第 2 部学童保育の問題点 小学校時代を思い返せば分かるのですが女子でもバリバリの体育会系はやはり強いです。あと女子の体 はデカいです。男子は 5 ' 6 年生でもチビな奴はチビです。彼らは一応上の学年を畏れたり敬ったりし ますが、「 6 年生がいると楽しめない」とかすぐ文句を言います。さて、施設長からゲームを運営する うえで変化を持たせるためのテクニックとして「男女別対抗戦をする」とか「 6 年生は左手で投げると いう縛りを付ける ( 実力者にハンデを付ける ) 」とかいうやり方もあるよとアドバイスされましたが、 どうでもいいと思いました。ドッジボールのゲームルールに変化をつけさせることに全く興味がありま せん。体格差、実力差による理不尽もまた学びでしよう。 4 、 5 年生くらいの男子だと ( 女子でもいる のですが ) 、特に強キャラなやつが仲間に渡ったすべてのボールに対して「寄こせ寄こせ ! 」と要求し、 低学年の子や性格がおとなしめな子からしたら恐怖以外の何ものでもありません。人はここまで自己中 心的になれるのかと驚きます。こういう子供をアスペルガーないしは発達障害というのでしよう ( 「心 の理論」を獲得していない ) 。しかしこれが 6 年生になると余裕をもってボールを譲ったりするので、 子供たちの成長というのは改めてすごいなと感じます。 校庭は、体育倉庫の中のいろんなものをつかって自由に遊ぶのを見守る仕事です。これが最も厄介と いっていいでしよう。というのも、この学童保育においてもっとも重要なのが「ケガをさせないこと」 だからです。例えばジャングルジムやサッカーゴールなどは絶対的な見張りポイントです。ここから一 瞬でも職員の目が離れることは許されません。そして同時に、校庭を広く俯瞰することが求められます ( それができていないと注意されます ) 。ケンカは即刻止めなければなりません。もちろん子どもにケ ガをさせたくないのは僕としても人間的な感情として当たり前なのですが、昨今の学校教育の最も大き な問題が潜んでいるのがここでしよう。学校で、登校してから下校するまでの間に、何かケガなどしょ うものなら責任が問われるからです。子どもに限らず、そこに人間がいるならばケガというのはある程 度避けられないものでしよう。ましてや勝手に走り回ったり、危険を冒すことが本能に組み込まれてい 0 2
第 2 部学童保育の問題点 0 第 2 部学童保育の問題点 学童保育というのは「主に日中保護者が家庭にいない小学生児童 ( Ⅱ学童 ) に対して、授業の終了後 に適切な遊びや生活の場を与えて、児童の健全な育成を図る保育事業の通称」です (Wikipedia)0 東京 都 ( 区 ) ではたいてい、区から依頼を受けた社団法人が運営しています。今でこそ学童保育というも のは普通に知られていますが、僕は子ども時代に自分自身が経験したことがなく、存在も知りませんで した。その存在を知ったのはここ数年という記憶があります。要は「夜まで働いている親の代わりに、 放課後に子供の面倒を見てくれるもの」という認識です。これを利用するには、保護者は月額 円程度を払う必要があります。もっとも遅い時間である四時までの利用だと、円程度になりま す。これが民間の学童保育だと、学習サービスが組み込まれたりして高額なものもあります。 僕は冒頭で「サロン的なもの」に興味があると書きました。「居場所づくりがしたい」と言ってもい いかもしれません。それはつまり、子供たちがわらわらと集まって、各自がそれぞれのやりたいことが 一人黙々と読書 できる空間。校庭でサッカーをしてもいいし、集まってカードゲームに興じてもいし コミュニケーションをとることが目的であれば、人生の回り道をした僕が世の中の現実 をしてもいい。 を知らしめる「ちょっと、 しい話」をする。勉強でわからないところがあれば教えてやる。それは理想的 な空間だと思ったのです。そんな空間に携わって、かっ給与としてお金ももらえるというのであれば言 うことはない。そして、小学校の施設を使うとはいえ、公教育の現場とは少し離れたものだから規制も ゆるいのではないかという思惑がありました。しかし、現実はそんなに甘いものじゃないということが 思い知らされます。 8
