近代という時代は科学の時代であるとともに、産業の時代、企業の時代でもあるのだ。産業革 命に始まる産業 ( 工業 ) 社会。その担い手である企業、プルジョワジー、企業家と技術者たちが、 今日の科学技術社会を作り上げてきた原動力であり、主役ではないのか。人間の生活を大きく変 え、われわれの今日の生活の在り方に大きな影響と支配力を持っているのは、この流れではない のか ( スティープ・ジョブズのような人たちの仕事も、こういった流れに属するものだろう ) 。 それは、 志「プルジョアジーは、その一〇〇年たらずの階級支配のあいだに、過去のすべての世代を合わせ 意 いっそう巨大な生産力をつくりだした」のであり、「あらゆる生産用 のたよりもいっそう大量の、 嘛具を急速に改良することによって、またはるかに容易になった交通にたよって、あらゆる国民を、 もっとも未開な国民をも、文明にひきこむ」のであり、「農村を都市の支配に従わせた」のであ 性 理 る。 の そして、機械化された産業は、以前の手作業とは比べものにならない効率の良さを産んだので あり、「彼らの商品の安い価格は、万里の長城をことごとくうちくずし、未開人のどんなに頑固 な外国人ぎらいをも降伏させずにはおかない」からである。 ( マルクス、エンゲルス、『共産党 ・ビギナー①、村田陽一訳、大月書店、二〇〇九年、四〇ー四二頁よ 宣言』、マルクス・フォー り引用 ) この流れは安い商品、新たな便利で快適な商品とサービスを、多種多様に大量に出現させ、消 〃 3
の る れ 福 幸 で し 旧付 獲 を 術 技 新 驪古代ギリシア世界で生きた人びとはどうだろうか。詩人〈シオドス ( 前八世紀ころ ) は、自ら 人 が生きた時代のことをこう言っている。 この時代は生きていない方がましで、昼は労働と悲惨の止むことがなく、夜は滅亡に脅か ( 日本聖書協会、一九五五年改訳版 ) 農耕社会は苛酷な社会だった。その世界では、 ほんとうに、笑いは消えてしまっており、〔もはや〕笑いは〔ない〕。国中に広がってい るのは、不平とまじりあった呻き ( 声 ) だ。 ほんとうに、すべての人びとから毛髪が抜け落ちてしまっている。 ほんとうに、女たちは干上がり、孕むものもない ほんとうに、老人も若者もいう。「死んでしまいたい」と。幼い子供たちは言う。「産ん でくれなければよかったのに」と。 はら おお、人間 ( など ) 孕むことも生まれることもなく、なくなってしまえばよいのに。 ( 『イプエルの訓戒』より ) ノ 83
このリストはいくらでも長く続くだろう。 一度新たに科学技術の製品が開発され、それが普及したら、生活も経済もその中に組み込まれ てしまい、後に戻ることが不可能になってしまう。ある便利なものが使えなくなってしまうと、 人びとは禁断症状に苦しめられることになる。それは生活そのものにおいて不便に苦しめられ、 題経済活動も後退してしまうことになる。 叫現代はコンピューター中毒の時代である。コンピューターなしにわれわれの生活は成り立たな 社くなっている。これからの時代に、コンピューター・ネットワークを舞台とした大きな事故や犯 し罪やテロが起きないことを願うばかりだ。 ら 近代医療の華々しい大成功も、それに中毒になってしまったわれわれは、莫大な費用がかかる も のからといって医療サービスを後退させたり、辞めたりすることはできないだろう。 そして、われわれの科学技術社会は大量のエネルギー消費に中毒になってしまっている。だか 学 科ら将来の世代は、それをどうやって確保するのか苦労することになるのかもしれない。もちろん 学現在の日本では、まだ石油が絶たれて ( 輸入できなくなって ) 困ったり、大停電が起こったりす ることもないのだろうが 科学によって実現されないほうが良いこと われわれは科学によって奇跡とも思えることをかずかず実現した。われわれの願望や欲望に、
