本当によい教育を実現するための覚書さいごこ 世界を知らないために世の中にどういう仕事があるのかという絶対的な情報量が足りていないことが 原因の一つではないでしようか。だからその需要に応えた『歳のハローワーク』という本が流行った りしました。たった一つ選択肢が増えるだけで、解決できる問題なのかもしれません。それに加えて、 何かを「好きになる」というカです。それにプレーキをかけないこと。それはみうらじゅん氏や山田五 郎氏の著書や活躍が参考になるでしよう。何かに興味を持っということが、学問においても仕事につい ても出発点ですから。そこでは価値判断が重要になってきます。何が価値あるもので、何が価値のない ものか見分けなければならない。その精度を高めること。まさに宮台先生が言う「本物」と「ニセ物」 を見分ける力というわけです。それがあれば、よい「感染」が待っているはずです。 だからこその「学校」でも「家庭」でもない「第三の居場所」なのです。情報のアクセスポイントは 数が多ければ多いほどいい。そして学校がどういう場所かを客観的に眺めることです。素晴らしい先生、 これらは間違いなく良いものでしよう。一方、あまり為にな 信頼できる仲間、そして学問との出会い らない時間だけを浪費する行事、視野の狭い先生、理不尽な価値の押し付け。こういうものから完全に 逃れることはできません。だからできる限り受け流す、距離を置く、心を完全に支配されないようにす る。そのような作法を身につけることこそが、先ほど言った「バランス感覚」を身につけるということ です。そのためには外から眺めるための「場所」があったほうがいい。 今、教育現場にまつわる問題が大きく取り沙汰されています。しかしこれは「だから学校を変えよう」 という方向で解決するのは無理だと断言しても良いでしよう。それはまさに『バカをつくる学校』に通 底するテーマでもありました。学校は「本来あるべき教育ができていない」のではない。むしろその逆 で「完ぺきに教育が成功している」のです。なぜなら学校教育の目的は「個性を尊重し、その子に合っ た才能を伸ばし、想像力を育む」のではなく、「個性を極力排し、自分で考えさせないで、想像力を破 6 9
第 7 部私塾を作りたい一メンターの紹介ー キャラクターだと思います。 ある種のテレビバラエティの軽薄さ、質の低さはもはや説明するまでもなく、いじめ文化の発信源に なっているとさえ言えます。もちろんそこに社会的な効用はありますし、学べることも多いです。僕自 身もテレビが大好きでよく見ていますから。しかし一般的には、映画やネット動画などに比べて、テレ ビは受動的に受け取るもので、一目見て分かり易いものでないと続かないという現実がある。そうする と視聴率を確保するためにどうしても軽薄な内容にならざるを得ない。分かりやすいのは日本を覆うョ シモト的なイジリ文化です。誰か一人をスケープゴートとして仕立てないと、場が収まらない。そうい う安易な手法に頼り切っている。それは例えば『林先生の痛快 ! 生きざま大辞典』という良質な番組が 終わってしまい、『林先生が驚く初耳学 ! 』が残っているという現実が示しています。ここでは一一一一口うま でもなく、いかにして林修先生をやりこめるかというゲームが展開されています。 それでもその中で、林修先生のような人間が、テレビに求められ続けているということ自体が革命的 6 ーに自分の立ち位置を把握し、同時に「いっテレビの であると言っていい。 それは彼自身が相当クレバ 仕事がなくなってもかまわない」という気持ちが根底にあるからこそ、自信を持ってタレントの仕事が できるのだと思います。そして世の中に教養の大切さを伝えたいという思いがある一方で、『初耳学』 のようなその構成自体がある種のイジメになっている番組にも出られるサービス精神がある。「今でし よ ! 」を求められたら惜しみなくやる。このバランス感覚は見事です。 もちろん彼の著書『いっかるか ? 今でしょ ! 』『受験必要論』『林修の仕事原論』『林修の「今読みた い」日本文学講座』なども良書です。『異端のススメ』という本では、対談本を打診された時に、のち に東京都知事となる小池百合子氏を相手に選んでいます。その世の中を見る目には確かなものがありま す。