第 3 部個別指導塾の問題点 して扱い始めると本質が忘れ去られておかしなことになる。病院で患者を「〇〇様」と呼ぶように変え たら、クレームが増えて現場が崩壊してしまった。もし「金を払っているんだから理解させてみろ」と いう態度の子供がいたら、そこに学びが成立するはずがありません。 「教育」「学習」なんてものは本来、最低限のテキストやノート、筆記用具さえあればほとんどお金 のかからないものです ( 専門教育は逆にテキストにお金がかかります。勉強は贅沢だからです ) 。そし て「無駄が多く」「効率が悪く」「時間がかかる」ものです。教育者は、自発的に学習をする生徒の手助 けでしかない、というのが本来あるべき姿です。となれば、本当に意識の高い大人が目の届く範囲で教 育を施す、というのが現実的なほぼ限界だと思います。よほど信頼できる相棒や部下がいれば、第二の 教室を任せるということも出来るかもしれません。しかし全国展開というのはあまりにも無謀すぎる。 そもそも一コマ受講するたびに料金が加算していくということ自体がおかしい。もちろんそれが普通 3 の学習塾だということは分かります。しかし学習は本来、自発的なもので、特にわからない部分があれ ばそれに対して解説してくれる大人が周りにいればそれでいいのではないでしようか。その点において、 学童保育のような環境は理想的です。だから月額のシステムでいいのではないかと思います。ただしそ の受け入れ数や売上には限界があるでしよう。だからもしそのような環境があるならば、誰も彼も人塾 させるのではなく、学ぶ意識のある人だけが入ってくる、規模の小さなものが考えられます。 個別指導塾だけでなく子供のこともずいぶん悪く書いてしまいましたが、前述したような学力的にも 人間的にも救いようのない子供はもちろん一部で、真面目に塾にやってきて勉強に向き合っている子も たくさんいます。そういう子たちにもっと教えるべきことがあるんじゃないか。将来について、勉強と の向き合い方について、世界の多様さについて。基礎が抜け落ちているのなら、いったん目の前の定期
第 8 部やりたいこと 関国立大や、早慶などとの併願で受験する生徒が多いようです。世界大学ランキングに名前を連ねる日 も近いのではないでしようか。この著書の中に、「 (Akita lnternational UniversitY) は現代の 松下村塾である」とはっきり書いてある。これにはヤラレタと思いました。大学という公的な教育機関 でここまで思い切った構想を実現するのは本当に素晴らしいと思います。そしてここの学生は日々のハ ードルの高さから、その半分が留年してしまうほど徹底的に鍛えられている。これは日本の大学の中で も、特異なものでしよう。 詳細は本書にあたっていただくとして、僕もこれを見習って幻時間・ 365 日の発想がここから来て います。ただし、小中学生が深夜までいるとなったらさすがに何か良くないことが起こるでしようね。 ですから、塾生は基本的には幻時か時というような門限を設けるかもしれません。その辺は臨機応 変にいきます。 ・第三の居場所として 世の中には学童保育というものもありますし、それももちろん有料です。あるいは共働きの家庭では、 たとえ教育効果を期待していなくても、やむなく学童保育替わりに塾を利用しているというような現状 もあるようです。そのような需要にも応えられるのではないかと考えています。それも時や四時ま でしか居られないとかいうチャチなものではありません。何しろ幻時間対応しているのですから。門限 は利用者次第です。ただし、遅くなったから見送りとかはありません。基本的には自己責任で、各自ま たは家庭が門限を定めればよいのです。たまになら泊まるのもありです。 フリースクール、オルタナテイプスクールとして使っていただくのも構わないです。不登校でも引き こもりでも。それは、家でも学校でもない、第三の場所としての側面もあるからです。ちなみに僕 4 8
第 2 部学童保育の問題点 子供には、大人から見てレベルが低いものが良いものだと信じきっている。ここに傲慢があります。要 は何も考えていないのです。大人が良いと思うものが子供に分かるわけがないと、まるで子供のような ピュアな心でそう思っている。これが教育現場の問題の多くに関わっていると思います。普通に考えて、 大人が見ても面白いと思うものを、自信を持って子供に与えるべきなのではないでしようか。大人がそ れだけの自信が持てていないのです。こういう大人に教育をされた子供は、本当にかわいそうです。 このような経験の中で、ここには公益性も生産性も社会的価値も何もないと判断しました。そこには ただ、理想主義的な間違った教育思想に酔っている大人がいるだけでした。そして子供たちに学力を向 上させよう、人間的に成長させようという意思のある大人はいませんでした。反面教師的な、このまま ではいけないという危機感を持っという学びは十分に得たので、 2 ヶ月で辞めました。ちなみにこうい う職場で僕のようなアラサー男子は珍しいです。当然ですが薄給のアルバイトですから、普通はこんな ところで働きません。施設長と正規職員の若い男女 ( 薄給 ) が一人ずつ、あとは子育てを終えた世代の パートのオバチャンです。しかし、このパートの人たちがある意味最も厄介な存在でした。詳細は省き ますが、当然のことながら全てにおいて価値観、見ている世界があまりにも違うので、話が通じません。 血液型による相性や占い、スピリチュアルの話を全力で聞かされても困ります。自分たちの価値観と合 わないという理由で「施設長が頼りない」と陰口を一一一一口うし、当然ですがネットの世界のことなど何も知 らない、スマホはゲームだという認識しかない。本も読まない ( 読めない ) 。それでいて自分は子育て を経験しているということでマウンティングだけは立派なのです。老害という一一 = ロ葉が現実味を帯びた経 験でした。僕も異質な人間としてずいぶん迫害されました。まあそれはいいでしよう。世の中にはやは り同僚として関わってはいけない属性の人がいるということも学びました。
