではこれとは対照的な、高い位置の執筆について見ていきます。保田孝三は篆刻を専 門とし、篆書を書することをもよくしました。しかし、その篆書表現は青山杉雨と異っ て、一画一画をさほど厳密にせず、追求というよりは自由な遊び心を優先したものでしを た。堅実さよりは意外性を楽しみ、篆書、篆刻の伝統的な拘束から抜け出すことに表現 の目的がありました。彼にとって高い位置の執筆は、その拘束からの開放を意味するも のだったのでしよう。 きんせきか りようせつ 今井凌雪は清代後期の何紹基の書家としての表現性を反映し、中国では金石家 ( 金筆 属や石に刻み込まれた文字に詳しく、その学識と趣味によって書する人 ) として位置づ けられています。彼は執筆の位置の高さはもとより、姿勢を起し、肘までも肩ほどに高第 く掲げています。これは紙面から視線や手の運びをなるべく遠く保とうとするもので、 そこから大陸的な気宇の広がりを生み出すことが目ざされています。
訟っ申ー が頭をかかえました。筆先は尖っているものですから、筆を紙上におろすと筆先が出て あふ しまい邪魔でなりません。ついには筆先を切って棒状にするとか、火に焙って筆先をこ がし取るという人が現れました。しかし、そんなごまかしでは、書法の本質を得られる そうめん はずがありません。あるいは、細く書けばそんな問題は出ないだろうと、素麺のような 細い線で書く人までがありました。 と - っせきじよ この問題を大きく突破したのは鄧石如でした。彼は例えば篆書の横画はまず右方から風 作 筆先を人れ、次に筆先を中心に筆毛をぐっと右回りに度回転させることによって丸い 性 個 起筆を作り、さらにそこで生まれた筆毛のしなりを生かして右方に水平に運筆します。 収筆ではまた右回転して筆先を左方に戻し、これによって丸い形を作ります。かくして筆 篆書の横画は形ができるとともに、生命感 脳 筆 運という中身が注ぎ込まれたわけです。画の 毛 形状を筆の動きによって作り出す鄧石如の 石 鄧工夫は、形骸ばかりに囚われていたそれま序 での観念を一新するものになりました。 図人々は篆書、隷書を力強く生きいきと書く とら
石鼓文と称される古い篆書体 ( 小篆に対する大篆 ) を生涯をかけて追求し、また漢代に さかんであった印璽 ( 印は官印と私印。璽は天子の御璽 ) の造形をも究明して篆書、篆 刻の基盤を獲得し、さらにそれらの造形の儀式性から脱却して文人の自由世界を切り開 いた、中国近世書法史上における巨人中の巨人になる人です。 ゆえっ しかも、呉昌碩の芸術はそこに留まるものではありません。呉昌碩は若い時代に兪 こけいせいしゃ が主講を勤める杭州の詁経精舎に学んだ、優れた文人詩人でした。その文人的感性をも って南画に独自の世界を展開し、さらに絵心で書し、また書心で描くことを可能にして、 詩書画の芸術世界の中を存分に生きた人でした。 呉昌碩とて、日常的に書く字は普通の行草書でした。しかし、その書風は伝統的な王中 羲之書風とは異なる、いわば我流の自在奔放なものでした。そして、その筆法には石鼓 画 縦 文によって学び取られた篆書の用法がさかんに生かされていました。生かしたというよ りも、自然に生きてきたといった方が適言なのかもしれません。これは前述したように、 第 くしくも王鐸がめざした書法表現との一致性が多く含まれるものでした。
さらに顔真卿は篆書のもつ高い格式を傾注することに 意を注いだわけです。これらを総合して古法復帰精神とす 黼るならば、顔真卿が最も古い書法精神に挑戦したというこ 王とになります。 こま、・後代る 顔真卿の篆書を基盤とする書法精神のありかオ ( 図に大きな影響を与えました。図 8 ー 8 は王鐸の前掲「寄張 法 抱一自詠詩巻」 ( 一三三頁参照 ) 中の一字です。サンズイの 書 で 各点がまさしく直下に打ち込まれ、筆先が画中に封じられ たあと、はね出されています。次の図 8 ー 9 は呉昌碩の行 打 法 の 書に見る筆使いで、ここにも筆先を画中に収める点法が認 占 ~ 点 碩められます。王鐸は清末明初の動乱の中にあって二朝に使 昌 えた高級官僚であり、一方の呉昌碩は清末民初の混沌に巻 呉 き込まれた市井の芸術家という生きかたの違いがありまし第 たが、行草書を書きながらそこに巧みに篆書書法を応用し乃 ていく表現力には共有性が多く認められ、さらにそれが今