本当によい教育を実現するための覚書さいご 覚を身につけるということです。 これは宮台先生がよくする話ですが、人が物事を判断する尺度に「正しさ」と「楽しさ」があります。 「正しさ」を追求したいと思うのは、これは当然のことです。それは罪を犯してはいけないとか、差別 はいけないとか、いじめはいけないとか、そういうことです。 ( ポリティカルコレクトネス ) とい う言葉も聞くようになりました。しかし余裕がない現代人は、「正しさ」よりも「楽しさ」を優先して しまう。いじめは無くせないし、ヘイトスピーチも溢れている。思わぬ政治家が生まれてしまう。それ は全て「正しさ」よりも「楽しさ」が優先された結果です。これは世界中で起こっていることです。人 は「楽しさ」の魔力に抗うことはできません。 他方で「正しさ」は暴走する。平等を追い求めるあまり本質を失ってしまう。「楽しさ」は悪だとい うばかりに、道徳的なつまらない言説があふれてしまう。運動会では順位を決めない方が良いというこ とになり、マンションで挨拶するのを止めましようとなる。問題を起こさないことが第一に考えられて いる教育現場がまさにそうです。異質なものを排除しすぎているのです。これでは楽しくない上に、本 来求めるべき教育効果さえ犠牲にしている。本末転倒なのです。 この状況を打開する方法は何か。「楽しく」かつ「正しい」という手法を取るしかない。これが唯一、 持続可能なやり方だというのです。思えば僕も「楽しい」ことだけをやってきたように思います。それ に加えて、僕は今でも個別指導塾で子供と接していますが、自分の「正しさ、は常に意識しています。 相手が小学校低学年だろうと、舐めた態度をとったときは「そうじゃねえだろ ! 」と詰めます。そうす ると教室長に「もっと優しくしてください」などと言われるのですが ( 笑 ) 。慣れあって相手を気持ち よくさせることだけが教育ではありません。時には厳しい態度も必要です。だから僕は「正しさ」を維 8 9
第 6 部教育現場のあるべき姿 先日も、こんな話を聞いた。その先生は、最近生徒からこんなふうにいわれたのだそうだ。 「先生、知っている ? ぼく、もう勉強しなくてもいいんだよ」 「あら、どうして ? 」 「だって、大人になったら生活保護を受ければいいから。それで満足に暮らしていけるんだ。そうす れば簡単に生きられるのに、勉強するやつは逆にバカだよ」 これは、単なる戯言のように聞こえるかもしれないが、実際はもっと切実な一言葉だ。なぜなら、その 生徒の親は生活保護を受けているのである。そしてその親から、そう教えられているのだ。 生活保護を受けている人というのは、ぼくが子供の頃はほとんどいなかった。しかし今は、学年に数 人は生活保護を受けている人の子供だという。それはけっして珍しくないのだ。そして生活保護を受け ている親は、子供にそういう「負の教育」を施す。つまり、貧困が分かりやすく再生産されているのだ。 先生も、それをただ指をくわえて見ているわけではないが、しかしいかんともしがたいのだという。日 本の常識やルールなどの壁に阻まれて、あまり深く介入できないのだ。 ( ハックルべリーに会いに行く「格差について」 ) こういう話を聞くと本当に暗い気持ちになります。このような負の連鎖による格差は今後ますます広 がっていくでしよう。「貧すれば鈍すうとは人生の真理を驚くほど的確に示しています。すべての子 供に勉強ができるようになって欲しいとか、勉強は楽しいものだということを知ってほしい、 A 」い一つこ とはありません。勉強など全く楽しくないという人だっています。それはそれで良いでしよう。そして 一生縁がない方がお互いに幸せであるという関係性もあります。しかし、知らなかったことを知ること に央感を覚え、できなかったことができるようになることに喜びを感じるような、向上心のある子供た ちに勉強を教えるということは好きだし、やりたいという思いがある。
第 2 部学童保育の問題点 ■子どもを見下した教育思想に酔っているだけの大人 結局ここには「子供たちがよりよい大人になる手助けをしたい」とかいう思いは完全に二の次であり、 「子供の悪事を見張ること」「問題なく一日をやり過ごすこと」しかありませんでした。それでいてい い大人が教育者面をしている。子どもは分かってくれるなどと信じている。そうやって成人君主のよう に振舞うこと、どんな子どももきっと分かってくれるという性善説に立っことに酔っているのでしよう。 しかしこれこそが、昨今の公教育の中でよいとされている価値観ではないでしようか。子供の自由を尊 重すること。人権を尊重しすぎること。子供をお客様のように扱うこと。空気を読みすぎること。とり あえず横並びにしておくこと。小中学校の先生にも多いと思います。自分の中から出した答えじゃなく、 良いこととされている、きっと良いことに違いないという浅い考えで教育者ぶっている。