本当によい教育を実現するための覚書はじめに 0 はじめに 皆さんはじめまして、ちろうです。僕は今、教育についていろいろ考えています。そしてまた教育は、 常に社会問題の重要なトピックでもあります。年には大きな教育改革が行われようとしており、 例えば 2019 年度を最後にセンター試験が廃止され、高校内容の知識の定着を図るための「高等学校 基礎学力テスト」と、大学入学希望者を対象に行われる「大学入学希望者学力評価テスト」という 2 っ のテストに切り替えることが検討されています。これまでの正解を見つけるための「詰め込み教育ドリ ル」から、正解のない問い を探求する「アクテイプラーニング」へと転換すべく、準備が着々と進めら れていると言われています。少子高齢化とグロー ノル化が進む世の中にあって、教育はますます社会の 関心の中心となっていくでしよう。 本書では、自分なりに教育というものについて考えたことを書いていきます。僕は大学を卒業して上 京、約 8 年間社会勉強と称してふらふらし、学童保育の仕事を経て、現在はとある個別指導塾で働いて います。その中で、これまで本で読んだり、社会の問題として見聞きしていたことが、教育の現場にも 間違いなくあるということを実感するようになりました。そしてこれは教育に限らないのですが、時代 を経るごとに社会全体が息苦しくなっています。この状況にうまく適応するべく、今できることは何な のか。そこでまずは、自分自身のこれまでのことを少しお話しようと思います。 僕は岐阜県にある岐阜大学というところの教育学部を卒業しました。今から約川年前のことです。大 学 4 年時に中学校の教員採用試験を受け、不合格に。このときに僕は人生の選択を迫られることになり
第 2 部学童保育の問題点 ■子どもを見下した教育思想に酔っているだけの大人 結局ここには「子供たちがよりよい大人になる手助けをしたい」とかいう思いは完全に二の次であり、 「子供の悪事を見張ること」「問題なく一日をやり過ごすこと」しかありませんでした。それでいてい い大人が教育者面をしている。子どもは分かってくれるなどと信じている。そうやって成人君主のよう に振舞うこと、どんな子どももきっと分かってくれるという性善説に立っことに酔っているのでしよう。 しかしこれこそが、昨今の公教育の中でよいとされている価値観ではないでしようか。子供の自由を尊 重すること。人権を尊重しすぎること。子供をお客様のように扱うこと。空気を読みすぎること。とり あえず横並びにしておくこと。小中学校の先生にも多いと思います。自分の中から出した答えじゃなく、 良いこととされている、きっと良いことに違いないという浅い考えで教育者ぶっている。というか教育 を志すような真面目な大学生ほどそういう傾向があります。逆説的ですが。僕もかってはそうでしたか ら。これは思考停止しているとしか思えません。彼らの純朴さ、真面目さは空気の中に溶け込むことに ものすごい適応力を発揮します。逆に、あまりにも規制を厳しくして個性の芽を摘んでしまっている環 境も世の中にはあるのでしよう。どちらにせよ、極端にどちらかに偏ることがいけないのです。この件 に関してはまた後ほど。 自分たちに酔っていた例をもう一つ紹介しましよう。節分の日に「豆まき」をテーマにしたゲームを しようという運びになりました ( 年がら年中、彼らはイベントを企画しなければなりません ) 。このよ うな時節のイベントに関わるものは教育的にもすごく良いと思います。それはまさに歴史について、日 本の伝統について学ぶことになるからです。そしてその内容は、大きな鬼の顔をダンボールでつくり、 ん。 4 2
第 2 部学童保育の問題点 ように柵を建てようとなり、階段でケガをしたとなれば安全性はどうだったのかという話になる。階段 に安全性もクソもありません。よほどのことがない限り自己責任です。もしかしたらそのようなクレー ムはごく一部なのかもしれません。しかし現実にそういうものがあると周知されると、今度は運営者が 必要以上に気を使うようになり、結果窮屈な職場環境になります。 校庭で遊んでいる中で、子供たちはそもそもケガをしないように、当たっても全く痛くないソフトバ レーボールを使っているのですが、ボールを投げ合う中でたまたまそれがおもいっきり顔面に直撃した りします。あまりの衝撃にビックリした児童は当然泣き出します。それに対して氷で顔を冷やして保護 者に電話連絡しているわけですよ。