る。日本は戦前ずっとドイツ医学の流れを汲んでいたから、風邪をびいたら風呂はい けないものと頭から決めていた。 八十歳をすぎてから風邪に風呂はわるくないどころか、予防にも治療にも、 ではないかと思いはじめた。 風邪は、英語では、 cold で、寒さということばと同じである。体が冷えて風邪に なるというところをとらえての名前である。体を温めるのは風邪をなおすのによいに ちがいない。風邪をびくと熱がでるのは、それで風邪を追い出そうとしているのであ ろう。ドイツ医学が解熱剤で体温を下げるのは、かえって風邪を勢いづかせることに なる。体温を高める葛根湯が風邪薬になるのは体をあたためるからである。体をあた ためるのなら、風呂の方がはるかに効果的ではないか。いや、有効に決まっている。 おそるおそる、かかりつけの大先生に伺いを立てた。「少し風邪をひいていても、 人浴してもかまいませんでしようか」 大先生、にこやかに、 「だいじようぶです。ただし、あと体を冷やさないようにしてください」 170
いたら、その町の薬局の店主らしいのが匿名で抗議してきた。薬局のクスリはきかな 、病院ならなおるというのは迷信だ。だいいち緊張していないから風邪をひくのだ、 緊張していれば風邪などひかない : : などと書いてあった。東北にはずいぶん乱暴な 薬局があるものだとあきれたが、緊張していれば風邪はびかない、 というのは当たっ ていると感心した。びくのはたいてい気のゆるみによる。この薬局、商売をはなれて、 風邪にかからぬ方法を教えてくれた。しかし、みんなが緊張して風邪をひかなくなっ ても笑っているほど肝がすわっているだろうか、とよけいなことを考えた。 現代医学は癌など退治する力をもっているらし、ゞ、 カ風邪をビタリとなおす名医は いないようである。ある医者は、風呂ぎらいなのか、風邪をひいたら風呂に人るなと フ 命じる。何日もなおらないとアカだらけになる。どうもドイツ医学の教えらし、 ランスではすき間風をおそれる。日本はドイツ流だから、風呂はいけない、あたたか くして寝ろ、と命じる。そんなことでは風邪はなおらない。 16 ラ風邪は万病のもと
覚えているものです」 そうは言われても、ノートをとらずに講義をきく勇気がない。人なみのノートをつ くって大学を出た。その後、何年かして、ドイツへ留学した。ドイツの学生は、講義 をせっせと書き取るようなことはしないで、じっときいている。ところどころ、数字 などが出てくると、メモする程度である。この人たいへん感心して、かっての老先生 のことばを憶い出したそうである。 どうやら、文字と記憶は合性がよくないようである。文字に頼ると、その分、記憶 は弱くなる。メモなどがなくても、大事なことは忘れない。用心してメモしておくと、 かえって忘れる、というのは正しくなくて、メモしたことは、これで安心だと思うと 同時に、忘れやすいのである。 ある記憶力抜群の歌人がいた。みんながスケジュール手帳をもって、予定などを記 人するのが普通になってからも、メモの手帳もスケジュール表ももたないで、「す。へ て、頭にメモしてある」と記憶を誇った。実際、半年、一年先のアポイントメントで も、「その日の午後は詰まっている。次の日なら一日、フリ ーだ」などと言ってまわ
いっか夏目漱石が愛用したというオノト万年筆の写真を見たことがあるが、ペン先 の右半片がすりへってチビていてあわれなかっこうであった。日本の文字を書けば、 漱石のオノトでなくとも、右半片がすりへるにきまっている。それなのに、文句も言 わずに愛用していたのは、おかしいのである。いまでもなお、ペンは日本語を書くの に適していない、 ということを知らない人がほとんどである。 万年筆の楽しみ それはそうとして、ペリカンを使いはじめて何年かして、やはりドイツ製のモン。フ ランを手に人れた。そのころもの書きの間で、モンプランの太書きに人気があるとい うゴシップに動かされたらしい。ついで、スイスのカランダッシュを手に人れてい 気になった。使わない万年筆が何本もあるのがなんとなく豊かな感じがする。万年筆 病にかかっていたのだろう。これがまわりの若い友人に感染して、万年筆ばなしを楽 しむようになった。 その一方で、ポールペンにも凝った。終戦後間もなくのころ、はじめてポールペン 223 万年筆にこだわる
司馬遼太郎さんが風邪の研究の大家であるのを知ったのは、これよりかなり前のこ とだった。司馬さんはよく風邪をびいたようでいろいろ考えて、これだというのに至 もカこちらはそん る。首にありったけ布をまくのである。サラサをまきつけるらし、ゞ、 な用意もないから、ありったけのマフラーを首にまきつける。こうして寝ると、風邪 を引かないようである。 首にありったけのものをまきつけている恰好は「襟巻きトカゲそっくり」だと家の ものに笑われるが、風邪予防だと思うから、我慢する。理にかなっているらしく、風 邪を引く回数がすくなくなったような気がする。 昔、年寄が、寝るときに、クゝ、 力まきクというものを、布団と肩の間に人れた。襟 巻きトカゲはそれを一歩すすめたものだ。 運動をしている人たちが、よく風邪をひく。夏風邪をひく。汗をかくのがいけない の 病 万 のではなく、汗がかわくときに熱がうばわれて体温のさがるのがいけない。汗をかい たら、下着をかえる必要があるということを運動する人は心得ていなくてはならない。既 ドイツ医学の教えであ 風邪をびいたら風呂へ人るな、というのは前にも書いたが
が出現した。初期のポールペンはインクもれがしてびどいものだったが、急速に進化 した。鉛筆以上に筆圧がかかるから、腕をいためる人が出た。しかし、グイグイカを 人れて書くのは格別の刺激で、もつばらポールペンという時代が十年余り続いた。万 年筆とちがってポールペンの先は球状。これならタテ、ヨコ、自在で、日本語をかく にはペンよりよ、 そしてやつばり万年筆だ、やつばりペリカンだ、と思うようになってペリカンへも どった。それからは迷うことなくべリカン一筋である。 ドイツの、ものは、、 このごろの万年筆はインクをさし込む式のものが多いが、 p 亠まも ってインク瓶からインクを吸い込ませる方式をとっている。モンプランの太書きを使 っていたころ、旅行に出る前に、二本のモンプランをいつばいにして出かけても、旅 先きで少しまとまった書きものをすると、インク切れをおこした。ペリカンはそんな ことはないが、 やはりインク切れを気にしないといけない。それに、近くの小さな文 具店にはペリカン専用インクがないから、遠くまで買いに行かなくてはならない。や つかいだが、それだけに愛情がますのかもしれない。 224