場のない情況の中に投入すれば、みな専諸や曹劇 ( 春秋時代の勇者。筆者記入 ) のように勇 敢になるのである。 ( 一二五ー一二六頁 ) このように兵士を追い込んでいく。勝ち残るために。 そんびんへいほう れまた、一九七二年に漢代の墓から発見された『孫臚兵法』にはこのようにある。 之 ( 部下 ) を慈しむこと赤子の若く、部下を愛すること美少年にたいする若く、部下を尊 敬することきびしい先生にたいする若く、ただし戦場で部下を用いることは、土芥の若く せよ。 ( 陳舜臣、『中国の歴史第三巻大統一時代』、平凡社、一九八一年、二四九ー二五 〇頁、引用・参照、一部、陳舜臣氏の解釈を含む ) まとめと結論 これら古代の言葉を引用したのは、人類が農耕という技術を知ったことによってもたらされた 社会が、このような苛酷で残酷な社会に行き着いたことを証明したか 0 たからだ。人間がその抜 きん出た能力によって獲得した一つの技術が、人間を苛酷な現実に追い込んでいく、その証言を 拾ってみたかったからだ。 私はこのように考えている。農耕社会が苛酷な社会に行き着いたように、科学技術社会も苛酷 ごと せんしよそうかい っちあくた 79 ノ
言う世界であるからだ。そして近代思想・近代的価値観は、この世で幸福になることを求める。 この資本主義市場経済の下で確実に幸福になるためには、金は必要不可欠なものである。 近代は、人間の必需品と便益品は、無制限に生産することができるとしていた。つまり、右肩 上がりの経済成長を永遠に続けることができるとしていた。しかし、その限界が見え始めた。資 源や食糧に制約が見え始め、地球環境も汚染・破壊される恐れが出て来たからだ。いずれ、仲良 く物を分け合おうとしても、分け合うことができなくなっていく。 もう仲良く物を分け合うことができない。成長の限界が近づいている。限りある物、限りある 利益を奪い合わなければならない。そして、資本主義市場経済である。この経済は右肩上がりの 経済成長を続けていられる間は良いのだが、ゼロ成長の時代にはさまざまな問題を生み出す。 ゼロ成長の時代には、企業の利益は徐々に低下してゆき、経営は苦しくなり倒産する企業も出わ てくる。労働者の労働は強化され、賃金が低くなったり、リストラされたり失業する人も出てく る。以前の豊かさから脱落して貧しくなる人も出てくる。 そんな世界では、人は自分一人の生活、一つの家族の生活を守ること、一つの企業を存続させ ることで精一杯ではないか。与えられた当面の仕事をこなしていくだけで精一杯ではないか。そ んな人間に、なぜ世界の普遍的な正義の実現のこととか、地球環境問題のこととか、未来の世代 のことなど考える余裕があるだろうか。ありはしないだろう。もう人びとは、「当面の事以外は 何もわからなくなってしまう」ではないか。人びとは自分の仕事と義務に追いまくられ、それと
「この世の生から身を引いていく」 ち古代社会末期に生きたソクラテスは、先に引用したように、「すべての人にとって生きるより 葉死ぬほうが善い」と言っている。それだけ生きることは辛く耐えがたい苛酷な社会であったのだ万 のろうか。未来世界もそうであるのかもしれない。すべての人にとって生きるより死ぬほうが善い、 ・後 最と思わせるほど苛酷な社会になるのかもしれない。 そして、科学技術社会に生きる人間という存在は、この地球の秩序を乱す不調和な存在でもあ る。「自殺すれば地球に優しいじゃないか」、これは合理的には真実であると思う。古代社会で は苛酷な人生から逃れるために。現代、そして未来社会では、苛酷な人生から逃れることと共に、 自殺することによってこの地球に優しい善いことができる。 では、なぜこの善いことを自分で行わないのか。つまり自殺しないのか。ソクラテスはこのよ うに言う。 ( プラトン、『パイドン』、前掲書、四九八ー四九九頁 ) る。 この世の生から身をひいていった、ということである。 ( カッコ内・ゴシック体筆者、ティ リッヒ、『キリスト教思想史—』、大木英夫、清水正訳、白水社、一九九七年、三六頁 ) こういった心の状態、人間の態度といったものは、これからの時代にも出てくるように思われ