先輩職員がしていたわけですが、こういうことなんだよなあと思っ てしまいました。氷で冷やすは絶対に違いますよね。まずボールの接触面積がデカすぎて顔のどの部分 を冷やせばいいのか分からない ( 笑 ) 。野球の硬球がぶつかったのと違うんですから。捻挫とか突き指 とかじゃないんですよ。学校で「泣いた」ことを親に電話をするのもどうなんでしよう。結局、後で「連 絡がなかった」というクレームが入るのを恐れているだけで、子供のことなんか何も考えていないんで すよ。自己保身のことしか考えていない。僕がもしその親だったら「くだらないことで電話してくるな ! 」 って逆に言いますけどね。 ■大きな声を出すのは Zc.5 僕がここで最もストレスに感じたのが「大きな声で子どもを叱らない」という方針でした。例えば校 庭で遊んでいる子どもは、職員の目が届かなくなるという理由から禁止されている、「校舎の裏に行く というルールをこそ破ってきます。こちらが「ダメだよ—」と言えば言うほど、楽しみます。むしろ職 員に発見されないと彼らの「職員を困らせる」という遊びは始まらない。僕からすれば、決められたル
第 2 部学童保育の問題点 るような子供に対して、ケガをさせないようにするということのほうが難しい これがものすごく不快でした。まず、子供に対してまるで囚人を監視するかのような気持ちになるこ と。同時に、その監視をちゃんと遂行しているか職員同士で監視されている空気もあり、もちろん自分 は下っ端ですから自分自身が奴隷になったような気持ちになること。その仕事は何か成果が上がるもの ではなく、先輩職員としては何か小言を言うことくらいしかない。「さっき大縄を回している間、校庭 を見れていなかったから気をつけて」などと言われる。それが彼らの仕事なのですから当然です。彼ら は生産性というものについて考えたことがあるのでしようか。そこでは、子供たちにいきいきと笑顔に あふれて楽しんでもらいたいという微笑ましい気持ちは一切持てず、ただひたすら大過なく時間をやり 過ごすこと、子供にルールを逸脱した行為をさせないように見張ることが求められるのです。それはま るで看守にでもなった気分でした。もちろん刑務所の看守は立派な仕事だと思いますが、本来は子供た ちがのびのびと過ごすべきの放課後の校庭には相応しくないものでしよう。 例えばこれは実際にあった話ですが、下校時にお見送りと称して、時や絽時といった区切りのい い時間ごとに学校から noo E ほど離れた大きな交差点まで児童川人を連れて行きます。小学 2 年 生だと、どれだけ注意深く見ていても歩道橋の直前でかけっこを始め、転んで額をぶつけて流血したり します。これは一瞬の出来事です。傍目にはけっこう酷い感じのケガです。しかしこれを一体どうやっ て阻止できるというのでしようか。土台無理な話です。 宮台真司先生はこういう話題になると必ず「昔は子供は遊んでいる中で、穴に落ちたりしてボコボコ 死んでいましたよ」と言います。命に関わるような事故は極端にしても、ケガをする程度ならそういう こともあるという共通認識があった。しかし今の時代は、万が一そういうケガや事故が起こると監督責 任を追及するようなクレームが入る。裁判にも発展する。高いところから落ちたといえば、登らせない ワ 1
第 3 部個別指導塾の問題点 師を週 5 でやっている謎人間 ( Ⅱ僕 ) のようなものもいます。 ■売上向上のためだけの教育思想 これが現職になるわけですが、学童保育に比べればやはりやりがいがありました。子供が騒ぎ立てた りせず、監視する必要もされることもなく、勉強をするという一応の大義名分があるからです。 2 年続 いているのがその証拠です。とはいえ、やはりここには本当に子供のためを思った教育はないと感じて います。やっていることが通り一遍で、そこには何の教育的思想もないからです。決められたマニュア ルをこなすことにこだわりすぎて、それぞれの生徒の学習効果を上げるにはどうしたら良いかなどがほ とんど考慮されていません。 この種の個別指導塾に共通している思想は、 「少しでも学校の勉強についていけるようにしましよう」 「学校以外で少しでも勉強する習慣を付けましよう」 「定期テストの点数を上げましよう」 「この夏休み ( 冬休み ) が勝負です」 これだけです。これは全て売上を上げるための宣伝文句そのものです。 もちろん一見もっともらしく、立派なことだと思われるかもしれません。しかし僕にとっては全てが 金儲けのための洗脳にしか見えません。はっきり言って、やっていることのレベルが低すぎます。まず 中学生の教科書の内容をなぞっているだけのことである。これは本来学校の授業をしつかり聞いていれ ばやる必要がないもののはずです。それに付いていけないからサポート的な役割として存在するんじゃ ないかと言われるかもしれませんが、授業 ( 勉強 ) に対してしつかり向き合っていない人間が、塾でそ 9