て、メタ言語と区別するのです。 て、ある文脈でメタ言語だったものも対象言語となる別 対象言語とメタ言語の区別は、固定した区別ではありの文脈があり、同様に、対象言語の内部にも、メタの対 ません。「」内の言葉は対象一一一一口語、「」外の言葉はメ象のレベル差が絶えす発生しています。 タ言語、と述べたとき、「」外の言葉もいま言及されもともと対象言語であった The essence of romance is : is uncertain. とを混同した誤訳を再 ており、この文脈では対象言語になっています。こうし uncertainty. と・ 考してみましよう。この誤訳こそ、使用と言及を混同 葉 ( 対象言語の中のレベル差を混同 ) する誤謬だったと言 対象言語 、んるでしよ、つ。 is uncertainty と一一一口った場合は、 "The べ essence Of romance" と uncertainty とが同義であると 弓上 述べています。この二つの句がともに対象言語として一 s 味 意 というメタ言語で言及され等置されているわけです。そ も essence ()f れに対し、 is uncertain とした場合は、 = て romance カ uncertain" だというのではありません。そ な意 い注もそも前者は名詞で後者は形容詞なのだから同義ではあ りえない。むしろ、 The essence of romance なるものが ゞと uncerta 一 n なる性質を持っと言っています。つまりこの 、刀 二つの句と一 s は、すべて同じレベルで結びつき、ある一言 な 語外の事実に言及するために使用されているのです。 第 6 章誤謬と詭弁・ : : ・論理学の反省 用 対象一一 = ロ 2 ワ
3.14 言葉です。このような、対象レベルにある言葉を指す一言 一一 = 「語には 葉は、メタ言語のレベルにあると言います。 無限のレベルがある ? 対象レベルとメタレベルの違いは、一一一一口語を用いるあら マ対象とメタ ゆる場面に現われます。たとえば、芸術作品について ( 芸術作品を対象として ) 「この絵は時代を反映している 論理学では、日常一言語でなされる区別のいくつかを無がゆえに、芸術的価値が高い」などと解釈を述べる芸術 視する ( 3 節参照 ) 一方で、日常一言語にはないさまざま批評の言葉は、芸術作品に対してメタレベルにある。そ な区別を設けます。そうした区別の中でも微妙なのがして、この言葉自身は芸術批評の言葉なので、芸術批評 「対象ーと「メタ」という二つのレベルの区別でしよう。 に対して対象レベルにあります。 しかしここで、「この絵は時代を反映しているがゆえ 言語の対象レベルとは何か。この本に書かれている言 葉のほとんどが、対象レベルにあります。たとえば 1 行 に、芸術的価値が高い、と一一一一口うときの『ゆえに』とはど 目の「論理学ーという言葉は、学問としての論理学を指ういう意味か。時代を反映することが歴史的価値の他に し示すために使われています。そのような、普通に使わ芸術的価値を持っとはど、ついうことなのか」と、反省的 れている言葉を対象一言語のレベル、略して対象レベルに に問われたとしましよう。この問いは、芸術批評を対象 あると言います。 として理論的な反省を加えた問いなので、メタ批評とい それに対して、前の段落の 3 行目にある括弧つきのうことになるのです。 「論理学」は、「論理学ーという語、あるいは学問の名前 さらには、「時代を反映することが歴史的価値の他に を指し示しています。つまり、言葉について語っている芸術的価値を持っとはどういうことなのか、などと問、つ 118