というか教育 を志すような真面目な大学生ほどそういう傾向があります。逆説的ですが。僕もかってはそうでしたか ら。これは思考停止しているとしか思えません。彼らの純朴さ、真面目さは空気の中に溶け込むことに ものすごい適応力を発揮します。逆に、あまりにも規制を厳しくして個性の芽を摘んでしまっている環 境も世の中にはあるのでしよう。どちらにせよ、極端にどちらかに偏ることがいけないのです。この件 に関してはまた後ほど。 自分たちに酔っていた例をもう一つ紹介しましよう。節分の日に「豆まき」をテーマにしたゲームを しようという運びになりました ( 年がら年中、彼らはイベントを企画しなければなりません ) 。このよ うな時節のイベントに関わるものは教育的にもすごく良いと思います。それはまさに歴史について、日 本の伝統について学ぶことになるからです。そしてその内容は、大きな鬼の顔をダンボールでつくり、 ん。 4 2
第 8 部やりたいこと 学校とは離れた場所だからこそ、学年に関わらずその人を見てその人に合ったレベルの指導が実現で きると考えています。また、時間に縛られることもありません。本人の根気が続く限り指導しますし、 逆に理解しようという能動的な気持ちがないようなら、そもそもやりません。君には勉強が向いていな いからゲームでもしていなさいと言います。絵を描かせるのでもいいでしよう。プロゲーマーだろうが イラストレーターだろうが、あらゆる才能はお金に変わる可能性を秘めているのですから。何もしない というのであれば、それは縁がなかったということで帰ってもらいます。 ・指導での大切なポイント 基本は個別指導です。講師は僕です。ただし能動的なものが基本になります。この科目のこの単元が 苦手であるという認識を持ち、それを解決したいというモチベーションとともに質問に来て頂ければ、 いくらでも教えます。また、そもそも「何が分からないのか分からない」という状態であれば、いろん なレベルの問題を解かせてみたり質問することによって、「具体的にここの理解が足りていない」とい うことを指摘します。その指導力はいかほどのものかと言われれば、現在も個別指導塾で経験を積んで いる、というところで勘弁してください。ちなみに小学校教諭免許、中学校教諭免許 ( 数学 ) を持って います。高校数学はあと一歩のところで単位が足りずに取り損ねました。だからほとんど免許を持って いるようなものです ( 笑 ) 。好きな教科は数学と国語 ( 現代文 ) です。林修先生を人生の師としていま す。古典と英語と社会はノリでやってきたところがあり、少し苦手です。 僕が小中学生レベルで特に重視したいのは、体系的に物事を学ぶこと。そしてそのための土台となる 基本的な漢字、基本的な英単語、算数の比の感覚、方程式、関数、幾何学的な認識、等々の基礎を大切
第 8 部やりたいこと だからこそ、科目の区別は特にありません。その都度やりたいことをやればいいのです。少なくとも 中学レベルまでの知識は、科目横断的であるべきだと思うからです。数学も英語も言語という観点で言 えば言葉を使いこなす力を養う国語の延長であるという見方もできますし ( 算数・数学の文章題が読め ていないなど論外です ) 、理科は数学の考え方に慣れていないと到底太刀打ちできません。実験結果に ついて問うような問題はやたらと問題文が複雑なので読解力が必須です。社会の地理で出てくる特殊な 地形などは、理科の物理や地学の知識と密接に関わるものでしよう。後は世界の成り立ちや人類の歴史、 自然の法則にいかに興味を持たせるかどうか。世の中を知るということは、理科と社会に精通するとい うことです。 ・言葉から世界が始まる そして全ては言葉から出発します。その意味で、全ての基礎となるのは国語ではないかと思います。 まず言葉が正しく使いこなせないようではどうしようもありません。そして語彙を鍛える。語彙という のはボキャプラリーとも言いますが、自分の中で知っていてかっ使いこなせる言葉のまとまりです。あ る言葉が自分の語彙にないということは、その言葉が持っている意味・感覚・世界観を認識することが できないということですから、それだけ自分の世界が貧しいものになります。「若者言葉」というのは それを揶揄することでしよう。逆に言えば、語彙が豊富な人は豊かな感性を持っていると言えますし、 初めて見る言葉であっても元々自分の中にある言葉の組み合わせであれば、意味を推測することができ ます。暗記も早くできるでしよう。これは受験にも大いに役に立つはずです。人間的な価値は、語彙の あるなしが最初の出発点ではないでしようか。語彙を増やすことをあきらめてしまった人と、生涯勉強 だと考えている人では、年を重ねるごとに取り返しがっかないくらいの差が広がっていきます。