し、そのあまりの高さをあえて登っていく気力はなかった。そのことをやり遂げる信念、信仰と いうものはなかったから。 知が増えれば増えるほど、次の世代はそれを学ぶのに苦しむのではないか。科学技術が進歩し て高度になればなるほど、次の世代はそれを習得するのに苦労するのではないか。われわれは知 識の奴隷、技術の奴隷になるのではないか。よき奴隷にならなければ生きていけないだろう。 の 科学技術社会の専門化の問題 社 しそれで、知が多くなったために専門化への道を進むことになるのだが、知が増えれば増えるほ たど専門がどんどん細分化される。そして専門が違えばもう何をやっているのかわからない。たカ のら現在の科学者たちの話題は、「自動車やガソリンの値段 : : : ときには中国料理屋のこともある」 提 ( シャルガフ ) のであり、科学の会話は成り立たない。あるいは彼らにとって科学の会話はつま 学 科らない話題である ( 昔の科学者たちは違っていただろう ) 。 AJ 学 シャルガフは、この知の大量集積した専門化された社会のことについて、このようなことを言 科 っている。 「われわれはいわゆる新しい事実の洪水に溺れながら、この上なく無知の時代の一つに生きてい る」 ( シャルガフ、『過去からの警告』、山本尤、内藤道夫訳、法政大学出版局、叢書・ウニベル シタス 315 、一九九〇年、一三七頁 )
私がこの手紙でやるべきこと、近代信仰を葬り去る 私は近代という時代に疑いを抱いた人間であり、私のやるべきことは近代信仰を葬り去ること だ。そのことをこれからやっていこう。 そもそも近代信仰とは何だったのか。近代の希望とは何だったのか。その前に、近代という時 き べ弋は何だったのか。近代という時代を特徴づけるものは何なのだろうか。 犬近代という時代は、なんといっても科学技術の時代である。科学の知識、科学技術はわれわれ 紙 の世界観と生活を大きく変えた。それは圧倒的な変化である。科学技術こそ近代という時代、わ 手 の れわれの時代の特徴である。それは強力な道具である。科学技術の時代が来たことによって、人 類は新しいステージに入ったといえるだろう。 近代のポジテイプな思想 ( 啓蒙主義、社会主義、自由主義、マルクス主義、無政府主義、人権 思想や民主主義思想など ) は、科学と科学技術の圧倒的な成功を背景にしていると思われる。逆 に言うと、科学と科学技術の成功がなければ、近代のポジテイプな思想も生まれなかったのでは / し、刀 科学と科学技術は人間が生み出したということが重要である。このことは人間の自信、自負を
は脱帽するよりほかない。 これからの時代に戦争やテロで、核兵器が使われないことを願うばか また、犯罪やテロに科学技術が使われたら、大きな被害とともに人びとに大きなストレスを与 える。サリンをばらまかれたり、銃を乱射されたり、爆弾テロを実行されたりしたら、たまった ものではない 平和な時代の問題点 平和な時代にも問題はあるだろう。 科学技術社会のもたらした豊かさと便利さは、テクノロジーの成果なのだが、それは大量の資 源の収奪・消費によって成り立っている。資源を収奪し続け、廃棄物を出し続けることによって、 「核の冬」とはまた違った黙示録的情況を、この地球にもたらすことにもなりかねないだろう。 地球温暖化、生態系の破壊、環境の汚染と破壊、資源の枯渇、大量のゴミ・廃棄物の問題。こ れらは平和な時代特有の問題ではないか。地球は暑くなり、森林は少なくなり、不毛の土地は増 え、水不足は深刻になり、砂漠化が進み、農業生産は頭打ちからやがて減少に転じ、あらゆる資 源は枯渇に向かっていくのではないか。 原子力を黔種い利用することも、放射性廃棄物という科学の時代以前にはなかった新たな害毒 を、撒き散らすことではないのか。
これからの時代は近代のポジテイプな思想はもう通用しない。それは反転する。その結果はど うなるのか。ネガテイプなものが生まれてくるのではないか。 そして、人びとは混沌とした世界で生きていくことになる。失敗した世界で生きていくことに なる。それはどういうことなのだろうか こういったことについてこれから考え、書いてゆきたい。 それとともに、近代という時代が、近代の理想とはまるで正反対の出来事や事件に満ちていた じゅうりん こと。抑圧と隷属、暴力と残虐と人権蹂躙に満ちた時代であることも指摘したい。