6.21 、、 と言い表わされるべき確実な本質なのです。 言語のレベルが さて、ここまでの文章で、英語と日本語ははっきり違 混同されていないか ? う役割を果たしていますね。対象とされている言葉は英 ▽使用と言及 語で、その意味が何であるかが、日本語で語られていま す。英語は言及されており、日本語はその言及行為のた めに使用されています。 The essence ()f romance is uncertainty. 右の英文を訳してみてください また、同じ日本語の中にも区別が見られます。「 こう訳す人が結構いるのです。「恋愛の本質は不確実内の日本語は翻訳文の表記を述べており、「外の日 である」。その訳は間違いです。 本語は、そのうちどの翻訳が適切かを説明している。前 The essence of romance is uncertain. という文ならば者は言及されており、後者は使用されています。前者は その訳で正解ですが、 is uncertain でなく一 s uncertainty 普通の言語 ( 対象言語 ) のレベルにあり、後者は言語に であることにご注意ください。正しい訳はこうならねばついて語るメタ一一一一口語のレベルにあります。 なりません。「恋愛の本質は、不確実ということだ」あ英語と日本語メタ言語との区別は、文字の見かけから るいは、「恋愛の本質は、不確実性である」。 して違、つので、引用符は必要ありません ( あるいは行を 誤訳のほうは、恋愛の本質が、不確実なはっきりしな変えて書かれたので混乱する心配はありませんでした ) 。 いものだと言っています。それに対し第二の正しい訳は、 他方、日本語と日本語メタ言語との区別は、見かけが同 不確実なのは恋愛だと言っています。恋愛の本質そのもじなので、ごっちゃにしてしまいがちでしよう。 のははっきり定義できる。つまり「恋愛は不確実である」そこで「ーの出番です。対象一言語を「ーで区切っ 256
することです。芸術を観賞しているレベルを反省し ことは意味があるだろ、つか」と問、つこともできるでしょ う。これは、メタ批評に反省を加えたメタメタ批評です。て対象化すると、メタ観賞、つまり批評へ移ります。批 このように、対象レベル、メタレベル、メタメタレベル評を対象化してその価値判断の原理や解釈の方法を一般 的に論すると、メタ批評もしくは批評理論になります。 : の階層は限りがありません。 メタレベルに移行することは、もとのレベルを「対象さらに、批評理論を対象化してその妥当性や意義や根拠 を問うようになると、芸術哲学もしくは美学の領域に入 っていきます。 では、芸術そのものは何を対象化しているのでしよう か。現実を対象化している芸術作品もあるでしようし、 何も対象化せずそれ自体が絶対のナマの対象に他ならな い芸術作品もあるでしよう。あるいは、他の芸術作品や、 芸術史、批評の原理などをテ 1 マとして扱い、批評理論 的、哲学的なメタ芸術的またはメタメタ : : : 芸術的作品 もあるでしよう。つまるところ、「芸術」「批評」「理論」 「美学 . といった慣習的な制度によって絶対的に「対象」 と「メタ」の区別が固定されているわけではなく、対象 とメタの区別は個々の活動に対して相対的な区別なので す。 メタ レベルメタメタメタメタ言語 ( 相対的 ) この文は文法的に正しい ↓ 対象 レベルメタメタメタ言語 これは英語ではない ↓ メタメタ言語 これはメタ言語である ↓ メタ言語 これは日本語である 対象言語↓ 恐竜は 6500 万年前 に絶減した 対象 ( 現実 ) 第 3 章論理学とは何か Ⅱ 9
3.15 ですが、広い意味でのメタ論理とは、論理的推論の正し 自分自身について さや命題の真偽の本性について語る論理をすべて含みま 自分で語れるか ? す。対象論理とメタ論理の区別は文脈により流動的です 嘘つきのバラドクス が、一つの文脈でははっきりした区別があります。一つ の文脈内でこの区別に無自覚だと、さまざまな混乱に巻 現実について語る言語が対象一言語であり、言吾こっ、 = = ロ。しき込まれることになります。 て語る言語がメタ言語です。同様に、現実について語る有名な「嘘つきのパラドクス」を考えましよう。 