本当によい教育を実現するための覚書目次 参考文献 第 5 部公教育の問題点 第 6 部教育現場のあるべき姿 第 7 部私塾を作りたいーメンターの紹介ー 第 8 部やりたいこと さい′」に 本当のさいごに 【補論】アイドルについて 編集後記 / 著者紹介 / 奥付 102 122 4 4 0 2 4 9 114
本当によい教育を実現するための覚書さいご 春樹も学校というシステムに最後まで馴染めませんでした。それをこんなふうに語っています。自分 は「右を向け」と言われたらつい左を向いてしまうような「猫的人格 , である。しかし日本の教育シス テムは、共同体の役に立つ「大的人格」をつくることを、ときにはそれを超えて、団体丸ごと目的地ま で導かれる「羊的人格」をつくることを目的としているようにさえ見えたと。そしてその傾向は教育の みならず、会社や官僚組織を中心とした日本の社会システムそのものにまで及んでいるように思える。 いかにも春樹らしいし、その問題意識から、羊を巨大な悪として扱う『羊をめぐる冒険』が生まれたの かもしれませんね。 だからこそ春樹は小説家になった。小説家なんて、この社会のしがらみから最も遠く離れることに成 功した人ですから。翻って僕はどうかというと、自分の精神を病むこともなく、それなりに適応してき 。といっても、完全 たんじゃないかと思います。「猫的人格」よりも「大的人格」に近いかもしれない に楽しんでいたかというとそうではない。何か漠然とした違和感を抱えながら、それなりにやり過ごし てきたという自覚がある。自分は猫だと言い切ることはとてもできないような、猫に強烈にあこがれを 持った大、という感じでしようか。だからこそ自分には、その架け橋ができるのではないかと思うので す。幸か不幸か、真っ当な道から外れてしまった自分だからこそ何か出来ることがあるかもしれない どちらか一方を排除し、他方を採用するのではない。完全な善悪で分けるのではなく、それぞれの良い ところをいかして、良いとこどりをするような。問題解決とはまさにそのようなもので、複数の考えか ーベン ) です。それができない ら全く新しい考えに統合し洗練させていくこと、つまり止揚 ( アウフへ だろうか。本書はそのための提言なのです。 最後に村上春樹「職業としての小説家」の中のとある文章を紹介したいと思います。 100
第 3 部個別指導塾の問題点 ことながら、学歴が上がるにつれて平均給与が上がっていくグラフです。不安を煽ってお金を出させる のは詐欺の常套手段です。思考停止した人間には、勉強の大切さを説くよりそんなグラフの方がてきめ んに効果を発揮するでしよう。将来良い給料を手に入れるためには、今塾にたくさんお金を払うのもや むを得ない。そんな発想をさせるためのワナです。その貪欲さ、狡猾さに布くなりました。そして僕は 現状、そんな環境で働いています。時給—ooo 円程度の給与で。ああ、プーメランが痛い ちなみにこのグラフについて説明しましよう。高卒より大卒の方が給与水準が高い、また東大でない 大学卒よりも東大卒の方が給与水準が高い、というのは事実です。しかしそれは、大学に行ったから給 料が高くなった、という因果関係があるわけではないんですね。良い給料がもらえるような能力がある 人が、大学に行く傾向があるという相関関係に過ぎないのです。どちらかが原因でどちらかが結果とい うわけではない これは東大と非東大にも一一一一口えることです。それにこれは統計であって、その人自身が どうかなんていうことには関係がない。中卒でもものすごく稼いでいる人もいれば、大卒でもワーキン グプアの人がいるなんてことは当然のことです。つまり結局は自分自身に能力があるか、頑張るかどう かでしかない。そういうことには目をつぶって、データを都合のいいように利用しているだけなのです。 これも金を使わせるための宣伝に利用されているだけです。 ー教育と売上至上主義は相性が悪い そしてこうも言えると思います。「教育」と「売上至上主義」は最も相性が悪い。両立はほぼ不可能 だということです。これは内田樹先生が著書の中で繰り返し述べています。私たちの社会は、お金を払 っているものが偉いと考えすぎている。日常生活でそういう場面が多いのは事実ですが、「教育」と「医 療」に関しては絶対にこれを取り入れてはならないと言います。生徒にしろ患者にしろ、「お客様」と