シッタシズム - みる会図書館


検索対象: 知的生活習慣
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1. 知的生活習慣

は、知識という虚構の限界を認める想像力が欠けていたからにほかならない。 「なぜ」「どうして」と自問する 本当の意味で知的であるには、さしずめこの教養シッタシズムからの脱却が必要に なる。知ることはもちろん大切である。思うことも悪くはないが、それ以上に自己責 任でものを考える習慣を身につけるのが大切である。 ただ、それを教えてくれるところがいまのところ見当たらない。学校はシッタシズ ムに立脚しているから「考えることを考える」などということはありえない。学校教 育を受ける度合が大きくなるほど、考える力は小さくなる傾向は否定できない。 知識があると言ってうぬぼれている人間も考えることができないオウム族である。 知識が不足している。知識が古いということを自覚している人は、教養主義のエリ トよりはるかに考える人間になるチャンスが大きい。無学の人ほど思考の必要性をつ よく感じ新しい思考を生みやすい道理であるが、無学な人ほど、教養人間への劣等感 がつよく、みずからにプレーキをかける。知識人は、あらゆることを既知によって処 。 93 「なぜ」「どうして」

2. 知的生活習慣

ているのが普通である。 モノマネによって得られた知識は、それ自体では活力をもたない。新しい知識を生 む力を欠いているが、それを反省するのは愉快ではないから、飾りもののような知識 のことを教養と呼んで価値づけ、実用より一段上のものであるような錯覚をもつよう になったのはシッタシズム文化の成り行きである。 いろいろな学問を学ぶに当たっても、このことばのシッタシズムと同じ性格の傾向 が認められる。何の役に立つかを考えないで、ただ知識を知識として蓄積することが 文化的に意義をもつように誤解するところから学問の堕落が始まる。人文学の学者は 多くこの教養シッタシズムに陥って、無力である。モノマネの知識は振りまわしても、 自分のことばがない。知ったかぶりをしても、借りものを着ていい気になっているお しゃれくらいにしか評価される。へきではない。 先進文化に追いつくことを至上の目的とした近代において、シッタシズムの限界を 反省するのは反社会的ですらあった。シッタシズム的文化、知識、学問を最高の人智は のように思ってきた。先進文化に追いつくには、立ち止まって考えたりしているのは

3. 知的生活習慣

かなり知的能力の高い者でも、長年、外国語に親しんでいると、だんだん知力が低 下する。そんなことがおこるのも、模倣一点張り、創造性の欠如についての反省なし に続けている結果である。 シッタシズムは困る オウムのよ、つにことばを使、つのを一言衄学ではシッタシズム (psittacism) とよぶ。 「オウムが機械的にことばをしゃべることをシッタシズムという」 ( 『英語学辞典』 ) 。 日本人の外国語学習では、しゃべることが読むほどには重視されないため、読めて もしゃべることのできないシッタシズムが一般的である。 本を読んで知識を得るのは二次的シッタシズムと一言う。へきかもしれないが、知識は 尊重される。博覧強記、博学博識は学識として高く評価する。 そこまでいかなくとも知識をもっているのは知識人として価値ある存在と見なされ るから、多くの若い人がそれを目指して努力することになる。高等教育、ことに文系 の教育はこういうモノ識りを育てることを目ざしているが、そのこと自体が忘れられ 090

4. 知的生活習慣

理できるとし、実際そうすることで、独自の思考を怠る傾向がつよい 結局、普通の人がもっともよく考える人間になりやすいということになる。 考えるといってもいろいろな考え方があるけれども、生活習慣として見れば、それ ほど難しいことはない。 腑に落ちないこと、わからないこと、不思議なことに出会ったら、素朴に、「なぜ」 「どうして」などと自問するのである。すぐ本を調べたりすることは必ずしも賢明で はない。疑問はいつまでも疑問としていだいていれば、そこにおのずから独自の思考 が生まれるきっかけになる。 自分の頭で考えることができるようになれば、借りものの知識をふりまわして得意 になっている愚かさがはっきりしてくる。 ただ知識をもってそれをそのまま利用するのがシッタシズムであることを、いまの 日本ほど反省しなくてはならない社会はないだろう。 無知、無学なものほど思考に近いのは逆説法ではない。 094

5. 知的生活習慣

許されない。なんでも模倣、新知識をふやすことが求められる風潮の中で、シッタシ ズムを反省するゆとりがなかったとしても是非もない。 ひやつけん 「何でも知っているバカがいる」 ( 内田百閒 ) 、「学術的基礎をもったバカほど始末の悪 いものはない」 ( 菊池寛 ) といった例外的意見もないではないが、知識は多々益々弁ず、 多ければ多いほどよいという考え方が、日本人の知的活力を失わせてきたのかもしれ ただ知識が多いというだけで喜ぶのは幼稚である。目的も考えずに知れば知るほど よいと考えるのは、知的な人間の偏見である。ある種の知識は、新しい文化を創造す るに当たってときに有害である。知的に活発でありうるためにはしばしばじゃまな知 識をあえて棄てなくてはならない。そういう自由な発想にとって、シッタシズムは困 ったものである。 教養主義は非創造的である一方で、むやみと批判的である。破壊を創造と勘違いし やすい。こ、つい、つところから新しいものは生まれにく、 知識を信仰するだけでは、 なんの力にもならない。明治以降の日本の知識人がほとんど「高等遊民」であったの 092