論理が対象論理であり、論理について語る論理がメタ論文 < 「この文 < は偽である」 理です。 カギ括弧の外と中に、「文 < 」という言葉が一つすっ メタ論理というのは、論理とはっきり区別されるもの出てきます。さて、どちらが対象言語でどちらがメタ言 ではありません。メタ言語が言語の一種であるのと同様、語でしようか。 メタ論理も論理の一種であり、したがって論理学は、メ対象レベルとメタレベルの区別を怠って、同一のレベ タ論理学やメタメタ論理学、メタメタメタ論理学 : : : な ルで扱ってみましよう。第一の「文 < 」と、第二の「文 どを無限に含んでいます。 < 」とは、同じものを指し一小すことになります。つまり、 個々の推論の運用を体系的に研究する「論理学」に対「この文 < は偽である」は、このカギ括弧の中の言語表 し、論理体系の満たすべき要件や満たすことのできない現全体について、偽であると述べているわけです。では、 要件を論じるのが「メタ論理学」です。「体系の無矛盾この文 < は真でしようか偽でしようか。 性」「完全性ー「健全性ーなどといった性質を研究するの文 < は真だとしてみます。真ということは、述べてい 120
様相論理学 様態の原則・ メタ メタ言語 メタファー メタレベル・ メタ論理 メタ論理学・ モンティ・ホ 誘導尋問 よい問い・・ リテラリー・ダイジェスト ・・・ 118 , 256 ・・・ 118 ・・・ 34 ・・・ 248 " ・ 120 ・・・ 120 ・・・ 118 ・・・ 125 ーノレ・シレンマ・・・ 268 様相 174 論証・ 論点混同の誤謬 ・・・ 72 , 104 ・・・ 260 ・・・ 174 ・・・ 212 論点先取 論点のすり替え 理 論理 ( アルゴリズム ) 論理 ( ロジック ) 三△ ⅱ王里ィ - 論理的真理・・ 論理的推論 わら人形論法 悪い問い・ ・・・ 35 ・・・ 244 ・・・ 104 , 122 ・・・ 78 ・・・ 130 ・・・ 92 ・・・ 44 ・・・ 54 ・・・ 218 , 235 , 262 ・・・ 220 70 抑止戦略 ランダム条件 ヴィルヘルム・ライプニツツ ) ・ ライプニツツ ( ゴットフリート・ 量イヒ・ 量化子・ 量の原則・ 両立的選言 理 類推 倫理学 ( 道徳哲学 ) ・・ 倫理 理論的推論 ・・ 202 ・・・ 236 ・・・ 254 ・・・ 162 ・・・ 212 ・・・ 145 ・・・ 106 ・・・ 104 , 124 ・・・ 274 ・・・ 269 , 275 ・・・ 104 , 247
を隠したり出したりするかのような言い方で、厳密には 推論するだけの合理的な材料を持ちえないからです。 このよ、つに、アナロジーには、確率的にその正しさがメタファーと一一一一口えるでしよ、つが、もはや誰もメタファー 評価できないものがあるわけですが、確率的に評価できとは感じません。 このようにアナロジーは、日常言語に浸透して私たち ないだけでなく、確率的な評価が見当外れであるような アナロジ 1 もあります。いわば、創造的な類推です。その考え方を根本から変える力を発揮しつづけます。 の代表は、メタファー ( 隠喩 ) でしよう。 「心が温まる」「太陽が微笑むー「アイディアが閃く」 〇《ハ一類推 といった隠喩表現は、心理と温度、天体と表情、思考と 光という、異質のカテゴリーの現象間に類似を発見、と いうより類似を創り出し、両カテゴリーへの認識を増進 させます。心がいつどのくらい温かくなりそうかとか、 太陽がいつどのくらいの頻度で表情を変えそうかとかい O< 察 った確率的考察は無意味です。メタファーは、すでに存 在する事実の間の関連を探るのではなくて、関連を新た に作ってゆく作業だからです。 「高い音」のように、隠喩が字義通りの表現に転化し て、日常の認識に不可欠となったアナロジーもあります ね。「隠喩」という表現それ自体も、まるで言葉が意味 ひらめ 観察 → 第 3 章論理学とは何かに 類推 ( 非帰納的 ) 単一事例にもとづく類推は非帰納的類推