た。当初は僻地に人知られず残存していた碑碣や造像記 ( 仏像を作ったことのいわれを 刻したもの ) 探しだったものが、ついには大規模な墳墓の発掘まで行われるようになり、 とくに洛陽を中心として、北魏時代に刻された墓誌の発見は、やがて碑学派という気風 を生み出します。 石刻文字から運筆の解明へ しかし、 いかに優れた拓本であっても、 しよせんは石に刻した文字の輪郭を写しと 書ったものですから、外形があるだけで中身 のはありません。楷書やら行書、草書はまだ んし自 しも、隷書、篆書、さらに金文というと、 匕匕 ー ( し力に筆を機ム月 昜 . ~ その外形を書するため。ま、、 図させたらいいのか、その解明は決してたや すいものではありませんでした。 とくに篆書の丸い起筆と収筆には、誰も
使い込んで、筆先がすり切れがちの筆のほうが、起筆、収筆の形を作りやすいことと思 われます。かって、この起筆、収筆の形の作りかたを考えあぐねて、筆先を切ったり焦 がしたりした人があったことを思い出してくたさい この横画は篆書、隷書に用いられますが、水平であるとともに、直線的に引くことが きわめて重要です。振り子運動によってこれを繰り返す際に、水平感覚を念頭から離さ ず、大脳運動野にこのプログラムをしつかり組み込むつもりで徹底してください。組み 込まれたプログラムは、後のちの筆致にも明瞭に表れます。篆隷 ( 篆書・隷書の略称 ) の感覚ができているいないが問われるにあたっては、この運筆の是非が大きな決め手と なっていきます。 6 ②の横画の練習 ②の長い横画は、隷書だけに現われる特殊なものです。まずから -a を目ざして筆を 打ち込み、で度ほど筆管を右回りに回転させ、筆先を起すようにして O に運びます。 o においては、①で行ったようにさらに筆管を囲度回し、筆先をねじるようにして開き ます。次の送筆も、①と要領を同じくしてを目ざします。そして、に至る直前に三
メージが形成されており、隷書にもまた同様のことがいえます。ところが混用となると 見置れていないため、非常に奇異なものとして目に映るのでしよう。それだけ起筆と収 筆は、人の目にイン。ハクトが強いということも意味しています。前掲の趙之謙は篆書に さかんに隷書の筆法を持ち込んでいますが、これも「天発神讖碑」による影響とみなす ことができるでしょ一つ。 起筆・収筆は書く人の志向と個性に直結 さんぼうしひ しんそうしよく 図 5 ー 6 は清末から中華民国初期の沈曽植が、東晋の「爨宝子碑、を臨書したもので たいきよう す。「爨宝子碑」は東晋の太亨四年 ( 四〇五 ) に雲南省に建立されたもので、隷書、楷書、 行書の書法がミックスされており、飄々とした古朴な作風は書法の歴史において特異な 存在として位置づけられているものです。ここにおいても究極の特異生は起筆、収筆に 求められますが、沈曽植はよくその特徴を把握し、しかも原作の石刻の硬さから脱して、 運筆としてなめらかで自然なものに作り直しています。 ついれん 図 5 ー 7 は清末の徐三庚の楷書による対聯です。徐三庚というと誰もが「天発神讖 碑」に影響を受けた、切り立つような鋭角的な篆書を想起しますが、彼は北魏体を踏ま 138
鄧石如の書法を、逆人平出の用法と形容し、漢人の再来と称えました。 運筆の解明から、さらに自己の個性や作風へ とりわけ碑碣の文字の外形を筆意で捉えることに熱狂させたのは、三国時代の呉 ( 二 てんばっしんしんひ 三ー二八〇 ) に刻された天発神讖碑でした。これは篆書ではあるが隷書の要素が多分に 加わり、霊気をただよわせた奇怪な字でした。多くの書家がこれの運筆の再現にいどみ、 にしかわしゅんとう じよさんこ・つ 清の金農、徐三庚らは自身の作品にもその影響を鮮明にし、日本でも西川春洞は同碑 の研鑽によって新風を打ち立てました。 ちょうゆうしょ・つちょ - っしけん 北魏の楷書から新たな書法を導き出したのは、清末の張裕釗と趙之謙で、二人は碑学 派の両雄でした。張裕釗は北魏の楷書の峻厳さに唐碑のもっ安定感を共存させ、そこに 鄧石如が切り開いた篆書の筆法を投人して、清澄で雄大な楷書の作風を打ち立てました。 一方の趙之謙は、隷書の筆法を楷書の中にことさらに用いることで、北魏の風格をさら に熱気に溢れ、肉感旺盛なものにしました。 この鄧石如や金農、徐三庚、また張裕釗、趙之謙らが拓本に表れた字形からその中に 隠されている運筆を探り、さらに自己の個性や作風に結びつけていった態度は、きわめ きんのう たた
えた楷書にも意欲的でした。刃物で切ったかのような鋭い点画は篆書や篆刻で示す彼な らではの表現力と共通しますが、丸い筆によってあえて鋭利な方筆を作り出しているこ とは、その起筆、収筆の文字造形における効用に対する執着でもあります。 以上のように、起筆、収筆は歴代の書人の志向と個性に直結するものであり、腕の見 せどころでした。どのように筆を人れ、抜いているか、これは書作の重要な観点でもあ ります。 0 図 5 ー 6 沈曽植「爨宝子碑」 ( 観峰館蔵 ) 139 第 5 則紙離れをすばやく