る内容が事実に一致しているということです。述べていの内側の「文 < 」は、内側の対象言語の一部です。外側 る内容とは「文 < は偽」ということですから、これが事の「文 < 」は、内側の文全体を指し示す名前、つまりメ タ言語です。対象言語とメタ言語に同音異義語「 < 」が 実、つまり文 < は偽となります。真だと仮定したのに、 偽になってしまった。これは不合理です。つまり文 < は使われていたため、曖昧になり、混乱が生じてしまった のでした。 真ではありえません。 では、文 < は偽だとしてみます。すると、文 < の述べ る内容は「文 < は偽」ですから、これは他ならぬ事実に 一致している。つまり真ということになります。偽だと 仮定したのに、真になってしまった。不合理です。つま り文 < は偽ではありえません。 文 < は真でも偽でもなくなってしまいました。論理学 では、曖味でない有意味な文は真か偽かいずれかのはす なので、「この文 < は偽である」という文 < は、曖昧で あるか、無意味であるか、少なくともどちらかに違いあ りません。文 < が文法的にも語彙的にも無意味でないこ とは明らかですから、文 < は曖味な文ということになり そうです。ではどこが曖昧なのか ? そう、「文 < 」という語が曖昧なのでした。カギ括弧 真 ④⑩ A : の文 A は偽である 第 3 章論理学とは何かに 偽 真ならば偽、偽ならば真
Co 伽〃 m Ⅱ辻褄を合わせるにはどうするか ? マ矛盾 : 肥絶対的真理がある ? マトートロジー 「クジラは肺呼吸するーは間違いだ ! マ深層と表層・ 言語には無限のレベルがある ? マ対象とメタ : 自分自身について自分で語れるか ? 嘘つきのバラドクス : 拡張してゆくための推論とは ? マ演繹と帰納 : 貯類推が認識を作り出す ? マアナロジー 絽名前で指し示すのか性質で指し示すのか ? マ外延と内包 : 間違いないはすなのに間違っている ? マバラドクス : 論理記号のまとめ・ ち 0 124 122 128 12 イ 120
3.13 ていることが多いのです。 「クジラは師呼吸する」は 理科の授業で「クジラは、肺呼吸する」と言われれば、 間違いだ ! 文字通りの表現だと誰もが思うでしよう。数学の「偶数 ▽深層と表層 は、 2 で割り切れる」という文も同じでしよう。比喩で もなんでもありません。 しかし論理的にいうと、今の二つの文はどちらも、表 論理学の言語と日常言語の違いは、論理言語には「深 層ーがないということです。逆に言うと、「表層ーがな層と深層の意味が食い違っています。論理学の言葉で同 い。深層と表層の区別がなく、真の意味がすべて表に現じことを言い表わす場合は、表層を深層に一致させねば なりません。つまり、それぞれこうなります。 われている言語が論理学の言語です。 「何であれ、それがクジラであるならば、それは肺呼 日常言語には表と裏があります。たとえば、「太陽が 微笑んでいる」というのは実は「太陽の光が暖かい」と吸する」 「何であれ、それが偶数ならば、それは 2 で割り切れ いう意味であり、「山田はおめでたいやつだよ」は本当 る」 は「山田は考え方が楽観的すぎるよ」という意味である、 日常言語ではそれぞれ「クジラ」が主語、「偶数ーが 等々、比喩や皮肉として使われる文は字面と意味が異な 主語のように見えた二つの文でしたが、論理的には、本 っています。 しかしもっと根本的に、日常一言語は比喩や皮肉や誇張当の主語は「何であれ」っまり「任意のもの」なのです。 このことは、次のよ、つに考えればはっきりします。 表現以外の場合でも、つまり「文字通りの」言葉遣いを 「クジラ、という語で実際には何が表わされているの している場合でも、表面の意味と本当の意味とが異なっ Ⅱ 6